2009年2月8日日曜日

小川軽舟『手帖』論―誠実さを前に―・・・神野紗希

小川軽舟『手帖』論
―誠実さを前に―

                       ・・・神野紗希

はじめに

小川軽舟さんの第二句集『手帖』※1. には、大別して、二つの魅力がある。一つは、一冊から立ち上がってくる人物像(≒作者)の魅力、もう一つは、卓抜した句作技術の魅力である。前者は内容、後者は表現の問題に区分される。句作技術については、どの句についても同じように語れるため、今回は、内容、つまり句集からうかがえる作者像について、考えてみたい。その中で、取合せや措辞の確かさといった表現についても言及することが出来れば幸いである。


『手帖』からうかがえる作者の人物像の姿勢を、端的に表しているのは、たとえば次のような句である。

一日を雑に使はず寒葵
日記より人生貧し犬ふぐり
毎日に次の日のある土筆かな


一句目、休日に冬の葵を見に来たのだろうか。余った時間に散歩していたら、葵の咲く景色に出会ったのか。「大事に使ふ」とか「丁寧に生き」といった順接表現ではなく「雑に使はず」と否定の表現を取ることで、謙虚さが出るとともに、「雑に使」うとはどういうことかにも思い至る。すなわち、ぼんやりとテレビを見たり、コンビニで立ち読みしたりと、時間潰しをしながらだらだら過ごすことである。冬の寒い日なら、尚更そちらに心が傾きそうなものを、「いいや、せっかくだから」と腰を上げて、マフラーを巻いて外に出かける。少しの時間でも大切にしたいと心掛けている作者の姿勢が好もしい。その姿勢の答えとして、下五に配合されているのが「寒葵」だ。寒葵は、根元の地べたに、あまり目立たない、柿のへたのような茶色っぽい花を咲かせる。冬の寒さの中で懸命に咲く寒葵の花を発見したとき、作者の心は静かに輝いたことだろう。

二句目、一般通念からすると、人生の方を上位に位置づけたいものだが、「日記より」「貧し」と表現したところに、アイロニ―がある。ここでの「日記」や「人生」とは、自分の日記や誰かの人生といった具体的な何かを指す言葉というよりも、概念としてあるのだろう。
日記に日々の全てをあるがままに表現することは出来ないので、言葉に記述された時点で、物事は多少なりとも戯画化され、フィクショナルになる。また、日記は、後に読まれる可能性があるので、多少誇張されて書かれているというイメージもある。そうした日記全般のイメージを、このような構文で表現したことで、その構文の示す「日記は人生より豊かである」という意味とは逆の事実が描き出されている。日記という存在の、装飾されるがゆえの空疎さや、人生より日記を豊かにしてしまうような、書くことの淋しさである。
ここで忘れてはいけないのが、下五に置かれた「犬ふぐり」だ。これが、句の意図を固定する役割を果たしている。犬ふぐりは、しっかりと根を張って地面に張り付くように咲いている。小さくて目立たない花だ。しかし、よく近づいて見てみると、花の形も色合いも、とても可愛らしい。「人生」の在り方を、犬ふぐりが象徴しているかのようだ。日々は日記よりつまらないものだけれど、愛すべきものでもある。日記には書かないけれど、たとえば犬ふぐりを見つけたりもする。書かれた虚構よりも、ささやかな日常こそ愛したい。そうした作者のメッセージを、犬ふぐりから読み取ることが出来る。

三句目は、上二句に比べ、「毎日に次の日のある」という発見も、「土筆」の順接的な配合も、分かりやすいが、描かれている主体の姿勢は同じだ。一ヶ月後とか来年といった長いスパンではなく、一日という単位で人生の時間を捉えている姿勢が、「一日を雑に使はず」と通低している。

これらの句から立ち上がって来るのは、何でもない日常を、無駄にせず丁寧に生きる、一人の好もしい人間の姿である。


『手帖』の句を読むと、そうした作者の心の立ち姿だけでなく、より具体的な情報を拾うことが出来る。
「妻の臍十日見ざりき其角の忌」「青桐や妻のつきあふ昼の酒」からは、妻が居て、かなり仲睦まじく生活している様子が見える。「鹿鳴くや関西弁の吾子ふたり」からは、お子さんが二人いることが分かる。年齢もそこそこ想像がつく。「駅までの土踏まぬ道クリスマス」「鼠ゐぬ天井さびし寝正月」からは、ある程度都会に居を構えていることが分かるし、「数へ日や安く買ひたる謡本」「春寒し画集ひらけば灯のうつり」からはその趣向の一端がうかがえる。
軽舟さんの属する「昭和三十年世代 ※2.」は、橋本榮治さんに「優雅な生活感 ※3.」と評されていたが、『手帖』も例外ではない。何か余裕を感じさせる詠みぶりである。たとえば掲出句の「昼の酒」「謡本」「画集」といった素材にその一端を見ることも出来る。
このように、一体どのような家族構成で、いかなる生活を送っているのかまで、ある程度分かるほどに、『手帖』には生活をテーマにした句が多い。「日向ぼこおでことまゆげ仲の良き」「十一月自分の臍は上から見る」あたりでは、自分の体で一人遊びをしている、滑稽で可愛らしい一面まで見せてくれている。


そんな生活を詠んだ句の中でも、象徴的なのは、食べ物の句の多さだろう。

実のあるカツサンドなり冬の雲
七夕や番茶の熱き洋食屋
弁当の胡麻散る飯や春隣
春待つや色麩ふたつのおかめそば
火に落つる鴨の脂や利休の忌


一句目、カツサンドの肉の詰まり具合を、「実のある」という措辞で表現した。「実のある」という語は、「実のある人」というように、誠実さを表すときに使われる。カツサンドと銘打っていながら、ぺらぺらの肉を厚い衣でごまかしているものや、パンの真ん中あたりにしか具がなく、隅まで行き渡らないものに出くわすことも多い。そうした「不実な」カツサンドに対して、「実のあるカツサンド」に出会った幸福感は大きい。「冬の雲」の柔らかさが、サンドイッチのパンの柔らかさを想像させるし、冬の雲を見ながら食べている開放感も感じられる。たかがカツサンド、されどカツサンドである。

二句目、七夕は思い人と会える運命の日だが、作者に訪れた奇跡と言えば、ふらっと入った洋食屋の、番茶が熱くて美味しかったことくらいだった。でも、番茶を美味しそうに飲み干す表情に、この小さな出来事も十分幸福なのだと、納得させられる。

三句目、ぱっと蓋を取った弁当に、胡麻が振りかけられていた。よく見るチェーンのお弁当屋の、大抵の弁当のご飯はそうである。さして驚くべきことではないが、「散る」の措辞が的確だ。また「春隣」という季語が取り合わせられることによって、「散る」の一語が、物が一箇所に凝り固まっていた冬が終わり、生命の拡散する春の息吹を感じさせるものとしても働く。

四句目、色麩が一つでは少なくてさみしいし、三つ以上あると、豪華すぎる。「ふたつ」という数の選択に、ささやかな幸せが象徴されている。色どり鮮やかな春を待つ心が、おかめそばの麩の色彩に、敏感に反応したのだろう。

五句目、鴨を炭火で網焼にしているのだろう。火に脂が落ちたときのジュッという音とこうばしい香りが、何とも食欲をそそる。利休は茶道を完成させた人物で、わびさびの象徴でもある。「利休の忌」が取り合わせられることによって、鴨を焼く風景が、粋に感じられる。

私たちは、食べるという行為を、毎日繰り返している。繰り返していると、その一回一回の価値が、相対的に薄くなっていくのも当然だ。普通、人は、立派なディナーや特別なごちそうでなければ、その日食べたもののことなど、数時間後には忘れているものだろう。しかし、軽舟さんは、ランチのカレーやお弁当のご飯にふりかけられている胡麻のことを、忘れてないで、一つ一つ俳句に詰めてゆく。この食べ物の句に拘る姿勢にも、毎日の小さな感動を大切にしている作者像が象徴されている。


『手帖』から立ち上がってくるのは、地道に、誠実に、丁寧に、一日一日を生きている一人の人間である。周りには家族がいて、平凡ながらもそれなりに満たされた生活があって、生活に充足している余裕がある。寒葵を見れば心輝き、犬ふぐりにしゃがみ、カツサンドを食べれば美味しいとにっこりする。何て素敵な人生だろう。

この特徴は、句集以後の近作にも、変わらず引き継がれている。近年、特に話題に上がった一句をみてみたい。

死ぬときは箸置くやうに草の花

「死ぬときは箸置くやうに」というフレーズは、自分がいつか死ぬときには、立つ鳥あとを濁さずのように、静かに死がよろしいという矜持の表明だ。死のときまで端正でいたいという意識の表れでもある。「箸置くやうに」と、死を食事になぞらえていることで、人生というお膳をきちんと全ていただいて、堪能してから死にたいという願望も見えてくる。掲句では「草の花」という季語の配合によって、自分は特に目立たない一人の人間だけれど、死ぬ日まできちんと日々を過ごしていきたいという意識が、より色濃く表出される。もし「百合の花」とくれば、ナイフとフォークだろうし、「さくら」であれば、一膳食べ終えたくらいではだめで、もっと大きなことをやり遂げなければ釣り合わない。

Mr.Childrenが数年前に発表した「HERO」という楽曲の歌詞に次のようなフレーズがある。「小さい頃に身振り手振りを真似てみせた/憧れになろうだなんてだいそれた気持はない/でもHEROになりたいただ一人君にとっての/つまずいたり転んだりするようならそっと手を差し伸べるよ」これは、『手帖』から読み取ってきた「ささやかなれど大切な人生」という思想と、響きあうものがある。この歌詞で描かれているのも、現代を生きる一人の男の、誠実な矜持である。理想や夢を語るのもいいが、出来ない約束に裏切られることもある。『手帖』の人物は、無理な約束はしないし、出来ないことを目標に掲げたりしない。自分の身の丈を知っているのだ。だから「草の花」なのである。その範囲で精一杯やれば、出来ないことはない。誰かを裏切ることもない。この人物は、非常に誠実なのである。分別のある、格好いい大人の男だ。


こうした、立派な市井人としての作者の人間像には、強い魅力を感じる。
生活への憧れというと、今までは、芭蕉や山頭火の放浪の旅を思い浮かべたものだろう。しかし、現代を生きる私にとっては、軽舟さんのような適度に優雅な生活こそが、憧れであり、尊敬すべき対象である。そしてまた、同時に叶わないことなのである。結婚して子どもを持つといった当たり前の将来も、夢と終わるかもしれないし、「毎日に次の日のある」とも限らない時代の不安もある。だいたい、「一日を雑に使」って終わらせてしまうだろう。この願望を、上の世代の人々は「ささやかすぎる」「大志を抱け」と笑うかもしれない。しかし、かなしいことに、私は大まじめなのである。


人生へと向かう丁寧な姿勢を、軽舟さんは、俳句を作るときにも保っている。それは、これまで見て来た句の、「実のあるカツサンド」といった的確な措辞や、「草の花」などの季語の配合を見ても、明らかである。

昭和三十年世代は、俳句の形式をめんどうな束縛と考えるのではなく、たった五七五の端切れのような言葉を詩にするために、昔から考えつくされた機能であると考えた。だから、その機能をきちんと理解し、存分に発揮させ、さらに深化させること、そしてその機能を借りて自分を表現することに力を注いだのである。 ※4.

このような姿勢の生む賜物なのか、『手帖』では、言葉が十全に生かされている。電池が切れるまでは永遠的に同じペースではたらきつづける時計の歯車のように、それぞれの言葉が正確に「機能」している。酷使されない言葉たちの安らかな幸福感が、読者である私に伝わって来る。そのため、私はしばしば『手帖』の読後に幸福感を感じる。

『手帖』は、句集から立ち上がる作者像の人間性に、大きな魅力がある。そして、その魅力を引き出し、私たちに伝えてくれるのは、卓抜した表現の技術である。さらに、その表現を生み出す小川軽舟という俳人の姿勢が、また丁寧なのだ。
しかし、この「丁寧」のレベルの違いが理解されず、表現や内容の全てを作者の人間性に還元してしまうと、せっかく軽舟さんが誠実に作った俳句そのものを、置き去りにしてしまうことになる。そうなることは、ここまで誠実な作者である小川軽舟の読者として、誠実さを欠くだろう。

闇寒し光が物に届くまで

この句の眼目は、「闇寒し」だろう。光が照らされるまで、そこに何があるのか分からない闇。そんな混沌とした闇の世界への畏怖ともいうべき感情が、「寒し」によって象徴されている。また「光が物に届くまで」と、寒さを感じる期限が示されていることで、ついに光が差し込んだその瞬間の、まばゆさとあたたかさまで想像される。

天井の物置を、懐中電灯で照らしながら物を探している光景を思い浮かべてもいいし、この「光」が、「寒し」という冬の季語の奥底にある、待ちわびる春の象徴だと読みとっても良い。しかし、そうした個別の状況に掲句を固定してしまうのは、句の世界を小さくしてしまうだろう。この句の意味するのは、あくまで「光が物に届くまでの闇は寒い」という普遍的なイメージだ。ここでは「闇」や「光」というものが本来持つ概念を、「寒し」という季語で定義しなおしたところに意義がある。


私が、軽舟さんの第一評論集『魅了する詩型』 ※5.を読んだときに、特に心に残った一文がある。

俳句は読まれなければ作品として成立しない。だからこそ、俳人は自らの俳句が読まれる最高の環境を求める必要がある。すぐれた師につく好運を得た者は、ひたすら師に読まれることを頼りに句作に励めばよい。そうでない者はどうすればよいのか。自分の俳句が読まれることを期待するには、まず他者の俳句を誠心誠意読むことだ。それがきっと、まわりまわって自分のためのすぐれた読み手を招き寄せることになるに違いない。※6. 

「そうでない者」である私は、まず「そうでない者」に対する言及があることに驚いた。そして、「誠心誠意読む」という言葉に驚いた。普通、芸術一般において、提示されたものとの向き合い方は、受け取り手側の自由である。適当に好きなところだけ読みさしておいたとしても、非難されるべきことではない。そのように、俳句の受け取り方というのも、本来自分にしか分からないものだ。そんな誰の目にも触れない「誠心誠意読む」行為を大切にしたいという思いは、自分の作品を人に読まれることばかりを期待する人たちの中で、非常に純粋なものに思えた。そして、私も、出来る限り、誠意をこめて、俳句作品と向き合っていきたいと思うようになった。

だから、軽舟さんは、作り手の側にまわったときにも、誰に読まれるかということをきちんと考えている。『現代俳句の海図』第一章「昭和三十年世代の行方」のまとめの部分の小題は「誰に読まれる俳句か」である。彼はここで「俳句作品が古典となって次代に継承されるためには、ともかく誰かに読まれなければ始まらない」と、作品が誰かに読まれることの重要性を説いている。これらの言説から、彼の俳句の卓抜した表現の数々も、読み手の存在を想定し、いかに読んでもらうかという意識に裏打ちされたものであることがうかがえる。
軽舟さんは、句の向こう側に存在する読者を、きちんと意識している。そのような読者を見据えた意識に裏打ちされた、表現の確かさを前にするとき、私は、いち読者として非常に嬉しく、また読み甲斐を感じるのである。
                                    (終)



※1. 角川SSコミュニケーションズ

※2. 『現代俳句の海図 昭和三十年世代の俳人たち』(角川学芸出版)にて、軽舟さん自身が、昭和三十年前後に生まれた俳人たちを、そのように名づけた。

※3. 「俳句」(角川書店)平成二十一年一月号「新春座談会 俳句の未来予想図」

※4.小川軽舟『現代俳句の海図』(角川学芸出版)

※5.富士見書房

※6.「作り手と読み手」

--------------------------------------------------

■関連記事

都会人の憂愁 小川軽舟句集 『手帖』を読む ・・・山口優夢   →読む

「番矢なし」が俳句の五十五年体制の肝?小川軽舟句集『手帖』及び『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』を読む・・・高山れおな   →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。






0 件のコメント: