2009年5月24日日曜日

閑中俳句日記(08)

閑中俳句日記(08)
春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』から


                       ・・・関 悦史


どうでもいいといえばどうでもいいのだろうし、また俳句について考える上で何らかの示唆を与えるものなのかどうかといえばそれもまた何とも言いかねるようなものなのだが、何となく気になるものを読んでしまったので一応紹介する。

精神科医春日武彦の『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』がそれで、3年半前、2005年12月に集英社新書から出ている。俳人でこれを読んだという人を今のところ私は見ていない。

カバーの見返しの内容紹介には《一見無意味なことや苦笑を誘うような事象》の中から《ミニチュア愛好、境界線へのこだわり、贋物への欲望、蒐集といった、きわめて個人的に見えるが、実は普遍的で、世間一般には「論ずるに足る」とは思われていないような心の働きについて論じ》《生きている手応え、人間の心理におけるリアリティーとは何かを探っていく》といったことが書かれている。

序章に行くと鶴見俊輔の《レオナルドのモナリザではなく、コルゲンコーワの店頭人形が、自分の内心に深く語りかけてくるという感じをもつ人がいるはずだ》という言葉が引かれて、こういう誰にでも納得のいく形で論じるのが難しいものについては《「論ずる前にコレクションせよ」というのがわたしの考え方である》となり、この後に続く本章では奇怪といえば奇怪、不気味といえば不気味な事例、それもおおよそ著者の心身を深く潜り抜けたものばかりが博物学的に羅列されていくことになる。

その第2章「ミニチュアとしての文章」に、春日武彦が勤務先で見かけたいきなり「私を捨てないで下さい」とだけ書かれた謎の木片、「ますように」とだけ書かれて七夕竹から下がっていた短冊、さらに詩人フランシス・ポンジュの短い死亡記事(これは《……レジスタンスにも参加。雨戸やせっけん、ボイラーなどありふれた物を素材とした散文詩は……》という記述の「レジスタンス」から「雨戸やせっけん」へと唐突に飛ぶ件が期せずして本人の作品を彷彿とさせてしまう点に興趣を覚えたらしい)といった雑多な事例に混じって俳句の話が出てくるのだ。

上田都史『自由律俳句とは何か』(講談社、1992年)のような妙に専門的な本が出てくるかと思うと《俳句にはどうしても年寄り臭いとか伝統的とか保守的といったイメージが伴いやすいこともあって、詠嘆からは隔たった種類の感情だとか先端の現代風俗などを表現するには適さない》などと書いてあったりするので、この著者がどれだけ現代俳句を目にしているのかはよくわからないのだが、それはともかく博物学的アプローチのの場合大事なのは具体個別の事例である。

『自由律俳句とは何か』には《昭和二〇年前後に『新俳句』誌を率いて活躍した青木此君楼(しくんろう)の情緒的なものを捨てて幽玄の味に至ろうとする「俳句幽玄論」に触れた箇所があり、此君楼の実作例が2句引かれている。

かほ

いろ

私も今書き写していて気がついたが、「かほ/いろ」2行を合わせて1句ではなく、これで2句である。単語のままだ。2音しかない。

著者の興味は、こういう当人にも袋小路と予感されてはいるのであろうにも関わらず極端なミニチュア化へと走っていってしまうわけのわからない情熱の普遍性へと向いているので、この後話は俳句形式の構築性についての考察に向かったりは間違ってもせず、続いて著者が上野の古本屋で手に入れたという菅原胡馬『俳句は長すぎる』(風炎叢書、昭和46年)という《おかしな本》が出てくる。

この本では《時間や距離や高度の短縮が科学技術やスポーツなどあらゆる面で国際的に競われ、日に月にその記録が更新されている。時間と空間がかくて短縮されるに伴れ、人間生活も心理もスピードと簡捷を希求するのは自然である》という蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』におけるマクシム・デュ・カンも青ざめるような「聡明」な議論が真顔でなされていて、しかも後はもういちいち紹介しないがこういう主張をしていたのは菅原胡馬一人ではなかった。後代から見ればおよそ珍奇でしかないが、当時は真剣だったのだろうし、現在のわれわれにしても「ネット俳句」による俳句変質の可能性を論じていたりはするのだから、こうした主張が即座に笑えるのは単に時間が経ったからだとも考えられる。

こういう無茶な情熱に駆られた人たちの実作も引かれていて、こちらは著者が《佳作》と云うとおり自由律俳句として見れば思いの他悪くはない。

曇天から梯子を倒す  菅原胡馬
人焼かれ 蔓宙へ  秋朗

終章では寺澤一雄『虎刈』(牧羊社、1988年)からも1句引かれている。五七五の無季句である。

節穴に小指を入れてすぐ抜きぬ

《節穴があれば、それを覗くか指を突っ込んでみるか、そのいずれかの誘惑に多かれ少なかれ人は駆られるだろう。そうした心理をまったく理解できない人もまずいないだろう。(中略)このような実用性を欠いた自己完結的な心理が、実は人間の振る舞いや判断を潜在的な部分でいろいろと左右しているのだろうといった気もしないではない。あるいは、そういった愚にもつかないことがこの世界には遍在しているからこそ、逆に、我々はリアリティーといったものを感ずることが可能なのではないかといった気すらする。》

この愚にもつかないこととリアリティとの関係を考察する視線をそのまま、例えば週刊俳句で一時話題になった「サバービア俳句」へと振り向けてその新たな潜在性をあらわにするといったことも可能性として考えられる。ただしそれは、句が廃物や寂れた景に詠み手の感傷をそっくり負わせたといった作りではないものの場合に限られる。

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