2009年7月12日日曜日

俳誌雑読 其の八+『未踏』

俳誌雑読 其の八+α
未定と未踏のあいだ

                       ・・・高山れおな


「未定」誌が、「詩の現在・詩は死んだのか」という特集を組んでいる(*1)。論文の筆者は十人に過ぎないのにそれが二百八十頁に及ぶ大冊になってしまったのは、筆者のひとりである高原耕治が例によって終わりなき大論文を書いているからで、ノンブルでいえば六十頁から二百六頁までを占めている高原の文章は、四百字詰原稿用紙に直せば軽く五百枚を超えているとおぼしい。「非DIXI・俳句という虚器」と題されたその一文、今後とも読み通すことがあるとはとても思えないほどの偉容を誇っている。他の九篇のうちでは、

稲川方人 「書くこと・死すこと」
阿部嘉昭 「詩は終わるはずがない」
江田浩司 「現代詩としての未来の短歌に向けて」
黒瀬珂瀾 「ポエジーの再生」
関悦史 「花咲ける無限個の否定性へ」

などが、面白かった。この五篇に限れば、筆者の顔ぶれからわかる通り、直接、俳句を問題にしているのは関の文章のみで、〈詩は書かれ/読まれるその都度、日常性の水準で了解された世界像を破壊し、更新しなければならない〉という、ある意味きわめて規範的でオーソドックスな詩観に立ちつつ、〈否定性による更新が効かなくなった〉現在において詩/俳句を再起動させるための道筋を探っている(関の短歌についての言及を、歌人は納得すまいが)。この「否定性による更新」がつまり関のいう意味における「前衛」であり、〈そうした運動が特に生産性を持たなくなった〉という状況を百も承知していながら、〈詩を書くものは、言語を介しての世界像の更新を何の原理によるのでもなく、既にあるものを足がかりにも出来ないまま、その都度個別に素手で新たな、微細な否定性を開花させなければならない〉のだ、と関は述べる。関が指し示す二つの否定性の間の差異を正確に理解できているのか、我ながら心もとないが、それはともかくこのような困難のうちに自らの作品世界を屹立させ得た(あるいは生産性を獲得し得た)俳人として関が挙げるのは、安井浩司であり、その先行者としての永田耕衣である。これは関としては当然だし(*2)、評者も百パーセント加担するつもりだ。しかし、今回の文章でとりわけて興味深かったのは、安井浩司や永田耕衣に触れた部分であるよりは、それに引き続いての次のような状況論的な記述だった。

彼ら(安井浩司、永田耕衣のこと……引用者注)のように己に固有の生成原理を構築できた者はよい。そうでない作者たち、ことに若手と呼ばれる俳人の多くはそうした険路を選ばず、というか視野にも入れず、日常や個人的心身のレベルのリアリティに裏打ちされることをあてにして身辺雑記のミニマルな差異化にのみ没頭することになる。「前衛」という身振りが無効になったことを肌で感じつつも、新しくあらねばならない若手という位置に身を置く作者は、「新しさ」ではなく「新鮮さ」を見せ付ける手さばきに己をかけるしかなくなるのだ。

今現在の俳句で競い合われているのは「『新しさ』ではなく『新鮮さ』」に過ぎないとは、また辛辣に言い切ったものだ。ここでいう若手は、ほぼ“昭和三十年世代俳人”以降を指していると考えてよいのだろう。若手といっても五十代以下のかなり幅広い年齢層を含んでいるわけだが、その中でも掛け値なしの若手である髙柳克弘が、まさに「新鮮さ」を誇示する句集(*3)を刊行したばかりでもあったので、関のこの指摘がいよいよ鮮明な印象を帯びることになった。もちろん、自らの句集にあえて『未踏』なるタイトルを冠し、「あとがき」では〈形式の可能性を攻め続けることが形式への最大の礼儀と信じる〉と述べる髙柳の視野に「そうした険路」が入っていないはずはなく、とはいえ『未踏』の美質が「新しさ」よりは「新鮮さ」にある事実は争えまい。髙柳の最大の理解者であるはずの小川軽舟にしてからが、句集序文で、

どんな発想から入っても作品としてきれいに着地してみせる平衡感覚と一見古風に見えながら不思議と古くささを帯びない言葉遣いの鮮度。

と太鼓判を押しているのだからこれは間違いない。

誤解されると困るが、評者は別に髙柳に「新鮮さ」ではなく「新しさ」へ向かって欲しいなどとは思っていない。むしろ、これほど俳句らしさとの親和性が高い作者が、なまじ「新しさ」などに向かう必然性もないのではないかと思っているほどなのだ。というのはしかし案外、髙柳を巧い、早熟である、と簡単に片付ける偏見(?)に染まっているせいかも知れないとの反省も、実際に句集を読むとやって来るところがあって、それは例えばこの句集には蝶の句が二十一句とかなり多く、しかも二〇〇三年から二〇〇八年まで、編年順に編まれた前半にその比重が高いのだが、作者のこだわりのわりに成功作は少ないのをどう考えるか。

ことごとく未踏なりけり冬の星
蝶々のあそぶ只中蝶生る

というのが巻頭の二句であるが、世評の高い一句目に比べると、二句目はいかにも嘘臭くて、だがその嘘臭さには生身の自分と俳句との間になんとか回路を開こうとする初心の作者の苦心が滲んでもいるだろう。

ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり
春月や羽化のはじまる草の中
鉄路越え揚羽のつばさ汚れけり
蝶ふれしところよりわれくづるるか
眉の上の蝶やしきりに何告ぐる
蝶の昼読み了へし本死にゐたり
路標なき林中蝶の生まれけり
わがつけし欅の傷や蝶生る
羽化の翅はばたかむとす草泉
揚羽追ふこころ揚羽と行つたきり
在ることのあやふさ蝶の生まれけり
ランボオの肋あらはや蝶生る

実際の蝶の羽化を写生するならともかく、「蝶生る」などという季語をどうやって使えばよいのやら、評者には見当もつかないのであるが(実際、使ったことがない)、これらの句の「蝶生る」や「羽化」にしてもうかうかと使われている感じは否めず、結局、これらの蝶は、はかなさやイノセンスのとりあえずのコード以上には出ないのではないかと思う。平たく言えば、形が完成しているほど中身は完成していないということだが、これはまあ当たり前な話で、しかもこの句集には、

つまみたる夏蝶トランプの厚さ
蝶運ぶ蝶の模様のかけらかな
キッチンにもんしろてふが落ちてゐる

などの、格段のできばえを示す秀作もあるわけだから、この落差そのものが髙柳の可能性なのだとひきとることもできる。

ところで、蝶の存在が気になりはじめると、それ以外にも「羽」「羽根」「羽音」「翼」といった、軽やかでフラジャイルな形象にこの句集が満ちていることが見えてくる。そのような傾向性を青春性一般のうちに還元することも不可能ではないのだろうが、どちらかというと髙柳の個人的ないし世代的な固有性を見たい思いでいたところ、上掲「未定」特集のうち、黒瀬珂瀾の「ポエジーの再生」という文章が、髙柳と完全に同世代、一九八一年生まれ(髙柳は一九八〇年生まれ)の永井祐という歌人のことを論じていて、考えさせられるところがあった。

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
テレビみながらメールするメールするぼくをつつんでいる品川区
      永井祐「日本の中でたのしく暮らす」
ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと
アスファルトの感じがよくて撮っている もう一度 つま先を入れてみる
      永井祐「ぼくの人生はおもしろい」

考えさせられるというのは別に、髙柳の俳句と永井の短歌が似ているということではない。というか、この両者、表面的には少しも似ていないのではないか。黒瀬は、〈永井作品の特徴〉として、〈塚本邦雄や春日井建など、かつての前衛短歌のような、自己劇化や変身願望への衝動を表現することは無い〉と述べているが、髙柳の場合、変身願望はいざしらず、「ことごとく未踏なりけり」を皮切りに、自己劇化の例は枚挙にいとまがない。蓄積された和歌的な伝統を周到に排除する永井の口語短歌に対して、高柳のよく練られた文語表現が古典的な形式美を沈着に追求しているのも大きな相違点だろう。にもかかわらず評者は、

浴衣着て思ひがけない風が吹く
ストローの向き変はりたる春の風
ねむりゐる人の背中と冬瓜と
梟や生きゐて嵩む電気代

などの句を読むとき、強固に鎧われた形式性の隙間から永井のそれとも多分に通じ合うような、心性レベル、感性レベルの内実を見てしまうのだが、勘違いだろうか。黒瀬は、

永井は執拗なまでに叙情性、すなわち「幻想」を排除する態度を込めてテキストを構築する。それはとりもなおさず、永井が短歌に対して、「現実の再規定」を求めているからに他ならない。

と言い、さらに〈別に私はおしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる〉という歌に触れて、次のように述べる。

地元というトポスに属する私、おしゃれな消費から脱落した私、地元を撮るという微温的な生活にある私…。これらの現実を短歌の中の一瞬として再構成しようとする衝動を、メタ的な視線で読み取らなければ、この一首の切実さは受容できない。

自身は「自己劇化や変身願望」の人である黒瀬(ちなみにカラン卿は一九七七年生まれ)が、自分と全く性向の異なる永井の「切実さ」を受容すべく試みているのは、そこに〈二十世紀までの短歌が持つ「ポエジー」とは決定的に異なる〉ポエジーを認めているためだが、この永井の「新しさ」と比べると、『未踏』の俳句が「新鮮さ」の範囲にとどまっているのはいよいよ明らかだろう。またとりわけ、集中に少なくない狭義の青春詠に属するタイプの句に関していえば、どうにも作り物めいている、あるいは観客を意識しての整合性を持ちすぎているとのそしりを免れまい。しかし、評者としてはそれを格別否定的に見ているわけではなく、まして価値的に永井が優位にあると言いたいわけでもない。むしろ髙柳が、永井が排除した「叙情性」を前景化することで「切実さ」の痕跡を表層から消去してしまった、そのことの「切実さ」に興味を抱いているというばかりだ。近い心性の遠い現われのようでいて、意外に、両者は最初から机の下で握手しているのではないか、との胸騒ぎも覚える。いずれ、「否定性による更新」の無効を口にしながら、そのじつ相変わらず「否定性による更新」を目論んでいる反動家の妄想だろうけれど。以下、すでに掲出したもの以外で、興に入った句をあげる。

秋の暮歯車無数にてしづか
キューピーの翼小さしみなみかぜ
素足ゆく床の幾何学模様かな
秋冷や猫のあくびに牙さやか
焼芋屋進むあやふきまで傾ぎ
液晶のあをき光や冬木立
庭に鳥にぎはひてをる屏風かな
口中に薄荷の冷やかたつむり
ゆつたりと藻のしなひをる野分かな
図書館の知識のにほひ夜の秋
天涯に鳥のかほある桔梗かな
洋梨とタイプライター日が昇る

※「第2次 未定」第八十九号及び髙柳克弘句集『未踏』は、それぞれ編集部・著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)「第2次 未定」第八十九号 五月三十一日刊
(*2)関悦史「全体と全体以外――安井浩司的膠着について」(当ブログ第二十七号)及び関悦史「閑中俳句日記(01)永田耕衣句集『自人』」(同第三十三号)を参照
(*3)髙柳克弘句集『未踏』 ふらんす堂 六月二十二日刊

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