2009年3月28日土曜日

現俳協シンポ(宇井・田中他)

極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(後篇)

                       ・・・関 悦史


金子兜太講演後の休憩が終わって、午後2時40分からシンポジウム開始。

まず総合司会・橋本直氏から今回のパネラーと司会者の簡単な紹介、パネラーは荻原裕幸氏(歌人)、城戸朱理氏(詩人)、田中亜美氏(俳人)、須藤徹氏(現代俳句協会青年部長)の4氏で、司会者が青年部の宇井十間氏。その宇井氏の主旨報告から。

宇井十間 《今回のシンポジウムは、これまでに現代俳句協会青年部の勉強会で阿部完市、鈴木六林男を取り上げてきたのに続く前衛俳句を再考する企画の第3回に当たるわけですが、この企画の立案の動機は、今の俳句状況に対する違和感を言葉にしたかったということです。今の俳句が可能性を尽くしているとは思えない。それに揺さぶりをかけるため読まれていない前衛俳句を読み返したかった。歴史的名称としての「前衛俳句」に対して、そもそも価値がない、あるいは存在しないという結論が出る可能性もありますが、そうなったらそうなったでいいと思っています。

その時代その時代への違和を「前衛」と呼ぶべきか。例えば普段「伝統」的な俳句として読まれている鷹羽狩行や飯田龍太は必ずしも「伝統」の枠内には収まっていないのではないかとも思われるし、一方に外国人の詠み手による国際俳句が盛んになっていく中で、俳句の概念が不安定に理解されていっているという状況がある。これは歴史的な意味での「前衛俳句」と似てはいないだろうか、だから今読むのも面白かろう、先入観なく再評価したいということです。

パンフレットには「戦後俳句略年表」というの(年次とその年の主な句だけを並べた3ページほどの表)が載っていますが、実は僕は「再考」と年表とは相容れないのではないかと反対したんですね。》

ここからスクリーンを使ってのプレゼンテーションとなり、引き続き宇井氏の話。

宇井 《中村草田男の句集『銀河依然』(1952年)の跋文で草田男が「叙情性・詩性」から「思索性」へという見通しを示しているのが、その後の「伝統俳句」から「前衛俳句」への動きを予言しているように見える、はたしてそれ以外の第三存在は可能なのか。

造型論の「イメージ」は「メタファー」とほぼ等しいと思われるが、反対に阿部完市はオートマティズム的に概念レベルではなく韻律レベルでアノマリに向かっているのではないか。アノマリというのは概念的思考に収まりきらない外れるもの、つねにそこから離れるものを指すのでメタファーとは反対です。メタファーというのは概念と概念とで作られるものですから。

草田男は形而上と形而下両方の要素があって観念論的とか独善的とか言われ、後続との軋轢を生んだ。これは「前衛」と似ているのではないか。》

「国際俳句」の作例も数点紹介された。インドの俳人の「彼らは信じる/彼らは信じない/彼らは信じる」という当地の宗教対立事情を踏まえたと思しき作品、台湾出身・アメリカ国籍の俳人の「無限/それから水平線に/釣り船」という作品など。

宇井 《句会でこういうのが出てきたら「これは俳句じゃないよな」となるでしょうが、従来の「俳句」の概念に入っていなくてもそういう作品が現にある。》

ここまでで「俳句」及び「前衛俳句」という概念規定を揺るがせようという話が一段落。以後、パネラー4人が順番におのおのの基本的な視座を話していく。

田中亜美 《「前衛」とか「新興」とかでの二項対立という図式自体が古いのではないか。そういう二項対立を超える動きがあちこちで出ていて、例えば「豈」39号関西篇での前衛俳句特集――大変いい特集でしたが――や、自分が所属している「海程」でも林田紀音夫を読み直すという企画が進んでいます、さらに片山由美子・櫂未知子ら(明らかに前衛の系譜ではない俳人たち)の編纂で去年刊行された『覚えておきたい極めつけの名句1000』(角川学芸出版)にまで金子兜太、林田紀音夫の句がけっこう収録されているんですね。

辞書的には「前衛俳句」とは――角川の辞典で「前衛俳句」の項目は阿部完市が書いているんですが――「積極的表出活動を求める」「前駆的」(な傾向の作品で)、「無意識」の領域を探る、「俳諧・有季への固着を超えるもの」「社会性俳句に直接して出現」したもので、そういう歴史的な意味での前衛俳句とは別に「俳句前衛という志は常に」あるというふうにまとめています。

私はもともとパウル・ツェランというドイツ語の詩人の研究をしていまして、そもそも戦後、言語を絶する物事をどう表現して言語化していくかという問題があるわけですが、そういうところから金子兜太や阿部完市に通底するものを感じています。》

荻原裕幸 《「前衛」という言葉、雑談でもあまり今使いませんが、短歌の方がこの「前衛」という言葉を出せますね。

短歌をやる人たちというのは歴史好き、年譜好きな人が多くて(宇井さんはパンフレットに年譜を載せるのに反対とおっしゃっていましたが)、ここまで(宇井さん、田中さん)の話を聴いていて、こんな一般論のどこにでもあることを俳句ではなぜ言えるのかと思いました。個々の興味深い事象はあっても(俳句界全体が俳句の)歴史を共有していないのではないか。

短歌で特徴的なのは、金子兜太さんのお話で「嘘がつける」というのがありましたけれども、一から七か八くらいくらいまでは自己言及なんですね。〈私〉をどう描くか。

前衛といえば短歌ではいわゆる四天王(塚本邦雄・岡井隆・寺山修司・春日井建)のことという共有されている解がありまして、これは菱川善夫という、評論だけに特化した評論家が作った枠組みです。俳句では高柳重信は作家・評論家・編集者と一人で何役もこなしていた(ので、そういう枠組みが共有されにくかったのかもしれませんが)。

短歌では今、「前衛」という語は(討論の際などの)見出しには出ない。70年代に特集記事や論が集中的に出て、それが終わった後は(もう)定着しています。》

城戸朱理 《前衛俳句や前衛短歌というものは時代性の中で位置づけられるわけですが、前衛詩というものはないわけです。詩は『新体詩抄』から先、全部前衛だったのではないか。

明治まで日本人にとって世界というのは唐(中国)・天竺(インド)・日本の三国だけだったわけですが、欧米列強の脅威にさらされ、自らのアイデンティティを探らなければならなくなった。そのとき初めて旧来の俳諧や漢詩等ではない新体詩としての自由詩が始まるわけです。

この呼び方は大正にはもう使われなくなりますが、基本的には(新体詩といっても)五七調・七五調でした。それが萩原朔太郎によって終わります。

欧米のような詩を(という欲求)から始まったのが新体詩だとすれば、それ以後の詩は海外のアヴァンギャルドから直接影響を受けたものと言えるでしょう。

いま2009年に「前衛」をめぐるシンポジウムが開かれるというのも趣き深いといいますか、マリネッティ(イタリアの詩人)が「未来派宣言」を発表したのが1909年で、今年はそれからちょうど100年目なんですね。1914年に第一次大戦があり、その後1916年頃にツァラによる「ダダイズム」の命名があって、その前にエズラ・パウンドによるイマジズム運動、これは俳句から影響を受けたものですが、これがさらに英語圏のモダニズム運動へと繋がっていく。

この(ダダ発生の)頃のチューリヒというのは兵役拒否の連中が集まっていてレーニン、ジョイスなどもいたわけですが、ここからヨーロッパ各地に(ダダが)飛び火し、パリではダダを離脱したブルトンが1924年に「シュルレアリスム宣言」を出して美術へも広がっていく。これらの動きが(わずか)数年のタイムラグで日本にも紹介されています。そこに「前衛詩」という名が存在しなかった理由がある。

自由詩は形式を考え続けること(自体)だけが形式なので、そのつらさから逃れて詩人が俳句に行ったりすることもあるわけですが、大体詩人が俳句をやるとどうしようもない伝統俳句を作ってしまう。

詩では俳句や短歌の「前衛」に当たるものは「戦後詩」と呼ばれています。田村隆一をはじめとする荒地派などですが、西脇順三郎の影響が非常に大きい。西脇はオックスフォードに留学していて1922年に出たジョイスの『ユリシーズ』やT・S・エリオットの『荒地』に生で接している。それが帰国して旧来の詩と違うものを作ろうとする。現代詩と呼ばれるものの発端は西脇ではなかったか。詩集『Ambarvalia(アムバルワリア)』(1933年)、この「アムバルワリア」というのは豊穣の女神への祭を意味していますが、その巻頭に収められた「天気」という短い詩は「(覆された宝石)のやうな朝」と始まる。新たな世界、世界が自らを語る。ここには「私」がない。私の感情ではなく言語が、世界が自らを語っている。

(戦後詩誌の)『荒地』は前衛俳句と並行していて、メタファーとシンボルによって語りえないものを語ろうとしている。(ところが逆に)その中で今日最も偉大とされている田村隆一は直接的・明示的な言葉で書いています。それが散文とどう違うロジックを作りあげるか。「水」という詩の場合だと…》

どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ

神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある

           (田村隆一「水」全文)

《…とメタファーではなく、非常に散文的で、中国的な対句法のような方法で構築されています。》

須藤徹 《今回のシンポジウムのテーマ、『「前衛俳句」は死んだのか』というのは大変困って苦し紛れにこういうタイトルになりましたが、『未定』という雑誌の方で「詩は死んだのか」という特集企画が進行中で、『「前衛俳句」は死んだのか』というのと「詩は死んだのか」というのとは若干違っています。

アノマリ(非定型性)という言葉が出ましたが、阿部完市の句は固定観念からの解放で、観念がないことを特徴としている。意志はあって、何をどうというところが脱落している。

(前衛俳句については)飯島晴子は、前衛俳句は時間をかけて俳句形式そのものに滅ぼされたのだと言っている。折笠美秋は、前衛――それは去ったのであり、来つつあると、ロラン・バルトは(前衛とは)何が死んだのかを知っている(ものだ)と言っています。》

以上で最初のプレゼンテーション一巡が終了。

各々の基調報告を踏まえて司会の宇井氏が田中氏に「ツェランと阿部完市の通底とは、具体的にどういうところが」と訊き、田中氏はそれよりもと「前衛俳句」の理解が短歌に比べてバラバラなことに驚きを示し、「前衛」の規定をかすめるような堺谷真人氏(だったか)の「(前衛俳句は)ありとあらゆる実験で(俳句の領域)を広げた。何を・どこまでというのを一度徹底的にやってくれた」という談話を引きつつ、ツェランの詩には言葉を刈り込んでいくことで俳句と通じるものが出てくるのではないかという仮説を抱えていると返答。

次に宇井氏から荻原氏への質問。

宇井 《どうして「前衛短歌」がニューウェイブ辺りからよまれなくなったのでしょうか?》

荻原 《80年代くらいに文芸全般ですごく大きな断絶があった。俳句ではどうだかわからないのですがポストモダンと呼ばれる動きですね。》

宇井 《断絶とはどういう?》

荻原 《例えば私の師匠である塚本邦雄に、「青春」という語が入っているこういう歌があるんですね。「ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春」(会場、微妙な笑い)。この青春という言葉、当時でもギリギリだったんですが今はもうありえない。皮肉としてすら効かない。短歌では“私語り”を超えようとして、前衛短歌の後は、結局“私語り”に戻ってしまったのではないかという気がします。》

城戸 《短歌は端的に“私語り”なので、変わったのは世界の方ですね。日本では「人生五十年」と言われてきましたが、これは『往生要集』にもともとそういう捉え方があって、40代はもう「老人」だったわけです。それが1960年前後に平均寿命が60まで伸びた。

それ以前は確かなものだった「冷戦構造」とかがあって、それに向かいあって自分の位置を定めることが出来たんですが、80年代以後、情報社会となると「世界」が多数化してその分裂が「私」に及び、ニューウェイブ系以後の日常性が出てきた。

なぜ20世紀初頭にアヴァンギャルドが現われたかというと、そこで認識・精神が激しく揺さぶられるということがあったからです。19世紀と20世紀では、馬車やガス灯から自動車・電気へと世界・生活が変わっていて、マルコーニが1902年に無線を発明し、ライト兄弟が1904年に飛行機を飛ばすことに成功する。距離感が変わるわけで、オリエンテーション(所在意識)をテクノロジーが変えてしまった。十五年戦争を経て前衛短歌・俳句は、言葉にし得ないことをいかに表現するかを迫られた。数年前、読売新聞に俳句に潜む前衛性について書いたのですが、つまり俳句形式には本質的に前衛性が含まれているのではないか。》

須藤 《時代性について言うとヨーロッパではジャン=フランソワ・リオタールが大きな物語の終焉ということを言ったわけですが、それまでは例えばモダニティ、産業革命、殖産興業、戦後民主主義、労働運動、そういった一つの大きな物語に向かっていた“幸福な”時代でその中で社会性俳句も出てきた。しかし80年代以降、大きな物語が見当たらない。一人一色になってしまった。阿部完市の俳句など、反写実的にメタファー、アイロニー、リズムの変化などで私性・日常性を超克しようとし、フィクションとしての言語の構築をはかる方向が出てきたが、大きな物語がないと危なくなってくる、共通項がなくなってくる。》

これに荻原氏が革命挫折以後の変化ではとの補足を入れたのを受けて、城戸氏が「68年革命」前後について語る。

城戸 《ソ連の冗談に「一番信用出来るのが時報、次が天気予報、一番信用出来ないのがニュース」というのがありましたが、ソ連は強制収容所で200万人ともいわれる死者を出し、中国も大躍進政策の失敗で200万から2000万人といわれる餓死者を出している。イタリアやドイツの極左はテロに走り、モロ事件(イタリアの元首相が誘拐殺害された事件)まで起きた。こうした社会主義の「死の論理」に対して、資本主義はひたすら生(セックスを含む)の称揚に走る。その図式自体が91年に(ソビエト連邦崩壊によって)消失し、一人一人しかいない個人鎖国の状態になってしまった。ただ日本では文化は大体鎖国の時期に生まれています。菅原道真が遣唐使を廃してから国風文化が現われ、江戸時代に歌舞伎をはじめとするいろんな文化が花開く。いま「オタク」というのは海外では非常にポジティヴに扱われていますね。ポスト・ヒューマン展といった展示があるとオタクが人類の新しい姿みたいなことになっている。そんな立派なものだろうかと思いますが(笑)。芸術に関わる人間にとって90年代以後というのはジャンル自体が揺らいでいる時代ですね。

フランスの海外県(旧植民地)にマルティニーク島というのがあって、ノーベル文学賞を取った詩人のデレック・ウォルコットもこの近くの出身、ウォルコットは英語圏の詩人ですが、マルティニーク出身のエドゥアール・グリッサンに『全‐世界論』という素晴らしい本があってグリッサンはそこで、世界は列島化した、かつての世界もない、それに向かい合う“私”もないと言っているんですが、そこをまともに引き受ける力があるのは詩(詩歌)ではないか。》

ここで司会の宇井氏から《草田男が今生きていてもやはり(かつての草田男の個性・個体性に則り、その延長上の)同じようなものを作っていたのではないか。(何でもかんでも世界状況に還元する)世界状況論は限界があるのではないかと思うんですが。》という疑義が入り、城戸氏がやや別の方向から応対。宇井氏が冒頭の主旨報告で外国人俳人たちの各国語での実作を引きつつ触れた「俳句の概念自体の自明性が世界俳句の発生によって揺らいでいるのではないか」という視点に反論する。

城戸 《俳句というのは日本語からしか生まれません。日本語とあと韓国語以外の言語は全部主語論理、それに対して日本語は述語論理で出来ています。『源氏物語』がものすごいのは、あれだけ大勢の登場人物が出てくる大長篇をほとんど主語無しに書きついでいて、これは誰の動作、誰の発言なのかが語尾の尊敬語の違いからしか判別出来ない。これを現代語訳するときに谷崎潤一郎は主語を補わないままでやり、与謝野晶子は主語を一々補って訳した。だから与謝野源氏はわかりやすいわけですが。(外国語での実作例に触れて)主語論理で成り立つのは短歌で、(俳句は)“私”が表現に織り込めるほど長くない。俳句は切れの効果で別な要素が入って別な世界を開く。例えばエズラ・パウンドは「落花枝にかへると見れば胡蝶かな」の、落ちる花びらと舞い上がる蝶の衝突というイメージの重層、ここからイメージが新しい世界を開くことを見て取った。あとブルトンが芭蕉のあれ、何だっけ、「唐がらし羽をつけたら赤蜻蛉」(笑)。ここからやはり重層性を見出している。諸事象、諸存在の出会いで今まで見えなかったものが見えてくる。

俳諧の発端に『新古今(和歌集)』があって、(雅な美意識の)正統派は「柿の木派」、世俗・滑稽の方は「栗の木派」と呼ばれた(註=有心連歌の「柿本衆(かきのもとしゅう)」と無心連歌の「栗本衆(くりのもとしゅう)」という呼称が一般的か)。俳諧は固定観念からの解放という要素が最初からあった。俳諧の「俳」の字は(中国の)春秋戦国ではもともと、変わったことをして人を楽しませる人を指した。同時に方法論として十七音まで切り詰められたため、“私”を容れる余地はなくなった。この、俳句自体が持っている前衛性は未だに何一つ失われていません。》

この後質疑応答が2、3と、安西篤氏(現代俳句協会幹事長)の閉会挨拶があってシンポジウムは終了となり、上の階に場所を移して懇親会。移動のときに池田澄子さんにお会いして少し話すことが出来た。シンポジウムが始まる前に懇親会参加希望者は受付でその会費もまとめて取られ、領収証代わりに名札を渡されるというシステムになっていてそれを首から提げていたのでこちらが誰だか判ったためである。迷子札のようだが顔の知られていない者には役に立つ。

懇親会では主に城戸氏と立ち話していたが、城戸氏、懇親会場でマイクを渡されては次々にスピーチする俳人たちを見て「俳人は皆さんよくしゃべって、しかも話が面白い」と妙なところに感心されていた。詩人は大体しゃべっても1分以内なのだそうで、本当ならば両者がいる場合、乾杯の音頭などは詩人にとってもらった方がよいかもしれない。

宇多喜代子氏とも田中亜美さんらと3、4人で囲んでの立ち話。青年部の勉強会、「前衛俳句再考シリーズ」の第2回のテーマが鈴木六林男だったのだが、そのときのメインが宇多氏による六林男との思い出話だった。出席していた私がザッと取ったメモを田中さんも後で見ていたもので、体験談の生々しさが貴重でありがたいなどと皆で言い合っていたら、宇多氏、何やらおこがましい真似をしてしまってもうしわけないといった風情で頻りに恥ずかしがり、消え入らんばかり。

懇親会がお開きの後、さらにパネラーと司会・総合司会の6人も引っ張り込んで十数人ほどで近くのファミレスに移り、コーヒーまたは生ビールの飲み直し。名古屋から来ていた荻原氏は新幹線で帰るため中座。一部はさらに三次会へ流れた。

       *       *       *

以下はシンポジウムを振り返っての私の雑感。

「前衛」という否定すべき相手、対峙する世界が明確であった時代に有効であった身振りが現在はおよそ無効になっているとはいえ、その中でいかなる更新が可能かということを制作する者は考えないわけにはいかず、その模索の一環が今回のシンポジウムだったのだろうが、「前衛俳句」が仮に「死んだ」のだとしてもその中心人物であった金子兜太は「死」なず、現在も旺盛な自己更新を続けていることにまず興味を引かれた。

前半の金子兜太による講演と後半のシンポジウムの話題とが直接にかみ合う局面はなかったのだが、シンポジウムでパネラーたちの討議が、主に「前衛」への時代状況の影響を検証するという形をとっていたにせよ、その底には未だ見えない今後の新たな更新のありようへの模索という動機が潜在していると思われる。ところがその討議とは無関係に「生き証人」として登場したはずの金子兜太が「前衛」の時代以後も、「一茶」や「山頭火」や「アニミズム」へと自在に跳びはねつつ、易々ととすら見えかねない柔軟さで変容を続け、存在感を示しているのを見て、私は思わずデュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を連想してしまった(そしてそこから新たな説話論的類型を引き出すことにより、それ自体がひとつのシュルレアリスム作品であるかのような奇妙な本となったミシェル・カルージュの評論『独身者の機械』をも)。

別名「大ガラス」と呼ばれるデュシャンの作品は、画面の下半分で機械の姿をした9体の「独身者」が不毛な欲望の運動を展開しているのだが、間仕切りで区切られた上半分にいる「花嫁」にはその欲望は永遠に届くことがない。大枠の確認に終わって個々の作品の再検証にも、否定による更新という弁証法的なあり方自体の有効性の吟味にも踏み込めなかったシンポジウムでの討議と、一方、生身の直観的な飛躍をもって変容を繰り返している金子兜太との関係にその「独身者たち」と「花嫁」がそっくり重なって見えてしまったのだ。シンポジウムというのは概ねパネラー相互の話が化学反応を起こして新たな地平を閃かせることは稀で、それこそ機械的に個々のパネラーに二巡ほど発言の機会をまわせば終わってしまうことも多くて、聴いた側が個々にそこから考える契機をひとつでもふたつでも掴みとって帰れば一応の成果とはいえるというものだし、第一この図式では欲望される対象たる「花嫁」が金子兜太になってしまうのが少々不似合いではあるのだが。

近過去の事象を歴史に繰り込み、定位する作業に熱心だという現代短歌と引き比べるまでもなく、「現在」と「前衛俳句」との関係はごく曖昧なものに留まっている。個々の句を文学テクストとして読み直すというのであれば、背後の時代状況との癒着は「死んだのか」どころではなく一度殺さなければならないのだし、そうした手順を経て歴史化されたものだけが古典として新たに生きなおすことが出来る。ちなみに歴史学は評価の学問であり、現在から見てどういうどれだけの重要度がある事象であったかという視座によって過去の事象を組織立てる。「歴史」は常に「現在」との相関関係の中にある。ルビコン川を渡った者は過去数え切れないほど大勢いたはずだがその中でユリウス・カエサルの渡河のみが特筆されるのは、それが現在の世界がかくのごとき姿となるについて大きな影響があったと評価されたためである。

ことは既に終わった過去の文学運動の生成過程を検証してみようとか、その中で今でも価値のあるものは認めてやって再利用しようとかいった暢気な話ではない。「現在にとって前衛俳句とは何か/前衛俳句にとって現在とは何か」がという関係がまともにマッピングされていない(またはされていてもその認識が「大きな物語」の消失により共有されていない)ことが露になったというのが今回のシンポジウムでの逆説的な成果のひとつであろう。精神分析的には、抑圧されたものが再帰すると「亡霊」となる。マッピングがなされておらず、きちんと死なせていないから生きもしない「前衛俳句」は今後も当分しばしば亡霊として視野に浮上することになるのだろうし、また亡霊を呼び起こしてしまう現在のわれわれの側には、おそらく古典化・歴史化の作業が曖昧に滞ることにより、われわれの現在はついに古典となりうる作品を残せず、歴史の中に然るべき位置を与えられて安置されることもなく、空虚に四散してしまうのではないかという畏れが肚の底に秘められているはずである。「新人」や「若手作家」は今後も幾らでも出てくるだろうし、「新鮮な」作品も幾らでも出てくるであろうが、それが「新しい」かどうかは別である。そして近代の文化・芸術史において古典の位置を占めているものは、その都度その都度当時の前衛であった「新し」かったものばかりなのだ。

過去を歴史化し古典として生かすということは、「前衛俳句」の荒々しく否定的な更新の身振りや雰囲気を恋い真似て「リヴァイヴァル(再生・復興)」することではなく、過去の作品群を「リファレンス(参照・引用元)」に繰り込み、共有されうる土台とするということにほかならない。例えば『新古今集』の『古今集』に対する関係がちょうどそうであるように(そうした意味で田中亜美氏が紹介したような、伝統系俳人による入門的アンソロジーに「前衛」俳人たちの句がさしたる身構えもなく編入されているという事実は相応の意義はある)。

それにしても「前衛俳句」の当事者たる金子兜太が60年代を「あの保守化の雰囲気の中で」と捉えていたのはやや意外で印象的なことだった。その年代に生をうけていなかった者からすると60年代といえば前衛芸術・アングラ文化の百花斉放の時代と見えてしまいがちだからで、当時にしても別段新しい領域を切り開くのに恵まれた時代にいると当事者たちが感じていたわけではなかったのだという当たり前のことに気づかされたからである。

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3 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

関さん、本当にご苦労様、

私が、びーぐる三号に連載している「俳句時評」には、間に合いませんでしたが、大変貴重な資料です。(正岡子規国際俳句賞の金子兜太受賞についてふれています。目に付いたら立ち読みでもしてください。)

① シンポジウムは、流石にビビッドだったんですね。久しぶりに大上段にそれも概念から「前衛」とか「ダダ」とか連呼されるのを読んで、面白かった。

② 俳句の前衛たち(とうじの、狭義の「関西前衛」のみではなくー高柳重信や鈴木六林男も含めて)が、俳句以外の戦後文学や戦後詩の影響を受けていることを、今改めて認識できた機会であったように拝見しました。
③《関西の前衛俳句特集》、(「俳句空間—豈」特別号関西篇(39号ー2)に触れて頂き、ほっとしました。そのころまだ入会ほやほやだった関西の若い豈同人の努力が報われた気がします)。

④ 金子兜太、河原枇杷男氏が、今年の「正岡子規国際俳句賞」を受賞されたことは、良い意味でも悪い意味でも、これからの俳句の「革新」概念を変えてゆくと思います。

⑤ 兜太氏の受賞理由に、「前衛俳句」が「伝統俳句」を活気づけた、と言うように書かれています。伝統俳句のの新しい段階としてそこに吸収されたことを公的に認知されたわけです。これらが二項対立にならない時代には「前衛」って言葉は、もう死語なんだ、(そうなのかな?)という思いも湧きました。兜太氏は、別のところで「国民文芸」といういい方をしていらっしゃったのですが、こういういい方だけはして欲しくない。

まあ、そんな感想です。目下眼精疲労中なので、このくらいで。(堀本吟)

関悦史 さんのコメント...

堀本さん、レスが遅くなって失礼しました。労いのお言葉ありがとうございます(間に合わせはしたものの乱文がひどくてお恥ずかしいのですが)。

金子兜太本人の軌跡やそれに対する評価はともかく、「国民文芸」といわれる場合の「国民」とは、まずここで話されていたような内容には関心を示さない人のことでしょうね。

シンポジウムは「前衛」の後、いわゆる伝統俳句ではないことをやろうとしている人たちに対して、適当なレッテルすらつけようがなくなってしまった現状の再点検みたいなことになりました(それにしても「大きな物語」の終焉云々という話、今になってまたよくあちこちでよく出てきます)。

Unknown さんのコメント...

関さん、わざわざこたえてくださってありがとうございます。いま町内会の会合で出て、子ども達が遊ぶ公園の草取りの日程などをみなできめてかえったところです。国民とか市民、ご町内の共通意識、これも最近は感覚自体がとても事務的になっていますね。日常生活の必要に根ざしているので大事な面があるんですが、「大きな物語」が生まれようにもこういう次元での市民感覚自体が事務的に小粒になっています。

 「国民文芸」といういい方は、俳句上の「大きな物語」ですけれど、わかりやすすぎて困りますね。まさにこの小粒になった「大きな物語」の感覚を感じます。戦後の前衛俳句の帰結がやはりここに来たか、と言う想いです。
金子兜太氏は、わたしの受け取り方では、若い頃から現在までのレベルに破綻がありません。個人としてはいまでも現在進行形の優れた俳句作家だと思います。作品で、自分の越えているところが大きいです。これはすごいですね。

でも、我々の構想は人間関係や政治体制の共同の上にあるのではなく、あくまで言葉の次元の普遍性、「観念の場の勝負である」そういう文学文芸の前提があります。この観念の場所で我々が「大きな物語」を構想できなくなった理由と、金子兜太氏の「国民文芸」(たかだか)という発現は、おそらく同根の事態でしょう。