2009年3月22日日曜日

匿名批評について

匿名批評とは、の問いを、かなり、遅まきながら・・

                       ・・・救仁郷由美子

匿名批評に対して「豈weekly」で語られてきた事に別な角度から、発言したいと思います。

「匿名とか実名とかは枝葉末節の問題」との重信の言葉に対しての山口優夢氏の反論に、高山氏は「重信のセンテンスに述べられている認識」を否定するのはむつかしいと判断しています。そのように判断された側からすると、匿名批評にさらに逆撫でされた状態で、感情の発散の場は宙に浮き、恨みの感情のみが残るように思えます。

実名の批評であれば、少なくとも当の個人を嫌悪し、呪詛の儀式へと移行でき、恨みの持って行き場の収まりどころがあります。

では、匿名批評とは?

匿名批評という語の概念を再考してみる必要があると思います。再考しても「無責任・低次元」の発言は、山口氏の情念の内で生き続けると思いますが・・・。

今のままですと山口氏の匿名批評を否定する発言で終わっています。

山口氏は重信が匿名批評に対してあくまでも文学の領域において、判断をおこなっていることに対して、そのことを見過ごしているのではないかと思います。

文学における事実とは、あくまで虚構の世界に成り立つ「事実」です。私達の日常の社会における事実とは異なる設定をもとに組み立てた事実であるという、確認が行なわれていないように思われます。ノンフィクションとフィクションでは、「事実」の意味するものが異なる事を前提に高山氏は発言し、山口氏は社会における事実と同一視しながら、発言しているという行き違いの結果だけが残されています。

あらためてここで確認したいと思います。

文学における事実とは、想像を具体化し、言語表現によって仮説を立て、創造への扉を開く行為です。その前提があって匿名批評の正当性が確認されるのだと思います。そして、なおも匿名批評の意味とは、文学という虚構を構築することによって現実化(言語化・文字化)することです。つまり、架空の領土で架空の闘いを舞台化するために書き出すことです。それは、舞台における主人公が匿名批評に取り上げられた作家・作品であり、演出家が、匿名批評を書いた筆者といえばよいでしょうか。

ドグマとは、社会の場に属します。故に批評を書き出す者の指先に留まるものです。その指が、虚構性へと転化させていきます。高山氏のいう想像力はそのような場に顕現するものだと思います。この匿名批評の問題は、文学の問題の一つとして事実とフィクションの境界のあいまいさの顕われですから、匿名批評の可能性を開くことでもあります。以上、一言申しあげる次第です。

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