2010年1月31日日曜日

鶏頭論争もちょっと、にちょっと・・・山口優夢

鶏頭論争もちょっと、にちょっと

                       ・・・山口優夢


先々週の豈weekly(74号)にて、高山れおな氏が「鶏頭論争も、ちょっと」と題する記事で、髙柳克弘氏の「現代俳句の挑戦 第13回 十七音に徹して読む」(角川「俳句」2010年1月号)を取り上げ、この記事およびこの記事の背景をなしている坪内稔典氏のエッセイに対して異議を唱えている。

髙柳氏の記事に対する直接的な反応としては、「作者の思い」と「作者の意図」を混同していることに対する指摘にとどまり、あとは髙柳氏の援用する稔典氏のエッセイに対する批判が行なわれている。

れおな氏の論の道筋はこうである。まず稔典氏が、正岡子規の

鶏頭の十四五本もありぬべし

の評価をめぐる鶏頭論争では、「子規という作者を読むことで、鶏頭の句は高く評価されるようになったのではないか」との認識を示し、この句を「作者名を消して句会に投じてみた」とき、つまり、作者である子規が病床に伏せっていたという背景なしでこの句を読んだとき「末期の存在感のようなものを感じるだろうか」「私見ではこの句は平凡な作、いや、語るに足らない駄作である」と断じている。これに対して

「なぜ、子規の人生とセットで了解されている句を、あえてその人生から切り離さなくてはならないのか」

・他の子規の鶏頭の句は子規の人生を投影して語られずに、「なせ、『十四五本も』の句だけが抽んでられているのか」

この2点の疑問を挙げ、「他とは格段に異なる強さで子規の人生をおのれに引き寄せ、時に過剰なまでの読みを誘発する力をこの句が持っている以上、この句を名句と呼ぶに躊躇う理由はないのではないでしょうか」と結んでいる。

僕自身は鶏頭の句について異なる価値観を持っている(後述)ので、ここで稔典氏、髙柳氏、れおな氏の言うような意味で「名句」なのかどうかという議論にさほど興味はないのだが、ある俳句を、作者名を消して読むべきか否か、をめぐって議論が行なわれているこの状況については大いに興味を抱いている。

髙柳氏の論には確かに不十分なところがあり、それはおそらく「句の状況」と「句の核心」を分けていないところなのではないかと思う。一句の指し示している状況を、髙柳氏は十七音だけから読みとろうとし、あえて作者が読もうとした情景と外れ、誤読になることも恐れない、という態度であった。そのような態度によって子規の別の一句、

いくたびも雪の深さを尋ねけり

を読もうとしている。十七音だけに徹して読む場合、この句をめぐる状況は「家族や友人同士」「無邪気な子供」とその親、「片方が病に倒れた恋人同士」など幾通りも読めるが、それら全ては許容されるべきだ、という論旨である。しかし、髙柳の示す「句の状況」の多様性は、実は「句の核心」が変わらない範囲での多様性に過ぎず、髙柳がその文中で苦労して導き出した(発話主体が)怪我か病気をして病床にある」という設定の範囲内での話になっている。この句だけに即して読むのであれば、「尋ね」たのが差し向かいの状況と考える理由は特段なく、電話でもかまわないはずであり、そうすると「屋内にいて動きたくても動けない状況」だから看病の様子なのだ、とする髙柳の論法は崩れてしまう。あるいは、この時代には電話などなかった、と言いだしてしまっては、それは十七音以外の情報に基づいた判断ということになってしまうだろう。

この句が看病の様子だとすると、「句の核心」は「雪を見たくても見られない病気の主人公の気持ち」、に焦点が行くことになるが、看病でなくてかまわないのであれば、「句の核心」は単に「なんだか知らないけれど雪を見たがっている主人公の気持ち」と、見る影もないほど矮小化されてしまう。「句の状況」に多様性を認めたとしても、「句の核心」に多様性を認めていいのかどうか。本来ならば、十七音に徹して読む、というマニフェストはそこに話を及ばせるべきなのではないかと僕は考えている。

逆に言えば、なぜ髙柳氏が十七音以外の情報を読みに入れることを拒むのかと言えば、そういう外部情報によって「句の核心」が変わってしまうからではなかったのか。「鶏頭」の句の核心に「自己の“生の根拠”」を見る山口誓子や「死病の床にあってなお生きよう凝視めよう描こうと願うたくましい意志」とする山本健吉の読みは、子規の人生を前提しないならば全く異なる「句の核心」を見せるはずだ。髙柳氏は、作者を読まないことによってこの句にどういった「句の核心」が読みとれるようになるのか、書かない。本来ならば、そこにアドバンテージを示さなければ鶏頭の句で作者を読まない理由は示せていないことになってしまう。

十七音以外の外部情報を持ってきた結果、句の核心は明らかに変容してしまうが、十七音だけで読んでも句の核心を定めることが難しい可能性が否定できない。となれば、むしろ、句の核心を固定できるのであれば外部情報を持ってきた方がいい、ということになり、これはれおな氏の「わざわざ作者名をはずす意味がどこにあるのか」といった主旨の指摘に通じるのであろう。

しかし、実は僕は心情的には髙柳氏に加担したいという気持ちが強い。なぜなら、これは僕らの世代が生き残るための「戦略」だからだ。子規や波郷のような死病を抱えているわけでもない、山頭火や放哉のような人生を賭けた放浪をしているわけでもない、兜太や敏雄のように戦争を経験したわけでもない、平和な日常を甘受し、どこにでもいる若者として育ってきた僕らには、おそらく上の世代からも下の世代からも読まれるべき「ストーリー」というものは、ない。不幸が無いのが不幸、という、ふざけた状況に生きている僕らが、それでも自分たちの言葉を残していこうとするとき、句の背景にある作者の人生といったものは使うことのできないほど貧弱なものであることは、誰よりも僕ら自身が一番痛感しているのだ。そこで十七音の世界を自分から切り離した虚構として立ち上げる必要がある。あるいは、全くの虚構である必要はなく、現実に結びついていたとしても、自分からは切り離されてもいいように十七音を育てておく必要がある。十七音を作者から切り離したがっているのは、僕ら自身なのである。実は、髙柳氏が示しているのは、作者の論理が反転した読みの論理だったのではないか。

れおな氏がそのような句に対してうんざりしているのは、彼が豈weeklyで発表したいくつかの論考を見れば察しはつく。たとえば柴田千晶の『赤き毛皮』句集評(「ミヤコホテルでつかまえて」豈weekly64号)の中で、彼は現代の風俗の中に暮らしている等身大の作者が見えてくる柴田氏の句集を評して、こう発言している。

今やどの句集もこの句集も、作者は何をやって食べている人で、俳句以外の何に関心があるのか、さっぱり見えてこない場合がほとんどだから、たまさか人間の生活をしている人の顔を見てほっとなつかしい思いに捉われたわけである。

しかし、十七音だけで世界を構成するというのは想像以上の苦行である。昭和40年世代が小澤・長谷川を筆頭に古典へ連なろうとする俳句を作ったのは、長谷川櫂自身の口からも聞いたことではあるが「戦争や病気といった主題のない我々の世代が何を書くべきか」という問いへの答えであった。十七音に対する個別の作者の背景を前提できないならば、古典という共通の背景をまとうしかなかった、ということだ。同じ昭和40年世代でありながら、能動的で冷めていて新しい女性像を打ち立てることで「作者」を復権した櫂未知子も、近作ではそのような方向性からは離れつつある。つまり、新しい女性像、という概念そのものがすでに失効した、ということであろう。その意味で櫂未知子が新たなステージへ移行しようとしてゆくのは実に理にかなった戦略とも言える。

我々は十七音に古典をまとうことではなく、別の方法によってこの問題を越えていかなければならない。それがどのような戦略に基づくべきかを語ることは、この稿の手に余る主題であるが、髙柳氏が作者をキャンセルして読もうとする態度に共鳴する僕の心性の中には、このような世代としての背景があるように思えて仕方がない。

そこで、僕としても、自分たちの世代が句を残してゆくための戦略として、髙柳氏の論考における読みの論理に乗っかっていきたい。髙柳氏の論考では、作者の持つ外部情報がなくても一句の価値を見出すことはできる、という主張がなされていた。これを部分的に認める立場を取ろうと思う。僕の認識は、「外部情報があった方がよく読める句と、ない方がよく読める句がある」というものだ。それぞれの句(あるいは句集単位でもいいが)に対するとき、我々が自分でその句の読みに外部情報をかませるかどうか選択することが必要だと僕は考えている。その「選択」する行為も含めて、「読み」というべきなのではないか。どちらの方がよく読めるかは、どちらの読み方の導き出す「句の核心」が面白いかに依存するべきであろう。どこに「句の核心」があるかは、評者によって異なる場合ももちろんあるかもしれない。

ただ、もちろんこの方法には明らかな語義矛盾があって、それは、「外部情報がない方がよく読める句」であることを判断するには、外部情報を見る必要がある、ということである。この場合、外部情報を参照したうえで「忘れる」「見なかったことにする」のが最上の策であろう。僕の主張は、一つの句集を読む場合、まずどんな人なのか知った上でその人の句を楽しむ場合と、句を読んでいく過程でどんな作者なのか想像してゆく場合とがあるが、どちらがよりよくその句集を楽しめるかはケースバイケースでしょう、という、当たり前のようなことを言っているにすぎない。

さて、鶏頭論争から始まり、印象論的な話で恐縮だったが世代論を経由して折衷的な俳句の読みの提示というつまらない結論に達した。ここまでの道のりが長かったため、もう鶏頭の話などははるか遠くへ追いやられてしまった感があるが、一応、稿を締めくくる前に鶏頭の句に少し触れておこう。

僕は、誓子や健吉が示す過剰な読みは、全く実感が湧かないので、正直肯うことができない。「他とは格段に異なる強さで子規の人生をおのれに引き寄せ、時に過剰なまでの読みを誘発する力をこの句が持っている」とれおな氏は言うが、ほとんど何も主張しない写生句が、ある種の境涯と結び付けばそのような読みは自然と生まれるのではないだろうか。たとえば

遠山に日の当りたる枯野かな

という虚子の句について、もし「これは子規が作ったものなのだよ」とか「この句の作者の虚子は実は若死にしていてね」などと誰か批評家に嘘の情報を吹き込んだら、その批評家はやはり鶏頭の句において示しされたような過剰な読みを提示するのではないだろうか。鶏頭の句における過剰な読み、とは、この句は若死にした子規にしか作れなかった俳句なのだ、と信奉している、ということでもあるだろう。もちろんどういう句に対してもその句はこの人だから作れたのだ、ということを信じたい気持はだれしも持っているだろうが、実際にはそれを証明することなどできないし、それを外部的な情報から証明してゆこうとする読みは、いずれ客観性を失い、失効してゆくに違いない。名句を作りだした原因は、基本的にはその人の才覚という見えないものになすりつける以外に納得できる道筋がないのだ。鶏頭の句を子規の人生と過剰に結び付けて読もうとする読みは、そういう意味でも僕からは遠い。

鶏頭の句の唯一最大の価値は、僕には「早い者勝ち」というところにあるのだと思える。それまで「十四五本」などという表現で鶏頭を写生してみせた人はいなかった。そして、言われてみたら鶏頭にぴったりだった。だから残った。それが僕の考える「鶏頭」の句の核心である。子規の人生を介入させなくても、自分としては十分面白い句の核心を見出すことができた。鶏頭の句が名句だとすれば、それは上記の理由以外に何もない、と僕は個人的には考えている。

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■関連記事

鶏頭論争もちょっと 金原知典・しなだしん・峯尾文世・後閑達雄句集を読む・・・高山れおな   →読む

ミヤコ・ホテルでつかまえて 柴田千晶句集『赤き毛皮』を読む・・・高山れおな   →読む

4 件のコメント:

青山茂根 さんのコメント...

山口優夢さま

おっしゃることはよくわかります。

では、実験してみたら?というのが私からの
提案です。

優夢君自身の、
まだ大学院生で、若手であり、俳句甲子園出身、また俳句甲子園で優秀な成績を収めたという情報をすべて消して、
全く違う名前で、本名・年齢も隠して
どこか全く知らない大きな結社誌に優夢君が一句欄から投句してみたらどうでしょう。
そしたら、その句はどのように読まれるでしょうね。句会に一切出ずに大きな結社の中でどのくらいで上位まで上がれるだろうか。

しかしそれが、純粋に句のみを読まれ、評価されたということになるはずです。

実際、そのようなことを試みてきた現在名の知られた俳人の方もいます。

高柳君は独学で学んだところから俳句界賞に応募し、そこから結社に入っているので、優夢君とは立場が違います。

どちらが正しいか、ではなく、一度自分の立ち位置を確認してみては。

また違う方々の、様々なコメントが入ることを願って先にコメントしました。

小川 春休 さんのコメント...

山口優夢様

興味深く拝読いたしました。

確かに、今の20・30代には、境涯や背景は希薄なのかもしれない。私自身も、そう言われればそう。

しかし、書くべき境涯や背景がない、というのも、これまでの世代では有り得なかった特殊な状況なわけで…。

芭蕉や子規、波郷などの境涯や背景とは比較にはならない平々凡々たる我が生活ですが、開き直って「そこ」を描いて、平々凡々の先に何かを見出すという行き方もあるのかな、と。

私自身は、そう思って、身ほとりのことを詠んでいます。まだ平々凡々の壁はなかなか越えられそうにありませんが。

山口優夢 さんのコメント...

青山茂根さま、小川春休さま

コメントをいただきましてありがとうございます。

お二方のコメントにお答えできているか心もとないばかりですが、私のブログにて雑感を書かせていただきました。

ご高覧いただけると幸いでございます。
どうぞよろしくお願いいたします。

山口優夢

山口優夢 さんのコメント...

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私のブログは
http://blog.goo.ne.jp/y-yuumu/e/a2417233f95ffa35c20dc9dc4fec3fd6
です。