2009年1月5日月曜日

作品番号19 同人論

自叙伝風・評論詩風に(同人論/作品番号19)

                       ・・・筑紫磐井

連載「自叙伝風・評論詩風に」は
構造的に前の連載「評論詩」とよく似ている。

「編集論」は、編集のあり方を述べたのではなくて、
「自叙伝風・評論詩風」の序論であり、
それ以上でもそれ以下でもない。

「発行論」は、発行経営論ではなく、
ましてや「3ヶ月で同人雑誌を創刊する方法」でもない、
「自叙伝風に」の本論である。
その「自叙伝風に」とは、自叙伝でもなく評論でもない、
同人雑誌内での「分業」の発生を考察した論文、
いわばアダム・スミスの『諸国民の富』の俳句版である。
残念ながらマルクスの『資本論』の域には達しなかったから革命は起きない。
(余談となるが、『諸国民の富』は
その冒頭から目から鱗が落ちる画期的な書物であった、
『資本論』は一種の権威であったが(我が大学の経済学部はマル経でできていた)、
『諸国民の富』は学生時代の発見の書である。
数式以前に「分業」という形態を分析することにより、
経済の存立要件、本質が見えるというのは驚きだった。
そしてそれは経済だけでなく政治や社会の原理を提供する。
それが、俳句システムの中でも確認できるのであった。)

今回の「同人論」も、同人論ではなく、
同人雑誌分業論(発行論)の周辺を探索する余滴である。

雑誌論
日本に詩歌の雑誌とは奇妙な構造をなしている。
雑誌は発行者が存在しなければ生まれないから
発行人が中心となるのは間違いないが、
発行人の周辺には次のような関係を持つ人々が存在している。

①発行者と読者の関係
②読者サービスの一環としての投稿欄の選者と投稿者の関係
③発行者と発行補助者・発行協力者との関係

おそらくこれは雑誌のあるところで普遍的に成り立つ構造である。
しかし俳句雑誌の構造はここから特殊な歪曲を示す。
上の図式で言えば、
②の発展が俳句結社雑誌の「会員」であり、
③の発展が俳句結社雑誌の「同人」である。
そして、読者と会員を合致させることにより、
俳句雑誌は未曾有の好況を迎えた。
会員の上に同人を位置づけ階層化することにより
(日本人は軍隊や会社の階層化が大好きである)、
俳句雑誌はますます空前絶後の好況を迎えたのである。
だから、結社精神の権化のように言われているホトトギスもその初期形態で見ると、
分業の成立していない、好況期以前の
原始的俳句雑誌であったことが分かる。
例えば、②の投稿者も、
投稿欄自身が、毎回変わる選者による応募課題が与えられ
選が発表されていたが、わずかな人数であった。
あとは、東京俳句界、地方俳句界の名称で
地方の句会報が編集部で厳選されて発表されていた。
それ以外の大半は、俳句に関わる評論や随筆、小説などであった。
購読者の大半が、「読者」であり、「会員」でなかったことは、
夏目漱石の「吾輩は猫である」「坊ちゃん」の掲載号のみが
異常に売れたことからも納得できる。
ホトトギスは、純粋読者が中心で、
俳句作家は未だ大勢を占めるに到っていなかったのである。
従って虚子は、俳句の「会員」を信用する気分にはなれず、
「読者」を対象とした雑誌運営をせざるを得ず、
小説中心の雑誌になっていった
(虚子が俳句が好きであったか、小説の方がもっと好きであったかは別である)。
だから明治後期のホトトギスは、
俳句雑誌ではなく総合文芸誌であった。
こうした方針が変わったのは大正初期であり
(多分雑詠欄が充実し始めた時期)、
全国の俳句愛好者に背中を押されるようにして
余儀なく俳句中心の雑誌に展開したのであった。
しかし、それはまたホトトギス・ドリームを大成させる契機でもあった。

俳句結社の統合型モデル
こうした結社の統合型モデルを示せば、
①俳句雑誌の会員となることにより、まず全くの初心者として(575,季語、切字の)指導を受け、
②こつを掴めばみるみる上達し(同人に)昇格し、
③結社賞を受け、
④(同業組合である)協会員に推薦を受け、
⑤俳壇新人賞を受け(俳壇新人賞は有力結社の会員同人でないと予選を通過しないとされた時期があった)、
⑥句集出版のチャンスを得、
⑦支部などのミニ組織の責任者となり(この頃から収入を得られるようになる)、
⑧本部の指導者としての収入を得、
⑨商業雑誌に頻繁に作品を掲載されるようになり、
⑩雑誌の編集長・副主宰となり、
⑪俳壇賞を受賞し、
⑫高齢で死去した雑誌主宰の後継者に収まるか、喧嘩別れして多くの弟子を率いて独立し新たな雑誌の主宰者となる(つまりいずれにしても主宰者になる)、
⑬新聞俳壇の選者となる、
⑭協会の役員となる、
⑮褒章・勲章を受ける、
⑯全句集または全集を出される、
⑰死んだ後俳句史に残る、
となるわけである。この標準的な575の17階段(怪談)を辿るほかに、
○句碑を建てる、
○評論家になる、
○弟子と結婚する、
○子供に雑誌を承継する、
等の字余り的なエピソードが加わり一代史が完成するのである【注】。
しかし、同人雑誌の同人は
上の17の階梯の多くをとばして進むことになるのである。
それではそうした同人はどのような特性を持つことになるのであろうか。

同人雑誌の同人の本質
同人雑誌における同人は、
既に述べた同人誌の編集条件、発行条件に制約を受けている。
しかしこれとても、結社誌の不条理な制約にくらべれば
はるかに自由である。
例えば結社雑誌の同人とは大きく違う点はこんな点であろうか。

①同人は顔を合わせる必要がない。
②同人は何の活動をする必要もない。
③同人は主義思想を表明する必要もないし、変更する必要もない。

つまり生きていても死んでいても、
何の連絡が無くても、
会費が振り込まれていれば同人雑誌の同人たる地位は続くのである。
さてこうした同人雑誌の同人の期待する機能とは何であろうか。
それは既に何回も述べている、「書きたいものを書く」であろう。
「黄金海岸」では、攝津幸彦は「与野情話」を連載し、
坪内稔典は「正岡子規論」を書き、
馬場善樹は「川島芳子伝」を連載した。
その後の仕事として結実したものもあれば、
今以て未完のまま人目に触れないでいるものもあるが、
彼らの行動理念は「書きたいものを書く」以外の何ものでもなく、
またそれ以外の機能は期待されていなかったように思う。
もちろん「書きたいものを書く」には雑誌の限界があり、
(会費収入を前提とした)発行できる本の頁数があり、
当該頁数の中で他の同人との均衡があり、
また作品と評論のバランスがある。
即ち無制限に書きたいものを書けるわけではないのである。
にもかかわらず、「書きたいものを書く」以外に同人雑誌の本質はない。

「書きたいものを書く」限り、
同人雑誌に理念は生まれない。
各個人ごとの理念が集積するだけであるからである。
理念をもって同人を取捨しているかと言えば、
仁平勝氏の「同人誌は徹底的に開放的であること」という理念に従う限り
そんな取捨は出来ない
(「豈」は同人増員が困難で入会を遠慮してもらっているのであって、
人による差別はしていない)。
同人雑誌の組織そのものに、
つまりその構成員に理念は生まれない。
とすれば、やはり同人雑誌の編集態度に理念が生まれるだけなのである。
その形成プロセスについては前回述べたとおりである。
従って同人雑誌は編集態度以外「無」である。
無でなければ同人の個性は発揮できない。
しかしこの無の環境に耐えられる作家は多くはない。
「無」に永続して堪える作家たちを同人というのである。
結社雑誌の同人と似て非なるものであることは言うまでもない。

【注】怪談論
●17階段の検証
統合型モデル(17階段)が単なる観念論でないことは、私の所属した沖の主宰の能村登四郎(明治44年~平成13年)に当てはめて確認してみよう。
①入会:昭和14年(28歳)馬酔木入会
②同人昇格:24年(38歳)
③結社賞:昭和26年(40歳)第1回新樹賞
④協会員に推薦:昭和27年(41歳)現代俳句協会幹事
⑤俳壇新人賞受賞:昭和31年(45歳)第5回現代俳句協会賞
⑥句集出版:昭和29年(43歳)『咀嚼音』刊
⑦ミニ組織の責任者:なし(句会指導程度は行っていた)
⑧収入獲得:昭和23年(37歳)『新編歳時記』執筆にて初収入
⑨商業雑誌掲載:昭和28年(42歳)「俳句」に評論
⑩雑誌編集長・副主宰:なし
⑪俳壇賞受賞:昭和60年(74歳)第19回蛇笏賞受賞、平成5年(79歳)詩歌文学館賞受賞
⑫雑誌主宰者:昭和45年「沖」創刊主宰
⑬新聞俳壇選者:昭和54年(68歳)「読売俳壇」選者
⑭協会役員:なし(昭和50年(64歳)俳人協会評議員)
⑮褒章・勲章:平成2年(79歳)勲4等瑞宝章
⑯全句集:平成2年(79歳)『能村登四郎読本』、平成12年(89歳)増補版
⑰死後俳句史:社会性俳句の代表とされる「合掌部落」は作者自身が嫌っていた、むしろ『増補現代俳句大系』(解説)で大野林火と安住敦が「龍太・澄雄に対する脇役(名脇役)」と位置づけているのが現代俳句史における通説である。
となるわけである。このほかに、字余りでは
○句碑を建てる:昭和40年(54歳)「長靴に腰埋め野分の老教師」(市川霊園)
○評論家になる:昭和47年(61歳)評論集『伝統の流れの端に立って』刊
○弟子と結婚する:なし
○子供に雑誌を承継する:平成10年1月能村研三に雑詠選を譲る
となる。以上のことからも統合型モデルの正当性は検証されたといえよう。

特に、この17階段は、どれが事実に当てはまるかより、数少ないながら欠落事項がその作者を特徴付ける点でも興味深い。例に挙げた能村登四郎で言えば、⑩雑誌編集長・副主宰と⑭協会役員がない(ないし目立たない)ことで、作品や評論で目立った割には組織運営には力を発揮しなかったことがうかがえる。いかにも能村登四郎らしい特徴である。作品評論で目立たず組織運営に長けた主宰者が圧倒的に多い現代では対蹠的である。

若い世代はこの長い長い階段を眺めて、絶望に陥るのも一興だ。絶望から虚無が生まれ、虚無から新しい俳句が生まれるはずだからだ。ただ、新しい俳句は、17階段を成立させている「俳壇構造」そのものからは生まれない。俳壇構造を破壊するか、歪めるか、出し抜くか、超越するか、誤魔化すか、恫喝するか、何かの新しい闘争方法が必要である。俳壇構造に対するプロフェッショナルでかつ永続的な闘争者を「同人雑誌の同人」というのである。「豈」は司令官のいない散発型ゲリラなのである。

若い世代は結社にどう立ち向かうべきか
今の若い作家たち(特に10代、20代の)に結社雑誌を薦められないのは、彼ら・彼女らに価値があるのは「今この時」であり、結社に入って10年経過するうちに必ずその価値は減少してゆく(その点では、容貌と似ている)。彼ら・彼女らが、20代後半、30代後半になって行くとき、多分、結社には遅れて俳句を始めた、しかし彼ら・彼女らと同世代の新規参入者が登場し、そして多分新規参入者が彼ら・彼女らを追い抜いて行く(追い抜いて行くと言っても大したことはない、雑詠欄の成績が常時上位になるというだけのことなのであるが)。俳句結社の不思議なのは結社の作風に合う者というのは入会して2、3年で主宰の作風にすぐなじんで(独自性はないものの)巧みな作品を読むことが出来るようになるのである。俳句という短詩型は言葉からはいるから、コツさえ分かれば容易に「結社の名句」は詠めるようになるのである(言葉遊びが小学生の方が達者なように)。憐れなのは、結社に入った「今の若い作家たち(特に10代、20代の)」である。主宰がよほどえこひいきをしてくれない限り、若くから俳句を始めたと言うことで骨がある分だけ嫌われやすく、素直で言葉遣いの巧みな初心者に劣後して行く。もちろん、結社に入る・入らないは彼ら・彼女らが決めることであるが、血迷って入った以上2、3年のうちに俳句人生は決めるべきであろう。嫌われているなり、えこひいきしてくれないならやめてしまって良いのである。決して俳句は一つ結社で息長くじっくり勉強すべきだという声などに耳を傾けてはいけない。私の経験から行ってもそんな助言は常に間違っている(結社にとってはその方が都合が良いだろうが)、主宰と波長が合っていないのは自らはっきり分かるはずだからだ。えこひいきといってしまうとえらく感じは悪いが、むしろ主宰が自分の雑誌を乾坤一擲、賭けてみる価値のある10代、20代と思っているかどうかと言うことである。ジャンルは違うが、中井英夫は寺山修司に賭けてみたし(俳句研究新人賞の決定)、落合直文は与謝野鉄幹・晶子に賭けてみた(「明星」を創刊させ、会員として参加した)。作者だけでなく、賭けた方も時代を動かした人となったのである。
私も結社にいて、20代から初めて未だに結社の下位でくすぶっている人を多く見てきているが(お前もその一人だと言えば確かにそうであるのだが)、果たしてそれはその人の俳句の実力がなかったからなのか、むしろ決断力の無さを示しているように思えてならなかった。前回の述べた仁平勝の「②出会い論(下手な先生についたのは弟子が悪い)」を彼ら・彼女らに再度読んでもらいたいものだ。

結社の変質
こんなことになるのも実は結社が変質しているからである。「馬酔木」の草創期の記録を読んでみると、水原秋桜子を囲んでいた高屋窓秋、石橋辰之助、篠田春蝉、瀧春一らは、秋桜子の弟子という以上に、アンチ・ホトトギスの軍団として活動していたように感じられる。ホトトギスと対峙するとき師弟は容易に師弟の枠を超えて同志となっている。高屋窓秋の馬酔木離脱という歴史的事実を我々は知っているが、数十年経て高屋窓秋を囲む会で「一番影響を受けた作家は誰ですか」という問いに、うっとりしたような顔で「水原秋桜子」と答えた表情を思い出すと、馬酔木という結社もその最初期にあっては青春の情熱を燃やした集団であったような気がする。
また中村草田男や加藤楸邨の弟子との関係は、「万緑」や「寒雷」の会員同人というよりは草田男、楸邨の弟子であり、その収束が「万緑」や「寒雷」という座布団であっただけなのではないか。結社に縛られている意識は、両者ともに薄かったのではないか。
結社が正しいかどうかは分からない。しかし、秋桜子や草田男、楸邨になら騙されてみてもある程度あきらめが付くというのは分かる。ただ、今の結社の主宰者に秋桜子や草田男、楸邨に匹敵する作者はほとんどいない、多くは「先輩的な主宰者」といってよいかも知れない。お友達のような主宰者であり、よく知ってはいるが余り魂には響かない、チャットのようなうつろなお話が続く。そう言う人々も現代では必要かも知れない。が、弟子の先生に対する態度として、秋桜子や草田男、楸邨と同格に扱えと言うのは非道い話である。我々は日常生活で先輩が後輩を騙す例を多く見ている。俳句だけを例外とするわけにも行かないのである。
言ってみれば俳句というジャンルがすばらしいのではない。そのジャンルで活動した人が偉大なのである。俳句には芭蕉がいたが、幕末の月並宗匠もいた。芭蕉と月並宗匠を同格で扱えと言うのは暴論である。
明治の月並宗匠を蹴落とし、子規が俳句改良を果たし、秋桜子や草田男、楸邨(これは一例である。代わりに誓子、三鬼、赤黄男を入れてもよい)らにより昭和俳句はピークを迎えた。しかしいまや、××や××のような幕末の月並宗匠にも匹敵するような作家が幅を利かしている。だからといって、秋桜子や草田男、楸邨と幕末の月並宗匠にも匹敵するような作家を同格で扱えと言うのも暴論である。
魅力的な作家がいないのであればそのジャンルは滅びてしまっていいわけである。ただ、ジャンルに関わった者として、それが見えているのであれば、無駄ではあっても逆らってみることは必要だ(これをコントロコレンテ(反流)の精神という)。そうした時代には、××や××のような幕末の月並宗匠にも匹敵するような作家が盛んに主張する切字や切れ至上主義を論破することが、多少とも俳句の未来のためには貢献できるのではなかろうか。こんな立場に立って現在、獅子奮迅の健闘をしている高山れおな(「俳句」1月号の座談会「俳句の未来予想図」を見よ)を、私は影ながら支援しているのである。

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