2008年9月20日土曜日

俳誌雑読其の二夢と怨念あるいは二十五年後の編集後記・・・高山れおな

俳誌雑読 其の二

夢と怨念あるいは二十五年後の編集後記

                    ・・・高山れおな

「夢座」は、市川恂々、椎名陽子を中心としたメンバー十五人ほどの俳句同人誌で、先日、第百六十号が出たばかり。刊行は年二、三回だろうか。年鑑の俳誌総覧の類でも紹介されていないし、まずは知る人ぞ知るリトルマガジンながら、じつは強力な隠し球を持っている。最新号で三十四回を数える江里昭彦の時評「昭彦の直球・曲球・危険球」がそれ。江里は「夢座」の同人ではなく、ホームグラウンドは当ブログの第三号で紹介した「鬣TATEGAMI」なのであるが、そちらで彼が連載を担当している書評よりも「夢座」の時評の方が分量が多いのだ、しかも何倍も。これだけでも評者が同誌の刊行を心待ちにする理由には充分のところ、おどろいたことに今号からは齋藤愼爾の巻頭評論の連載まではじまった。巻頭に齋藤愼爾、巻末に江里昭彦とは、辛いもの好きにはこたえられない按配ではある。なるほど、「夢座」発行人の椎名陽子は、紀伊國屋書店新宿本店の地下にあるカレー屋の女主人なのだが。

江里昭彦がかつて第二次「京大俳句」(一九八三年 五十三号を以て終刊)の編集者であり、学生時代「上野ちづこ」として俳句を作っていた社会学者の上野千鶴子と仲間であったこと、彼女の唯一の句文集『黄金郷』(一九九〇年 深夜叢書社)を編纂したことなどはよく知られていよう。そういえば当ブログで筑紫磐井が、ヤメ検ならぬヤメ俳たちについて興味深い記事を書き継いでいるが、上野などは新しくは宮入聖、古くは火渡周平や鈴木しづ子あたりと並んで、ヤメ俳中の偉なるもののひとりと言ってよいのだろう。

上野と違って学究にはならなかったものの、江里においても社会学的視線は多分に血肉化していて、その結果、彼の批評では俳句の“主題”が焦点化する場合がしばしばある。江里の盟友である林桂が作品の言語的自立を第一義とするのとは、いささか立場を異にしているわけだ。たとえば「夢座」前号でも、望月雅久の句集『辺縁へ』(二〇〇七年 まろうど社)を俎上に乗せつつ、望月における全共闘体験の作品化と、望月の師・鈴木六林男における従軍体験の作品化の関係が検討され、俳人としては遅い出発をした弟子が主題に憑かれていたがゆえに、同じく主題に憑かれた俳人を師に選んだ必然性が説かれている。しかもそこには、体験との距離が本来的なリアリズムをもはや許さぬところまでに広がり、それでもなおかつ主題を捨て去ることができないために要請される方法化の問題までが透視されている。評者には、一句集に対する一書評とし読み捨てにするわけにはゆかない文章だった。

「夢座」今号における江里の時評は前号よりももっと直截に社会学的で、話はまず『アキバ通り魔事件をどう読むか』(洋泉社)なるムックからはじまる。俳人の視野には存在しないことになっているらしい(?)格差・貧困問題についての考察の後、江里は「夢座」百五十七号および百五十八号において自身が書いた、〈中間層の急速な解体がすすみ、俳句ブームの経済的基盤が破壊され〉て、〈二十五年以上もつづいた俳句ブーム〉が終焉したとの見解について以下のように再確認する。

格差の拡大・貧困の広がりを示す統計やデータは多くあり、「夢座」百五七号と百五八号での宣告は、それらに依拠して導きだした理論的な結論であった。だが、秋葉原通り魔事件を通過したいまとなっては、「俳句ブームはまったく過去のものになり果てた」という実感的な結論でもって置き換えてよいだろう。なぜなら、事件を契機にしてネット世論に溢れでた怨嗟と怒りの声(ご存知のように加藤智大容疑者に対してはむしろ共感を示す。評者注)は、俳句ブームの時代と比べ、社会の基調がガラッと変わったことをあからさまに見せつけたのだから。……ひとつの時代が完全に(そう、完全に)終わった。だが、次の時代はまだ姿をみせていない。現在は、幕間の時期である。そして、この幕間はかなり長引きそうだ。

社会の基調が変わったこと、これはもちろん疑いもない。俳句ブームが終わったこと、それもそうなのかもしれない。ただ、〈現在は、幕間の時期〉だという江里の見立てが、こと俳人の心性という点からすればはたして妥当かどうか、それは評者にはしかとはわからない。地上と竜宮城では、時間の進み方がだいぶ違うのだ。江里がなお楽観的(悲観的?)にすぎる可能性だってあるのである。

思い出すのは数年前、とある総合誌で、とある有名俳人が、とある大手スーパー・チェーン(記事では具体名をあげていなかったがおそらくダイエーのこと)が元日営業を開始したことに憤っていた光景だ。手元に資料が残っていないので言葉遣いなどはこの通りではないが、正月の意義を失わせ、日本人の歳時の伝統を冒涜する不遜なふるまいだと批判する趣旨であった。いや、とある有名俳人なんていう言い方はやめよう。それは宇多喜代子で、某や某女といった有象無象ではなく他ならぬ宇多がそんな発言をしていたからこそ記憶に残っているのではある。コンビニもレストランも当たり前に年中無休営業をしている時代に対するずれもさることながら、彼女のような人ですら、元日営業をするところにまで追い詰められた企業の現場で起こっているであろう労働強化や雇用流動化にまったく想像が及んでいないらしいことに、なるほどこれが“風狂”なのだなと得心したものだ。江里の言う“幕間”にさしかかるのさえ、俳句界においてはだいぶ先のことかもしれないと、評者などは思っているのだが、さて。

齋藤愼爾の巻頭評論は、「『時』への眼差」と題されている。これが連載の通しタイトルになるのか、今回限りの標題かはちょっとわからない。江里が江里らしくデータに依拠し、冷静に客観的に時代の行方を見定めようとしているのに対して、齋藤は相変わらずの齋藤で、怨念を解き放つことをためらわず、怨念を活力にし、怨念によって思考している。怨念は齋藤にとってさしずめポパイのほうれん草のごときものなのだろう。〈私の怨念はきわめて威力を発揮する〉と本人も言っているほどで、ちなみにこの場合、威力発揮の対象となるのは、〈私の編集者稼業五十年でも五本の指に入れたい企画〉である『キネマの文學誌』(二〇〇六年 深夜叢書社)を無視した新聞各社、とりわけ文化部・学芸部の記者たちである。

齋藤の怨念はもちろん新聞社ばかりでなく、俳壇=俳句ジャーナリズムにも向けられる。河原枇杷男の句が、比較的近年に出た複数のアンソロジーに漏れているのを憤った後、『河原枇杷男全句集』(二〇〇三年 序曲社)の「覺書」に、断筆の表明ととれる一節があるのを見落としていた自らの不明を恥じつつ、〈しかしこのことを俳壇で誰一人として話題にしなかったことに改めて痛憤のようなものを覚えないわけにはいかなかった。〉と筆を転じてゆく。

河原の行為は、かつての飯田龍太の『雲母』廃刊とその後の沈黙、中村苑子や鷲谷七菜子の断筆、飯島晴子の自裁、安井浩司の年鑑「俳人住所録」への記載不許可、等々と同じ景に映る。共通してあるのは、俳壇(ジャーナリズム)への不信、絶望である。彼ら彼女らをそのような〈自死〉的行為に追いつめたものは誰か。あなたと私とあいつらだ。

無茶苦茶といえば無茶苦茶である。彼らに俳壇への不信や絶望はあったかもしれないが、彼らの「〈自死〉的行為」にはそれぞれ別の理由があったことは誰もが知っていることではないか。鷲谷七菜子と河原枇杷男は創作意欲の衰えによって筆を折ったのだし(中村苑子のことは知らない)、飯島晴子の自裁は基本的にはフィジカルな問題であろう。住所録に記載を許可しないなんてのはどちらでもいい話で、重要なのは作家としての安井浩司が作品を江湖に問う意欲をいささかも失っていないことだろう。飯田龍太の主宰誌廃刊と沈黙を美談仕立てにしたがるのは齋藤に限らないが、飯田と縁もゆかりもない評者などにはそれこそ俳壇=飯田龍太のような感もなきにしもあらずで、俳壇不信はそのまま龍太不信というところもあるのだ。糞も味噌も一緒にしたじつに乱暴な論述という他ないが、しかしむしろその乱暴さこそが書き手はもとより読み手の鬱憤をも晴らすのでもあって、理路は気にせず、汗だくになりながら激辛料理を味わうように読めばよろしいのだと思う。それから、これは怨念というのとは違うが、齋藤は当たるを幸い、長谷川櫂にも攻撃の矢を向けている。

この俳人(長谷川櫂。評者注)の句も選句眼も私には皆目わからない。いつぞや角川の『俳句』誌で、〈古今名句十句選〉を披露していた。

  古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉

  行春を近江の人とおしみける  芭蕉

  秋深き隣は何をする人ぞ  芭蕉

  遅き日のつもりて遠きむかし哉  蕪村

  去年今年貫く棒の如きもの  虚子

  くろがねの秋の風鈴鳴りにけり  蛇笏

  外にも出よ触るるばかりに春の月  汀女

  降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男

  おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ  楸邨

  一月の川一月の谷の中  龍太

これが古今―芭蕉から現代に至る三百数十年間の最高最良の名句十句だというのだ。「一月の川」について氏は、「古今の名句から百句選べば百句に入り、十句選べば十句に入る龍太の代表作」(読売)と書いたが、「俳句」誌では、「こうして古今の名句と並べてみても、むしろ、ずば抜けている感じさえする。やはり、戦後最大の俳人だった」と踏み込んでいる。要するに俳諧俳句史上における最高作だと。俳句に関してよほど無知でなければなしえぬ選句ではないか。中学や高校の教科書に採用されている句、人口に膾炙している句を提示しただけではないか。選句眼は中学生並みといえないか。

なかなか痛快だけれど、わかってないなあ齋藤さんは。長谷川櫂は中学生並みの選句眼だからこれらの句を選んだのではなく、選句眼を見せないためにこれらの最大公約数的有名句を並べたのだ。これはいわば徹頭徹尾政治的な選であり、教科書的な九句に評価必ずしも定まらぬ龍太の一句を加えることで、龍太の後継者は自分だと宣言しているのである。

齋藤は〈いつぞや角川の『俳句』誌で〉とのんきに書いているが、この十句選が「俳句」の昨年五月号の飯田龍太追悼特集中の記事であったことは外せない文脈なのだ。長谷川の表層意識としては古今の十名句に入れてさしあげたのだから飯田先生もさぞお喜びだろうと、供養のつもりでこの挙に及んだのかも知れないが、はたから見ればずいぶん非礼なふるまいではあった。齋藤は、〈しかし俳壇でこの選句に対して疑義が呈されたという話はきかない。みなさん、なるほど、ごもっともと感心したのか、寒心されたのか。〉と記しているが、管見の範囲でも島田牙城が違和感を表明していた。発言はせずとも、〈寒心された〉向きはそれなりの数いたのだろうと思う。

選は暴力である、とはみんなわかっていることながら、それはそれで必要な暴力だから日ごろは誰もあえて口にすることはない(時々口にする人がある。当ブログ前号、冨田拓也の記事参照)。付け加えるなら、選が暴力であるとは、選ばれる選ばれないとは別の問題であって、選の行為を媒介にして支配・被支配の関係が生じる、その事態を指している。そして選の暴力が最大最強になるのは、生者が死者に対して選をする時である。後に生まれた者が、先に生まれた者に対して選をする時である。俗世の賞は偉い老人が自分より若い人に与えるかたちをとるから、一見すると先行世代の側に生殺与奪の権があるようだが、先行世代による選など一時的・相対的なものにすぎない。不可逆的・絶対的な選の暴力をふるうのは後続世代の方なのだ。古代ローマの皇帝は、没後、元老院によって暴君と認定されると記録抹殺刑に処されたそうだが、俳人の場合はもちろん元老院による認定は必要ない。退場の順に記憶から抹消されてゆくだけのことだ(ゆくゆくはわが名も消えて春の暮 湘子)。

飯田龍太は、記憶からの抹消を免れる幸運を得る可能性が少しはある人だろうが、そのことはこの際(いや、どの際でも個人的には)どうでもいい。問題は、生ける長谷川櫂がまさに選の暴力を嬉々としてふるい、死せる飯田龍太を支配してみせたことである。実際、このスタンドプレイによって、追悼大特集に寄稿していた何十人(なぜか評者もそのひとりだった)かの中で長谷川がぬきんでた存在に見えたことは間違いない。みんなが死者に額づいていた時に、彼だけは支配していたのだから。もちろん他の寄稿者が善意だったように、長谷川も善意だった。〈やはり、戦後最大の俳人だった〉とは寒いぼが出そうな空疎な賞辞ではある。しかし、自らの善意を信じつつ空疎な褒め言葉を口にできるというのは、ガヴァナンスには必須の、貴重な素質なのだ。作品の方でも、〈初山河一句を以つて打ち開く〉とか〈花散るや花の投句の一万句〉とか、そのかみの帝が民のカマドは賑わいにけりと目を細めるにも似た高みからの視線が板に付いてきた。いよいよ精励していただきたいものである。

シンクロニティーということになるのだろうか。本稿を書き継いでいるさなか、江里昭彦から分厚い郵便物が届いた。新しい句集かはたまた評論集か、と思って開封すると、なんと「京大俳句」のバックナンバーだった。五十三冊出たうちの十八冊。〈みつからなかった号も多々あり……自分でも整理の悪さに苦笑〉と記した手紙が同封されている。若くして亡くなった同誌同人の中谷寛章氏を偲ぶ会がひらかれることとなり、ふと思い立ってバックナンバーを整理したということらしい。その第五十三号つまり終刊号の編集後記は、署名はないものの、書きぶりからしてたぶん江里の筆になるのだろう。

一九八三年が、俳句史にとってこれほど画期的な年になろうとは、誰が予想したでしょう。さようなら、寺山修司。さようなら、高柳重信。さようなら、中村草田男。そして、さようなら、わたしたちの「京大俳句」。その多産(寺山の場合は、日の目を見ることのなかった多産ですが)において、あなた方は正真正銘の歴史でした。/しかし、消え去る在(もの)がある一方で、新たな力強い動きが顕著になったのも、今年の特徴です。こんにちは、『猟常記』。こんにちは、『俳句の現在』。いまや、俳句を活性化せんとする潮流が確実に形成されつつあるのです。

『猟常記』は言わずと知れた夏石番矢の第一句集。『俳句の現在』は、坪内稔典が主導した「現代俳句」誌で活躍した当時のニューウェイブたちの作品・評論の集成で、この年、南方社から刊行された(全三巻)。それにしても若き江里による編集後記の明るいトーンは、「夢座」における江里の苦渋に満ちた文章とくらべると涙ぐましい程のものだ。八十三年当時、江里には自分を含め、夏石番矢、林桂、坪内稔典、仁平勝、宇多喜代子、澤好摩といった新進の批評家たちが俳句を先導する未来図が見えていたはずだ。彼らは着実に仕事を積み重ねたはずなのに、しかし批評の居場所は結局どこにも無かったというのが四半世紀(ちょうど四半世紀)後から振り返っての光景ということになるのか。江里の言う〈俳句を活性化せんとする潮流〉は、「俳句ブーム」なる言葉に集約されるはるかに強大な“潮流”によって翻弄され、分断され、埋没させられてしまった。怨念全開の齋藤にくらべ、江里は冷静で客観的だと記したが、それはとんだ勘違いだったかもしれない。

「京大俳句」の終焉から六、七年後に俳句をはじめた評者に怨念は無いが、省みて齋藤や江里の言説にシンパシーを感じることが多いのもたしか。その上で、齋藤のように相手を中学生並みなどと侮ると碌なことにならない、ということは肝に銘じておこうと思う。

* 「夢座」各号は、編集部より贈呈を受けました。記して感謝します。
* 望月雅久句集『辺縁へ』、『河原枇杷男全句集』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。
* 「夢座」は、紀伊國屋書店新宿本店で購入できます。

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