2009年3月14日土曜日

現俳協シンポ(兜太講演)

極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(前篇)

                       ・・・関 悦史

この前の国際俳句フェスティバルに続き、去る3月7日に如水会館で行われた現代俳句協会のシンポジウム『「前衛俳句」は死んだのか』を聴いてくることが出来たのでその模様をレポートする。

宇多喜代子会長、須藤徹青年部長の挨拶に続き、第一部は金子兜太氏の講演「前衛俳句を語る」。1時間ほどの講演で「前衛俳句」の中心人物による、その内側からの回顧談である。

以下はその講演を私のメモから適宜整理しつつ書き起こしたものだが、現代俳句協会のシンポジウムは毎回録音を書き起こしたものが文書になっているようなので、精確を期す向きはいずれ出るはずのそちらの記録を参照されたい。

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「前衛俳句」は死んだのか。秩父(の盆唄)に「死んだか生きたか沙汰がない」ってのがありますが、今日はこれからの(第二部の)ディスカッションが中心でしょうが、どんなに話しても結論は出ないだろうと期待してます(笑)。

1945年から70年くらいまで、戦後俳句ももう40年くらい経って私の中の緊張感が消えて、回想風に「前衛」というニックネーム・仇名がつけられた頃の話をします。パンチの効かない話になるんじゃないかと思いますが。

「前衛」というのが盛り上がって使われた時期は60年安保の後。たまたま角川の「俳句」に「造型俳句六章」というのを出してこれが起爆剤になった。高柳重信という非常に優れたのがいて、富沢赤黄男を《父》、三橋鷹女を《母》といって、従来の枠を外れた句を作り始めて、仕舞いには多行形式にまで行った。加藤郁乎とか、他にも評論家が関わった盛んな時期。重信が軸になっての「前衛」たちの活躍がまずあった。

造型俳句論というのはその10年くらい後、近い問題意識、同じような志向があって「前衛俳句」という言葉が出たきっかけで、今まで積み重ねてきたものが、ジャーナリズム的に一気に広がった。かなり地の厚いものであったということは云えると思うんですが、何か知らないけど造形俳句論を書いたらアンチテーゼが出たってことですかね、ジャーナリズム用語として。

宇多さんが言っていましたが堀葦男が前衛俳句について訊かれて難しいことしか答えられなかったというのは、つまり分かっていなかったんですよ。定まった前衛俳句というものはないんで、あるのは個別の前衛。高柳重信の前衛とか、佐藤鬼房の前衛とか…。

第一次大戦後のアヴァンギャルドもキュビスムも出れば何も出た、(共通しているのは)ただ前向き。向いている方向が従来と事実上決別していたということ。現実を、主体を大事にして再構成した。

本当は須藤さんに言われてね、一人一人句を挙げてここが前衛と言ってみたかったが多くてやめた。そこで「造型俳句六章」から類推してもらいたいのでこれを解説したい。「前衛」というニックネームを呼び込んだ論ですが、こう(「造型俳句」と)言った途端に皆さんが幼稚園生のような顔になってしまって…。気楽に聴いてください(笑)。

山口誓子のいた神戸が非常に盛り上がっていた。東ナントカとか(東京三=秋元不死男のことか)、八木三日女、鈴木六林男、それから伊丹三樹彦、永田耕衣、赤尾兜子といったあたりが集まっていて、関西俳句懇話会というのを作ってワアワアやっていた。「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」(誓子)というのを何となくその熱気の中で読み返そうと思ったんですが、情景は誓子らしくいかにも現代、リアル、表現もまことに的確。ところがいくら読んでも思想が見えない。

そこで誓子さんを訪ねたんですが、奥さんの波津女さんがまず出てきて、誓子先生はフンドシ一丁で元気そうでしたが、死んだ新じゃないですと言われましたが、この人の思想は何だ、リアルではある、しかし何だ、虚無的な心情なのかなと考えていたことを思い出します。

秋桜子が「「自然の真」と「文芸上の真」」で叩きつけた主観というもの、私はこれ面倒臭いから《心》と言いますが、その心が入っていない。

誓子の場合は虚子門にいて、題材・現代風景で非常に高く評価された。企業家なんかからも評価されたので誓子の句碑ってのは多いんですが、どういうことを考えていたのか(その思想)がわからない。秋桜子の場合は(思想なんか)ないのが分かっているんですが(笑)。誓子は本人に聴いてもよくわからん。思想ってのは生(ナマ)のイデオロギーというのは信用できない。誓子の肉体化された思想を見るためには作品を見る。作品から誓子の思想を読み取る。評論はどうとでも誤魔化しがきくから。

現代風景というのは《物》ですな、思想というのは《心》。誓子は《物》はしっかり描いていても《心》はない。これでいいのか?

新興俳句に期待したのは思想(つまり「文芸上の真」)なのに、《物》に負けない《心》の量・質がなきゃいかん。それをやるためにはと思って先輩の句を読むわけですが、どれを読んでも《物》《心》のバランスを取ってというのが少ない。そこで《創る自分》を作って融合させる操作・テクニックが必要になってきた。もっときれい事な草田男の言い方だと《芸》となって馬鹿にされますが、それを堂々とやらねば遂げられない。

栗山理一さんが『俳諧史』という本を出しましてこれは造型俳句論の2,3年後ですが、そこに栗山さんが書いた内容が、芭蕉の表現論を祖述している。「赤冊子」にある「物の微」というものと、片や「情の誠」というもの。万葉以来「こころ」という字は書き分けがなされてまして「心(こころ)」というのは一人心、「情(こころ)」というのは二人心、どっちも心ですが、相手に向かうこころ《情》のまことがなきゃいけない。それが溶け合った時、ぶつかりあった時、本当にいい句が出来ると云っている。

これを栗山さんから教わって「アッ」と思った。俳句は五七五の最短定型詩、他とは違う表現論がなければならない。「野ざらしを…」や「古池や…」が句として成就するためには、短いから《物》というのが大事であり、また短いから《情(こころ)》というものが大事だと。

おそらく他のジャンルでは《物》んて云わないでしょう。俳句というのを書くには《物》がなければ、同時に《情(こころ)》がなければならない、そこで初めて《事(こと)》を得ることが出来ると。俳諧的方法、それを芭蕉は見抜いていた。歌や詩ではナンセンスでしょう、《物》でグズグズ言うのは。

誓子はこれを実現していない。《情(こころ)》が貧困。基本の図式を栗山理一さんが提示してくれた。《創る自分》が複雑な個、外なる現実・内なる現実を達成するのが大事、ここに主体が出てくる。《物》《情》の天然温和な成就・関係では済まされない。「赤冊子」には円満に実現するには「風雅の誠」を責めなければならない(とある)。理を、真実をというこの姿勢があって、しかし「風雅の誠」と言われてもまことに取り止めがない。考えないで作ってるヤツはいないだろう、現代俳句協会はそういうところだが、そう容易くはない。誠があっても芸が要る。好きな俳人たちの句を見てもテクニックが充分ではない。草田男のあの句は……書いて来たんですけど……「吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか」。草田男の第二句集に入っている句ですが、三日月というもので「物の微」、宿してくれたのかなあという妻への愛情で「情の誠」と両方入っている。一つの理想型ですが、しかし「アヅマ カノ……」(朗誦してみせて)、もう少し何とかズバッと言えないか。そこで映像・イメージを創るって作業、それが加わればもっと簡潔になるんじゃないか。草田男とは論争してますが、草田男は五七五のリズム、芸、どう書くかに最初あまり興味がない。詩形の味に興味がない。芸について鈍感、無視。本人が芸と言ってるのに。

それを実践出来たと思って自慢出来る句が長崎で作った「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」

この句の持つ映像性が草田男は理解出来ない。リズム感もよく分かってない。あの人が分かってんのは季語と定型。こんなガタガタしたのは駄目だと直しやがりまして、どう直したかは腹が立つから覚えていません。草田男は映像作っているうちに真実が逃げると思っている。「勇気こそ地の塩なれや梅真白」。これも渾然とした映像には出来ない。草田男の限界。

わが師、楸邨の「隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな」。これも物に傾き過ぎで楸邨という人は情はもっとあった。

これはと思ったのは白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」。これはモデル(になった建物?)があるんですが、主体対現実、物や感情の映像化(が出来ていて)、それを造型的に書けば(このように)単純になる。

栗山さんは一章を付け足して(造型俳句論を)「風雅の誠」をテクニカルに、まず映像を考えた、芭蕉の現代版である。伝統の破壊などという人がいるが、これは伝統の路線上にある…と、そこまではっきりは書いてくれていませんけど(笑)。喜びました。五七五だけ(が大事)だと思って勝手にやっていたら、(理論的に古典の線上に位置づけてくれた)ああ、ありがてえ。

あるとき栗山さんと呑んでいたら、あの人は酒豪で食べ物に手をつけない。私は食うばっかり。栗山さんの行きつけの店だったんですが「こちらの若い方、食べるのが早いわねぇ」と叱られた。栗山さんがニヤニヤしていて、「俺は君のことを褒めたばかりに(『俳諧史』)での文部大臣賞を逃したよ」。私としては非常に良い気持ちで、以来「さん」ではなくて「先生」と呼んでいます。

同時に角川の「俳句」に連載してくれた塚崎良雄という編集長、あの保守的な雰囲気の中で、サーカスのピエロのような役回りだったのに、敢然と連載してくれて、(造型俳句論への賛か否かを問わず)前衛といわれた高柳重信などの句も掲載してくれた。孤軍奮闘して、それでやがて角川にいられなくなって、あの、金子光晴の全集出したところ(中央公論社)に移った。私はそう見ています。懐かしい。

それに端を発して「前衛」が広まり、そのおかげでオマンマも食えたし、カリカチュアにもされた。栗山理一と塚崎良雄、この二人の顔が忘れられない。どっちも普通の顔ですが(笑)。

芭蕉が「風雅の誠」といったことを芸として、テクニックとして捉え返した、そういうことを思ったのは吉本隆明が『言語にとって美とは何か』の中で、俳句は宙吊り(サスペンション)の形式、頭も尻尾もなく浮いているがアメーバのように何でも入ると云っているのを読んだ時で、その宙吊りに映像もスポーンと入る。「ワンキョクシ カショウシ……」(自作を朗誦して)、ますます見事にブラーンと(宙吊りになって)、まことにリズムも良い。

「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」。これはイワシ漁が不漁になってやることのない漁師がブラブラして、ほとんど裸の女らが家にいるのが見えて、性行為以外にやることがない。性行為だけが楽しみで生きてる。ひどい、みじめだ(という句)。

これがずいぶん褒められて、村上一郎とかにも褒められて得意満面。「カレイナハカバラ……」(また自作を朗誦)ブラーンブラーンと宙吊りになる。これは映像にぴったりだと。(草田男の)「梅真白」とか「降る雪や」とか、よくやられてるがあの辺は序の口。しかも映像の功徳は、嘘・フィクションがつける、想像力が自由になってそういうことが出来る。

ところがそこで「前衛」が(周囲から)言われるようになったのは、60年代(安保後)の反動化の中で珍しいことやって、論まで書くバカがいる。その時の自分の気持ちは、こう、昂ぶって、バカバカしいけど面白そう、金子という太鼓叩いてるバカがいるという受け取り方と、一方「難しくてわからない」。その、わからなくなる、《難解》という言葉が同時並行で広がった。「当然そのうち滅びるだろう」(と云われた)。

高柳重信は頭が良くて政治性もある、あれは政治家の秘書志願だった男ですから。難解性を解消すればマシになる、言葉が大事だと云った。(私との)対談でも言っていましたが、「結構難解なことでも言葉さえ気を使えば伝えられる」。

阿部(完市)君の場合は伝達力があった。難しい言葉を使わず、ひらがなでやった。(金子兜太は)映像ばっかで、「海程」の句がわけがわからないと言われて、わけがわからないってのはないと思っていたら、(金子兜太自身にも)いくら読んでもわからないのが出てきた。もっと平明に、伝達を考えろ、抽象的なことよりもわかりやすい言葉を使え。

それでね。戦後俳句における「前衛」は一過性のものです。いろんな流派・エコール(キュビスムとかダダイズムとか)は出ません。そこは(第一次大戦後のアヴァンギャルドと)違います。フランスの(アヴァンギャルド)でも一過性が強い。個々の句(が問題)なんで、金子の「社会派」(というレッテル)とかはどうでもいい話。これは立体派とかの流派の名にならない。

ただ、自慢じゃないけど造型論の、(主体と現実の複雑さを区別した)考えは残るだろうが、「前衛」も個々の流派も残らない。個々の句の持っている実情ですね。阿部完市ほどの冒険をやる、大胆不敵なことをやる人が減った。まわりの顔色ばっか窺って。もっと前衛精神は要るんじゃないか。宇井君(今回のシンポジウムの司会者)が言っていた身体性とか、あの、何だ、アノ(アノマリ=非定型性)、そういう句の魅力ってのはあると思うんですけど、グズグズ言ってもしょうがない。以上が(生きられた歴史としての前衛俳句の)パースペクティヴ。中心が重信ですね。

[質疑応答]

Q.「切れのない散文的な俳句は前衛にはなりませんか?」

A.全くならない。五七五を外したら駄目。言ってることがわからなくても、リズム感・語感が親しめることが大事で、五七五軽視は成功しません。止めた方がいい。

Q.「作品と読者の心の関係をどうお考えですか?」

A.完全に切り離します。わからない人がいたらそれはしょうがない。

Q.「自作で最も《映像》の出た作品は?」

A.自分の句で「最も」というのはつらい。一つだけというのはないが沢山ある。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」。これは高柳が褒めた。それから「谷に鯉もみあう夜の歓喜かな」「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」、きりがない。「夕狩の野の水たまりこそ黒瞳」。これは自分の好きな句。(実際の)映像化は出来ない。評論家の村上一郎が褒めてくれて、これは切腹して死んでしまった人ですが、その自死後にお宅に行ったら畳に血が残っていて、壁にかかった色紙にこの句があった。ゾクッとしましたね。ああいう純粋過ぎる評論家の中にこの句が残った。

自慢すると、「出来た!」と思っても人が褒めないのが、後に褒められるのが多い。「梅咲いて」も高柳が褒めるまでほったらかしだった。(今認められない句も)大事にしておくと死んだ後で褒められるかもしれない。いま評判良いというのは(残るかどうか)十年後にどうなるか知れたもんじゃない。人の顔色は考えないでやった方がいい。

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ここまでで一旦、20分ほどの休憩が入った。
その間に例によって来場者同士あちこちで挨拶しあい久闊を叙したり、それぞれが持参した結社誌や記事のコピーやを交換し合ったりという光景が展開され、その後にシンポジウムとなるのだがそちらの模様はまた次回。

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