2008年11月29日土曜日

評論詩 切れについて6

評論詩(切れについて6 又は岸本尚毅の『俳句の力学』)
(作品番号14)

                       ・・・筑紫磐井

虚子・波郷まで切字と切れの言説を考察してきたが、
そろそろ現代に立ち戻りたい。
ちょうど折良く、
岸本尚毅の『俳句の力学』(平成20年9月 ウエップ刊)が送られてきた。
平成16年から20年までの連載を整理したものであるが、
この中の「切れ字について――『葛飾』の場合」
「切れ字と叙情について」の2章が
切字について集中的に言及している。

「切れ字」という言葉からは「切る」という働きが連想されます。しかし切れ字の本質的な機能は「切る」ことではなく、「束ねる」ことだと思います。

先ず冒頭のこの言葉からぞくぞくする。
長谷川櫂、岸本尚毅、小澤實、田中裕明は伝統派の中でも正統的であり、
いわば古典的な作風と思われ括られているが、
小澤、田中は明らかにそうした世の思いこみを否定するような動きを近年示していた
(残念ながら田中はそれを鮮明にする前に長逝した)。
今回、岸本の評論集を読んでみて、
彼もまた古典派の枠組みから旅立とうとしているように見えるのである。

「古池」という言葉は「や」という間仕切りを越えて次の言葉に繋がろうとします。そこに「文脈の圧力」が生じます。「や」で堰き止められた「古池」は、その「文脈の圧力」によって「蛙飛こむ水のをと」という中七下五に強く浸透します。これにより「古池」→「蛙飛こむ」「古池」→「水のをと」「蛙飛こむ」→「水のをと」という言葉の流れが互いに融合し、句全体が一つの言葉の塊として玉を結ぶような印象を持つのです。切れ字が持つ「束ねる」働きとはこういうことだと思います。

これって、どこかで見たことがなかったか。
第3回で引用した仁平の言葉にこんな言葉があったはずだ。

「や」は、初五の「なきがら」(のおもに像)を叙述性から独立させ、同時に、意味的な流れを断たれた中七以下をも相対的に自立させる。そのとき、初五へ連続性として関わることのできない中七以下は、いわばその補償作用として、句切れ(原文傍点)をはさんで初五のほうへ逆行しようとすることによって<幻肢としての下肢>から切れる(原文傍点)のである。

「虚構としての定型」(昭和60年『詩的ナショナリズム』所収)


さて、虚子と同様、岸本も「や」「かな」の分析を始める。
まず、「や」については、
水原秋桜子の「来し方や馬酔木咲く野の日のひかり」を、
すばらしいと認めつつこのように言う。

「馬酔木咲く野の日のひかり」は俳句にしては冗長な表現です。

この句が甘ったるい作品でありながら秀句たり得ているのは、ひとえに上五の「や」のおかげです。

岸本は、この「や」の効果をこのようなものだと述べる。

切れ字は、言葉の流れが本来持つ「しらべ」(時間性)を払拭し、「響き」(空間性)をもたらします。このような切れ字の働きによって、『葛飾』の諸作は、部分部分には流麗な「しらべ」を取り入れながらも、一句全体としては「響き」を感じさせるものとなっています。

これについては、後で述べたい。つぎに「かな」である。

「かな止め」は句末に重い錘がついているようなものです。下五にどっしりした重心があるので、上五中七が多少揺らいでも句は安定しています。そして、下五の「かな」には上五中七の言葉を引き寄せる作用があります。

「かな」があると、一句総ての言葉が「かな」に向かって収斂してゆくような感じがします。そして、韻文らしい言葉の密度の高さが得られます。

「や」と違う構造を示していることに注目したい。
そしてこれは「けり」でも「かな」と同じことが言えると結ぶ。
文中に来る切字「や」と、文末に来る「かな」「けり」を
こんな風に、「切れ」という曖昧な概念を使わずに岸本は説明しきっている。
実作者としてはこれで十分であろう。
神秘的な切れを使わないで、
秋桜子の俳句に於ける切字の効果は説明しきれるのである。
こうしてひととおりの切字を論じた上で、
ふたたび、岸本はしらべと響き論で締めくくる。

そこで秋桜子は、切れ字によって、短歌的な「しらべ」を俳句的な「響き」に変えようとしたのではないでしょうか。『葛飾』はその見事な成果でした。

しらべと響きは、山本健吉の、「挨拶と滑稽」で指摘した、
「俳句の無時間性」を下敷きにしたものであろうが、
しらべと響きが対立し合うものであるかどうかは、
一概に決めがたい。
しかし、切字を嫌ったと言われる秋桜子が、
『葛飾』では意外なほど切字を使っているという指摘はしばしばされていたが、
岸本の、甘ったるい平板さを「や」を使うことによって
立体化するという指摘は実作者らしい感性だ。
岸本は「切れ字は麻薬のようなものです」と言い、
「秋桜子は、切れ字に頼らない文体を身につけたので
切れ字を使わなくなったのか。
あるいは切れ字に飽きたので、
切れ字を使わない文体を工夫したのでしょうか」
と結んでいる。
明らかに切字に頼ってはいけないと言うことである。
これが次の切字否定派の主張へと繋がる。

次の論では龍太と虚子が登場する。
先ず、飯田龍太の「水澄みて四方に関ある甲斐の国」を掲げて疑問を解いて行く。
その疑問とは次のようなものであった。

上五はなぜ「水澄むや」ではないのか。「水澄むや」の美しさは捨てがたいのに。それが私の疑問でした。

いかにもプロフェッショナルらしい疑問だ。
私などこういう点については足元にも及ばない。
そして、岸本はこういう推理を重ねる。

ところが「水澄みて」とすると下五の「甲斐の国」まで文脈が一貫し、「水澄みて」の情趣はすべて「甲斐の国」へと掛かっていきます。
情趣を汲み上げるポンプのような切れ字の「や」を上五に挿入したならば、「水澄む」の情趣は上五で汲み出されてしまいます。龍太はそれを避け、上五の「水澄む」の情趣がそのまま下五の「甲斐の国」へ流れ込むようにしたのです。

切字の束ねる効果が俳句によっては逆効果になると言うことを言っている。
切れ字を使わない派の正当な根拠がここにはある。
ただそれからが、ちょっと違和感がある。

飯田龍太は切れ字への依存の低い俳人だと思います。龍太は切れ字における「謙抑主義者」だったのではないでしょうか。龍太が使う切れ字は、そこに切れ字以外はあり得ない場合に限られます。

龍太は、切れ字に纏わる俳諧的情趣への依存を好まなかったのだと思います。

おそらくそうした理由であったら、
龍太だけではなく、金子兜太も、能村登四郎も、
鈴木六林男も佐藤鬼房もすべてについて言えたであろう。
切字に纏わる俳諧的情趣の否定は
第二芸術以後の戦後は世代に共通して持たれた観念であったのである。
龍太の手柄とすべきは、切字を使わないで
伝統的情趣を維持することが可能であることを示したことでなかったか。
それは前回述べたように登四郎についても言えた。
そしてそれを行うことによって、
波郷が切字を使ってしか実現し得なかった古典的世界を実現した。
のみならず、
一方で波郷よりももっと現代の息吹
(それは心象的なものが多かったが)を持ち込むことにも成功したのである。
切字が大切と言うだけでは、波郷がいれば十分なのである。
新しい世代が登場する必要性はなかった。
切字を捨てることによって、
戦後派世代―――伝統的戦後派は、自らの位置を確認し得たのではないかと思う。
(何も否定しない、現在のポスト戦後派世代、ポストポスト戦後派世代は
存在する必要があるのかその意味でも疑問である)

ここで少し、私の考え方と岸本の考え方を比較しておきたい。
岸本は飯田龍太の特徴として、「一月の川一月の谷の中」の句を分析し、
第6句集『山の木』から11句をあげて
句末の「中」あるいは「なか」の例を示している。
そして、「龍太の『中』あるいは『なか』は、
『かな・けり』に代わる『疑似切れ字』として
一句に確かな輪郭を与えています」と述べている。

大鯉の屍見にゆく凍のなか  龍太
陽炎や破れ小靴が藪の中
子燕が育つ雲雀の声のなか
あるときはおたまじゃくしが雲の中
青空の眩しき楠も北風のなか
大寒の牛鳴いてゐる萱の中
旧伯爵家恋猫の闇のなか
新緑の風吹きかはる夢のなか
夕焼けて白根北壁凍の中
小綬鶏の声湧く山も凍の中
花栗の十日にほへる雲の中

私が全くこれに共感するのは、
15年前に『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社刊)の中で
私も同じことを書いているからである。
私が調べたのは第9句集『山の影』のなかの句末が「の中」の例であった。

爽涼と目つむりて指花の中 龍太
大根抜くときのちからを夢の中
冬茜かの魂はいま闇の中
玉虫のいろよみがへる風の中
文化の日鉄の屑籠雨の中
金鳳華明日ゆく山は雲の中
夏が去る赤子ばかりの部屋の中
夜も昼も魂さまよへる露のなか
三十三才村の巨樹なほ凍の中
夏痩せて被衣のいろを夢の中
野分過ぐ蘚むつまじき色の中

そしてこの「の中」の意味を、岸本と殆ど同じ指摘をしている。

恐らく、これだけ頻出する「--の中」がすべてがすべて意味通り--in the valley の筈がない。むしろこの語と頻出度が同じ程度である詠嘆の助詞の「かな」に近いものなのではないかと思う。「--のこゑ」「--の音」「--また」「--ばかり」というのも多少微妙なニュアンスはあるものの龍太山河の中での切字「かな」なのであろう。<---一月の谷であるものよ-。>こんな気持ちが作者自身にあるように思われる。私は、龍太に限ってこれを新切字と呼んでもよいように思う。芭蕉の言った、<四十八字皆切字也>という何となく無責任な発言と違ってそこでは俳句性の意識をはっきり持っているからだ。実にこれこそ龍太の手柄であろう。【注1】

龍太について触れるのはこれくらいにして、
虚子に話を転じよう。岸本は、虚子の切字についてこのように述べる。

龍太と対照的に、切れ字の持つ俳諧的情趣をたっぷりと纏っているのが虚子の句です。

虚子の項目では、虚子の様々な切字の使い方を分析して見せて見事というほかない。
例えば、
「下五の「○○かな」の場合が季題でない場合、
虚子は中七を「て」でとめます」
「○○が季題の場合は・・・中七が連体形の形が多い」と述べている。
それに続く解説を読むと、言葉の重みを虚子がいかに大事にしたかが書かれている。
にもかかわらず、それは使い方の話であって、
龍太と比較して虚子が多いように見えるだけで、
虚子自身が切字を格段に高い使用頻度で使っていたわけではないようである【注2】。
もともと虚子は、前回、仁平からの引用が述べたように、
本質的に切れのない俳句を詠んでいたのだから【注3】、
切字を必要としていなかったと考えた方が良さそうである。

いけない、ここで切れと言ってしまった。
私の今までの考え方では切字と切れは関係ないはずであった。
もっぱら「や」の持つ効果と言わねばならなかった。
「かな」には切れはないはずなのである。
さてここまで、切字に関する厳密な議論を進めてきた岸本だが
最後の結論で私と同様に勇み足をしてしまった。
冒頭切字は「束ねる」ことだと言ったにもかかわらずこんなことを述べている。

「俳句の論理」とは、季題と切れの相互作用に関する言葉の力学です。季題と切れの相互作用は、俳句の「論理」であるにとどまりません。季題の情趣と切れ字の機能は「叙情」の要でもあります。

上手の手から水が漏れたようなのは「季題と切れの相互作用」という言葉だ。
岸本尚毅にしても、切字は切れを呼ぶという
世の中の雰囲気に飲まれてしまうのであろうか。
「季題の情趣と切れ字の機能」、これは正しい。

さて、長らく続いた評論詩も
ここらでいったん終了としよう。
しかし、人を惑わす「切れ」論者がいる限り、
正義の評論詩は不滅である。
3月、啓蟄のように切れ論がうごめき始めるとき
評論詩も復活する。

【注1】仁平勝は、私の説に対して次のようなコメントをくだしている。
筑紫はこれらの末尾表現について「龍太に限ってこれを新切字と呼んでもよい」というが、わたしは一も二もなくその意見に賛成する。ならばこれらの表現は龍太の独自な文体かというと、必ずしもそうではない。そうした龍太の類型表現は、月並の代名詞のように言われる天保俳諧の成田蒼虬にそっくりなのである。それを指摘して見せたことも、筑紫の大きな手柄と言ってよい。(「類型性」仁平勝『俳句の射程』)

【注2】「週刊俳句」第83号さいばら天気「ひたすら数えてみました「や」「かな」「けり」の頻度」より抜粋引用
○攝津幸彦『鳥子』(1976年)。上記、現代俳句文庫はカウントされているが、自分でも数えてみなくちゃというわけで、260句を見ていく。「や」38句(14.6%)、「かな」36句(13.8%)、「けり」12句(4.6%)、計86句(33.1%)」
○「波多野爽波『鋪道の花』(1956年)。323句。「や」23句(7.1%)、「かな」23句(7.1%)、「けり」10句(3.1%)、計56句(17.3%)
○高浜虚子「七五〇句」。1951年から1959年までの作品。
「や」37句(4.9%)、「かな」55句(7.3%)、「けり」18句(2.4%)、計110句(14.7%)
爽波よりもさらに少ない。
○結論的には、攝津幸彦は「や」「かな」「けり」を現代の俳人に比べて多用するほうであり、さらには、虚子、爽波と比べて、倍ほど(!)も多用する、ということになる。
小川軽舟『現代俳句の海図』で取り上げられた10人の作家の、小川軽舟選50句より参考までに本書の著者岸本のデータを見てみると、
○岸本尚毅「や」10句(20.0%)、「かな」12句(24.0%)、「けり」6句(12.0%)、計28句(56.0%)

【注3】「-俳句空間-豈weekly」第15号のコメントで堀本吟が次のように指摘しているのも、虚子をはじめとしたホトトギスの独特のスタイルに対する世の通念と言ってよいであろう。
ホトトギス伝来のかきかたには、虚子にしろ星野立子にしろ「一物仕立て」がおおくて、現代の稲畑汀子なども、途中で言葉をいいやめるというかたちで切っているのが、数多く見つけられます。これはホトトギス流のひとつのスタイルですよね。

昼寝するつもりがケーキ焼くことに 汀子
爽やかな涙となりてゆくことも   同
砂漠には砂漠の時間昼寝して    同

意味的には切れて(完結して)いますのに
文法的には言いっぱなし、倒置法ですが、これはたいへん面白いかきかたです。挨拶の口上とか、存問の呟き、なのかな>と考えているのですが、やはりこの言い方は韻文にしては不思議な印象をあたえます。

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6 件のコメント:

さんのコメント...

【注3】「-俳句空間-豈weekly」第15号のコメントで堀本吟が次のように指摘しているのも、虚子をはじめとしたホトトギスの独特のスタイルに対する世の通念と言ってよいであろう。

「ホトトギス伝来のかきかたには、虚子にしろ星野立子にしろ「一物仕立て」がおおくて、現代の稲畑汀子なども、途中で言葉をいいやめるというかたちで切っているのが、数多く見つけられます。これはホトトギス流のひとつのスタイルですよね。」(拙)
 意味的には切れて(完結して)いますのに
文法的には言いっぱなし、この言い方は韻文にしては不思議な印象をあたえます。(拙)


磐井さま。
ホトトギスを伝統俳句の正統派とみなし、且つ俳句は「切れる」ものという「通念」に従っていると、いろいろ理解しにくいところがでてきまして、お説にはひじょうに興味と脅威を感じています。すぐには対応できませんが。

稲畑汀子さんのスタイルには、私今度まともに読んでみる機会があり、とても興味を持ちました。
言いっぱなしでそのままにみえること。
上五中七で意味的にはおわっているのに、とってつけたように下五がおかれていること。こんなのあり?といういこごちのわるさにおちいりました。この感覚ってなんでしょう。


虛子は「切れ」を必要としなかった。(貴)

これは、チェックしておかなければ。

ここの一角に専用の高齢者用個室=書斎をもらったので、そこでまた、書架の書物を引っ張り出して、かんがえてみます。岸本尚毅なんか、絶対に買わないから。

筑紫磐井 さんのコメント...

堀本様
 岸本論文は、「切れ」派(切字派にあらず、まして「や」「かな」派にはいっそうあらず)に対する虚子・岸本・仁平・筑紫の包囲網が形成されつつある状況を示しているということで、私は好意的です。
 「岸本尚毅なんか、絶対に買わないから。」なんて言わないで買ってください。
 アンチ切れ論以外も面白いものがあります。
 来年、虚子没後50年のイベントで、岸本氏と虚子を語り合うことになりそうです。
   筑紫磐井
追伸
 龍太論の引用文で「切れ字居合いはあり得ない場合に限られます」は「以外」の間違いでした。

筑紫磐井2 さんのコメント...

堀本吟様(さらに追加)
 「國文学」特集・俳句を読み終わりました(出張中だったので)。
 津田清子と稲畑汀子を拝読、鬱屈しながら汀子に「対象化一体化する直観力がすごい」と最後に言ってしまうところに堀本さんの愛情を感じます。
 そういえば、アニはホトトギスが大好きな集団でした。「特集・祝ホトトギス1300号記念/その功罪」(圧倒的に罪が多かったですが)をした雑誌はホトトギス以外アニだけでした。
 これからも読みましょう。
      筑紫磐井

中村安伸 さんのコメント...

龍太論の引用文で「切れ字居合いはあり得ない場合に限られます」は「以外」の間違いでした。

修正いたしました。

さんのコメント...

磐井さま。
コメントへのコメントをありがとう。「いやいやえん」という童話がありますが、あのでんで、岸本さんのは買うか、図書館ででも借りるとおもいます、必要みたいだから。


「鬱屈しながら汀子に「対象化一体化する直観力がすごい」と最後に言ってしまうところに堀本さんの愛情を感じます。」(磐井)

なお、手こずった國文學の評文、よんでくださってありがとう。磐井さんはすいすいと書いていましたね、貴方はしわせだなあ。
ご指摘の「直感力」は津田清子さんにたいするオマージュです。後半の稲畑汀子さんへの「愛情」は、はんぶんあたっています。好い句もありますね、
 こういうやわやわとした無思想風イデオロギーの権力性の気持わるさやもちろん感じますが。
 意見が違っても、同性をあんまり批判したくないところがわたしの甘いところでしょう。
 「ホトトギス」では、子規を継いでいる部分を見てると、日常性の大事さを思想の基本にしている考え方は一貫しています。
 イメージ論の軽視が、この一派の弱さであることをもっと指摘すべきでしょうね。

とりあえず。ご返事。 
 

相子智恵 さんのコメント...

筑紫磐井様

突然終わってしまった切れについての評論詩、
「豈」46号に迷いの多い文章を書いてしまってから
(いつでも迷いの多い文章ばかり書いておりますが…)
一筋の光のように拝読しておりました。
ひとりの迷える読者としては、
やっと入口に立てたような気がしました。
追って本を読んで検証しつつ腹の中に落としていくところです。
正義の評論詩の復活を楽しみにしております。
(出てこないことが平和なのかもしれませんが…)

相子智恵 拝