2008年10月18日土曜日

俳誌雑読 3 「面」

俳誌雑読 其の三
よれよれでかっこいいもの


                       ・・・高山れおな

高橋龍を中心とする同人誌「面」の第一〇八号が到来。ベテラン作者たちによる、老練でもあれば老懶でもあるような、洒脱な人事句がたくさん読める。興に入ったものを気楽に挙げたい。あくまで気楽に、それがこの場合にかなった御作法である。

まずは、山本鬼之介の特別作品「人景色」五十句より。

笹舟に土橋木の橋春浅し
筒袖の西郷どんも桜人 
 ⇒「筒袖」に「つつつぽ」とルビ。
「子曰はく」が聞こえくるやに竹の秋
葉桜や「あらよつ」で動く人力車
「舟が出るぞー」の声の岸辺や花菖蒲
蝙蝠に連隊跡の昏の空
人間国宝けふもしやつきりパナマ帽
梵鐘につづく晩夏の鳩時計
アンカーは遠い親戚いわし雲
幼子が訊く白鳥の誕生日
表札の片や俳号別れ霜

肩の力も、鼻の油も、野心も色気も抜けきった、そんな味わい。〈梵鐘につづく晩夏の鳩時計〉には、梵鐘という古くからの事物、鳩時計という近代の事物が物自体として持っている時差、それらが相次いで鳴り出す時差、それらが鳴っていた時空をはるかな過去として回想する現在との時差、という具合にいくつもの時差がはらまれている。この句に限らず、遠い過去と近い過去、未来から見ての過去としての現在といった具合に、重層する時間を自在にとりだす手際がこの一連からは感じられた。その手際が、人生を「人景色」として振り返る余裕の裏打ちとして機能しているのだろう。ああ、肩に力が入ってきた。いけませんね。

炎帝が音を消したる北千住
夏座敷ここだけ少し浮かんでゐるよ
遺影にと撮りし遺影にビイル置く

阿部知代の「一周忌」より。上に引いた三句には、〈山本紫黄さんを偲ぶ会、平成二十年八月三日〉の前書きが付されている。「面」のこの号は、前号第一〇七号での追悼特集に引き続き、名句集として知る人ぞ知る『早寝島』、遺句集となった『瓢箪池』を持つ山本の一周忌報告の号なのでもある。三句のうち、「遺影にと」の句は特に素晴らしい。高柳重信から「腕前この上ない狙撃手」とまで評価されながら、日の当たる場所に出たがらなかった俳人のつつましくも背筋の伸びた生き様を彷彿させる。もちろん、ある時点で「遺影にと」写真を撮る人は少なくないであろう。それは言うまでもなく自己顕示欲などからは遠く、自分といくばくかの縁を結んでくれた人たちに対する挨拶であり、配慮である。新聞やテレビばかり見ていると、あたかも世の中狂人ばかりのごとくであるが、当然ながら世の多数を占めるのは常識あるサイレント・マジョリティだ(と、信じたい)。そうした一人として逝った故人に対する、そうした一人である友人からの手向けとして、普遍性のある句であろう。

春麗ら電気穴子は在らざるや     網野月を
鯵は○鰹は◎猫瞰図          同
蝙蝠と美味しい虫に夜が更ける    池田澄子
名月や保身の一度や二度はあり    衣斐ちづ子
三面六臂の愛染堂の蟻地獄      岡村一郎
巴里祭や鳥の真似した少女が母    加茂達彌
忙しい忙しいよと鳥帰る       北川美美
うんといひああといひたる新茶かな  黒川俊郎丸亀丸
ラインダンスの昔ありけり雲の峰   小林幹彦
あの世にも秋波送れる比丘尼かな   田口鷹生
玉葱のうす皮いろの遺影かな     竹内弘子
祖母と来し昭和十六年東京夏     谷元左登
私憤これ詩の種蝉の殻を脱ぐ     中村与謝男
還暦の少年殖えて夏終る       福田葉子

格別の説明を要しない楽しい句ばかり。作者についての予備知識も不要と思うが(というか池田澄子と福田葉子以外、どういう人なのか評者も知らない)、ともかくみなさん、開成高校俳句部の諸君のおおむね四倍以上生きている人たちだと思われる。

さて、いちばん感心したのは、渋川京子の「さよなら」と題しての一連。こんな句があった。

ミモザ咲きぐんぐん育つさようなら
冬ざくら化粧の下は洪水なり
氷柱よりきれいに母の正座かな
雪林に入る耳朶の大きな順
ひらかなは敵か味方か春の夜

明るく清潔な言葉遣いのうちに、晩年意識のようなものが垣間見える。例えばミモザの句、例えば雪林の句。さらに「冬ざくら」の句など、自らの老いゆく肉体を見つめてゆるがぬ視線がみごとだと思うし、表現としても全く独自のものになっている。

編集人の高橋龍の作品からは、〈Y画伯に〉と前書きした四句を引こう。

春のY字路三椏担ぎ行く男
夏のY字路ナースサンダル脱ぎ捨てに
秋のY字路山猫山を下りてくる
冬のY字路居心地悪く醤油樽

Y画伯とは、今夏、世田谷美術館で大規模な回顧展がひらかれた横尾忠則のこと。Y字路を描いたシリーズがある。四句の中では、「夏のY字路」の句が艶めかしくてよい。

今号には、別刷附録が付いていた。題して「山本紫黄干支暦」。歌舞伎の外題風に「ひさなもねまるしまのひめくり」とルビが振ってある。上段に甲子から癸亥までの干支が記され、、下段に句が書かれ、中段に半畳を入れるという粋な体裁。要は高橋龍が、山本紫黄の六十句を選び、季語の順にならべた小詞華集である。せっかくだから十二支の順に十二句だけ引いておく。干支の順には一致しない。

壬子 ぜいたく   こがらしの昼から酒の枡濡れて
乙丑 なるほどね  無声映画の萬物跳ねる睦月かな
丙寅 まいつた   初場所の東と西の水と塩
辛卯 らんまるか  生類は抱き重りして夕焼空
丙辰 このさきも  震災も戦災も塚都鳥
乙巳 ぐさり    らふそくは尻から刺され秋の瀧
己未 いきほひ   牛乳飲む片手を腰に日本人
戊申 やれやれ   人々に最寄の駅や雁渡る
癸酉 せつなし   生別もいづれ死別や春の水
壬戌 めでたし   萬病のうちの風邪ひく早寝島
丁亥 ぜつぴん   空あかくバナナ尊き子供かな

〈俳句とはよれよれでかっこいいもの――これが昔からのわが旗印。〉と、第二句集『瓢箪池』(二〇〇七年 水明俳句会)の「あとがき」にある。大正十年生まれ、平成十九年没。長谷川かな女の「水明」で俳句を始め、のち西東三鬼に師事。三鬼没後に「面」の創刊に参加し、「俳句評論」の同人でもあった。上に引いた句からだけでも察せられると思うが、知名度は高からずといえども、アンソロジーピースをたくさん持っている人である。岩片仁次が編集・発行する俳誌「夢幻航海」で、三号にわたって高橋龍が紫黄俳句の評釈をしていてすこぶる面白いが、この雑誌は入手が難しい。すぐ読めるところでは、当ブログ第二号で紹介した池田澄子の『休むに似たり』(ふらんす堂)に、「念力と技」と題しての紫黄論が収められている。池田は紫黄俳句の要諦を次のように見ている。

紫黄氏は志の激しさを沈殿させ、激しそうな言葉を嫌う。偉そうな上手そうな言葉でごまかそうとしない。殆ど、普通の景色、普通の現象が、普通の言葉で詠まれる。そして、それら普通のことの中の普通ゆえに普通の人からは見逃されるものが、丹念に描かれるのである。念力と言いたい執念で視たモノやコトが、一句の中にクローズアップされ、その細部は不思議なことに全体を見せて全体の真実を明らかにする。

余計なことを言っておくと、山本紫黄のことが好きな高橋龍や岩片仁次は、存在論だの絶対言語だのと口にする安井浩司に対しては大層批判的な様子である(昔の仲間なんだけどね)。野暮の骨頂だというわけであろう。しかし、偉大なものはたいてい、どちらかと言えば野暮なものなのに違いない。想像するに山本紫黄という人は、偉大ではないが、よれよれでかっこいい俳人だったのであろう。

*「面」第一〇八号は、編集部より贈呈を受けました。記して感謝します。

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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

紫黄さん、れおなサンにほめられて幸せでした。れおなみたいなきちんと言う人がいないと、俳句界もいけなくなります。