2010年3月21日日曜日

セレクション俳人を読む 仙田洋子集

「セレクション俳人」を読む3 『仙田洋子集』
把握の正着

                       ・・・藤田哲史

仙田洋子氏は昭和三十七年、一九六二年生まれ。高校時代から俳句短歌の投稿を行い、東京大学入学後、小佐田哲男教官指導の「作句ゼミ」へ。第一句集『橋のあなたに』の序に「東大俳句会のOB会員」の文字もあるから、岸本尚毅と同様東大学生俳句会にも参加していたことが伺われる。また、俳句結社として石原八束の「秋」、有馬朗人の「天為」が経歴に載せられている。

このセレクション俳人『仙田洋子集』に収録されている作品は、仙田洋子第一句集『橋のあなたに』と第二句集『雲は王冠』の再録、およびそれ以後の作品からなる。第三句集に『子の翼』があって、ここに収録されている作品と『雲は王冠』以後の作品とに重複がみられる。

と、ここから私は、ここでルーティーンワークのように彼女の経歴と、彼女の俳句が取り上げている主要な題材――恋もしくは海外の事物――を作家性と見なして論じていくこともできる。それはたとえば、次のような作品である。

つんとせし乳房を抱く月朧 (『橋のあなたに』)
サーフィンやひとりを愛しきれぬ日に
黒人の唇に音楽雲の峰 
(『雲に王冠』)
尺蠖やたかが男の自尊心
ハプスブルクの四輪馬車に落葉舞ふ
サボテンの花ばかり見て行水す
白夜なる氷河に神の爪の跡

だが、それではおもしろくない。海外詠とは数十年前のとある一時代の流行であって、現代それについて新しみとしての価値を見出すことは私にとって至極むずかしい。現代、海外の事物を詠むという新領域の開拓の時代はほとんど収束を見せ(海外詠がことさら目新しくパフォーマティブなものではないということ)、現代の俳句作品の可否はたとえ新しい素材を取り入れていたとしても、素材をいかに破綻なく纏めるか、というより、それをいかに把握しているかという点も問われてはいないか。その点について言及していかねば、仙田洋子氏のこれからの俳句の可能性について論じることはできないとも思っている。

彼女自身、『仙田洋子集』のあとがきに「『橋のあなたに』の世界からは」私は既に遠ざかり、『雲は王冠』を踏まえた上で新しい世界を探し求めつつある。」と記しており、『子の翼』を繰ってみても『雲の王冠』に見られるあからさまな海外詠はなく、普遍的な題材を半ば意図的に選択して作品をなしている。

存分にしだれて月の桜かな (『子の翼』)
虫籠に虫ゐぬ空の青さかな
太陽の排泄物かくわりんの実

また、二〇一〇年の「天為」誌二月号(ほぼ最新号)からも、

佐保姫も秋めいてきしきのふけふ
幸うすき世と思へども石蕗の花
羽根雲を残してゆきし神の旅

などを挙げることができ、その傾向がうかがえる。

現時点では「いかに把握するか」と記しておきながら把握の確かさは見られない、と疑問符をうたれるかもしれない。確かに、同じ「天為」誌二月号に岸本尚毅の作品「水の面埃つぽくて水澄める」があり、これには把握の鋭さがあるが、仙田氏にそのような鋭さは乏しい。

いや、いいたいことは次である。彼女の作品を通読していて思うのは、仙田洋子氏の詩性のベースは、その把握の中庸さにある。中庸とは陳腐ということではなく、その詠みぶりがいかにも的確で、正着であるか、ということだ。その狭間にちらりちらりと感覚で押し込んだ句が存在するのだが、私はそれが彼女の本領だとは思わない。

酔芙蓉天に言霊はじけゐて
灯を消して闇にあそべる海鼠かな
駆くる子のこゑを秋風うばひけり

第一句集の『橋のあなたに』から数句引いてみた。「はじけ」「あそべる」「うばひ」などがやや気張った動詞の使い方で、感覚的、主観的なおもむきが青年性とうまくリンクしている。そしてそれが恋愛句、海外詠とあいまって青年性を称えられてきたのがこれまでのこの作家だろう。しかしその青年性を脱ぎ捨てていく過程で現れるのは、そういった青年期固有の感覚なのではなく、先述した把握の中庸さであり、それを保証するのは、一見凡庸とも取れる把握力をいかに措辞の弛緩につなげないかといった言葉の技術にある。そして、彼女にはその技術が確かに備わっている。

海明けの鳥はひかりのかけらかな
雲の峰水の子にしてひかりの子
実むらさきほどの恋ならこのさきも

いずれも『雲は王冠』以後から引いた。無駄な動詞を極力使わず、それでいてうまく韻律と措辞のバランスが取れた佳品と思う。断定してしまえば、最も詩人の特性があらわれるのは動詞の斡旋の仕方で、詩性の中庸さを持つ彼女に課せられるのは、個性派の詩人がするような華美な詩語の斡旋でなく、永遠性に結びついた何気なく、かつ動かしようのない静謐な言葉の連なりである。

ここで私がイメージしているのは、たとえば、
祖母山も傾山も夕立かな(山口青邨)」や、「晩秋のはるかな音へ象の耳(有馬朗人)」、あるいは、「十六夜のきのふともなく照らしけり(阿波野青畝)」といった作品で、いずれも先に挙げた条件を満たしていようか。

(そもそも山口青邨を師系とする有馬朗人、および「天為」調の肝は、海外詠などを代表とした果敢に新しいモチーフを詠みこむ「前衛的な」点にあるのではなく、その裏にある、どんな新しいものも俳句的措辞として俳句形式に定着してみせる「伝統的な」把握の的確さとそれを裏付ける言葉遣いにある。強靭な胃袋を持っているからこそ、どんなものでも消化してみせることができる、そういう文体である。懐の深さといいかえてもいい。彼女に関しても、そのような措辞のよろしさを押し出す展開をしていないか、と考えている。)

あるいは、彼女の本領は既に私の目の中に入っていて、全く衒いなく青年性や海外の事物を衒い無く詠みこめるその姿勢自体こそ、「把握の正着」であったのかもしれない。彼女は彼女自身の人生における様々な私的トピックに対して何の恥じらいをも見せない。だからこそ彼女は『子の翼』前半においても、膨大な量の吾子俳句を連ねきってみせる。しかし一読者としてはやはり後半を中心に展開される余裕をもった詠みぶりがこのましい。今後、彼女の作品はますますおおらかになるだろうし、その技量の確かさも更に輝きを増して作品に現れてくるだろう。

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