■華のあたり
高柳克弘『芭蕉の一句』を読む
・・・高山れおな
当ブログ第十号の拙稿でもちらと言及したが、俳文学者(の卵?)でもある若手(俳壇用語の若手ではなくほんとに若い)俳人・高柳克弘の『365日入門シリーズ④ 芭蕉の一句』(九月二十一日刊 ふらんす堂)が出た。この人の名前をはじめて意識したのはいつだったろう。
四、五年前、「鷹」誌上で、「鷹俳句逍遥」という外部筆者による俳句評のコーナーに一年間書かせて貰ったことがある。四、五年前などと曖昧なことしか言えないのは、記録を取っていないためだ。狭い家に、受贈雑誌の古いバックナンバーを持ちきれないのは仕方ないとして、自分の文章くらいスクラップしておけよと思うが、当時はそれもしていなかった。それはともかく、そのコーナーで高柳の、
ことごとく未踏なりけり冬の星
をとりあげたのは、はっきりと覚えている。これが、彼が二〇〇四年に「俳句研究賞」を受賞した前なのか後なのかを評者は今、少しだけ気にしているのであるが(つまり自力で彼の名前を発見したのかどうかと)、こちらのせこい思惑とは関係なく、この作品がすでに俳壇周知の句となっているらしいことは悦ばしい。記憶力の弱さを誇る評者が一発で暗記してしまう、強さと面白さと単純さを兼ね備えていたのだから、それも自然ななりゆきなのであるが。
高柳とはじめて会った日、こちらははっきりしている。二〇〇五年一月十一日火曜日。この日、東京国立博物館で開かれた「金堂平成大修理記念 唐招提寺展 国宝 鑑真和上像と盧舎那仏」のオープニング・レセプションでばたりと出くわしたのだ。この展覧会は、タイトルの通り、鑑真和上像と、金堂の中尊である盧舎那仏坐像を中心とした展観であったが、その一角に「鑑真和上と盧舎那仏に捧げる 献華写真・献句」というコーナーが設けられていた。高橋睦郎の監修で、十歳代から九十歳代までそれぞれ二名、計十八名の俳人が指名され、唐招提寺にちなんだ作品を献じたものを、パネル展示してあった。高柳は二十代の、評者は三十代の作者のひとりに選ばれていたため、この日、会場に来ていたのだった。図録(二分冊になっていて、一冊が献華写真・献句の記録になっている)を見ていたらなんだか懐かしい。少し多いが、せっかくだからここに全句書き抜いておく。
うちわまき千本万本手が上がる 森下千鶴恵 十代
かげろうや唐招提寺ゆらゆらと 山下大輝
蝉しぐれ帝釈天の手のまろし 小田涼子 二十代
鑑真のまなこいたはる月させり 高柳克弘
血汐いま衣に凪いで御座しけり 五島高資 三十代
列柱の律目つむれば鳴る秋の潮 高山れおな
⇒「律」に「カノン」とルビ
組み置きて掌の大いなり秋の風 小澤實 四十代
時雨僧高き位でありにけり 田中裕明
瞑れよ口噤めよと萩白し 正木ゆう子 五十代
⇒「瞑」に「めつむ」、「口噤」に「くちつぐ」、「萩白」に「はぎしろ」とルビ
初潮の目指すは唐招提寺なり 高野ムツオ
お静かに唐招提寺に昼の虫 宇多喜代子 六十代
枯草のうすくれないや西の京 山本洋子
またまゐりました唐招提寺秋 川崎展宏 七十代
つちふるや大和の寺の太柱 大峯あきら
亀鳴くはきこえて鑑真和上かな 森澄雄 八十代
盧舎那佛西瓜まるごと供へられ 津田清子
天平のおん身をつつむ新樹の香 桂信子 九十代
列柱の八つの一つに春惜しむ 林翔
さらに、高橋睦郎も、
この月のまどかは遣りし幾嵐
と、いかにもこの人らしい句を加えていた。全体に秋の句が多いのは、締め切りが秋口だったためである。図録では俳句に各作者の短文が添えられていて、作句の意図や事情も明かされているが、句だけ読んでも唐招提寺にかかわるものとわかり、鑑真への敬慕の情深いものという、挨拶性の観点で見ると、川崎展宏の句が他を圧して素晴らしい。森澄雄や津田清子の句は、俳諧にはなっているが献句としてはやや敬意に欠ける憾みがある。五島高資の句は思いの深い力作ながら、短文と合わせて読まないと充分句意を尽くさない。同じく会場で行き合った高野ムツオが、「自分の句がいちばん下手に見えるな」とボヤく。三人してパネルを眺めながらああだこうだ言っていたら、くだんの川崎展宏が夫人と一緒にあらわれたので挨拶する。さすがに悠然たるものである。
仙台まで帰る高野の新幹線の時間まで、上野で飲むことになった。高野と評者は旧知であるからともかく、高柳はいい迷惑だったかもしれない。高野も評者も、俳句研究賞を取ったばかりの二十四歳に興味津々でいろいろ聞いたものと思う。芭蕉が好きだというから、白雄なんかどうかと水を向けたら、白雄には思想が無いと一言のもとに切り捨てられたのを覚えている。俳句をはじめて数年なのに、堀井春一郎なんか読んでいるというのでひやひやとシャッポを脱いだ。そういえば、昨年出た高柳の第一評論集『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』(富士見書房)には、「堀井春一郎 冬海へ」の章が立っていた。好きは好きなのだろうが、どうも勉強の次元が違うようである。野球界には松坂世代という言葉がある。二十代の俳人は、絶対数は現在でもとても少ないと思うが、層が薄いなりに多少の活気が伝わってくるのは、高柳の存在が核となり、刺激となっている面もあるのだろう。
高柳の唐招提寺への献句〈鑑真のまなこいたはる月させり〉は、この作者としてはそんなに出来が良いものではないながら、はっきり「まなこいたはる」と言い切っている着眼のやさしさは良い。高柳の句はもちろん芭蕉の、
若葉して御目の雫拭はばや
を、踏まえている。『芭蕉の一句』では、この句は次のように鑑賞されている。
あたりに照り輝く若葉、そのみずみずしい緑でもって、御目もとの雫を拭ってさしあげよう、といった句意。唐招提寺の開山堂に安置された鑑真像を拝しての句である。「若葉」の本意を『俳諧雅楽集』は「ぬれぬれとして涼しき初也」と述べている。「御目の雫」は、そうした若葉の滴るような緑から発想された。両目の光を奪った艱難に思いを至らせた上での、鏤骨の措辞といえる。「若葉して」の措辞は、「若葉をもって」という意味に加え、若葉の照り映えるあたりの風景までも感じさせている。一語一語を重層的に働かせ、奥行きある時空を獲得した。まごうことなき名句。季語=若葉(夏)
高柳の献句は、芭蕉の句に高柳が感じた「若葉の照り映え」を、月光の照り映えに打ち返しての幻視であることがわかる。「一語一語を重層的に働かせ」がわかりにくいが、「若葉して」が「若葉す」の連用形に助詞「て」を付したとも取れるあたりを指しているのだろう。事実、加藤楸邨の『芭蕉全句』(筑摩書房版=一九六九/一九七五年 ちくま学芸文庫版=一九九八年)は、この句の「若葉して」をもっぱら「若葉す」の意味で解釈している。
鋭い感覚の生きている句である。若葉のみずみずしい色が目もさめるように堂の四辺を囲んでいる中で、目を移して尊像を拝すると、盲いた眼は永遠にとじられたままである。その眼のあたりには涙のような雫さえ感じられる。それを拭ってあげたいと思ったので、この気持ちは尊像の姿と若葉の目のさめるようなあざやかさに映発されたものである。若葉をもって拭ってあげたいとする考え方もあるが、それではあらわにすぎるように思う。顔のあたりに揺曳(ようえい)する若葉のかげは拭うような感じでこの気持ちを誘発したものであろう。
唐招提寺の現在の開山堂(御影堂)は、昭和三十九年に、興福寺の旧一乗院宸殿を移築した広壮なものだが、芭蕉が拝した頃の開山堂はごくふつうのこじんまりした建物であっただろう(その建物は慶長二年の再興で、天保四年に焼失した)。しかし、いかにこじんまりとしていてもともかく建物の中にあり、さらに厨子内に安置されていたはずの像の顔のあたりに若葉のかげが揺曳するなどということがあり得たかは、はなはだ疑問。評者は今夏、建長寺開山堂で無学祖元像を拝する機会があったが、楸邨が言うような状況は考えにくかったと記憶する。引用の最後のセンテンスは楸邨の勇み足であろう。しかしともかく、四周の若葉にあふれる光、地を濡らす淡い木洩れ日など、きらめきゆれる初夏の陽光が、芭蕉のこころに涙のイメージを結晶させたというゆくたては納得できる。楸邨としては若葉で涙を拭うという“奇想”を、受け入れがたかったということだろうか(評者は“奇想”は芭蕉の本質の一面をなすと思うが)。
『芭蕉の一句』は、ふらんす堂のホームページで一年間、日替わりで芭蕉の句を鑑賞した連載を一本に纏めたものである。各句、鑑賞した日付が付してある(「若葉して」の句は五月八日付)。一句あたり三百字にも足りない短文であるから、詳しい考証であるとか、独自の踏み込んだ解釈を開陳するとかいうわけにはゆかない。いかにバランスよく壺を押さえた解説をするか、ワンパターンにならずに読者の興味をつないでゆくか、といったあたりが眼目で、高柳はよくやっているのではないだろうか。
「若葉して」の鑑賞文に引かれていた『俳諧雅楽集』(宝永三年成立)はこの本のセールスポイントのひとつで、森川許六系統の伝書なのだという。写本としてしか伝わらず、高柳の学問の師である堀切実がフェリス女学院大学の紀要に翻刻を行ったものの、専門家の間でもあまり利用されないままこんにちにいたった。前半が俳論、後半が季語の本意解説という二部構成で、本書には芭蕉周辺での季語理解を示すものとして、後半部分からの引用がふんだんにちりばめられている。「若葉」の本意が「ぬれぬれとして涼しき初也」というのは言い得て妙だし、「行く秋」が「遠く見る体の淋しき心」で、「相撲」は「任侠の心」などというのも面白い。一方、「蚊」の本意が「鬱陶しき心」で、「初秋」は「少し涼しくなりたる心」ではあんまりベタというものだが、実際はこの類の方が多い。本意というのは語に対する特殊な解釈ではなく、標準的な解釈を敷衍したものだから、それで当たり前なのではある。芭蕉の句を解釈するのに本意が決定的な意義を持つケースがどれくらいあるのか知らぬが、あまり本意ばかり言い立てるのもどうかという気がするのはつまり、たいていは日本語人としての常識で処理できると思われるからだ。例えば、本書の後記で高柳は、
「桜」といえば中世的な美意識においては散るときの儚さを愛でるものであったが『俳諧雅楽集』では「派手風流にうき世めきたる心、花麗全盛と見るべし」と、むしろ今を盛りと咲き誇る華麗さを詠むべきだとしている。このことは当時、民衆の間に花見が普及したことに伴い、桜の詠まれ方が変わったことを示唆している。
と、述べており、これは本書に引かれた『俳諧雅楽集』の本意の中で最も重要でもあれば興味深くもあるものだが、しかし本意の内容は、
木のもとに汁も膾も桜かな
という俳句そのものが最初から指示しているところである。本意がとりわけ意味を持つのは、芭蕉が過去に対してどう振舞ったかという作品の歴史性の検証の部分においてであろう。それは大切なことだが、あまりそこに足を取られると、個々の芭蕉俳句のインパクトの測定がかえって狂ってしまいやしないだろうか。ありていに言えば、現在から見て大して面白くもない作品を、妙に持ち上げる結果になりやすいということだ。
さて、本書にはつまり、三百六十五句がとりあげられている。さすがに芭蕉だから、諳んじるにはいたっていないまでも見覚えの句が大半を占める。それでももちろん、記憶のかけらにも残っていない句もあるにはあって、例えば、
梅椿早咲き褒めん保美の里 ⇒「保美」は「ほび」
咲き乱す桃の中より初桜
独り尼藁屋すげなし白躑躅
船足も休む時あり浜の桃
似合しや豆の粉飯に桜狩り
などというのがそうだ。どう転んでも名句というほどのものではないが、高柳の鑑賞によって光り出すものがある。「咲き乱す」の句の鑑賞を引いてみよう(二月二十五日付)。
夭々として咲き乱れる桃の花の中から、抽んでて初桜が咲き出している、という句意。この句に見られる「桃」と「初桜」といった季重なりを、現代俳句ではしばしば避ける傾向にある。現代俳人で季重なりの句が多い森澄雄は「自然が季重なりになっている」と語ったという(矢島渚男「『季重なり』の効用――蕪村における季題」、「俳句」昭和62.3)。この句に描かれた景も、現実の自然ではよく見られること。そんな身のまわりにある当たり前のことに目を向けたところに、芭蕉の革新性があった。桃の花の色と桜の色との、微妙な差異を捉えた感覚が鋭い。季語=初桜・桃(春)
うまいことお誂え向きの発言を引っ張ってくるものだと感心する。日頃からの目配りがなくてはこうはゆくまい。この場合のように、古句の鑑賞の場を借りてさりげなく示された現代俳句への批判は、本書の全体を通じての隠し味になっていて、裨益されるところも大きい。ただ、最後の「桃の花の色と桜の色との、微妙な差異を捉えた感覚が鋭い。」というのはどうだろうか。桃の花の色と桜の色とは、特に鋭い感性の持ち主でなくても弁別できるし、両者の色彩の差異がことさら描写されているようにも見えない。現に書かれているのは「咲き乱す」の語であって、色というよりはむしろ、枝ぶりに繊細さが欠け、ぼってりと野暮ったい桃の花の咲きぶりに対する、桜(山桜なのであろう)の清楚さ、高貴さが言われているように思うのだが。
三百六十五句もあれば、芭蕉といえども秀句は全部拾えそうなのに、見当たらない句もあって、そのあたりに選集という形態のスリルがあろう。評者の勘違いでなければ(季語索引は付いているが、初句索引が無いのでこの種の確認には心細い)、
水とりや氷の僧の沓の音
涼しさを我宿にしてねまる也
此秋は何で年よる雲に鳥
秋風や藪も畠も不破の関
振売の雁あはれ也ゑびす講
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
などがいずれも選に漏れている。また、
さびしさや華のあたりの翌檜 ⇒「翌檜」は「あすならう」
が採られず、その初案(と、楸邨も山本健吉も言っている)である、
日は花に暮れてさびしやあすならう
の方が採られていること(四月十日付)も気になった。「さびしさや」は評者初学の頃の偏愛句であったし、いまだ「まごうことなき名句」であることを疑っていないので、この選択には内心穏やかならず、一席弁じておこう。まず、高柳の鑑賞を引く。
「明日は~になろう」の語を髣髴とさせるあすなろには前向きなイメージがあり、たとえば井上靖『あすなろ物語』もそれを踏襲している。しかし、伝統的なあすなろのイメージとは、檜を嫉妬しながらついに何になることなく老い木となった哀れな木であり、その名は蔑称ともなりえた。夕暮には更なる美を顕在させる桜と比べて、ただ黒々と暮れてゆくばかりのあすなろはさびしく哀れ。しかしだからこそ感じられるたたずまいのゆかしさを、芭蕉は見逃さなかった。世間の人々にはマイナスのイメージに受けとられているものをプラスに転化するところに侘びという思想があるのだ。季語=花(春)
高柳が「さびしさや」ではなく「日は花に」を採った理由は、三番目のセンテンスで指摘されている、後者の視覚描写的な発見を多としたからなのであろう。本書の後記では、現代俳句にくらべての芭蕉の魅力として時間表現や感情表現の豊かさが強調されており、高柳が視覚至上主義ということではないのだが、このケースに関しては視覚性の側に付いたということか。しかし、評者には「ただ黒々と暮れてゆく」という形で、「さびしさ」の所以が狭く限定されかねないことこそが、芭蕉を改作に走らせたのではないかと思えてならない。日暮に対する明日という機知的な対比性が生じてしまうことも何やら鬱陶しい。
「日は花に」の句は、弟子の乙州によって芭蕉没後に上梓された『笈の小文』(宝永六年)に載せ、そこではただ「桜」の題のもとで〈桜狩り奇特や日々に五里六里〉〈扇にて酒くむかげや散る桜〉の両句に挟まれているだけだ。前後の文脈から、詠句の場所は吉野であることがわかる。「さびしさや」の句が載るのは、やはり芭蕉没後の版行にかかる支考編『笈日記』(元禄八年)で、そこでは次のように詞書が付いている(『校本芭蕉全集』により引用)。
あすは檜(ひ)の木とかや、谷の老木(おいき)のいへる事あり。きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず。たゞ生前一樽(いつそん)のたのしみの外に、あすはあすはといひくらして、終(つひ)に賢者のそしりをうけぬ。
さびしさや華のあたりのあすならふ(う)
詞書にある「生前一樽のたのしみ」は、白楽天の「勧酒」にある〈身後、金を堆(うづたか)くして北斗を拄(ささ)ふとも、しかず生前一樽の酒に〉という詩句を踏まえるらしい。今、手元の白楽天の訳注本にこの詩が見えないので不安なまま記すが、要するに、死後に北斗七星に達するほどの金貨の山を残しても、生きているうちに飲む一樽の酒に及ばない、と言っているのであろう。現状に自足して、まあ一杯やろうぜ、というこの発想は中国の詩(とも限らないが)にありふれたものだが、陳腐でもやはり真実だから現代人の心にだって響くものはある。私=芭蕉もそのことは重々承知しているのに、にもかかわらず「あすはあすはと」明日に望みをかける気持ちを捨てきれないで、ついには白楽天に代表される賢者たちのそしりを受けることになってしまいました……。
詞書と合わせて読む時、動かしようがないのは、「さびしさや」の句の「翌檜」が芭蕉自身の寓意となっていることだ。それが、上五に主題としての「さびしさ」を強く打ち出す前提となっている。その上で、詞書を外して寓意性を取り払ったとしても、「さびしさ」という主題の深さにほとんど変化はないように思う。もちろん句が先に成って、詞書が後から付けられたということでもよい。主題としての「さびしさ」に対する認識の深まりが、あのような熱のこもった詞書を引き出したということになるのだから。翻って〈日は花に暮れてさびしやあすならう〉では、作者にとって「花」も「あすならう」もあくまで客体にとどまっているし、中七の「さびしや」ではいささか調子も低い。山本健吉はこの改作について、夕暮れという条件を消してしまった点を重視している(『芭蕉 その鑑賞と批評』 昭和三十二年 新潮社/『山本健吉全集』より引用)。
初案の「日は花に暮れて」は、花見に浮かれた一日の暮れがたであり、その「淋しさ」と、翌檜自身の「淋しさ」とに、主題が分裂しているというほどではないが、焦点が弱まっていることは事実だろう。改案では大胆に、芭蕉は夕暮れという条件を消してしまった。そのために、焦点がはっきり翌檜の姿に定まり、また夕暮れの「淋しさ」という、感傷のマンネリズムから脱することもできたのである。
当初、夕日を浴びる桜との対比の中でさびしいものと捉えられた翌檜は、改作によって対比の結果としての相対的なさびしさではなく、もっと絶対的なさびしさ、生きて在ること自体に由来するさびしさを獲得したのである。「華のあたり」という王朝以来の言い回しも、この場合は上五の強い切断の後にあってそのエーテル的に軽やかで優麗な韻律が、対比性よりは包容性を感じさせないだろうか。むしろ「華」はみずからを翌檜のさびしさに与えているのであり、さびしさ自体が「華」となってゆく感触さえある。それは、世間的なマイナス性をプラスに転化するのが侘びの思想だという、前掲鑑賞文にある高柳の理解とは、いささか異なる事態であろう。ちなみに、高柳が言うような、いわば功利主義的な侘び・寂び観こそが、月並俳句を支えたのではないかと評者は思っているのだが如何。
以上で、〈さびしさや華のあたりの翌檜〉擁護の論は終わり。書評のはずが、一句の鑑賞にこだわってしまったのは大脱線であったが、本書はかようにしてつっこみを入れたり、相槌を打ったりして自由に楽しめばよいのである。それにしても高柳は、若き啓蒙家という微妙なポジションに就きつつあるようだ。それを無難にこなせてしまう力量は眩しいながら、啓蒙など年寄りに任せておいたらどうだという気がしないでもない。俳句界にとっては、啓蒙家・高柳克弘より作家・高柳克弘の方がはるかに貴重なことは確かだ。啓蒙脳が作家脳を、悪い意味で侵食せぬことを祈る。それと蛇足であるが、
京まではまだ半空や雪の雲 ⇒「半空」は「なかぞら」
の句の鑑賞(十二月十二日付)で、この句が唱和した〈今日はなほ都も遠く鳴海潟はるけき海を中に隔てて〉の作者・飛鳥井雅章を「王朝歌人」と記しているが、この人は慶長十六年生まれの延宝七年没だから、芭蕉より三十余歳年上なだけの同時代人である。王朝歌人という言葉は鎌倉初期以前の歌人を指すのであろうから、ここでは「堂上歌人」ないし「公家歌人」とするのが適切だろう。ちなみに雅章は北村季吟の師だそうだから、〈はいかいもさすがに和歌の一体(いつてい)〉(『去来抄』)なのであってみれば、芭蕉は孫弟子と言っていえないこともない。
*高柳克弘著『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』及び『365日入門シリーズ④ 芭蕉の一句』は著者より贈呈を受けました。記して感謝します。
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4 件のコメント:
> 東京国立博物館で開かれた「金堂平成大修理記念 唐招提寺展 国宝 鑑真和上像と盧舎那仏」
ちょうど唐招提寺が遷都1300年イベントのために修理を繰り返していた時期で、唐招提寺の仏さまたちは全国を流浪していた(里子に出されていた)時期にあたりますね。
鑑真和上というよりも、唐招提寺の方にとても思入れをもっておりまして、というのは平城京跡地にある資料館のようなところで、唐招提寺のうちのひとつの倉庫として使われていた棟が、実は平城京の中の一棟を移築したものだとわかったというような発表がありまして、2010年にはぜひ奈良を訪れてみたいと思っております。
(どうでもいいですが、セント君やめてほしいです(;;)。)
れおなさまの
列柱の律目つむれば鳴る秋の潮
律に「カノン」とは鮮やかな感性ですね!
信楽宮跡にも行った事がありますけれど、ああいう礎石や列柱ほど歴史好きにとってそそるものはありません。
五島高資さまの
血汐いま衣に凪いで御座しけり
も素晴らしいです。
鑑真とはアツい魂を持った壮絶な方だったのではないか、(そうでなくてはとてもあんな情熱で海を渡り日本へ渡ることなど出来ない)忘れがちですけれど、そういったことまで思い出させてくれる句だと思います。
天平のおん身をつつむ新樹の香
この月のまどかは遣りし幾嵐
も素直に好きです。
こういった貴重な句をひいていただきまして、ありがとうございます!
野村麻実様
コメント有難うございます。「律」というのはあそこの金堂の建築のシンメトリックな厳正さについて言っていると同時に、鑑真が戒律をもたらした人であることをも言っております。御褒詞深謝。
それと、五島高資氏の〈血汐いま衣に凪いで御座しけり〉の句に添えられた短文をここに全文掲げておきます。
* * *
二〇〇四年夏、鑑真が上陸した坊津・秋目浦へ行き鑑真記念館を訪ねた。そこで私は偶然にも女島遭難者慰霊之碑を見つけた。明治末期、五島列島から南方七〇余キロの東シナ海に浮かぶ男女群島近海で遭難した珊瑚漁の犠牲者を悼むものである。実はその珊瑚漁の基地だった五島・冨江で私は育った。一度に七百人以上が死んだ遭難現場は血の海だったと聞く。そうした近代でも危険な東シナ海を千年以上も前に渡り、また、自らの失明や多くの同志の死といった度重なる艱難を乗り越えて来日した鑑真和上。その坐像の柔和な御姿の深淵には生死を超える大勇と大悲の精神が湛然と広がっているのである。
* * *
拙稿中では短文と併せないと句意を尽くさないと書きました。女島遭難についてはそうなのですが、しかし、野村様がお書きのように句中の「血汐」を鑑真の精神の血汐と取ってもよいわけです。むしろこの「血汐」は五島氏の文にいう大勇と大悲の両義を以て受け取るべきかと今考えております。
>大勇と大悲の両義を以て受け取るべき
言語化されると、なんとなく腑に落ちる気が致します。でもそれで正しいのかなと。
医師という仕事をやっておりますと、
「血汐」はまさしく真っ赤な擦り傷だらけの衣類を思い浮かべてしまいます。それが、その直後はベタベタ、そのうち板のように硬くなります。それも時間が経てば、またヘロンヘロンな衣類で茶色い染色[しかも最初は焦げ茶なのですが、段々薄くなって変なしみみたいになるんです(あ、診察の時は汚れたらなるべく新品の白衣に替える一定の努力はしておりますのでご心配なく!)]になって狎れていくのですね。
鑑真和上にはそれこそ替えはなかったでしょうから、尋常ではない航海の後、その衣服がすでに「衣に凪いで」というのはなんとなく実感として感じることが出来ます。
白衣(血まみれ)が洗濯に出さずに一週間以上、もうバリバリではなく、よれよれ、血にかかったところも、もう平気!みたいな。
そういう実感とともに、あの鑑真和上像をみると、内に秘めた熱意というか、そういったものは既になくなって、凪いだお顔になっているけれど、それは最終的にようやくたどり着いた道であって、「血汐」の時期も既に過ぎて、というような所まで連想してしまうというか。
連想しすぎかもしれません(笑)。
でも五島さまが元医師(現役でもいらっしゃる?)とお聞きして、なんとなく、きっとそれほど読み手の(少なくとも感覚だけは)ずれていないような気もするのです。
野村麻実様
野村さんの「血汐」の読み素晴らしい。五島さんも科は違えども、同様の経験を積んでいるのは間違いありません。鼻血とか転んでの摺り傷くらいしか「血」の経験の無い人間には到底思い及ばぬ実感があります。実感という以上にリアリズムというべきですね。当たり前ながら、こうやってああだこうだやっていると、俳句の読みというのはどんどん深まりますね。五島君に知らせれば喜ぶと思うのですが、彼はしょっちゅう引っ越すので、現在のメルアドがわからんのですよ。
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