■俳句九十九折(6) 1983年~1990年
・・・冨田拓也
A これまでみてきた戦後俳句の流れを振り返ると、金子兜太、高柳重信、鈴木六林男、佐藤鬼房、飯田龍太、森澄雄、永田耕衣、赤尾兜子、桂信子、林田紀音夫、波多野爽波、藤田湘子
三橋敏雄、加藤郁乎、寺山修司、鷹羽狩行、上田五千石、阿部完市、飯島晴子、折笠美秋、河原枇杷男、安井浩司、福永耕二、竹中宏、矢島渚男
↓
坪内稔典、攝津幸彦、沢好摩、宇多喜代子、仁平勝、夏石番矢、林桂、江里昭彦
といった感じになるのではないでしょうか。
B 非常に雑駁な感じで多くの問題点がありそうですが、一応はこういった流れでしょうか。無論、この間には、山口誓子、西東三鬼、高浜虚子、飯田蛇笏、水原秋櫻子、加藤楸邨、石田波郷、中村草田男、阿波野青畝、山口青邨、沢木欣一、能村登四郎、秋元不死男、橋本多佳子、星野立子、大野林火、中島斌雄、橋間石、高屋窓秋、阿部青鞋、三橋鷹女、津田清子、楠本憲吉、野澤節子、石原八束、深見けん二、大峯あきら、宇佐美魚目、有馬朗人、草間時彦、堀井春一郎、岸田稚魚、福田甲子雄、川崎展宏、友岡子郷、宗田安正、齋藤慎爾、柿本多映、岡本眸、黒田杏子、池田澄子などの存在があったことを忘れてはならないでしょうが。
A この次の流れを前回の1983年から年表で見てみましょう。
1983年(昭和58年) 寺山修司没 中村草田男没 高柳重信没 橋間石『和栲』 阿部青鞋『ひとるたま』 平畑静塔『俳人格』 角川春樹『流され王』 夏石番矢『猟常記』『俳句のポエティック』 和田耕三郎『水瓶座』 大西泰世『椿事』 能村研三『騎士』
1984年(昭和59年) 四季出版から総合誌「俳句四季」創刊 本阿弥書店から総合誌「俳壇」創刊 朝日文庫『現代俳句の世界』全16巻刊行開始 草間時彦『私説・現代俳句』 佐藤鬼房『何処へ』 折笠美秋『虎嘯記』 竹中宏『饕餮』 角川春樹『補陀落の径』 坪内稔典『落花落日』 辻桃子『桃』 片山由美子『雨の歌』 林桂『黄昏の薔薇』 今井聖『北限』 皆吉司『火事物語』 鎌倉佐弓『潤』 金田咲子『全身』 西川徹郎『家族の肖像』 星野立子没 「晨」創刊
1985年(昭和60年) 「俳句研究」が売却され休刊 11月角川グループの富士見書房より「俳句研究」創刊 鈴木六林男『悪霊』 金子兜太『詩経国風』 長谷川櫂『古志』 田中裕明『花間一壷』 大木あまり『火のいろに』 大屋達冶『絢鸞』 大庭紫逢『氷室』 大井恒行『風の銀漢』 久保純夫『聖樹』 鳴戸奈菜『イヴ』 角川春樹『猿田彦』 江里昭彦『ラディカル・マザー・コンプレックス』 村山古郷『昭和俳壇史』
1986年(昭和61年) 「俳句」誌上で「結社の時代」 沢好摩が書肆麒麟より「俳句空間」創刊 波多野爽波『骰子』 加藤楸邨『怒涛』 松本恭子『檸檬の街で』 岸本尚毅『鶏頭』 西村和子『窓』 小澤實『砧』 正木ゆう子『水晶体』 対馬康子『愛国』 攝津幸彦『鳥屋』『鸚母集』 折笠美秋『君なら蝶に』 東京四季出版『現代俳句の新鋭』全4巻 牧羊社『現代俳句の精鋭』全3巻 仁平勝『詩的ナショナリズム』 飯田龍太が「俳句研究」で新鋭俳人を取り上げ評価
1987年(昭和62年) 俵万智歌集『サラダ記念日』 山本洋子『木の花』 矢島渚男『天衣』 四ッ谷龍『慈愛』 大屋達冶『絵詞』 辻桃子『花』 行方克巳『知音』 鎌倉佐弓『水の十字架』 高野ムツオ『陽炎の家』 小澤克巳『青鷹』 角川春樹『一つ目小僧』 日本伝統俳句協会発足 辻桃子「童子」創刊 住宅顕信没
1988年(昭和63年) 山本健吉没 安住敦没 楠本憲吉没 中村汀女没 中島斌雄没 山口青邨没 三橋敏雄『畳の上』 友岡子郷『春隣』 中岡毅雄『浮巣』 角川春樹『夢殿』 小林恭二『実用青春俳句講座』 辻桃子『俳句って、たのしい』 林桂『船長の行方』 『別冊宝島・楽しい俳句生活』 住宅顕信『未完成』
1989年(平成元年) 阿部青鞋没 中尾寿美子没 飴山實『次の花』 古舘曹人『青亭』 柿本多映『蝶日』 石田勝彦『百千』 角川春樹『花咲爺』 中原道夫『蕩児』 片山由美子『水精』 三村純也『Rugby』 筑紫磐井『野干』 長谷川櫂『俳句の宇宙』
1990年(平成2年) 角川春樹蛇笏賞 「俳句」500号特集「結社の時代」 折笠美秋没 黒田杏子「藍生」創刊 上野ちづこ『黄金郷』 波多野爽波『一筆』 黒田杏子『木の椅子』 夏石番矢『現代俳句キーワード辞典』 立風書房『現代俳句のニューウェーブ』 坪内稔典『俳句 口誦と片言』 中村真一郎『俳句のたのしみ』 宗左近『さあ現代俳句へ』 『昭和文学全集35 昭和俳句集(飯田龍太選)』
B 結構波乱に富んでいますね。1984年に「俳句四季」、「俳壇」の創刊、1985年には角川グループから「俳句研究」が創刊され、「俳句」「俳句とエッセイ」と並んで俳句総合誌が乱立。「結社の時代」や「俳句って楽しい」というキャッチコピーが喧伝され、俵万智の歌集『サラダ記念日』が280万部ものセールスを上げる。まさにバブルですね。
A 松本恭子の第1句集『檸檬の街で』(牧羊社)もこの頃です。当時の個人句集で最も高い売り上げだったそうです。
秋風の一と日は 迷子になっている
ドレスごと抱かれた 流星の音きいた
B ライトヴァースによる大衆性に、短歌の『サラダ記念日』との類似性や共通項を見ることもできそうですね。
A この時期に、若手俳人たちが一気に登場します。和田耕三郎、辻桃子、岸本尚毅、今井聖、皆吉司、夏石番矢、林桂、長谷川櫂、田中裕明、大木あまり、小澤實、正木ゆう子、四ッ谷龍、西村和子、鎌倉佐弓、千葉皓史、片山由美子等々。
B 林桂さんが1990年(平成2年)の時評で〈このように六十年代に入って、五十年代に登場してきた戦後世代に強くスポットが当たり始めたのには、幾つかの要因が考えられる。〉とし、まず昭和六十年の牧羊社の「精鋭句集シリーズ」(全十二巻)、そして、同じく牧羊社の「処女句集シリーズ」、四季出版の「新鋭句集シリーズ」を挙げます。
A 牧羊社の「精鋭句集シリーズ」は、大木あまり『火のいろに』、大庭紫逢『氷室』、大屋達冶『絢鸞』、島谷征良『鵬程』、田中裕明『花間一壺』、夏石番矢、西村和子『窓』、能村研三『海神』、長谷川櫂『古志』、林桂『銅の時代』、保坂敏子『芽山椒』、和田耕三郎『午餐』の12冊ですね。現「ふらんす堂」の山岡喜美子さんがこのシリーズを担当されていたとのこと。
B 「処女句集シリーズ」は、松本恭子『檸檬の街で』、片山由美子『雨の歌』、皆吉司『火事物語』、小澤實『砧』、岸本尚毅『鶏頭』、対馬康子『愛国』などがあります。さらにアンソロジーとして東京四季出版『現代俳句の新鋭』全4巻と牧羊社『現代俳句の精鋭』全3巻が刊行されています
A 1983年あたりから1986年までの若手の句集の出版はすごい勢いですね。これだけ句集が出版できたのも当時の経済状況と関係していたのではないでしょうか。
B そうとしか考えられませんね。これに加えて、林桂さんは新人台頭の要因に「総合誌の増加」を挙げています。〈六十年代に次々と「新人」を世に送り出したのは実は新たな俳句総合誌を持つことになった出版社であった〉とし「俳句とエッセイ」、「俳句四季」、「俳壇」、「俳句研究」の創刊により〈勢い既成の俳人以外から人材を発掘登用する必要に迫られたことが、結果としてこの流れを更に押し進めることになった〉とします。
A 総合誌が五つにも増えれば自然とそうなるでしょうね。
B さらに林桂さんはもうひとつ新人台頭の要因を挙げます。〈その促しの中心的な仕事をいたのは、昭和四十八年から十余年にわたって行われた「俳句研究」主催の「五十句競作」であった。ここには既に沢好摩、攝津幸彦、横山康夫、藤原月彦、大屋達冶、林桂、長谷川櫂、夏石番矢などが登場している。そしてこうした世代を対象にシリーズ句集の刊行の企画も書肆山田によってなされたが、惜しくも頓挫してしまった。つまり、登場する土壌は五十年代にはあったが、それが大きな流れにまで育つには、六十年代を待たなければならなかったということなのである。「登場する土壌」とは、戦後俳句を担ってきた俳人たちが、ほぼその展開力を失ってきつつあったことと表裏の関係にある。彼等はそろって五十年代に還暦を迎えようとしていたのであり、次代の展開が潜在的に人々の心の中に待たれる季節を迎えていたからである。〉ということです。
A この部分については前々回に「五十句競作」、前回に、世界的保守化、前衛俳句の動脈硬化、そして坪内稔典さんの〈<戦後俳句>を担ってきた俳人たちが、形式の原型を志向するようになったとき、<戦後俳句>の未知への展開力は消えた〉という文章を取り上げました。
B では、この時代の一つ前の時代(昭和50年代あたり)に登場した作者の俳句と、この時代(昭和60年代あたり)に登場した作者の句を生年とともにみてみましょう。いろいろと問題がありそうですが「高柳重信の影響下に出発したニューウェーブ」と「結社出身のニューウェーブ」という具合に分けました。
坪内稔典 昭和19年(1944)
父祖は海賊島の鬼百合蜜に充ち
鬼百合がしんしんとゆく明日の空
春の雪蜆が万の舌を出す
三月の甘納豆のうふふふふ
君はいま大粒の雹、君を抱く
■
宇多喜代子 昭和10年(1935)
花あやめ一茎倒し逢いにゆく
サフランや映画はきのう人を殺め
夏の日のわれは柱にとりまかれ
麦よ死は黄一色と思いこむ
死螢夜はうつくしく晴れわたり
■
攝津幸彦 昭和22年(1947)
かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や
ひとみ元消化器なりし冬青空
南浦和のダリヤを仮りのあはれとす
南風に死して御恩のみなみかぜ
太古よりあゝ背後よりレエン・コオト
■
沢好摩 昭和19年(1944)
空たかく殺しわすれし春の鳥
むささびは睡りにおちる際を飛ぶ
ピストルを極彩色の空へ撃つ
百日紅ひとりでをるは深傷負う
鳥渡る棒高跳びの棒残り
■
■
結社出身のニューウェーブ
長谷川櫂 昭和29年(1954)
春の水とは濡れているみづのこと
邯鄲の冷たき脚を思ふべし
冬深し柱の中の濤の音
葛の花夜汽車の床に落ちてゐし
目を入るるとき痛からん雛の顔
■
小澤實 昭和31年(1956)
さらしくぢら人類すでに黄昏れて
浅蜊の舌別の浅蜊の舌にさはり
虚子もなし風生もなし涼しさよ
水吸へるアヲスヂアゲハ奈良の秋
芋虫のまはり明るく進みをり
■
片山由美子 昭和27年(1952)
鶴の引くけはひに風の騒ぎ出す
敗荷となりて水面に立ち上がり
落石の余韻を長く山眠る
鳥曇に湖をはなるる湖西線
島を出し船にしばらく青嵐
■
田中裕明 昭和34年(1959)
大学も葵祭のきのふけふ
夏の旅みづうみ白くあらはれし
夕東風につれだちてくる仏師達
雪舟は多くのこらず秋螢
渚にて金澤のこと菊のこと
■
岸本尚毅 昭和36年(1961)
海上を驟雨きらきら玉椿
舟大工あやめの中を歩きをり
手ぬぐひの如く大きく花菖蒲
月明に紫陽花折れてぶら下がる
手をつけて海のつめたき桜かな
A 一部の作者を挙げ、5句を抄出したのみで、他にも多くの作者や作品を挙げる必要性が感じられるのですが、とりあえずこれだけを見ても、なんだか断絶というか、大きな変化があることがわかると思います。いうなれば「文学派」と「古典派」の違いというか。このあたりであきらかに何かが変わったような感じがします。
B 小林恭二さんは『実用青春俳句講座』(ちくま文庫)で〈昭和六十年代に入って、現代俳句は地味ながらも明らかに変質を遂げたように思われる。何よりも句の姿がすっきりした。それに遊びを前面に押し出す句が強くなり、定型をふまえた上での自在な句形が目につくようになった。時代がそういうふうに変わったのだと言われればそれまでだが、僕にはそれ以上に、現代俳句が何か強力なくびきから逃れ、自由になりつつあるような気がしてならない。そして、その兆しがある「楽しさ」となって俳句にあらわれているように思われてならないのだ。〉と書いておられます。
A こういった「結社出身のニューウェーブ」の古典的な作風は、突然登場したというわけではないようですね。
B 先ほどにも挙げましたが、戦後俳句を担ってきた俳人たちが、その展開力を失ってきつつあった、というのもその理由の一つでしょう。そういったこれまでの伝統回帰の流れがついに若者にまで浸透し、「飯田龍太・森澄雄の時代」という概念がここで完全なものとなったともいえるかもしれません。
A 「俳句」平成16年(2004)1月号の金子兜太と小林恭二の対談において小林さんが〈昭和五十五年ごろ〉〈当時は今から見ても俳句の大きな変わり目にあったと思うのです。伝統回帰はかなり強い流れとなっていて、高柳さんは『日本海軍』(昭54)で、伝統俳句とはちょっと違うのですが、擬古典主義をやり、金子さんはあの頃、<梅咲いて庭中に青鮫が来ている>を詠んでいました。かなり話題になった句ですが、俳諧味を僕らは感じました。金子さんは「軽み」のほうに舵を切ったのかなと思った頃で、いわゆる前衛がよくも悪くも成熟していた。これからどんなのが出るのかと思っていた矢先に何となくシューンとなってしまって、俳句に残ったヤツらは、頑固な夏石以外はみんな、伝統のほうに舵を切って行きます。〉と発言しておられます。
B あと、これらの作者の作風の違いについては、当然ながら生年の問題が大きいでしょうね。これらの作者を単純に「ニューウェーブ」と一括りにしてしまうのはやはり問題があるようです。この間には「政治の時代」が大きく横たわっています。
A 「全共闘世代」や「団塊の世代」、「しらけ世代」などの呼称に表出される問題や、70年安保の敗北などによる時代の影響はやはり無視できませんね。
B 小川軽舟さんは『現代俳句の海図』(角川学芸出版 2008年)で「昭和30年代世代」という風に中原道夫、正木ゆう子、片山由美子、三村純也、長谷川櫂、小澤實、石田郷子、田中裕明、櫂未知子、岸本尚毅を規定しています。昭和26年生まれの中原道夫から昭和36年生まれの岸本尚毅、小川軽舟あたりまでをさすとのこと。これらの人々は学生運動とはほぼ無縁だったそうです。本書に〈三十年世代が進学する頃にはキャンパスはすっかり静かになっていた。〉とあります。
A そういった「昭和30年代世代」とは対照的な世代である攝津幸彦について宗田安正さんは〈攝津が俳句にかかわり始めた昭和四、五十年代は時代の変わりめでもあった。在学中の大学は大学紛争の真只中。いわゆる七〇年安保の昂揚はあったが、やがて連合赤軍の浅間山荘事件へとつき進んだ。社会は高度経済成長と情報化への道を一途にたどり始める。芸術面では、澁澤龍彦、土方巽、加藤郁乎、寺山修司らの活躍期。アングラ芸術の最盛期。〉〈俳壇も社会性俳句、前衛俳句が退潮。社会構造の変化は昭和俳句、というより近代俳句の拠りどころであった自己や主体そのものの溶解を招き、金科玉条であった自己信仰、主体信仰、それに基づく自己追求、直截的な主体表現、イデオロギーが万能でなくなってきた。〉〈攝津は何を表現するか、表現とは何かから出発しなければならなかった。〉〈攝津は、俳句を主体表出のための器から表現するものを探索する器へ組み替えた。つまり五七五定型が構築する言語空間によって未知なるもの、未見のものを出現させること、創出することであった。〉〈攝津俳句は意味を語ろうとしない。意味を求めるとすれば、読者は一から読み取らねばならない。作者自身が自作に対してそうなのだ。〉と『昭和の名句集を読む』(本阿弥書店)で書いておられます。
B このあたりは前々回でもすこし触れました。こういった側面は攝津幸彦と同じ世代の作者たちにも共通するものなのでしょう。当時の「俳句研究」にもこういった意味性の超克というか、意味の捉えられない難解な作品が沢山あります。おそらく加藤郁乎の影響が大きかったのではないでしょうか。
A 小川軽舟さんも〈全共闘世代である攝津の作品は、一九六〇年代後半というある朱の熱狂を帯びた時代を強く刻みつけたものである。〉と書いておられます。
B それに対して「結社出身のニューウェーブ」について宗田さんは〈昭和末期になると、ニューウエイブと称する戦後生まれ世代の新人が、いっせいに登場してくる。何人かの例外を除くと、彼等や彼等以後にとって俳句は、拓くものというよりも享受するものに変わってきている。俳句享受時代の開始である。〉「超克から享受へ」(「豈」四十二号 2006年)としています。
A このあたりから「俳句享受時代」ということになるわけですか。
B 筑紫磐井さんも「俳句四季」2003年8月号の「俳壇観測」の「昭和三十年代生まれの作家たち」において〈どちらかといえばこの世代には俳句を芸として理解している作家たちが多いようである。〉〈そして恐らくはこれは昭和三十年代世代の特徴というばかりでなく、どの世代であれ、同じ時期に俳句観を形成した作家たちの特徴であるかもしれない。〉と書いておられます。
A 坪内稔典さんはこれらの作者たちについて、1987年の「精鋭の諸相」で、まず、宮入聖、久保純夫、今井聖、大屋達冶、夏石番矢、林桂の句を挙げ、これらの作者は「郷愁」を核として俳句を作っているとし、〈幼少期を過ごした高度経済成長期以前の時代と、それ以後の未曽有の変化を遂げた時代、彼らのうちにその二つの時代があり、そのためにときに、郷愁が強く浮上したりするのだろう。〉と考察し〈そうした彼らに比べると、高度経済成長期以降の世代とも言うべき岸本尚毅や田中裕明は、実にあっけらかんとしている。〉〈皆吉司にしても、二つの時代の葛藤などという内面の劇から切れており、俳句の技術の面白さをそれとして愉しんでいるところがある。ところが、彼ら以前の世代では、俳句を精神的な修養とか、生き方などにとかく結びつけて考えがちであった。そのために、俳句を一面的に狭くとらえたりすることにもなった。私などにもいくらかそうした傾向がある。〉と書いておられます。
B やはり時代や社会状況が俳句や個人に与える影響というものは小さくないというべきでしょうか。「結社出身のニューウェーブ」、「昭和30年代世代」にはやはり〈二つの時代の葛藤などという内面の劇〉や「生き方」といった問題意識は、表面からは直接感じられないところがあります。
A 小川軽舟さんはこの差異について〈急速な高度経済成長による時代のひずみが生んだ反体制的な学生運動やアングラ文化は前衛俳句に影響を及ぼした。〉〈ところが、昭和三十年世代が大学に入る頃には、すでに安保も全共闘もなく、キャンパスは静かになっていた。俳句だけでなく、日本の文化全体が共通のテーマのフロンティアを求める集団的な熱気を失って、村上春樹に代表される個々の自分探しの時代に入っていくのである。〉と書いておられます。
B 俳句表現というものは幸か不幸かやはり時代状況に、大きく左右されるものなのですね。
A さらに小川軽舟さんはこうした作品傾向について〈昭和三十年世代には、皆で競って開拓できるような目に見えるフロンティアが残されていなかった。表現のフロンティアを求める近代俳句のさまざまな運動は、昭和三十年世代の搭乗までに、それぞれの使命を終えてしまっていた。〉〈どのようなフロンティアも、多くの人が足跡を残せば、それはフロンティアではなくなっていく。昭和三十年世代にとっては、金子兜太も高柳重信も攝津幸彦も、すでに古典であった。前衛が古典になれば、もはやそれは前衛ではない。〉と書いておられます。
B すでに俳句形式自体がほぼ「完成」というか「完結」してしまっていたわけですね。俳句表現における様々な達成がすでに成就していた後というか。
A 三橋敏雄も、1994年ですが「太陽」12月号で〈だいたい社会性俳句や前衛俳句といった運動や動きが今はありません。ということは全体が平準化してしまって古典返りの方向へ傾いていて、何か可能性を求めて冒険するという気風がなくなっているんですね。〉〈もともと実績のある俳句の形態に総体が収まってゆくというか、昭和俳句が積み重ねてきた技術の集積、その遺産をうまく使っていれば、誰でも二、三年で八〇点、八五点の俳句が作れるわけですから。だから全体が平らになってしまったということでしょうね。〉と発言しています。
B それゆえだと思うのですが、「結社出身のニューウェーブ」の句は、若くしてこれまでの成果を自らのものにすることが可能であったため、非常に「洗練」され「完成」された印象を強く感じます。なんとなく自らの境地をひたすらに切り拓いていった芭蕉たちと、その後の、芭蕉の成果を一心に享受して句作を行っていた蕪村たちの違いに近い感じでしょうか。
A これらの「結社出身のニューウェーブ」を肯定的にとらえるか、否定的にとらえるか、当時も意見の分かれるところだったようです。
B 飯田龍太は「俳句研究」昭和61年(1986)9月号において「俳壇」8月号の「二十代三十代作家八十人集」を取り上げ〈通読してまず印象されたことは、僅かの例外を除いて、意味不明の、晦渋苦悶の句がほとんど見当たらず、新人にしては全般的に作品がきわめて温雅であること。第二に、それぞれ所属結社やグループを異にするにも関らず、作品を見る限りでは、その点の区分は判別し難い〉〈いまの新人は、結社の在り方よりも作品そのものを上位に置いている〉〈しかも、ひと頃のような前衛的な技巧なほとんど影をひそめ、伝統的手法にとっぷりと浸りきっている感じである。〉とし、小澤實、鎌倉佐弓、岸本尚毅、保坂敏子などを肯定的に評価しています。
A 有馬朗人は昭和61年(1986)の「平均値の時代」において、鎌倉佐弓、岸本尚毅、片山由美子、大屋達冶、長谷川櫂、能村研三、和田耕三郎、西村和子などを挙げ、
〈どれも良い作品である。しかし、もうすこし、もうすこしあばれてよいのではなかったか。かつて、
紺絣春月重く出でしかな 飯田龍太
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり 森澄雄
流人墓地寒潮の日のたかかりき 石原八束
白い人影はるばる田をゆく消えぬために 金子兜太
と颯爽と登場した先輩たちに私は瞠目した。そして、
天瓜粉しんじつ吾子は無一物 鷹羽狩行
萬緑や死は一弾を以つて足る 上田五千石
という同年代の新人ぶりに大いに刺激をうけた。しかし何よりも、
遠い鹹湖の水のにほひを吸ひよせて裏側のしめりゐる銅版畫 塚本邦雄
の一連を含む『水葬物語』をひっさげて現れた塚本邦雄、
チェホフ祭のビラのはられし林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび 寺山修司
など「チェホフ祭」一連でにわかに出現した寺山修司は、私たちにとって真の新人であった。俳句を本歌どりした作品が多く、寺山は毀誉褒貶の渦中にあった。ともあれここに記した新人たちは「疑い」を持ち「アイデンティティ」を狙い、「類想を避ける」ことに最大限の努力をした。金子や塚本、そして高柳のように表現法での工夫もあった。鷹羽、上田、そして寺山の新鮮さは今も生きている〉とします。
B 他に文中に〈共通して疑いがない〉〈句が完成している〉〈格調があり、破綻がない。これは新人たちが俳句の骨法をよく知っているためである。これは正の面である。しかし、かつての草田男や兜太や重信が持っていた冒険がないのは残念である。規則破りのすれすれの試みが欲しいと思う。〉とあります。
A こういった意見というのは、これらの作者たちにずっとついてまわってきたようなところもありますね。
B 上田五千石は平成二年(1990)六月の共同通信の時評「やさしい印象」で〈「俳句」六月号は「これが平成の新鋭俳人だ」とタイトルして、二、三十代俳人三十七人を特集している。〉〈"平成の新鋭"の作は、いったいにおとなしいという印象をうける。やさしいのである。〉として、今井聖、中原道夫、大屋達冶、片山由美子、鎌倉佐弓、三村純也、和田耕三郎、長谷川櫂、小澤實、田中裕明、岸本尚毅の一句を挙げ、〈ここには"人生とは何か""人生いかに生くべきか"の問いの背景がうかがえないように思う。ということはこれら"平成の新鋭"たちにとって俳句とは、俳句を作るとは、いったいいかなるものであるのだろうかを改めて問い直したくなるのだが、一方彼らは聡明であって、この俳句という断片的な詩型に過大な負担をかけることの愚かさと試行の労の重たさを見透かしていて、ほどのよい表現内容を用意しようとしているのかとも思えてならない。〉と書いています。
A なかなか厳しい評価ですね。ここでの「人生の問題」は先ほどの坪内稔典さんの文章にも関連しそうな内容です。どうやら「楽しさ」というキーワードがこの時代では大きいようです。「人生の問題」から「楽しさ」への転換というか。有馬朗人さんにも〈世の中が豊かになったため、新人に境涯俳句がたいへん少なくなった〉という言葉がありました。
B もしかしたら「人生の問題」から「楽しさ」だけではなく、「人生の問題」から「ニヒリズム」といった側面もあるのかもしれませんが……。
A まあ、そういった点については一人一人の作者によって異なるところではあるでしょう。
B ここでの〈一方彼らは聡明であって、この俳句という断片的な詩型に過大な負担をかけることの愚かさと試行の労の重たさを見透かしていて、ほどのよい表現内容を用意しようとしているのかとも思えてならない。〉という内容はこれらの作者だけにとどまらず現在の多くの俳句作者への厳しい批評として、いまなおその有効性を保ち続けているように思われます。
A まあ、結局のところ、俳句はこの時代において良くも悪くも変化したというわけですね。
B ここでの変化以後、俳句界には現在までこれといった大きな変化や動きが認められません。ですから、これらの作者たちの問題はその功罪、正の面、負の面ともに多く二十数年後の現在である2008年にまでそのまま持ち越されている可能性が考えられそうです。
A 確かにここでの問題は多く現在の問題としても通用しそうですね。
B この俳句の変化について、林桂さんは1992年8月の時評「田中裕明と長谷川櫂」で田中裕明の『櫻姫譚』と長谷川櫂の『天球』を挙げ、〈二人の作品を並べてみると、その違いよりは共通して感じられる〉〈この世界は独創的というのではなく、根底では私達が既に知ってしまっているある種の典型的な美意識に出発しながら、それに幾度接しても慰撫される感情を伴うものである。〉〈これを一般の現在的な言葉の状況に置いたならば、アナクロニズムの感は否めないだろう。しかし、二人が「俳句の現在」の良質な表現者であることもまた一方の事実である。現在、俳句の表現として突出することはこのように「書く」ことなのである。二人の作品の印象が似通っているとすれば、むしろそうした状況に優れた二人が招き寄せられたためだといってよいかもしれない。それは二人が選んだ表現であるとともに、現在の俳壇が選んだ表現でもあるということである。二人に見られる美意識の「繭籠り現象」とでもいうべき表現の現在は、また短歌の「ライト」化と表裏一体の関係にもありそうである。戦後から続いた社会性や前衛俳句の俳壇的終焉以後、具体的には高柳重信・金子兜太以後、これらの流れを断ち切る形で俳句の保守化傾向が訪れるが、それはまた社会の方向性と轍を同じくしてもいた。そして、いまその流れの延長線上に二人の作家は見いだされる。「俳諧」は現在性や社会性に通路を開く装置であったはずだが、「俳句」は常に典型的な美意識に籠りたいという誘惑を潜在させてきたように思われる。〉と書いておられます。
A なるほど。小林恭二さんもこれらの作者は〈彼らは俳句の原点を求めることを、主題として登場してきた。親を知らずに生まれてきた子どもが、親の姿を探し求めることを一生の主題とするがごとく。〉〈俳句の黄金時代ははじめから彼らに無縁だった。その意味で、彼らがまだ見ぬ俳句を熱烈に探し求めたのは、当然すぎるほど当然であり、その結果、先に述べた通り、姿の美しい、遊びと軽みを前面におしだした俳句が登場してきた。〉と書いておられます。
B どうやらこれをみると、俳句は、「新」と「旧」、「雅」と「俗」、「詩」と「俳」、「伝統」と「前衛」といった具合に「変化しようとする性質」と「元に戻ろうとする性質」というやや矛盾した性質をその内部に宿命的に抱え込んでいるようですね。いうなれば「伝統を希求しようとするベクトル」と「伝統から逸脱しようとするベクトル」が内在するというか。
A 筑紫磐井さんは「俳句四季」2003年3月号の「俳壇観測」で〈新興俳句と伝統俳句(当時「伝統俳句」とは呼ばなかったようである)は車の両輪の関係にあって、どちらに片寄っても俳句は不健全な発展しかしなかった。いってみれば、新興俳句が文学性を意識したとすれば、伝統俳句は俳句の固有性を意識した。どちらかを無視することは、文学性のない因習的な芸事、伝統性のない無国籍詩になってしまうのだ。それは、新興俳句と競い合うことのない現代俳句のありさまを見ればよく分かるだろう。〉と書いておられます。
B この文章では俳句の「固有性」と「文学性」という表現ですね。俳句における「固有性」と「文学性」といった双方の性質を常に意識しておくということが必要であるようです。
A 現在は特に俳句の「文学性」が不問にされているようですね。
B ともあれ、この時代において俳句は、典型的な日本的美意識に繭籠りし、その「固有性」を堅持する方向へ向かいました。この状況は結果として現在まで続いているといってもいいはずです。この状況がこれからの俳人たちによってどのように展開されてゆくことになるのか、というのが2008年10月の現在です。
A では、おしまいに有馬朗人さんの昭和61年(1986)の評論「前衛とファッション」より次の言葉を引用しましょう
前衛のファッション性について述べたが、現在の伝統俳句といわれるものの大部分も、またファッション俳句である。
B 所詮、現在の大方の作は、流行や時流に乗っただけのただの「まがい物」に過ぎないということなのでしょうか。
A 本当の意味で優れた作者や作品は、どのような作風であれ、つまるところ一握りということになるはずです。これは現在だけに限らず、いつの時代においてもこれだけは変わることのない厳然たる事実であるということは、これまでの詩歌の歴史を鑑みれば明らかという他はないでしょう。
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俳人の言葉 第六回
〈前衛〉とは真の〈正統〉の、着せかけられた仮面である。ボクが、思い切りよく安売りして、〈前衛俳句〉と、そう称される人々を語れないのは、それが、ただ今日の俳壇という時代にあってしか〈前衛〉でないからだ。それは〈前衛〉でなく〈前衛的〉であり、前衛俳句ではなく〈前衛的俳句〉である。今日、本当に〈前衛俳句〉といわれるに値すると同時に、それはいつの時代芭蕉の時代、いや宗祇の時代に於いても、さらには、やがての二十一世紀に置かれたとしても〈前衛〉でなければならないのだ。ボクは、芭蕉もまた、かつて生きた典型的な〈前衛〉の一人と思う。(略)そうした〈前衛〉たち、少数の前衛たちで、〈正統〉は書き継がれ、形成されてゆくものなのだ。
折笠美秋 「蒼顔のヴァルキリ」(1968年 『現代俳句論叢』1982年刊所載より)
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2 件のコメント:
お返事が遅れました。
高山さんの仰るとおり、「俳句評論など誰も読んではいない」。それでも、誰かがやるべき、ならば、これまでの蓄積を見直す作業も誰かがやらなくてはいけない。共有空間を作る基礎作業の確認。これは間違いなく評論の世界で一番やらなくてはいけないと思います。これまでにも、冨田さんが第一回で挙げられたような先行文献があるわけですが、その後を嗣ぐ、中村さんの言う「最近俳句史」の見直し、という作業、とても興味深いと思います。今週からは更に「今」への道筋がはっきりしてきたように思います。
最近、改めて〈現代俳句〉周辺の評論を読み直すことにしました。まだまだ不勉強の身ですので、色々とご教示願えれば幸いですm(_ _)m
久留島さん、コメントありがとうございます。
私のほうこそ前回のコメントにすぐにご返事できなくて申し訳ございませんでした。
やっとコメントの仕方がわかりました。
「最近俳句史」というものもよくわからない部分が多いですね。
私も不勉強の身であることには変わりがありません。
あと、どうも今回の内容の最後あたりの、有馬朗人さんの言葉から折笠美秋の文章の引用までの内容は、一面の事実でありながらも、俳句というものの価値を狭くしてしまいかねない部分があり、やや問題があるのではないかと反省しております。
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