2009年1月23日金曜日

合評対談 最終回

A子とB子の匿名合評対談
「―俳句空間―豈」第47号読み倒し〔四・完結〕 マ行~ワ行の作者


真矢ひろみ「末世」二十句
B 
A子様、こんばんは。こちら席に付きましたが、今日は大丈夫ですか?

 こんばんは。問題なしです。

B マ行からということで、最初は真矢ひろみさんです。お好きな句はありますか?

 うーん、

時計塔のⅧの裏より見る枯野
憑きものを各々映し夜店たつ

ですかね。

 「時計塔の」は、二十句中で唯一、はっきり意味のわかる句ですね。「憑きものを」は中七「各々映し」をどう読まれました? わたくしここがよくわからず。

 夜店の怪しげな雰囲気を、憑きもので表しているのでしょうか。道に水がこぼれていたり、そこに映る夜店の灯も揺れている、まやかし。

B なるほど、そんなところでしょうね。わたくし、とにかく全体に思い込みの激しさばかりが目についてしまって。

 同感。とにかく、

声援は泳ぐリズムにSM会
ケータイを濡らす口裂け女かな
蛍光ペン引けば光に孕むごと
内分泌卍どもえにきれぎれに


といった句の「SM会」「口裂け女」「孕む」「内分泌」など、生な素材がそのままです。

 「声と俳」と題された短文では、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』(原著一九八二年/邦訳一九九一年 藤原書店)を引き合いに出して「連歌、俳諧は正しく声の文化であり」云々と言ってますけど、この俳句史の理解も出鱈目ですの。書記言語を前提にしないで、どうやって長連歌をやろうってのかしら。短連歌だって、短歌が書かれることで対象化され、上句・下句という分節が生じたからこそのものでしょう。表題句の

末世とは死語か緑雨を歩きけり

にしても、自分ひとり現在の末世の相を見抜いていると言いたいのかしら。

ブルースの六腑腐して七月尽

という句がありますね。真矢さんの内部にブルースが渦巻いているのは了解しましたけど、どうも音程外してると思いますの。

宮﨑二健「苦獄」二十一句
 次へ参りましょう。宮﨑二健さん。今回も、上から読んでも下から読んでもの回文俳句ですね。

奪胎大王の魚偉大だった
辛抱真悲し干し菜が舞う梵字

といったところで採っています。

 「奪胎大王」は、わたくしも。でも、全体に面白いと思いました。

陸奥惜しい遠目の夫婦石を積む

は、切ない風景が見えますの。

蚊帳よ死の魂と外股の初夜か

は、屍姦? エログロの極みだわ。お好みはともかく突き抜けてます。

その艾咬み汝は天使死んで花実が咲くものぞ

これもタナトスへと切迫してゆくエロスかしら。一方で醒めたユーモアが感じられるのもいいわ。

赤紙の来て魔笛の身がかあー

のこのヤケクソ気味な「かあー」もなんともアヴァンギャルド。醜悪美の世界ですね。

 これもまた芸風ですね。回文であるために先のような思い込みでなく、これだけの倒錯が可能とは。

 思い込みは思い込みでも、回文という厳格な規則によって思い込みが外部化されているのが真矢さんとの差なのでしょう。

 ふむ、エログロも、先のような生な言葉に頼っていないのですよ。せいぜい、今B子様が挙げた「蚊帳よ」の句の「初夜」とか、

枯れた歳よ夜尿垂れか

の「夜尿」とか。技巧を感じます。

 あと、転調の細かさにも注意すべきね。これも回文という形式の要請なわけだけど、言葉がベタつかないでどんどんホップしてゆくんですの。あとは句集になる時、どう編集するかで印象ががらりと変わってくるのでは。たしか宮﨑さんは邑書林の「セレクション俳人」のラインナップに入ってたわよね。楽しみにしておりますが、なかなか出ません。

 そう転調の面白さですね。短歌にも似て。

望月雅久「他者という地獄」十句
 次は望月雅久さん。『辺縁へ』(二〇〇七年 まろうど社)という句集は良かったですが、今回はぴんときません。全部、説明的に言い尽くしてしまっていて。モチーフはタイトル通り「他者という地獄」で、これはその通りとしても、モチーフがモチーフのまま投げ出されて終わり。これでは採れませんですの。

 皆、予定調和ですね。

向日葵の枯れの近づく乳房かな

くらいかな、自分は。

 わたくしもその句だと思うのですが、中七の「近づく」はどう解釈なさいました? 女が枯れた向日葵に向かって近づいてゆくのを、向日葵の方から近づいてくるというふうに転換したクローズアップと思えばいいのかな?

 そうでしょうね。逆転させて語っている、あるいは、時間としての近づき、ですか。女にも枯れが、ってことで。乳房だし。花の色はうつりにけりな……。

 向日葵のように豪華な豊満な乳房ということかしら。

A 豪華な乳房ってのも重そうで良いですね。

 たしかに、向日葵って枯れても立派ですわよね。ひとひねりした女人賛歌ということにしとこうっと。

森川麗子「逸抄」
 森川麗子さんです。短文では巫女系歌人の山中智惠子のことを書いてます。なんか今日は思いこみ系の人が多いのかしら。

 そんな回ですね。

苺市人の臓器を淋しめり
邂逅は薔薇の灰なり汝とわれ

というところですか。

B わたくしは、

ふとかげる無花果の木の塩気かも

「塩気かも」の着地の意外性に一票。A子様がお採りになった二句は、並びとしてひとつの風景になっているところがよいわ。秋桜子の「青春のすぎにしこゝろ苺喰ふ」(『葛飾』)を思いだしました。「薔薇の灰」は結構なナルシシズムですが、なにか青春の終わり、若さの終わりの空気はひたひたと迫ってきます。

A 「ふとかげる」も良いかなと思いましたが、B子様とは逆に「塩気」にひっかかってしまいました。「薔薇の灰」、おっしゃるとおり自己愛強しですが、アンデルセンの『錫の兵隊』の最後に、こんなシーンがなかったでしょうか。

B 全体に世界がある感じはするのですが、もう少し丁寧に俳句にすればいいのにと思いましたの。

森ひさ子「正法」十六句
 では、森さんへ。仏教用語満載の句が並びますが、あえて、

うろつく妹燐寸をすりながら

をよしと採りました。

 あ、不覚、見落としてましたの。たしかに面白い。八九の完全な破調と見てよいですか?

 はい、確信犯の破調ですよね。これは独特な世界の広がりがあるのでは。

 この静かな不気味さ、とらえどころのない孤独感。破調ですが、表現として決して恣意的ではないですの。

 で、他の句についてはどう思われます、B子様? ご意見お伺いしたく。

 タイトルが「正法」で仏教語入りの句が並ぶわけですが――本気なのかパロディーなのか、そこからして摑めなかったですね。

時を知る花のように得よ心身脱落
迷妄を破る音冴え真如の月

は、公式言語そのものだし、

緋ぞまつわる獅子吼谺す火宅僧

の濃ゆさはちょっと笑えますが、良い句かと言われれば……。

只管打坐暁天の菫半眼にて昇  ⇒「昇」に「しょう」とルビ

は、中七以下のイメージは美しいですが、「只管打坐」の語が浮いてしまっていると思うし。

 自分は、

神にはりつく広島の産声  ⇒「産声」に「うぶごえ」とルビ
ゴーギャンの癩の面影島に発火

とかちょっと惹かれるんですけどね。ご本人の意図されていないところで句が成立しているような。

 十六句のうち最後の四句だけ異質なのよね。「神にはりつく」の句は、凄惨かつ晴朗な呪詛という感じでインパクトはあるのよ。

 葬頭河の婆にて舌に這わせる蛆  
    ⇒「葬頭河」に「しょうずか」、「婆」に「ばば」とルビ

の句は、でもまあ公式どおりではないですか? 脱衣婆なんでしょ、蛆は近い素材。

 「神にはりつく」「ゴーギャンの」のあとに仏教系の脱衣婆の句が来るのも変な感じです。当然ヒロシマの太田川とのダブルイメージかと思えば、次に

死死死死死足下の花宗川  ⇒「花宗川」に「はなむねがわ」とルビ

という句がくる。花宗川って、森さんの地元の福岡県の川なのよ。混乱します。「ゴーギャンの」の句の「島」が、広島の「島」と重ねあわされているようでもあり……。この排列の意図、よく見えない。

 そうですよね、癩病の療養施設のある島ありましたよね、瀬戸内に。ゴーギャンの『ノア・ノア』の世界とダブらせてよいものかどうか。

 長島愛生園ですね。「癩」という言葉をやや無頓着に使ってる感じがしますね。それこそ「只管打坐」とか「火宅僧」といった言葉と同じように。どうも、考えをつめきってない部分が多い気がします。むしろ、広島とゴーギャンの二句がはらんでいる問題を、十六句全体のモチーフとして展開すればよかったのかも。

森須蘭「夜景」二十句
A 
次は森須蘭さん。

人の世の虹に大きな傷がある
寒いのは貴方の中の四畳半

かな。

休日の眼鏡を外すシャボン玉
猫の夜を遊び尽くして落椿

は次点というところで。

 わたくしは、

妻というグラスの中の蜃気楼

でしょうか。ただ、全体に余りに楽天的に書かれている印象を受けましたの。書けばそれで読者に通ずるとでもいうような。

 「妻という」の句ってそれこそナルシスでは? 水鏡をグラスにして蜃気楼配しただけじゃ?

 いやもう、その通り。妻たちのナルシシズムを許容する心なんですの。

 絡めあう腕五月の闇生まる  ⇒「腕」に「かいな」にルビ

も年相応問題に抵触しそう。

B その句は、作者から自立した感じがして、年相応問題はさほど気にならないわ。意外と、

黙読の続きの続き紅葉山

がよくないかしら。夢中になって本を読んでいるのでしょう。ふと気づくと紅葉。読書による人間の変化を、「紅葉山」が象徴しているような。紅葉山といっても、ほんとの山とかではなく、公園の中の丘とか学校の裏山とかそんな感じで。

 ふうん。季語に寄りかかっている句に見えますが。公園の丘は無理ですよ。やはり全山の錦繍でなくては紅葉山とは言わないはず。

B まあ、そういう山が視野に入っていればいいということで許して。

 その時期の奥日光あたりは本当に凄いですよ。読書なぞ手につかないほどの迫力です。人を圧倒する山としか。

 行ったことありますよ、わたくしだって。もう二十年も前になりますか。ふ~。しかしですよ、ものすごく面白い本を読みかけで行って、紅葉も凄いが読書も止まらないということもあり得てよ。宿にも泊まるわけだし……って、果たしてそれ以前にこれがそういう句がどうかも確実ではないですが。

 なんでしょう、その「ふ~」は? 宿うんぬんはB子様の体験上のお話と。まあ、この句はその辺で。

柳谷昌「夏」十五句
 柳谷昌さんは、

先祖代々貧乏で夏には強い

でしょうか。

いなびかり目のない魚釣り上げる

は、これはこれで成り立っているでしょうが、別の季語にすれば予定調和な感じをなくして、もっと意外性を出せたように思いますの。

眉のない顔のむかしを墓洗う

は、妙になまなましいユーモラスな句だわ。でも、この「むかしを」の「を」が「の」の誤植ということはないかしら。

 自分も「眉のない」、それから

大は小兼ねない西瓜買ってきて

を採っています。「先祖代々」の句って俳句なんでしょうか? もしや川柳の方?

 この飾らないところがいいんですよ(笑)。

A なんでも(笑)でまとめてますよ。そりゃ、共感を呼ぶってだけな。

B そんな、(笑)は本日初でございますよ(笑)。しかし、

朝顔が咲いたよ国際フェスティバル

とか、真顔で作ってますからね。「大は小兼ねない」だって、ちょっとした思いつき以上ではないし。

 でも、西瓜でこの詠みかたは初めて見ましたね。

 この場合、「兼ねない」のあとで区切って読むのですか、それとも区切らず西瓜にかかるのですか?

 どちらもあり、としたいですね。それは読み手にゆだねてあると。自分は両方にとっています。

山上康子「乱反射」二十句
A 
次は山上康子さん。

禾が突き空気の抜ける地球かな
昨年と同じ藪蚊の待つ墓標


と採ってます。

 その二句はわたくしも頂きますわ。

視線合わさぬ翁と媼半夏生

は、また共感呼ぶだけって叱られてしまいますかしら。

 いや、それはそちらのご事情では。「半夏生」に何か必然が?

 こんな季語はただの投げ入れですもの。

A そうだと思いますが。ただ、投げ入れの茶花と同じく、そこに世界が生まれるものもございます。これはそこまでとは。

 青大将の句が二句あります。

川風や青大将の楊枝づかい
軒ふかく青大将の棲み廃れ

これはもしや若大将シリーズの青大将なのでしょうか?

 おや、ほんとだ。自分はその次に並んでいる、

蛇の衣一週間の物忘れ

に引きずられて気がつきませんでした。

 そうなんですよ。次の「蛇の衣」のせいで、とうぜん蛇の青大将だと錯覚するわけですが、川風に吹かれながら楊枝を使ってますからね。しかし、「棲み廃れ」ていたとは。あの人は今、だわ。

A ふむ、「棲み廃れ」はよいですね。しかし、「蛇の衣」に「物忘れ」はあまりに近いですよ。俳人は蛇の衣って季語大好きですが、字面上からのイメージ膨らませすぎな感。実際見ると、そんなに感慨ないです。「会ってがっかり俳人」というジャンルがあるのですが、「見てがっかり季語」の範疇ですね。

 まあ、誰なの、それは? どうせ教えてくれないのでしょうけど。それはともかく、

軍帽を目深に馬を捨ててきし
軍馬捨てきし兵士今風となる

も悪い句じゃないかも。

A 「兵士、いま、風となる」ですか? 「いまふう」と読んでしまってました。「風となる」はしかし、古い青春詩のようでいただけませぬ。

山﨑十生「でりしやすⅤ」二十句
 山﨑十生さんにゆきましょう。

更衣して珈琲を淹れている
大西日いつも左の頬にかな
珈琲を日傘の影と思ひけり

と、採っております。

 自分は、

未遂とは美しきもの大西日
求愛のことば扇子と扇子かな

と採りました。

 二人とも扇子使いながら一方が一方に求愛するわけですね。余裕だわ。しかし、「未遂とは」は、それこそ古い青春詩のようではないですか?

 「求愛のことば」の句、鳥たちの求愛のダンスを思い起こすんですよ。扇子みたいに羽根をひろげてね。大西日は未遂の明日なのでしょうね。

 大西日が未遂の明日であるのはよいとして、それを「美しきもの」というのがどうなのか、ですね。未遂って美しいんでしょうか。わたくしはあまり説得されないわ。

 ああ、櫂未知子さんに「夭折と言へど夕焼より赤し」があるのでそれが影響してるかな。

 それはその櫂さんの句の方がよいですね。しかし、コーヒー飲みたくなってきました。暗示にかかりやすいんですの、わたくし。

 そちらのおとりになっている「更衣して」と「大西日」の句はどう読まれて?

 ごくごく、素直に。日常の中のささやかな幸福感といったものでしょうね。「大西日」の句の方がベターでしょうか。自宅のテーブルか、喫茶店かわかりませんが、いつも同じような時刻に同じ席で珈琲を飲むということでは。

 そうか、右の頬を打たれたら左を、とか深く考えてしまいました。

 それは考え過ぎ。もっともこの句に限れば珈琲とはどこにも書いてないですけど、珈琲でなくてもいいわけで。いつも同じ日常を反復する倦怠というのもありえますが、なんとなくこの句には静かな幸福の空気を感じますの。「更衣して」の方は、からっとしていて、でも乾きすぎてもいないところが良いんですの。

 さっぱり感はありますよね。うーん、でも季語としては梅雨に入っていく前の感じかなあ。

B え? 衣更えって五月でしょ。まだ一ヶ月あるわよ。

 ふむ、自分がずれてるのかしらん。卯の花腐しの頃のじめじめ感から衣だけでも開放ってとこ。綿入れから袷、袷から単衣ものという和装の頃の衣更えとやっぱり現代はずれがあるのでしょうね。

山本左門「白夜の色」二十句
 さて、山本左門さん。既視感の強いところが難ですが、丁寧は丁寧な句作りかと。

朝曇烏はらわたもて啼けり
筍に両性具有の匂ひあり
ひた急ぐ犬に会ひけりクリスマス
鉛筆にあをき匂ひや螢の夜
雪女ナプキンの立つ予約席
ふらここや過去と未来がすれ違ふ
パレットに白夜の色を溶きにけり
明るくて冷たき夜の華道展
コーヒーゼリー潜水艦の色に冷ゆ

などがよいかと。長打はないけどこつこつ打っている印象でした。

 自分は、

春の昼画鋲ひとつが狂ひ出す

それから、「ひた急ぐ」「コーヒーゼリー」です。

 「コーヒーゼリー」はいいとして、「ひた急ぐ」はなんか見たことあるんだなあ。そうそう、攝津幸彦さんに「柴犬も地獄へ急ぐ二月尽」(『鳥屋』)があった。

 「春の昼」の句、 画鋲が狂うって意味はとりきれないですが、鈍い金色ののっぺりした点から何か春昼のただならぬ気配が。

 「春の昼」は、まあ一種の表現の型をなぞってるところがありますね。

 筍が両性具有の匂いって? 宦官が独特の体臭がしたってのは読みましたがね。

B 「匂ひ」というのは鼻で嗅ぐ匂いでなくてもよいのでは。

  んじゃどういう?

B 辞書にも(1)赤などの鮮やかな色が美しく映えること、(2)華やかなこと、(3)かおり、(4)悪臭、(5)ひかり、威光――みたいに書いてありますわ。皮を剥いた筍のあの形状、つやつやしたなまっちろい質感に若いぴちぴちのお肌を連想するというのはわりと自然に思えます。とはいえ、「両性具有」という語が出てくるのは結局、文学趣味ということですけどね。この辺がどうしても既視感につながってしまうのだわ。

 匂いは若者の匂いってことなんですね。そりゃ雄蕊や雌蕊を持たないから両性具有かもしれませんが、それは知識を経由してきた言葉でしょうね。

 雄蕊、雌蕊のことまで作者が考えたかどうかはわかりませんが。「雪女」の句はどうですか? 高級レストランのテーブルセットの雰囲気を雪女で受けるのは、なかなか悪くない趣向のようにも思いますの。

  間接照明で、ですね。ナプキンの白が同列すぎて邪魔する気が。そんな、一陣の雪とともに現れるほど、冷えてないですよね、高級であればあるほど。

 リアリズムでこられると困りますわ。

 だって雪女なんて、どんなものにもくっつけられるんですよ。どこかに納得させるリアルをひとつ仕込まないと。雪女も俳人好みの季語で、あらゆるバージョンがありますから。

 鷹羽狩行とかずいぶん作ってますよね。

 なんでこの作者は有季なんだろう、と疑問ですね。

山本敏倖「紙と石」二十句
B 
では、山本敏倖さん。A子様、お採りになった句はありますか?

A 海市やら回教徒やらうさぎ

これがダントツでした。

 それは思い切った選ですの。わたくし前々回も申しましたが、字足らずが苦手で。この「うさぎ」はなんなのでしょう?

A 海市、回教徒、うさぎ、どれも脈絡のない言葉で構成されつつも、何かの世界の端緒であるように。うさぎが何だかわかりません。ただ、そこにウサギがいるとしか。ただこの順列組み合わせで見たときに、海の向こうに見える海市を、イスラムの民がたまたまそっちがメッカの方角で拝礼しているように、砂地にひれ伏して、そして砂地の穴に棲むウサギがいると。不可思議ながらありえなくもない。

 千夜一夜物語風の幻想と思えばよいでしょうか?

  幻想であって幻想でないかもしれない、そこに惹かれるのですよね。以前海の近くに住んでいたときに、高台の砂地によく、ウサギの足跡や糞がありました。飼いウサギの捨てられたものですかね。そのすこし小高いところからの眺めを思うのです。

 ご説明よくわかりましたですの。わたくしなどは、

取手行きにとっておきの春盗られけり  ⇒「盗」に「と」とルビ

の貧乏臭いユーモアがお似合いですわ。

 常磐線の取手? そんな、B子さまの絢爛豪華たる句の世界はどうしました? ゴージャスな虚無の句がお似合いですよ。

  取手は、もちろん常磐線の取手。奇想のようですが、この「春」の使い方は伝統にかなってもいますの。「行春にわかの浦にて追付たり」という芭蕉の句がありますが、春の湊とか春の泊りとか、「春」を擬人化した使い方が昔からありますよね。「取手行き」の電車で春が行ってしまったというのは、これは俳諧でございましょう。でも、常磐線のとっておきの春くらいでは、東横線では鼻もひっかけられないことでしょう。

 そうかなあ。東横よりずっと歌枕な土地が常磐線のが多くないですか?

B 筑波山が近いのは俳句史的には重いかも。もちろん、敏倖さんは日暮里のお住まいですから、ご自分の日常生活からごく自然に「取手行き」の言葉が出てきたのでしょう。「とりでゆき」と「とっておき」の駄洒落、「とられ」も含めての頭韻の効果を狙ったということもあります。ただ、取手からさらに水戸まで足を伸ばせば偕楽園があるわけで、取手の先にとっておきの春があるのは確か。作り手が偕楽園まで意識していたかはともかく。

渡部伸一郎「やほよろづ」二十句
 渡部伸一郎さんにゆきます。作品下の短文によると、渡部さんは、去年の暑いさかりに京都・奈良の寺社めぐりをして句を作られたのですね。それも昆虫に焦点を当てて。

 「カミサマは涼しいが、ホトケサマは暑い」って、けだし名言ですね。神棚より仏壇暑そうだもの。

 蝶とか蟻といった大雑把な目名ではなく、個別の昆虫の種類を細かく詠みわけてます。哀しいかな、こちらに全てを味わい分ける力がないのですが。

 先日の「豈weekly」に取り上げられていた、ドゥーグル・リンズィーさんの句と同じで、その名から特性を鑑賞しきれないもどかしさでしょうか。まあ、でも、海洋生物よりは多少わかるものも入ってますが。片仮名表記にしているのは逆に季題から切り離しているようで好感ありますね。

 片仮名表記に関しては全く同意見。さて、全体として木立の多い寺社境内の清爽な空気が感じられて結構ですが、句としてはどうでしょう。わたくしは、

クマゼミの真向勝負脳絞る
本殿をゆっくり往き来ツマグロヒョウモン
直哉邸アカハナカミキリ飛んで来る

あたりが好ましいです。

 自分は、

大夕立糺の森のコノマチョウ
タマムシの翔びゆくならの小川かな

でしょうか。

 「大夕立」の句、「糺の森のコノマチョウ」はとても素敵なフレーズですが、大雨の時にも蝶は飛ぶのでしょうか。飛んでたのかな。「ならの小川」はなんで平仮名にしたのか、ここは漢字の方が良いのにと思いましたですの。

A 逃げ遅れた蝶がさまようときありますよ、雨の中でも。木々が鬱蒼とした中ならそんなに雨もあたらないですしね。「なら」の平仮名は疑問ですね、自分も。クマゼミは、近頃温暖化の影響で群馬あたりでもいるそうですが、やはり関西ならでは。しかし、うっとおしい鳴き方に「脳絞る」は順当でしょう。自分は親が関西出身なので、クマゼミというと法事の印象が。

B クマゼミ⇒法事という連想は面白いといったら不謹慎ですが、面白いですね。仰るとおり、「脳絞る」は順当というか素直すぎる表現かもしれません。ただ、その順当さを「真向勝負」で極端に強く出しているところ、その稚気を買いたいのだわ。「ツマグロヒョウモン」の「ゆっくり往き来」という描写のおおらかさも好き。

A そうなんですけど、ツマグロヒョウモンって……と、隔靴掻痒感ぬぐえず。お好きな方にはわかる句かもしれません。「方丈の大庇より春の蝶」(高野素十)の句も先行してるし。

 結局、種の名前で俳句を作ると、読者がついてゆけないというのもありますが、もうひとつ、名前が長くなって細かい描写がしにくいというのも難点ですよね。ウラギンシジミとかアカハナカミキリとか、興味深い名前が出てきますがこれで七音、八音とってしまうのですから。

 それと、その種の名を逆手にとれば面白いのに。

六道へ続きショウリョウバッタかな

という句がありますが、六道に精霊ばったは近いでしょう。そこが惜しいですね。

 でも、

ヤマアリを潰さぬやうに朱塗橋

の句なんかは、「朱塗橋」でそこが神社の橋なのだろうと見当がついた上で、ヤマアリなのだから、市中のお社ではないということもわかって、うまく空間の設定が出来てますよね。境内地ということで、生き物に気をつけるというのも自然に納得できます。

 ヤマアリを配して、朱塗りに緑陰を対比させたのは見事ですね。木の根元などに巣を作るのではなかったでしょうか。

わたなべ柊「色は匂へと・・・・・」十八句
B 
わたなべ柊さんはどうでしょうか。正直言ってうかうかと作られた句ばかりのように思います。選ぶの苦しいですが、

哀しみは宙の果より“ひかり号”

にします。このチョンチョンは余計なんですけどね。なにしろうかうかと括弧を付けてしまった、と。

 うかうかと、ってのもよく人事句に使われる語です、そういや。

 「娘等のうかうかあそびソーダ水」(星野立子『立子句集』)とか。

 わがままな仔猫の眠る夏座敷

ですね、自分は。でもそれほど積極的にではなく。「哀しみは」の句は、銀河鉄道入ってる?

 この句の光は、昼間の太陽の光ように感じるのですが、どうでしょうか。もちろん銀河鉄道のことがあるから、宙の果から電車がやって来るという発想も出てきたのでしょうし、受け入れ易くもなっているのだと思います。

 0系新幹線の丸い黄色い鼻、それが光りつつホームに滑り込んでくるのは描けてますね。あのユーモラスなデザインに哀しみは斬新かも。

  去年0系の最後の車両が引退しましたよね。その辺の報道をご覧になっての作ということはないかしら。仔猫の句は、わがままな元気なやつが眠っている、というずらしのよさでしょうか?

 まあ、でも仔猫はわがままなものなので。夏座敷という涼やかな世界に、小さき獣が眠っているという。茣蓙やら簾やら爪でばりばりにしますけどね。

 ごく穏当な句ですね。

亘余世夫「奉安殿」二十句
 さて、いよいよ最後の同人です。亘余世夫さん。短文に奉安殿のこととか書いてらっしゃいますが、この記述からするともう七十歳くらいにおなりなんですね。そんなお年とは思いませんでした。

A どの地方あたりで戦前戦中をお過ごしになったのでしょうか。そして、この短文、いまどきのお若い方に伝わるのだろうか、と危惧が。太平洋戦争について教科書上の知識としてしか知らない方多いですよ。

 奉安殿くらいはわかりますが。句ですが、

曼荼羅に戦争展の遺影かな

小さな遺影がびっしりと貼り並べてあるのを曼荼羅と見立てたのでしょうね。さっきの雪女じゃないですが、曼荼羅という言葉も、俳句で安易に使われる言葉のひとつですが、これは珍しい詠み口かと。あと、

レグホーンの卵は露の不発弾

 曼荼羅、本当にそうですね。先年、沖縄に作られた慰霊碑を思いました。沖縄戦で亡くなられた方の名前がすべて記された壁。ベルリンに新しく作られたホロコーストで亡くなった方のモニュメントも。自分は、

旗を振る日焼の腕でありにけり

をなんとも重く受け止めました。攝津さんの「塩の手で触る納戸の日章旗」(『鳥屋』)より、ずしりと布地の重みがきます。風の抵抗力とともに。

 風の抵抗力まで言うのは深い読みですね。ただ、A子様が重く受け止めたというのは、この一連の中にあればこそ、ではありますね。もちろんそれでいいのですが、下五が「でありけり」でせっかくあいているので、日の丸でも軍旗でもなんでもよいですが、どういう旗か具体的に言ってもよかったかも。攝津さんの方は「納戸の日章旗」とそこを明示していますね。

 いえ、あえて言わないから読み手には伝わるのだと思います。日の丸、日章旗という言葉の持つさまざまな意味、多少右翼的な匂いなどを付随せずに。「レグホーン」の句、不発弾とはつまり自決のための手榴弾のことですか。敵の手に落ちるなら自ら命を絶てと。

B 一般的な空襲や艦砲射撃の不発弾と読みました。鶏の卵とは大きさは異なりますが、形状からの連想ですね。この場合は不発弾の語に託されているのは、何か言いたくて言葉にならぬ思いというようなことではないでしょうか。それが今でも時々ニュースになる不発弾に重ねあわされている。おりおりに過去からやってくる不意の珍客、招かれざる客として不発弾という表象はあるのだと思います。

A いや、

芭蕉糸紡ぐ日永の座り胼胝
朱瓦灼けてシーサーの目の虚ろ
源氏名の月下美人でありにけり

それからさっきの「旗を振る日焼の腕でありにけり」といった句群の中にあるので、やはり沖縄戦の手榴弾の不発弾と自分はとりましたね。そうでなくとも、地雷として使われるものにもこの形状のものありますしね。カンボジアやアフリカなどけして過去の話ではない。そういえば、

素麺を捌く夕日の幾筋ぞ

も採ってました、忘れてた。最後に救いのような句なんですよ。白い帳を染める夕日。

 「捌く」の語の斡旋がよいですね。西日が厨房に指し入っているのですね。

A ええ? 厨房? 素麺を精製しているところでは。その前の句が冬季ですから、冬の屋外で引き伸ばして干すのですよ。「素麺干す」という季語です。奈良県の三輪、小豆島、兵庫県の揖保など、今でもこの製法だと歳時記にありますね。ただ、「捌く」ではB子様が違ってうけとられたように、「素麺干す」の動作とは断定できませんが。

 勉強になりますの~! というわけで、最後に「豈」らしからぬ佳句を鑑賞して匿名対談おひらきということにいたします。

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