―攝津幸彦百句[3]―
・・・恩田侑布子
夢の肉 三層目
冬鵙を引き摺るまでに澄む情事 3 『輿野情話』所収
冬青空のせいか、「一階にうろついてないで、上っておいで」という攝津の声がします。せっかくですから、一つとばして三層に舞い上がりましょう。
耳を澄ませてみましょう。山里では立冬を過ぎたある晴れた日、たしかに鵙が一声鋭く叫ぶことがあります。鵙は、秋口に鳴き出し、次第によく声が通り、晩秋には電柱のてっぺんなどの目立つところで、あたりを睥睨して癇性な声でひとしきりもふたしきりも鳴いているものです。その声には、春の囀りのような幸福感はなく、秋の深まりをしみじみと肌に染みとおらせる非情な烈しさがあります。ところが立冬が過ぎ、山河にあたる日が弱々しくなると、いつのまにか隠密のように身をひそめてしまいます。
わたしは田舎に住んでいます。それも「駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」と詠まれた峠から数キロの山中に。ですから、鵙は、洗濯物を干しているときにも、「あっ、木の上」というくらい身近な鳥です。11月も終わりの、辺りが䔥条としはじめる初冬、どうかした拍子に最後の一声を聞かせることがあります。掲句はまさに、その一瞬の大気の寒さと、冬青空の割れ目のような響きを、肌に切なく味わわせます。では、措辞に即してみましょう。「引き摺るまでに」の目的語がちょっとわかりにくい。しかし、ここが味噌です。一義は冬鵙の声でしょう。その短い雄叫びを胸の底に「引き摺るまでに」情事は澄んでいるというのです。二義は冬の空間。冬鵙の棲息する空間そのものを「引き摺るまでに」というのです。真っ青な冷たい空。しいんと澄んだ山あいの空気。枯れ急ぐ木々。まだところどころ血のような冬紅葉が残って…。そうした初冬の空間をまるごと引きうけて澄みわたる情事なのです。
音韻は、口を寒げにすぼめるウ母音の七音、フ、ユ、ズ、ズ、ル、ス、ムが主調をなします。そこにサ行の濁音、ズ、ズ、ジ、ジ、が相まって、冬鵙の雄叫びに重なって、女の嗚咽のような幻聴が、か細く切なく伝わってきます。それは淋しい音楽です。この情事は延々と続く情事であるはずがありません。「澄む」には「済む」の掛詞もひそんでいます。きっと最後の情事、そう思わせるものがあります。もう二度と逢えない、もう二度と抱きしめられないことがわかっている男。その頬髭の硬さは、女のやわらかな頬を肌を、苦痛に歪ませ、「引き摺る」のです。情事をしたことのある人も、ない人も、ともに追体験するがごとき哀切をおぼえませんか。
掲句は、情事の体験の有無を問いません。むしろ、冬鵙のいる空間の体験を問う句だと思えるのです。鵙の秋から冬への鳴き声の推移を経験した上で、あの冬鵙の孤影、トーンの下がった感官をゆさぶる一声を林間で聞いてこそ、この句の密度は濃厚になります。一句の官能が肌をさします。つまり、冬鵙という季語の本意を踏まえた上で詩的飛躍をとげているのです。
言葉のアバンギャルドと目されてきた攝津ですが、こんなこともふともらしています。「父親も母親もいわゆる伝統結社で俳句をやっていて…季語についても、これはひとつひとつの作法があるんだっていうことを感じたことがありましてね。」という発言に続いて、「まあ、(季語が)動く句っていうのは、やっぱりつまらない句が多いですよね」(『俳句幻景』)と。教養ある両親から愛情をいっぱい受け、情操こまやかに育った攝津は、自分でもそれと自覚しないほどに、繊細で豊かな言葉の地下水脈を持っています。掲句も、胎教以来受け継いだ言葉に、十分な現実の肉付けが裏打ちされています。
「情事」といいながら、これはなかなか格調の高い句です。「冬鵙を」、「引き摺るまでに」、「澄む」、「情事」、と、ことばが意外性をもって次々に展開し、通俗的な発想から離れているからです。ことに「澄む情事」という下五の限定は素晴らしい。澄んだら情事にならないと思うひとは、法善寺横丁で一盃飲んでいてください。ここは、ゆらぎスウィングする五重の塔です。一句を味わうというよりも、「しゃぶる」というほうが本当はふさわしい句です。しゃぶってもしゃぶっても、くたびれない辛口のエロスの句です。
3 件のコメント:
一句を味わうというよりも、「しゃぶる」というほうが本当はふさわしい句です。しゃぶってもしゃぶっても、くたびれない辛口のエロスの句です。」(侑布子)
侑布ちゃん、ここ、すごい。・・名鑑賞。さすが、です(笑)
吟さま
ちょっと危なかったですか?
侑布子様 いや、そんなことない。絶妙のバランス感覚。
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