2009年2月8日日曜日

俳誌雑読6 夢幻航海ほか

俳誌雑読 其の六
ほんとに雑読風に


                       ・・・高山れおな

ここ一週間は仕事の方の原稿書きに追われっぱなしだった。短いのが六本と少しだけ長い(といっても大して長くはないが)のが一本で、早やタイムオーバー。おのが鈍足を痛感したことだ。姑が孫の顔を見に上京して来たお相手もせねばならない。そんなわけで、俳誌雑読オムニバスの形で気軽にゆきたいと思う。

夢幻航海 第67号(二〇〇九年一月一日)
先日、豈同人ふたりに呼びかけて、「A子とB子の匿名合評対談 『―俳句空間―豈』第47号読み倒し」というプログラムを組み、当ブログの第十九号から第二十四号にかけて断続的に四回掲載した。晴れだったか曇りだったか、たしかそんなペンネームの人が、匿名とはけしからん云々のことを自分のブログに書いていたようである(*)。それとは別に、これは私信においてであるが、「豈」同人のC子氏も匿名での同人作品評に異議を唱える風であった。なに、C子氏は自分の句が否定的に言及されているので臍を曲げたのに過ぎまいが、どちらにしろこの種の“政治的に正しい意見”には興味が無いのでそのままにするつもりでいたら、「夢幻航海」誌の最新号にまさに匿名時評をめぐる記事が載っていた。なかなか面白いものではあり、せっかくだからご紹介しておく。

くだんの記事とは、「夢幻航海」の編集兼発行人である岩片仁次の執筆になる「続・重信帖――書信の事、若干」という、長大なエッセイである。このエッセイは、「俳句評論」それから高柳重信編集長時代の「俳句研究」の日々の原稿依頼や五十句競作の選考がどのようになされていたかを、主に岩片自身の手元に残った書信に基づきつつ回顧する内容であるが、特にその後半部分で、当時の「俳句評論」で〈度々物議を醸し、悪名高かった〉匿名時評「俳壇春秋」のことが語られている。

私は、数えてみたら匿名では十一回書いているが、昭和五十七年には三号分一括の依頼があった事、また、没年(高柳重信の没年……引用者注)の昭和五十八年にも連続ではないが三回にわたっている事は異例であろうと思う。もともと此の種の執筆はある意味で全くの無償の行為で、しかもあらぬ非難を受ける場合があるから、書き手は限定される。極端にいえば俳壇に名を売りたい人はまず書かない。その点、私は俳壇人になることには関心がなく、また匿名、非匿名を問わず同様の態度であったから、依頼しやすかったのかも知れない。

岩片は「俳壇春秋」と自らのかかわりをこのように述べたあと、一例として自身が、「俳句研究」昭和五十七年(一九八二)七月号に、「匿名=東條春機」名義で書いた原稿を全文再録している。東條英機ならぬ春機=春樹による、俳壇の言論統制が、批判的評論家に試写会を見せようとしない角川映画の宣伝手法と絡めつつ指弾されている。この匿名時評は、〈嘗ての角川書店は、戦後の言論復活の中で溌剌として蒼生した。往時を偲べば、いま、うたた荒涼の思いを抱かざるを得ない。〉と結ばれているが、この当時からもすでに四半世紀が経過して、春樹はあれやこれやの末に今や「魂の一行詩」の人に成り下がるか成り上がるかしてしまった。現在の俳壇に言論統制が無いのは結構であるが、統制が無いという以前に統制や抵抗を担う強力な主体そのものが消えてしまった按配であるからして、これはこれで「うたた荒涼の思い」が沸き起こるのをどうしようもない。

さて、興味深いのはむしろここから先で、昭和五十六年(一九八一)十二月の「俳句研究」年鑑号に掲載された「俳壇総展望」(座談会 阿部完市・三橋敏雄・高柳重信)から、匿名時評に関連した事項が抜粋再録されているのである。このうち高柳重信は、匿名時評の依頼者の立場にあるわけだが(自身、匿名の文章も多く書いてもいる)、その発言はジャーナリズムと俳壇政治の現場で鍛え上げられた人ならではのものとなっていて学ぶべきところが多い。以下はすべて高柳の発言。かなり膨大なので、一部をアフォリズム風に抜書きしてみた(丸付き数字は引用者)。


それが批評精神の発動であるならば、あくまでも事実を踏まえ、真実に迫ろうとする一貫した論理性がそこに見出だされるはずで、それが明らかであれば、匿名とか実名とかは枝葉末節の問題です。また、論争の作法といい、批評の礼儀といいますが、批評に徹することが批評に関する礼節の基本であり、何を措いても論争に徹することが論争の作法であって、表面的な行儀作法などは二次的なものだと思う。

② 
また匿名記事と単純に対比して署名の文章を持ち出してくるけれど、率直に言えば、その実質において無署名に等しいものが多い。少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章や、その発言の内容に後日に至るまで責任をとろうとしない場あたりの文章などは、たとえ署名してあっても無署名と同じです。


これは余談ですが、誰しも匿名を非難することは容易ながら、実は匿名記事だから救いがある場合だって少なくないのです。たとえば匿名記事で批判された人が、そのことの反論として匿名であることだけを非難し、その批評の論理を無視してしまうのは、いわば常套手段とも言えますが、それで一応の恰好がつくだけ救いでもあるのです。


匿名時評には、それなりに求められている幾つかの性格のようなものがあり、その一つに読んで面白いということもあるんですね。皮肉な見方をするとか、多少は揶揄するような書き方も、その中に含まれます。もちろん、その切れ味がいいかどうかも問題で、切れ味が悪いと嫌味になったりして、お行儀のいい人たちの顰蹙を買うことになる。しかし、批評は文学の世界のものなので、その本質は充分に毒を持っているのが当然で、どのような文体で書こうが、その批評の毒に耐えられない人たちは、いろいろ理由をつけて非難したがる。もともと文学というものを、安全で上品なものと思う方が間違いで、うかうかとしていれば必ず心に手傷を負うような危険なものなのです。そのへんの根本の認識がないから、甘っちょろい倫理感をふりまわすことになる。

このうち①と④が、匿名批評の一般理論ということになるであろうか。②は補足。③は、人間観察者としての高柳重信の凄みが最もよく出ているだろう。もう笑うしかないという辛辣さではないか。本稿冒頭で登場したC子氏なども、高山に向かって匿名を非難したことで少しは溜飲を下げたに相違なく、ご同慶のいたりと申さねばなるまい。また、おなじくもうお一方の文章などは、④で言うところの匿名時評的な面白さを多分に持ったものだと常々思っている。後出しじゃんけんや揚げ足取りめいた発言も多いし、妙に下手に出たこびへつらうような文章を書くかと思えば、居丈高な上から目線の物言いもあって、基本的に品は良くないが、ともかく批評の毒を感じさせる、読ませる書き手であることは確かだろう。匿名時評にいちばん適任そうな人物が、匿名時評を頭ごなしに否定するあたりが、人間存在の複雑なありようを思わせて、つくづく味わい深い。

「夢幻航海」にはもちろん俳句作品も載っている。二、三をあげておく。

  緒形拳逝く
がくと首折る白野弁十郎の肩に雪
  坂戸淳夫
赤い羽根ぽつんと吹かれ潦  同

ソノポンと呼ばれし女人もいたりけり  佐藤輝明
群集の一人は腐乱しつつあり  

亡き人つどう
萬華鏡

モノクロなりき 
 岩片仁次

(*)西原天気「俳句的日常」http://tenki00.exblog.jp/9116492/


はるもにあ 第13号(二〇〇九年二月)
「はるもにあ」は、故田中裕明の「ゆう」に居た満田春日が出している俳誌。誌名も体裁もフェミニンで瀟洒な雰囲気である。「客人居(まらうどゐ)」という外部筆者に書かせるコーナーがあって(このコーナー名はもちろん田中の句集『夜の客人』に由来するのだろう)、対中いずみが「ほんとうの自分を詠むこと」という一文を寄せている。

ある日の句会に、〈小鳥来て全句集とはかなしけれ〉という句を投じ、互選で高点句になった時のことだ。裕明選にも一応並選に入ったが、その後の講評は少々厳しかった。「鳥は古代人にとっては死者の使いという意味がありましたから、季語が適っているようではありますが、もう一つ上を狙うのなら、あまり皆が賛成するようなところを詠んでいては駄目です。あまり大勢が賛成することばかりやっていると、本当の自分を詠むことができなくなることがあるので気をつけて下さい」と。

さらに言葉を足して言われた。「たとえば〈小鳥来て厚き表紙の全句集〉でいいのではないですか。〈全句集〉というだけで悲しいとわかる人がいる。そういう人に伝わればそれでいいのです。〈かなしけれ〉と言ってしまうと、万人の手を引いてこちらですよ、と言っている感じがします」と。

対中は、一文を〈「ゆう」時代、一度叱られたことがある。〉と書き始めているが、この文章の描写だけからでは必ずしも叱られているとまでの感触は受けない。声や表情が余程冷ややかなトーンを帯びていたのだろうか。なんであれ、田中裕明の考え方がよくわかって有難い。私は、田中には直接会ったことはない。写真からの印象で、童顔の朗らかな人というイメージを持っているが、意外に怒りっぽいところがあったとも聞く。叱っているのかどうかはともかく、ここで言われている認識はなかなかに厳しく、田中裕明という俳人への信頼を強めもするようだ。


句歌詩帖 草藏 第43號(二〇〇九年一・二月)
「句歌詩帖 草藏」は、俳句・短歌・自由詩の三ジャンルに跨って活躍する、佐々木六戈が主宰する俳誌ならぬ「句歌詩」誌。さしずめ当代の「三船の才」を称すべきケレンたっぷりの人であるが、作品の実際ということになると短歌が格段にすぐれ、自由詩それに次ぎ、俳句が最も劣るような印象を持っていた。俳句に少しも感心しないのは今号も同じながら、短歌よりも自由詩が断然素晴らしい。タイトルは「恬としてそれからの」。以下、全文。

恬として
それからの
坂を上ってきた
男だが
もう なにも おぼえていない
あれは なんだったのか
あれは だれだったのか
ふりかえる まえの
うしろの 匂い
あれは 坂の途中から
奈落へと伸びた
長い おれ自身の影だったのか
おれは そこへ 桃を投げたが
あるいは 桃ではなかったかも知れない
なんという腐臭に出遭ってしまったのか
その厚い 煙幕の向こうから
聞くに耐えない うめき声が
おれの名を呼ぶようであったが
それからのことは
もう なにも おぼえていない
あれは 草や石に起こったことと同じだ
あれ以来 おれは 此処で こうして
ふりかえる まえの
うしろの 匂い
投げた桃に
あるいは 桃ではなかった桃に
私注を加えようとして 気付く
恋だ
もう なにも おぼえていない
恋だ

ある程度の年齢に達した男性が過去の恋愛を振り返るというのが語りの枠組みで、そこに『古事記』におけるイザナギノミコトの冥界訪問のイメージが重ね合わされている。改行も一字アキも、自由詩のあたりまえの技法には違いないが、この詩の場合はそれにより言葉が著しく減速され、忍び声めいた、低くからまりつくような音韻を生み出す効果をあげている。

一行目の「恬」は、「気にかけずやすらかなこと。平気なこと。」(『広辞苑』)。多く、「恬として恥じない」という言い方で用いられる言葉であり、「恥」という言葉は使わないままに、恥ずべきことをしながら恥じていない主人公の姿が看取されるように書かれている。神話の中でイザナミノミコトが死ぬのは火の神を産んで陰部が焼け爛れたためであって、これをイザナギノミコトの責任にのみ帰することは出来ないが、言うまでもなくこと妊娠・出産に関して男女の間には絶対的な非対称性があるのであり、これはどのような善意や誠実によっても回復出来ない男の側の負い目であろう。この詩では過去の恋愛について、なんら具体的な情報があるわけではない。だが、具体性がないことでかえって、神話の中の男神の負い目が、男女の関係性一般へと転位することになる。その関係性の中で、この男は「恬として/それからの/坂を上ってきた」のである。

五行目には、この詩の主題が提示される。つまり忘却である。全く同じフレーズが、二十行目と二十九行目にリフレインされる。「もう なにも おぼえていない」ことは救いになる場合もあるが、この詩で描かれるのは救いとしての忘却ではない。ただしそれが明らかになるのは、二十九行目のリフレインにおいてである。一度目・二度目の「もう なにも おぼえていない」は男を主語としての述語であるが、三度目の「もう なにも おぼえていない」は違う。むしろ次行の「恋だ」に掛かって形容しているに過ぎない。そしてまさにそれによって、生きながらの死・空無による侵しとしての“忘却”が顕現している。この真理を開示させるのは「恋」の力には違いないが、その力はすでに単なる記号的な記憶であるにとどまり、それに「気付く」ことがもたらすのはむしろ恐怖なのである。

人生の時間を坂に譬える比喩、また「なんという腐臭に出遭ってしまったのか/その厚い 煙幕の向こうから/聞くに耐えない うめき声が/おれの名を呼ぶようであったが」といった表現は、どうかするといい気な通俗的な表現に陥りかねないが、この詩では神話がプレテキストになっていることで、その問題は回避されていると見てよいだろう。それにしても、「あれは 草や石に起こったことと同じだ」というアパシーの表現は痛烈だ。強い緊張感に貫かれた、佳篇と言いつべし。「あな無残やな」の思い、心に頻り。


五七五定型 第3号(二〇〇九年二月一日)
「豈」同人で川柳作者の小池正博と、俳句作者の野口裕の二人誌。作品各百句の他、小池が「紀元前二世紀ごろの咳――評伝・木村半文銭」、野口が「いったい何を書く?」という文章を書いており、さらに二人による「対談・五七五定型をどう読むか」を載せる。この対談は、二〇〇八年九月十三日に「たかつガーデン」というスペースで公開で行なわれたものらしい。前半は「読み」の問題についての総論で、後半はとりかえばや風に柳人・小池が俳句を十句、俳人・野口が川柳を十句、読解している。小池が選んだ十句のうちにはなぜか、〈極楽へ葱売りにゆく静かさよ〉という拙句が入っている。

句集『ウルトラ』から。永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」のパロディになっています。川柳でパロディをやると盗作になりますけれど。

というのが小池の読みで、というか読みにも何もなっていないが、川柳ではパロディ=盗作とされているというのは初めて知った。もちろんパロディが成立しているならすでに盗作ではないわけで、それはジャンルとは関係ない。小池の発言は論理的におかしい。何か別のことを言いたかったのだろうが、それは何だったのだろうか。それにしてもここで取り上げられた拙句はパロディとしてあまりに単純で、本歌からの跳躍が乏しく、こんにちの目で見ればはつまらない作とするしかない。それもそのはず、初出は「俳句空間」№21(一九九二年十月)の投句欄(新鋭作品欄)で、久保純夫と正木ゆう子の選に入っている。まだ、俳句をはじめて数年の頃である。作品は素朴であるが、作ることを楽しむ点では今に勝っていただろうか。しかし、こんな拙句よりも目を引いたのは、小池による「評伝・木村半文銭」に引かれていた半文銭という人の句だ。鶴彬との論争で、川柳界では有名な人らしいが、当方は名前も知らなかった。

死刑の宣告ほど名文はないじゃろ
紀元前二世紀ごろの咳もする
夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛
芭蕉去つて一列しろき浪頭
彼の顔そのものが物質化している
握る手の―風
水水水と笑止千万
亀の子のしっぽよ二千六百年

特に一句目、二句目は記憶に値する名句だろう(なお、六句目の「の」と「風」の間は、漢数字の「一」ではなくダッシュ「―」)。ところで四句目「芭蕉去つて」の句は、

芭蕉去てそのゝちいまだ年くれず  蕪村

のパロディ以外の何ものでもあるまいが、これがつまり川柳的には禁忌にあたるのであろうか?

里 二〇〇九年二月号
島田牙城が代表の俳誌。結社誌ではないようだが、同人誌でもなさそうだ。牙城当人の「吾亦庵記録」という頁が面白いことが多い。今回は、「俳句研究年鑑」の「全国俳句雑誌一覧」をもとに、俳句雑誌の主宰者・代表者の年齢の統計をとっている。それによると最高齢の主宰は九十九歳と九十七歳で、最も若い主宰は今年四十八歳になる小川軽舟と上田日差子。主宰の平均年齢は七十五・〇七歳だそうである。

この二人(軽舟と日差子……引用者注)は頑張つてゐるのだけれど、彼らに續く四十代主宰は今後出てくるのだらうか。俳句に興味を持ち始めた二十歳そこそこの人たちの閒には、確實に結社離れが廣がつてゐて、既存の組織に加はつて何かを學び取る乃至摑み出すといふことを厭ふ風潮もあるやうだ。かと言つて獨立獨歩といふのでもなく、句會仲間は慾しいらしい。

僕が俳句を作り始めた昭和四十九年、「雲母」主宰飯田龍太五十四歳、「杉」主宰森澄雄五十五歳、「靑」主宰波多野爽波五十一歳、それでも年が離れすぎてゐて、せめてダブルスコアー程度、四十歳未滿の、気輕に話せる先輩はゐぬものかと探したりもした。昨今の若者の雜誌離れは世代の風潮ばかりでもなく、主宰者の高齢化もその一因ではあらう。

ここのところよく目にする話題だが(次の「俳句界」の特集もこれらしい)、統計で具体的な数字を出しているところがミソか。こちらは専ら同人誌育ちだからして、結社の命運そのものはどうでもいいが、しかし我が「豈」にしてからが同人の平均年齢は六十歳になんなんとしているはずである。十五年たてば自動的に平均年齢七十五歳になるわけで、凄いっちゃ凄い。ちなみに、主宰の高齢化が若者の雑誌離れを促しているというのは、自分の経験からしてもおそらくその通りだと思う。俳句を始めた当時、例えば永田耕衣に興味を持ったが、失礼ながら長くて十年のうちに亡くなるのだろう思うと、なかなか弟子になる決心はつかなかった。だから一九九三年に、まだ不惑前の長谷川櫂が「古志」を創刊すると早速定期購読を申し込んだ。一年間、購読したが、結局、一度も投句しなかった。長谷川の句は嫌いではなかったが、微妙に物足りなかったし、何より「古志」の雑詠に並ぶ句が長谷川のそれとそっくりなものばかりなのがいやだった。まあ、私は「豈」でよかったのだろう。

「里」誌に戻れば、上田信治の連載「成分表」38も読ませた。文章としては毎度巧緻をきわめているが、当方のような大雑把な人間には、話題が細かいところに入りすぎているように感じられる場合が少なくなかった。今回はそういうこともなく、とても共感した。これは「週刊俳句」にも全文掲出されるはずだから、そっちで見てください。

*「夢幻航海」「はるもにあ」「草藏」「五七五定型」「里」各誌は、各発行者より贈呈を受けました。記して感謝します。

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■関連記事
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17 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

こんにちは!お久しぶりです。
お仕事おつかれさまです。

> おのが鈍足
何を仰られますか(笑)。飛ばし過ぎないようにお気をつけ下さいませo(^-^)o

匿名の段、非常に興味深く読みました。

> 少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章や、その発言の内容に後日に至るまで責任をとろうとしない場あたりの文章などは、たとえ署名してあっても無署名と同じです。

のところは本当に共感します。
私どもの世界にもおなじ批評が絶えず繰り返されている分野がありまして、「医療ブログ」と「新聞・雑誌・報道記事」などの闘いがそれです。

「新聞・雑誌・報道記事」と、
多くの場合、医師・医療従事者が書き手である「匿名医療ブログ」比して「正当性」「倫理性」が劣るか劣らないかは、結局の所その書き手の知識と倫理性にあります。

「匿名」であるかどうかは関係ないのですよね。しかししばしば、匿名であることのみで袋叩きにされまして。

> もともと此の種の執筆はある意味で全くの無償の行為で、しかもあらぬ非難を受ける場合がある

という実感が似たようなものだということに対して、どこの世界でも同じだと笑ってしまいました。

批評を加える、ということには勇気が必要です。しかも陰口ではなく堂々と。A子さまとB子さまの勇気に敬服いたしております。

今回の企画は「豈」に緊張感を与えるのではないかな?と思って拝見していました。ちょっと次号書きにくくなるでしょうけれど、自分にできる以上のことは誰だってできないでしょうし、「どんな批評があろうと書く」覚悟がないと書けないんでしょうね。
(批判されると凹みますけれど)

愛情に裏打ちされた企画であれば、大丈夫なんじゃないかな?と思います。

さいばら天気 さんのコメント...

>晴れだったか曇りだったか、たしかそんなペンネームの人

こんな下品な物言いをされる書き手であったとは!
少々驚くとともに残念な気がしています。

山口優夢 さんのコメント...

れおな様の記事、いつも楽しく拝見させていただいています。

しかしながら、今回の記事は匿名批評に関して少々違和感を覚えましたので、コメントさせていただくことにいたしました。

僕には、ここに引用されている高柳重信氏の発言にはほとんど納得するところがありませんでした。「夢幻航海」も、もともとの「俳壇総展望」の記事も参照せずに、れおな様の引かれている文章のみを参考に書かせていただくことになるのをお許しください。

まず、①「批評に徹することが批評に関する礼節の基本」、「何を措いても論争に徹することが論争の作法」とありますが、そもそも匿名で記事を発表するという選択を行なっている時点で、批評を読む側から言えばそのような「基本」に徹することをさせてくれない、という憾みがあります。匿名で批評を行なうという行為は、批評を言いっぱなしにしてキャッチボールを拒んでいるところがあるのではないかと僕は考えています。だって、その批評に対する反論を誰にすればいいのか分からないわけですよね。現実的には、たとえばその批評の載った同じ雑誌などに反論を載せれば反論は届くであろうという予測はあるにしろ、匿名というのは、最初からそういう反論なんかそもそも想定されておらず、そんなものは受け付けていませんよ、という態度として受け取られても仕方ないのではないですか。果たしてそのように発信された批評が、「何を措いても論争に徹することが論争の作法」というドグマにふさわしいものでしょうか?

次に②は匿名記事に対する署名記事の優位性を疑問視していますが、これはれおな様が言及しているとおりたかだか「補足」に過ぎないので、棄てておいてもいいかと思います。あえて一言書かせていただければ、たとえ「少しも自分の名を惜しむ風情の見えない無責任で低次元の文章や、その発言の内容に後日に至るまで責任をとろうとしない場あたりの文章」であっても、署名してあれば、少なくとも責任を取ろうという意思、取れる可能性はあるわけです。匿名であるということは、その可能性をすら、最初から放棄しているのではないでしょうか。

続いて③はタチの悪いブラックジョークみたいなものですね。同じ溜飲を下げるのなら、匿名であることに対してではなく、実際にその人に向って反論することで溜飲を下げたほうがはるかにすっきりするし、批評空間の形成という意味でも有意義なのではないでしょうか。そもそもこのような溜飲の下げ方をしなければならないということは、①の、「何を措いても論争に徹することが論争の作法」に明らかに反する事態を招くように僕には感じられますが、れおな様はどのようにお感じになりますか?匿名で批評されたC子さんが溜飲を少しでも下げられたかどうか、僕には大いに疑問です。

最後に④ですが、匿名批評の本質的な優位性を説いているのは4つあるうちでこの項目だけですね。曰く、匿名記事に求められる性質として「読んで面白い」というものがある、と。具体的な面白さとしては、「皮肉な見方をするとか、多少は揶揄するような書き方も、その中に含まれます」とありますが、「含まれます」と言いながらそれしか書かれていないということは、それが匿名記事の主な面白さだと重信は理解していると思って良いのでしょう。皮肉や揶揄が匿名記事の面白さなのだ、というのはただの開き直りではないのですか?あえて匿名を選択することによって生じる優位性が、皮肉や揶揄といった表面的なところにとどまるということが、匿名という選択肢の無意味さを露呈してしまっているとはいえないでしょうか。

この項目の終わりの方では、文学はそもそも毒を持つものだ、という論に展開していきますが、これは甚だしい議論のすり替えであり、逆に、文学の毒というものがあえて匿名にすることによってしか発露されぬものだとすれば、それは反論を想定しない書き方によってしか文学の毒は表明されない、ということと同義であり、そのことと角川の言論封殺と、一体何が違うのか僕には分かりません。

もしも匿名記事というものに、批評空間の形成という観点から見ていささかでも優位性があるのならば、ぜひそれを示していただきたいと僕は思います。重信氏の①~④は、ほとんどが「匿名記事は署名記事に劣るということはない」という主張であり、あえて匿名という反論を想定しない書き方によってどのように批評空間を形成するかという本質的な事柄にはほとんど触れられていないという印象を覚えます。

また、野村麻実氏の上のコメントでは「愛情に裏打ちされた企画であれば、大丈夫なんじゃないかな?」という一文がありますが、愛情というのはお互いのことを知ることから始まるのであり、自分から名前を名乗りもしない人間が、愛情を持って自分に接してくれているのかどうかなんてことをどのように判断できるのか、僕には分かりません。

野口裕 さんのコメント...

 「五七五定型」、お読み下さりありがとうございます。小池正博の発言について、あのとき、そばで聞いていたものとして、補足しておきます。

>川柳でパロディをやると盗作になりますけれど。

 この発言を、私は「(現在の)川柳(界)でパロディをやると盗作(として非難されること)になりますけれど。」として聞いていました。そして、そうかそういうものなのか、と感じました。
 印刷物の力が弱い川柳界では、あちこちで開かれる川柳大会などの公開の場が大きな比重を占めています。そうした場でパロディを発表し、選者が入選させた場合、作者・選者ともどもいろいろな軋轢に見舞われるのではないか。小池正博の発言から以上のような想像をしました。
 なお会の性質上、当時の聴衆には、川柳で様々な実験をしているのに、それを理解しない川柳界にいらだっている川柳作家が多く含まれていました。雰囲気から察するに小池の発言に特に異論はなかったようです。
 木村半文銭のパロディにつき、禁忌にあたらないか、との疑問ですが、当時の川柳界と現在の川柳界とでは状況がまるで異なると思います。小池正博がなぜ、「木村半文銭」を書かねばならないかの鍵もそこにあるでしょう。
 匿名の件については、高柳重信が範として出てくるあたりに、紙媒体と電子通信媒体の差を考慮していない気がしました。また、今回の文章全体を通して、「気軽に」と言いながら「書かねばならぬ」の気負いを感じます。毎回愛読しているものとしては、「書きたいものを書く」と、「書かねばならぬ」に乖離が生じているのではないかという危惧も感じました。杞憂にあれば良いのですが。今後も御健筆を願います。

高山れおな さんのコメント...

野村麻実様

当ブログをお読みいただき有難うございます。野村さんのコメントにいつも元気づけられております。

高山れおな さんのコメント...

さいばら天気様

⇒こんな下品な物言いをされる書き手であったとは!

何もビックリマークを付けて驚かれるようなことではありません。最初はあの十倍くらい下品に書いていたのを削りに削ってあれだけ残したのです。必要とあれば幾らでも下品にならねばと思っておりますが、どうも修行足りないようで下品になりきれません。

高山れおな さんのコメント...

野口裕様

⇒匿名の件については、高柳重信が範として出てくるあたりに、紙媒体と電子通信媒体の差を考慮していない気がしました。

コメント有難うございます。おっしゃるような考慮はしてないですね、たしかに。そもそも今回の件に限らず、基本的に考慮してません。差はあるでしょうが、深く考えたことがありません。ただし、高柳が言っていることは原則として媒体の差を超えて通用することだろうとは思っております。

⇒また、今回の文章全体を通して、「気軽に」と言いながら「書かねばならぬ」の気負いを感じます。毎回愛読しているものとしては、「書きたいものを書く」と、「書かねばならぬ」に乖離が生じているのではないかという危惧も感じました。杞憂にあれば良いのですが。今後も御健筆を願います。

気負いは当然あるのでしょうが、つまらなそうに書いている印象を与えているとすれば当方の至らざるところ。頑張りますとしかとりあえずお答えはできませんが。鋭いご指摘に喝を入れられました。

高山れおな さんのコメント...

山口優夢様

コメント有難うございます。
小生からの回答は、第27号の本文記事として書きたいと思うのですがどうでしょう。

コメントへの返事はコメントでという“礼節”があるならそうもしますが、せっかくこれだけ力のこもったボールを投げていただいたのではあり、ゆっくり書きたくもあります。ご一考願います。

小早川忠義 さんのコメント...

高山様、豈の皆様、お初に書き込みさせていただきます。小早川忠義と申します。

今回の「里」での特集の話、興味深く読ませていただきました。1月5日の俳誌雑読にも「俳句界」のお話から主宰の世代の高齢化、若年層の云々という話題が出てきたかと思われますが、それだけ俳句の世界では切実な問題として取り上げられる機会の多いものなのだなと首肯させていただきました。短歌を詠んでいたかつての時期では、同年代と呼べる「新星」「新進気鋭」とかいう方々が二十代の頃からしのぎを削っていて自分達の世代になるといっぱしの地位を確立していることも珍しくないものなのですが、いざ俳句を詠むようになって、さて自身が結社に所属するとしたらどうしようか、と周囲を見回してみると、裾野は広いものの同年代の人たちってほとんど目立っていないような。これは勉強不足見識不足も大いに手伝っているのでしょうが、結社離れとか言う前に所謂三十代以下の若年層が「よし」と言いながら入会希望の報せを発せられるような雰囲気になっていないのかも知れないなどと思っております。生意気なことを書き失礼しました。高山様が「古志」を一度定期購読された経験がおありになったとは。小生も興味ある「淵」に飛び込んで購読だけでもしてみようかしらんと思った次第です。

高山様、末筆ではありますが先日は無謀なる我が振る舞いに誠意あるご対応をいただきましたことを深く御礼申し上げます。後日感想等を含め改めてご挨拶させていただきたく。

野村麻実 さんのコメント...

山口優夢さまへ

> 自分から名前を名乗りもしない人間が、愛情を持って自分に接してくれているのかどうかなんてことをどのように判断できるのか、僕には分かりません。

愛情、感じられませんか?

―俳句空間―豈weeklyの運営が、編集人たちの負担になっていないと?
それでもやらねばならぬものがあると、思っている人々の新しい企画を見守ろうという気持ちが貴方にはないと?

愛情がなくて誰があんなシチ面倒くさい企画を誰が立てるものでしょうか。「豈」全句読むんですよ?あんな大量のもの。それに「良い」「悪い」わざわざ批評するには読み込んでいないといけない。

「豈」全部読みますか?
「くだらない」と思っても全部読み通して批評を加えられますか?
誰かが作ったものを「読むこと」「批評すること」それを発表することで、何かを変えようと努力している書き手達の姿が見えませんか?
「読まれること」「批評されること」は詠み手にとって最高の愛情ではないのでしょうか?


それはともかく。
“正論”がお好きなんですね。
優夢さまは。優夢さまは正攻法が成功しないときに、どんな戦略をとりますか?

どのような目的があって企画された匿名対談だと推測されますか?
れおなさまお一人のお考えだと思いますか?
「匿名対談」は次の「豈」に何を与えると思いますか?

ところで、

> 角川の言論封殺と、一体何が違うのか

匿名だからこそ、そのようなことは起きないのだと思いませんか?
匿名のうちのどちらかが、とてもとても偉い方だったら、立ち直れないかもしれませんもの。それからこんなこと、企画の時点で「偉い人」の耳には当然入っていると考えるのが普通の組織運営の中で生きているものの考え方です。今回もそれは当たっているのではないかしら。

私も教授が医局員についてトップ会談をするならば、絶対に医局員に知らせぬまま、匿名にしていただきたいと心から思っております。

高山れおな さんのコメント...

小早川忠義様

コメント、有難うございます。
思わず「淵」という結社があるのかと年鑑をチェックしてしまいました。一般名詞としての「淵」ですね(笑)。
すでにお気づきのように、短歌の世界に比べると俳句の世界は大層退屈です。良い作品の有る無しとは関係なく、これは構造的なものですね。
しかし構造のせいばかりにもしていられませんので、ともかく他人の作品を少しでも読むべくこのようなブログをやっています。しかし読んだ端から全てを忘れてゆくだだ漏れのザルのような頭が悲しうございます。

山口優夢 さんのコメント...

れおな様

特にコメント欄で返していただかねばならないとも考えていませんので、ぜひとも来週号の記事で書いていただければ嬉しくも思います。楽しみにしております。

野村麻実様

正論、嫌いじゃないですねぇ。

>「読まれること」「批評されること」は詠み手にとって最高の愛情ではないのでしょうか?

僕は、批評とか発言することというのはそんなに単純なものだとは思っていません。だいたい、愛情だと信じてやっていることが、相手を傷つけることもあるのだということは、知るべきです。

>私も教授が医局員についてトップ会談をするならば、絶対に医局員に知らせぬまま、匿名にしていただきたいと心から思っております。

「豈」は同人誌でしたね?その中にこのような階級分けが存在することを僕は初めて知りました。

野村様と僕とでは「愛情」に対するスタンスが違うのではないでしょうか。野村様は、批評を行なう、とか、人間関係を顧慮して匿名にする、とか、どちらかの立場の人の一方的な行為の中に愛情の芽生えることを考えていらっしゃるようですが、僕は、愛情というのはコミュニケーションを行なう中で双方向的に育まれるものであり、名を名乗らない人間との間にそのような関係は望むべくもない、よって、そのような人間との間に愛情が生まれることはないだろう、と言っているのです。

愛情を感じる、感じないは主観的判断以外の何物でもありませんので、そのようなスタンスの違いがあることが確認できれば、これ以上議論を続けることは不毛のようにも思います。

野村麻実 さんのコメント...

>山口優夢さま

若者らしくて微笑ましいお答えですねo(^-^)o。

ある程度の知識や社会的地位、経験、現状の限界点等を知ってしまい、何らかの変革を行なおうとするものと、これから何もかも吸収させてもらおうという世代のスタンスは、もちろん違ったものであるでしょう。それを否定するものではありません。

高山さまのお答え、私も楽しみにしております。

久留島 さんのコメント...

こんにちは。毎週興味深く拝読させていただいております。

「豈」本誌の状況を全く知らないもので、このような議論に加わることは場違いかとも思いますが、すこしだけ失礼いたします。
高山氏は岩片氏と重信の発言を引いて匿名批評の優位性を議論されています。その発言の一部は納得できる部分もあるのですが、ただ、「総合誌」の立場と「同人誌」では違いがあるのではないでしょうか。
私のような部外の読者にとっては、HNも匿名も大差なく、たとえばこの場ならコメント欄でも議論は可能かと思います。しかしそれでも匿名というのはやはり「言いっぱなし」であり、総合誌のような中立の立場で行うのと、その後も関係が続くであろう場で行うのとは、まったく違う、かと思います。もちろん、その違いを前提としたうえで、匿名批評の魅力、確かに放言、皮肉、揶揄、などある意味で変則的な力があると思いますが、その力に期待されているのであれば、それはそれでひとつのお立場かと存じます。…もっとも、天気氏同様、「少々驚くとともに残念な」気がしていますが。

高山氏のお答えに、いち読者として私も期待しております。

高山れおな さんのコメント...

久留島様

コメント有難うございます。

◆高山氏は岩片氏と重信の発言を引いて匿名批評の優位性を議論されています。

⇒小生も岩片氏も重信も、匿名批評の「優位性」など語っておりません。この点については次号掲出の拙稿で詳しく述べますのでそれをお待ち願います。

◆その発言の一部は納得できる部分もあるのですが、ただ、「総合誌」の立場と「同人誌」では違いがあるのではないでしょうか。

⇒もちろん違いはあります。

◆私のような部外の読者にとっては、HNも匿名も大差なく、たとえばこの場ならコメント欄でも議論は可能かと思います。しかしそれでも匿名というのはやはり「言いっぱなし」であり、総合誌のような中立の立場で行うのと、その後も関係が続くであろう場で行うのとは、まったく違う、かと思います。

⇒「言いっぱなし」の問題については次号拙稿で述べさせていただきます。

◆もちろん、その違いを前提としたうえで、匿名批評の魅力、確かに放言、皮肉、揶揄、などある意味で変則的な力があると思いますが、その力に期待されているのであれば、それはそれでひとつのお立場かと存じます。

⇒そういうことです。「ひとつのお立場」なのです。

◆…もっとも、天気氏同様、「少々驚くとともに残念な」気がしていますが。

⇒感覚の問題については説得できません。説得できませんが、次号拙稿がある程度のお答えにはなると思います。

さいばら天気 さんのコメント...

れおなさん、こんにちは。

>何もビックリマークを付けて驚かれるようなことではありません。

あらま、驚いて損しました。


>どうも修行足りないようで下品になりきれません。

いえ、私からすると、充分すぎるほど下品。
これは、れおなさんと私の「下品」の関する感覚・体質の違いから来るものです。

「匿名批評」もこれと同じような事情があります。

匿名批評全般について、私は下品(かつ気色悪い)と考えます。物言いの下品さ・気色悪さとは質が違い、A氏・B氏の「ありよう」の下品さみたいなものです。

これは感覚・体質のようなもので、ある人にとっては「なんてことはない」ものです。何かに触れて皮膚がかぶれる人もいれば、平気な人もいる。感覚・体質の問題は、論理の問題ではないので、論じにくいものです。論じたい人に、「論じるな」なんてことは申しませんが(滅相もない)、私自身は、この件の「論」には関心がありません(だから拝読の機会は来ない)。

あ、そうそう。ちょっと重要なこと。私が「匿名とはけしからん云々」と書いたとありますが、これは不正確な要約です。「やっちまったな」と書き、事実そう思いましたが、「けしかんらん」などとは思いません。「けしからん」と「やっちまったな」とでは、少なくとも私の中ではずいぶんと違います。

(意図的に曲げて伝えるというのでなければ、要約より引用が手堅いです)

ではでは。

高山れおな さんのコメント...

さいばら天気様

コメント有難うございます。

>いえ、私からすると、充分すぎるほど下品。
これは、れおなさんと私の「下品」の関する感覚・体質の違いから来るものです。

おっしゃる通り、感覚的な問題はどうしようもないことです。上記、久留島さん宛てのコメントにもそのように記しております。
お前は下品だ、貴様はもっと下品だ、などと言い合っても仕方がないので、これまでとしましょう。

>感覚・体質の問題は、論理の問題ではないので、論じにくいものです。論じたい人に、「論じるな」なんてことは申しませんが(滅相もない)、私自身は、この件の「論」には関心がありません(だから拝読の機会は来ない)。

関心がなくともお読みになるのがこの場合は筋のような気がしますが、それはまあご随意に。


>あ、そうそう。ちょっと重要なこと。私が「匿名とはけしからん云々」と書いたとありますが、これは不正確な要約です。「やっちまったな」と書き、事実そう思いましたが、「けしかんらん」などとは思いません。「けしからん」と「やっちまったな」とでは、少なくとも私の中ではずいぶんと違います。

>(意図的に曲げて伝えるというのでなければ、要約より引用が手堅いです)

「けしからん」と「やっちまたな」では違うと言われればその通り。ただ、引用はしたくなかったわけです(それこそ感覚的に)。要は、要約が適切でなかったということですね。失礼いたしました。