2008年8月30日土曜日

水野真由美句集『八月の橋』を読む・・・高山れおな

水野真由美句集『八月の橋』を読む

                    ・・・高山れおな

その日は岡山県瀬戸内市の牛窓というところにいた。備前焼の大家・森陶岳氏の取材だった。全長八十メートル余という途方もない規模の登り窯が完成し、翌日には空焚きの火入れの儀式があるのであるが、牛窓に着いた当日は挨拶と下見を済ませただけで、早々に宿に入った。地元のふれこみでは牛窓の海は日本のエーゲ海なのだそうで、泊まったのも豪華な海辺のリゾート・ホテルだった。時々こういうことがあるけれど、行楽のための空間に仕事向きのやや尖った気分で混じっているのは落ち着かない。海が夕映えに染まっても、ホテルのプールには子供たちや若い男女の歓声が響きわたっていた。

その旅に携えていた水野真由美の句集『八月の橋』(鬣の会発行 風の花冠文庫4)は、読み進めるにつれて死の影が濃くまとわりついてくるようだった(特に前半)。また、水の語と風の語を詠みこんだ句の多さは、ほとんどオブセッションを思わせる程だ。水ならば目の前に、茫々と広がっている。風はなかった。しかしじつは、森さんの大窯があるのは、牛窓町の寒風という地区なのだが。

それから死がやって来た。翌日、あらかた取材を終えたところで携帯が鳴って、妻から義父が倒れた旨を報せてきた。以後、本稿にとりかかるまでの一週間はまるで夢のように過ぎたが、最も驚いたのは、最初の連絡から二日後に亡くなった義父の遺体を病院から家に運ぶと、そこに水野真由美が参加した鼎談が載る「俳句研究」があったことだ。鼎談のコピーだけ取ってうっかり確認し忘れたが、妻の両親は私の名前の出ている商業誌に気を付けて買ってくれていたようだから、その二〇〇二年八月号にもいずれ駄文か駄作を寄せていたのだろう。俳句文学館にでも行って探そうと考えていた記事が、岩手県の北のはずれで手に入るとは思わなかった。

『八月の橋』に付された林桂の解説によると水野真由美は〈「ねこ」〉なのだそうだ。それも〈ドラえもん体型の猫〉らしい。と、書くと水野と一面識もないようだが、ほんとうは彼女とは少なくとも二度、同席している。一度目は東京神楽坂で、攝津幸彦の全句集の出版記念会の二次会ではなかったか(自信がないが)。二度目は彼女の方のテリトリー、群馬県立土屋文明記念文学館で開かれた「金子兜太・高柳重信―戦後俳句の光彩―」展の時だ。この一度目の出会いの折り、どうも評者は水野の憎しみないしは軽蔑を買ってしまったらしいのだが、理由はよくわからない。県立文学館の時には、喫茶室のテーブルの向こう側から水野はいかにも不快なものを見る目で評者を睨み付けていた。彼女と仲良しの大井恒行や豊口陽子といった先輩たちも一緒だったし、それ以上の何があったというわけではないが、猫の心事はまことに不可解である。ただし、以上が全て、評者の被害妄想である可能性を否定するものではない。

水野真由美が編集人を務める同人誌「鬣 TATEGAMI」は、評者の所属する「豈」とは近しい雑誌には違いない。「豈」は一九八〇年創刊、「鬣 TATEGAMI」は二〇〇一年創刊と誕生日はずいぶん違うが、乱暴にくくればどちらも「俳句評論」系の同人誌ということになるのだろう。しかし、年の差相応に(?)、誌面の雰囲気はずいぶん違っていて、俳壇に黒眼鏡で暗躍する筑紫磐井率いる「豈」が、同人数七十余人と同人誌の適正規模をはるかに超え、とうてい一枚岩とは言い難いヌエ的混沌を抱え込んでいるのに対して、林桂を中心とした「鬣 TATEGAMI」は少数精鋭主義というか、成熟した同人誌らしいたたずまいの良さがある。たまたま届いたばかりの最新号(第二十八号)を見ると、同人および執筆者は三十人。作品もさることながら文章の充実ぶりはいつもながら素晴らしく、暮尾淳の「芥川龍之介と和田久太郎」、林桂による和田耕三郎句集『青空』の書評、江里昭彦の「二一世紀書評(27) 気高さは、気高き者の墓碑銘」、水野真由美の俳句時評などは、今般の「俳句」や「俳句研究」ではついぞお目にかかれない高い水準のものだ。とりわけ「読むことをめぐって」と題しての水野の今号の時評は水際立っている。明治書院の『展望 現代の詩歌』を批判した後で水野はこう述べる。

知識や持論を披瀝するのではなく、俳句をもっと深く遠くまで読みたい、いいと思った作品の中にもっと入りたいという情熱、あるいはそれがなければ解説や評たり得ないという共通認識による批評が一つの作品を「私有化」させ、言葉によって「私有化」されたことで作品は共有化される。評とはそのためにある。いつでも誰にでも必要とされる表現などありえないのと同じ意味で、いつか誰かにとって絶対に必要だとされるのが表現の意味ということだろう。

二十一世紀になって創刊されたというのに、「豈」を含めたどんな俳句雑誌にくらべても「鬣 TATEGAMI」には近代日本文学の空間がはるかに色濃く残っている。なにしろ最新号の特集は、「芥川龍之介の俳句」なのだ。そこには〈いつか誰かにとって絶対に必要だとされる〉という自恃と、それに裏打ちされた責任感が折り目正しく保たれている。とはいえ、歴史化しつつある近代日本文学に与することは、一面においては様式化の危険に身をさらすことでもあって、現に林桂の多行俳句など、評者はその批評に比して(批評では彼こそが当代の第一人者だが)、高く評価する気にはなれない。様式美があまりにも過剰だからだ。

水と風の他に『八月の橋』に頻出する語として、星、霧、月光、枇杷、馬、化石、それから父母や兄や姉がある。園丁や点灯夫(!)も登場。さらにその他の徴憑に照らすに、水野は萩原朔太郎と宮沢賢治の圏域の住人であるらしく、彼女の俳句は近代詩・戦後詩のエートスに厚く覆われている。それが悪いわけではないが、そこに林桂の場合と同様の様式化の危険があるのは確かだろう。例えば、

泳ぎ着けぬ兄あまたゐて秋津島

という句は、カヴァー見返しに掲げられた七句に含まれた水野の自賛句のひとつであるが、評者としては七十年代風の美学に従順すぎるところにもどかしさを感じる。そしてそれは、この句に限ったことではないのだ。もっとも、このパセティックな叙情の魅力は、否定しようとして否定しきれるものではないのだけれど。

もう少しこの句に立ち入って読んでみよう。〈泳ぎ着けぬ兄〉とは海に無念の最期を遂げた〈あまた〉の死者のこと。文明開化の使命を帯びた遣唐使船のエリートたち、底辺の貧しい漁師たち、太平洋戦争で撃沈された軍艦や輸送船に乗っていた何万もの兵士たち――日本の岸辺には無数の死者の記憶が打ち寄せている。蕪村の〈稲づまや浪もてゆへる秋津しま〉をプレテキストとしつつ、秋津島とは「死者もて結へる」空間でもあると看破したところに水野真由美という人間が現れていると共に、戦後詩的なものの残響を聞き取ることができる。それはまた、高柳重信の〈船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな〉の自己陶酔に対する批判であり且つ慰撫でもあるという、両義的なあり方をしてもいるだろう。本句集にはさらに、

冬星や帆布にくるむ兄の声

の句があり、こちらはあきらかに水葬のイメージ。しかし、〈泳ぎ着けぬ兄〉たちのほとんどは礼もって葬られたのではなく、生きながら海にのみこまれたのである。

『八月の橋』は所収四百七十三句。文庫サイズのこじんまりとした見かけとは裏腹に、じつはかなり規模の大きい句集なのだ。初出一覧から判断すると、制作は一九九八年の暮から今年の初夏にかけて、およそ十年間にわたっているとおぼしい。全体は、それぞれ五句から十数句で構成された五十二本の連作の集合体であり、

Ⅰ 正午の弓
Ⅱ 木の立ち方
Ⅲ 星を盗りに行く
Ⅳ ハ行の話
Ⅴ 月光変容器
Ⅵ 散歩の方法
Ⅶ 旅ゆく人と


の七章にグルーピングされている。すでに触れた林桂による解説と、渾身と言いたいような力のこもった著者自身の長いあとがきが付された上、カヴァーには金子兜太と暮尾淳の推薦文まで刷られていて、まずは水も漏らさぬ布陣である。

巻頭に置かれるのは、「水の肖像」と題する連作。もしや「水野肖像」なのかな? わずか五句の小品ながら、本句集のための書き下ろしであるところからすれば、前奏として周到に配されたと考えて良さそうだ。全部を引く。

榛の木の揺れて無人の駅舎なり  ⇒「榛」に「はん」とルビ
街灯の光りのなかに眠る子よ
はしばみの芽吹きに母を置くことも
八月の橋を描く子に水渡す
黄落の階段までを父とゆく


なにか全体が、セピア色に変色した古い写真を見るような、無声の八ミリフィルムを見るような、そんなとりとめのない遠さのうちにあるように感じられる。あるいは、手の届かない“近さ”と言っても良いだろうか。この一連には格別の秀句は含まれないものの、句集を通読した後に立ち戻れば、たしかにここでこの本の通奏低音となっている、世界に対するある心理的な距離が提示されていたことに気づくのである。

一句目は、田舎の無人駅の何気ない描写のようだが、作者はたぶん、鉄道駅が近代そのものの象徴だった過去をたぐり寄せながら書いている。どんな鄙びた小駅もが、じつは背後に西欧文明を隠している。というか、丈高い榛の木を従えただけのつましい無人駅なればこそ、「あまりに遠」い非在としての「ふらんす」に対する「のすたるじや」のよすがたり得る。過去と海彼に対する魂のしずかな憧憬をもって本句集ははじまっている。

二句目における街灯もまた鉄道駅と同様の性質を帯びたオブジェ。街灯の光りのなかで子供(たぶん、乳飲み子なのだろう)が眠るというのは、現実の情景というよりは一種、童話的な郷愁の空間を拓くためのイメージなのだ。最近の例では、たしかハリー・ポッターも、街灯の光に照らされた乳飲み子として物語に登場するのではなかったかしら。

三句目の母は、記憶の中の若い母のようでもあるし、老いて子供に帰りつつある眼前の母のようでもある。〈置くことも〉という言い流しが、両義的で曖昧な時間を生じさせているだろう。しかしそもそもそうした曖昧さこそ、記憶と現在を同時に生きる人間の存在の条件なのでもある。五句目の父の場合も同様。〈黄落の階段〉に達した時に消えるのは、父なのだろうか私なのだろうか。消えた先に在るもの、それが現在――そんなねじれ方をして、我々は現存している。

評者にとっての難物は四句目で、なにしろ『八月の橋』という句集名が由来する句なのだから、水野の思い入れの強さは言うまでもないことながら、〈水渡す〉を読みきれずにいた。〈八月の橋〉もよくわからないが、こちらはなんとなく戦争に関係があるのだろうという見当はつく。水彩画を描いている子供に水を渡す。なるほどありそうな光景だけど、一句のモティーフとしてのその行為が、水野真由美という俳人とどうつながるのかがわからなかった。しかしなんのことはない、林桂が丁寧に解説してくれているではないか。

前橋の中心地にある比刀根橋からやや離れた広瀬川岸に「永遠に」と刻まれた祈念碑がある。昭和二十年八月五日の前橋大空襲で、五百三十五人の市民が亡くなった。その慰霊碑である。比刀根橋防空壕での犠牲者が一番多かったのだという。/幼い水野さんは、この橋の袂の画塾に通っている。元気よく描けていればそれだけで丸をくれる先生だったと聞いたことがある。

林桂はこのように一句の背景を説明した後、

橋を描いている子どもは、幼い水野さんかもしれない。もちろん、水を渡すのは現在の水野さんだ。橋の意味も考えずに一心に書いている子ども。もちろん、渡された水の意味も分かりはしないだろう。でも、渡すことができるのが俳句であり、水野さんが俳句を被る意味なのだ。

と続けている。〈櫻満開の昼下がり、橋の真ん中で寝転んで〉いたりもする水野にとっての「橋」を、林桂は〈ネットワークの装置〉としての俳句のメタファーだとしている。その通りなのだろうが、とまれ個人史にかく深く根ざしているからには、作者の“個人情報”に通じている林桂のような人以外の読者がこの句を正確に読み解くことは難しい。それを百も承知で、あえて水野はこの句から書名を採った。作品のできばえ云々以上に、その選択にこそ意味をこめたということだろう。それは読みの場ならぬ作りの場における作品の「私有化」であり、タイトルを媒介することでその「私有化」は本の全体に及ぶことになる。〈「私有化」されたことで作品は共有化される。〉という先に引いた時評の言葉は、まず水野自身の句集において実践が目指されているのである。はやばやとした一般化によって私有と共有の弁証法をやり過ごしてしまいがちな俳句の世界にあって、これは覚悟の要る態度に違いない。

冒頭で触れたこの句集の特に前半における死の色濃さは、直接的には水野に親しい幾人かの知友の帰泉に由来している。高校以来の恩師の親友で中野重治の〈小説を一行ずつ読み解いてゆく過程を示してくれた〉亀島貞夫、〈小さなものから大きなものまで、あるいは形のないものまで、なんでも遊べる上州の不思議な役人〉小沢貞夫、〈群馬県記念映画室長として『眠る男』製作〉を担当した菅谷征雄。これら無名の、しかし個性的な市井人たちそれぞれに、水野は懇切な前書きを付した連作を捧げている。そのおのおのから一句ずつを引いておこう。

幼年やまぶたに落とす羽の翳
ただ一人木遣りの声やただ一度
天深く堕ちて明るき鬣よ
  ⇒「鬣」に「たてがみ」とルビ

もうひとり、重要な死者がいる。こちらはもう以前に亡くなっているらしい父親で、古書店主だったその人は、やがて実家とは別に前橋の町で古本屋「山猫館書房」を営むことになる水野にとって、仕事の上での師でもあったのだろうか。兄や姉を詠んだ句にもまして父を詠んだ句が胸を打つのは、おそらく前者が多分に美学上のコードに過ぎないのに対して、後者はそれ以上の何かを含みこんでいるからだろう。私有と共有の緊張関係が、後者の場合の方がより強いのだ。

父かつて「古本屋は本の港だよ」
父の忌の月の光りを噛みふくむ
父の手や赤亀橋のたもとまで
花梨や母語ありて父語なかりけり


〈「古本屋は本の港だよ」〉との囁きに、心で涙しない本好きはいないだろう。古本屋が本の港だという比喩が特に独創的ですぐれているわけではない(第一、港というなら、新刊書店だって個人の書棚だって港なのだ)。比喩が父から娘への囁きとして渡されることで、父や娘の姿そのものを“思いの港”として照らし出してしまう、その事態が感動的なのだ。

〈父の手や〉の句には、父に手を引かれて歩いた幼い頃の思い出が揺曳しているのだろう。先に引用した〈黄落の階段までを父とゆく〉と同巣の構図ながら、クローズアップされた手や赤亀橋という固有名が、一句を美学的なものから引き剥がす役割を果たしている。好みもあろうが、評者は赤亀橋の句の方を高く買う。

どこかうつろな明るさに満ちた白い梨の花のひろがりを背景に、母語はあるのに父語はないという認識が目覚める。母語という日本語はヨーロッパ語からの翻訳なのだろうが、父語ではなく母語という言葉を選択したのはそもそもいかなる智恵なのか。語彙や運用規則の総体としての母語は、母なる胎内にある人間のようにいわば原基の状態にある。父語というものがもしあるとすれば、原基たる母語に知識や倫理を注ぎこんで人間として形成する行為の謂いであろう。つまり、表現の営為そのものなのでもある。母語が後方に残してきたものとすれば、父語は前方に獲得されねばならないものなのだ。〈なかりけり〉の詠嘆こそが、その希求の促しにほかならない。

上に見たような句集前半のやや沈痛なトーンに転調がもたらされるのは、全体の半ばを過ぎたあたり、連作「高崎競馬、サクラチル」の前後である。

兎に角も詩人に博徒ぞ空つ風  ⇒「兎」に「と」、「角」に「かく」とルビ

詩人兼博徒の水野が、純正博徒のおっさんたちと、空っ風に巻かれながら競馬を見ているのだろう。

嘶きや住宅街に日が射して  ⇒「嘶」に「いななき」とルビ(「き」が余計だが原著のママ)
芽木匂へり空へ駆け入る馬の影
カレーライスが似合ふぞ競馬場真昼
蝶の黄のごとく光れり騎手の帽
青空に面をしづめて瞠く馬よ
  ⇒「面」に「おも」、「瞠」に「みひら」とルビ
右手の「勝ち馬」左手の馬券それも春  ⇒右手に「めで」、「左手」に「ゆんで」とルビ

この開放感は続く連作「風のみが来て」ではさらに、

飲めば酔ふ岸辺の秋をゆきにけり
酔ひ覚めの海を片手に掴みをり


と放縦に展開して、水野の本性が全開になってゆく。宮沢賢治が東北の厳しい現実をイーハトーブの夢想の中へ投げ込み、萩原朔太郎が故郷を憎みながら詩化し続けたように、詩人で博徒で酔漢(酔女?)といういたって柄の悪い猫が闊歩する幻想の前橋がうつつの前橋と重なりながらずれている。そこにモアレのように立ち上がるのが水野の俳というべきか。いずこかに生まれ、いずこかに暮らすという、詩にとっては偶然にすぎない所与を必然に化してゆく、そのための秘術が尽くされている。さて、最後にこの句集の秀逸若干を示しておく。

国よりも旗よりも美しき馬の貌  ⇒「美」に「は」とルビ
頬へ空へブリキの風が鳴る町よ
傷負ひし銀器をきさらぎ色と呼ぶ
蜩といふ姉のをり半島よ
  ⇒「蜩」に「ひぐらし」とルビあり
楽師らや膝曲げて風の環を抜けり  ⇒「環」に「わ」とルビ
空は本めくれば祖父の指の跡
月光や空蝉のなかを逆流す
  ⇒「空蝉」に「うつせみ」とルビ
燃えやすき梢に刻む馬の名よ
美しき観念と呼ばれ馬歩む
花彫るといふ酒の名よ宿駅に
日に一度軒に日はあり楽器店
露月光背中合はせのたましひも
義は昏し否義に昏し青山河
  ⇒「否」に「いな」とルビ

馬の句を三句も採ってしまったが、評者は残念ながら博徒ではないし、どうやら酔漢でも猫でもないようだ。どれも良い句だが、いくら〈ドラえもん体型の猫〉でも、作品にここまでフェミニンな匂いを欠如しているのは凄いなあ。ところで、義父の家で見つけた角谷昌子・坊城俊樹との鼎談で、司会から「自選の一句」を求められた水野は、〈そんなこと聞いて、おもしろいのかな?〉とボヤキつつ、

楡大樹この遊星の寂しさに

を挙げている。

水野 私は生きていることは人間に限らずなかなか寂しいものであるなあと思ってる。もしかしたらこの遊星もそうだよな、だけど、それとつきあうような大きな樹がきっとあるんじゃないかなというイメージは昔からもっていたんだけれど、書いてみたら、あ、書けたじゃんと思った。

水を吸い風に鳴るニレの大樹。その生命は、我々人間よりは少しばかり永遠に近いが、それでも過ぎ行くものには違いなく、ついにはまさに空無に帰すべし。いや、〈この遊星〉さえもがと水野は言っていて、だからこそニレと地球の永き無情の遊たるや、飲まずにいられないほど美しい。なお、この句が入っているのは、『八月の橋』ではなく第一句集『陸封譚』の方です、念の為。

*水野真由美句集『八月の橋』は、著者から贈呈を受けました。記して感謝します。

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