2009年6月14日日曜日

静かなる常在戦場 林桂『俳句此岸 ’04~’08』を読む・・・高山れおな

静かなる常在戦場
林桂『俳句此岸 ’04~’08』を読む



                  ・・・高山れおな

林桂のあたらしい書評・時評の集成である『俳句此岸 ’04~’08』(*1)がとどいたときには、ちょっと意外の感にうたれた。というのも、前回の林の評論集『俳句・彼方への現在』(*2)は 二〇〇五年一月に刊行されているのだが、これは詩誌「詩学」に、なんと十五年の長きにわたって書きつがれた俳壇時評から八十二編をえらみおさめたもので、 その偉容が強烈だったためである。「鬣TATEGAMI」誌での批評や、昨年一年間、林が担当した「俳句界」の時評を毎号たのしみにしていた一方で、林の次の評論集が出版されるとしても、まだだいぶ先のことだろうと思っていたのだ。今度の本はそういうわけで、カヴァーする期間が短いぶん、規模こそ前著よりこじんまりしているけれど、内容はかわらず濃密だ。以下、目次をかかげる。

目次

「坪内稔典句集〈全〉」
著作権と俳句
大岡頌司の中の川尻
沖縄の視界―平敷武蕉の「花鳥諷詠」批評
復本一郎「俳句とエロス」
田中裕明と「ゆう歳時記」
「伯爵領」の最後の一句
黒田杏子の三冊
喪失と拾遺
「林田紀音夫全句集」
「寺山修司の俳句入門」
「津沢マサ子俳句集成」
「田中裕明全句集」
「桂信子全句集」


なぜ蛙は池に飛び込まないのか
長谷川素逝の再評価をめぐって
成田千空の追悼特集をめぐって
「痰のつまりし仏」へ
「切字」を巡って
「魅惑の俳人たち」を巡って
連載「知られざる俳人ノオト」と「現代俳句史」について
田中裕明の評価をめぐって
「戦争と俳人」と「少国民の敗戦」
「西瓜」はなぜ「秋」か
俳句にとって歳時記とは何か
二〇〇八年の終わりに

本書は二部構成になっており、Ⅰにはホームグラウンドの「鬣TATEGAMI」に二〇〇四年五月から二〇〇七年十一月にかけて発表された十四編が、Ⅱには 「俳句界」二〇〇八年一月号から同十二月号にかけての時評欄の記事十二編がおさめられている。つまり執筆時期に重複はなく、くらべるとⅠでは過半が書評であるのに対し、Ⅱは媒体の性質ゆえに、各種俳誌の特集などを対象にした、狭義の俳壇時評となっているという違いがある。

現在ただいまの俳句の世界における書評・時評の書き手として、林桂はおそらく第一人者ということになるであろう。書評・時評を書く際にまず肝要なのは、対象となる単行本や雑誌記事の内容を適切に要約して読者につたえることであるが、簡潔かつ正確にそして無味乾燥におちいらぬように要約しおおせることは、やってみた経験のある人間なら誰もが承知しているとおり、かなりむずかしく、神経をすりへらす作業でもある。林はなによりこの点について、模範的なテクニックのもちぬしなのである。この前提条件をクリアするだけでも、俳句界ではなかなか人を得がたいところ、さらに林のように表現史的・俳壇史的なパースペクティブをそなえた書き手となると、その数はよほどかぎられてしまう。本書所収の文章は、いずれもそれほどの長尺というわけではなく、分析的な記述におよぶことはむしろまれであるが、感情をおさえた筆致による対象の的確な紹介と、寸鉄人を刺す式の概括とが織りなす緩急の呼吸の絶妙さが、評者などにはどこか色っぽく感じられもする。たとえば筑紫磐井の批評文にはこの種の呼吸がとぼしく、挑発的なおもしろさはあっても文章としての色気は感じられないし、坪内稔典や仁平勝の近来の批評には、対象をみずからの俳句観に強引にひきつけて語ろうとする傾きがつよく、客観性に疑問を感じることがすくなくない。第一人者などという言わずもがなの呼称を林のためにもちだしたのは、そういう理由からでもある。

「感情をおさえた」とたった今記したとおり、林の文章は、一見したところまことに淡々としている。しかしこれは、林にポレミックなセンスが欠けていることを意味しない。それどころか、林の行文はむしろ潜在的には常に闘ってい るとさえ言いたいほどであるが、その方面における林の手際がもっとも端的にあらわれているのは、たとえばⅡの「『痰のつまりし仏』へ」や「『切字』を巡っ て」などの文章であろう。前者は、「俳句界」二〇〇七年九月号から二〇〇八年三月号にかけて、松田ひろむ(「鷗座」代表)と池田俊二(「草の花」「白桃」 所属)のあいだで断続的にくりひろげられた〈助動詞「き」の意味とその使用〉をめぐる論争を、同誌二〇〇八年四月号の時評でさばいたもの。

こ の論争は一種博覧強記の出典、引用合戦となって展開している。私は、古典文法に詳しい訳でもなく、また自分の俳句は古典文法に拘泥しない文体を選択してい るゆえ、最初から二人の土俵の外の存在で、この博覧強記合戦に参加する資格はない。しかし、土俵の外だからこそ見えることもある。

「博覧強記合戦」と相手を立てるように見せかけた、そのじつかなり痛烈な皮肉をかましつつ、自分は「二人の土俵の外の存在」「参加する資格はない」と、あくまで姿勢を低くたもつところが文章技術的にはたまらない見どころであろう。土俵という言葉が出たついでに相撲のたとえを持ち出すなら、相撲は腰を伸ばされたら負けであり、当然、腰高になるのは不利である。文章道でいうなら、いわゆる「上から目線」の文章というのが腰高の構えに相当するだろうか。池田には、 『日本語を知らない俳人たち』(*3)などという著書まであって、タイトルからして腰高=独善的なことおどろくばかりであるが、要は腰の伸びきった池田や松田の体を林がポンと押したら、二人がおもしろいように土俵にころがった、というのがこの文章である。より正確には、彼らが乗っている土俵自体が彼らの妄想であり、ゲームそのものが無効であることを、完膚なきまでに論証したとい うべきなのだが。

ともあれ、それぞれの信じる違った文法基準を持ち、その信じる用法にはずれたものは「誤用」とするという意味では、両者とも同じである。(中略)ただ、土俵の外から見ていると、江戸期の俳人から近現代の俳人の作品に次々と「誤用」のレッテルを貼る意味が分からないし、ましてそう指摘することで目ざすものが何なのか分からないのである。(下略)

現在、「文語文法」によって俳句を書こうとする初学者に向けての文法学習として用法の誤りを正すのならともかく、江戸期や近代の俳人の「誤用」の指摘が何の 意味を持つのだろうか。むしろ、それらを「誤用」としなければならない文法理解があるとすれば、その文法が機能していないことを物語ることにしかならない からである。

こうした論述のあと、林は最後に正岡子規の〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉の「し」の用法をめぐっての池田・松田の議論に筆をおよぼしている。〈この句の読み合わせは今まで厳密に行われて来なかったが、二人の論争で読みの焦点があたったことは成果の一つだろう。〉 というわけであるが、このあたり、林桂という人の怖さを感じないでもない。もちろん林としては、池田・松田の「き」についての知見をこの句の解釈に およぼすことに、すなおな興趣をおぼえたまでではあろう。ただ、その前段が辛辣なだけに、一刀のもとに斬り捨てた相手を回向するような、面憎い余裕の姿と見えなくもないのである。

一方、「『切字』を巡って」は、当ブログ第四号の拙稿でも言及した、「俳句」誌二〇〇八年四月号の特集「『切れ』についての大問題」について論じたもの。林自身の切字観は、川本皓嗣の「切字論」(*4)を祖述するかたちで間接的にしめされるにとどまっており、本稿の興味はむしろ切字という“大問題”を論じるに際しての俳人および川柳作家の身ぶりの裁定にあるといえようか。この特集には、長谷川櫂、掘切実、大西泰世、千野帽子、神野紗希の五名が、主要筆者として立っているのだが、林が〈面白い〉と肯定的に評価するのは千野帽子のみ。川本説を正確に捉えることができず、お粗末にも川本が現に説いている内容と〈全く反対の位置づけ〉をしてしまう俳文学者・堀切実、〈俳句と川柳の違いを「切れ」の有無に求めた〉復本一郎に対する反論の場を与えられていながら文中に復本の名をあげることさえできず、すっかり〈腰が引けてしまっている〉大西泰世、〈勢いはよいが、自分の論を矛盾なく維持する力が備わっていない〉神野紗希――と、これまた小気味よく斬りまくっている。長谷川櫂については直接の評価をくだしていないのであるが、これはじつは「俳句界」での最初の時評のおりに話がすんでいるためである。それがⅡの「なぜ蛙は池に飛び込まないのか」で、林は、長谷川の『古池に蛙は飛びこんだか』(*5)を批判する小澤實への支持を明言している。

「我 田引水」ならぬ「我池引水」のような芭蕉の読みは、これまでも多くの俳人が行ってきた読みの中のものである。自分の方法を芭蕉にまで溯って求めることで、 そこに正当性の道筋を付ける意識が顕在、潜在を問わず働くからである。もちろん、学者の読みではなく、俳人として自身の創造力を生むための読みである以 上、それが誤読であっても何ら責められるべきではない。責められるべきは、その読みが生む創造性の有無だけである。

「なぜ蛙は池に飛び込まないのか」の結びであるが、これも言葉つきこそ平静ながら、述べられた内容は容赦がない。そしてもちろん、この結語にいたるまでに、長谷川説が〈「一物として読む古池の句をつまらない」という現代俳句の価値観が手繰り寄せたもの〉にすぎないことは、あらかた論じつくされてしまっているのである。

これまでに言及した三本の時評は、論難の対象が明確であるという意味であからさまにポレミックなものであった。しかし、林の批評は、たしかに敵の気配はする のだが、それが誰なのか、何なのかがよくわからない、という感触をもたらすものの方がじつは多い。たとえば本書の冒頭におさめられた書評「『坪内稔典句集 〈全〉』」はどうだろうか。

赤い表紙が印象的な句集である。書名を「坪内稔典全句集」と しなかったのは、一つの自負であろう。いまだ句業の過程にある現時点での「全」であるという思いが、生涯の全句業をイメージさせる「全句集」の言葉を慎重 に避けさせていると思われるからだ。しかし一方、ここに「全」の文字を入れることの意味も大きい。

書き出しの部分における、句集名についてのこの指摘は、こまやかでもあれば妥当でもあるだろうけれど、また、基本を押さえたにすぎないともいえる。評者が虚を突かれたのは、少し先の次の記述だ。

坪内稔典は還暦を迎える。高柳(重信……引用者注)没年の歳に達したのである。「還暦」について高柳には特別の思いがあったことは、「俳句研究」の編集長として還暦の特集を組んだことでも分かる。還暦者は晩節を汚さないための、後塵は引退を促し自らの仕事の展開に賭けるための、思い知らせの儀式をそこに見ていたのであった。赤い表紙を着たこの句集は、自らの 還暦を祝うものに違いない。

坪内の全句集(*6)はなるほど赤い(やや黄味がかっていて朱に近いが)クロース装が「印象的」な本であるが、それが赤いちゃんちゃんこのアナロジーになっているとは、評者には思いも寄らなかった。こういう迂闊 な読者に注意を喚起しながら林は、坪内の九冊の句集の「あとがき」を読み直すことで、若い日のみずからに先行者としての坪内稔典があたえた影響を回想し、 その後の坪内の思考の変遷をあとづけてゆく。

ある意味では、坪内の道程はぶれのない明確な 方向性を持っていて見事である。また、この道程は、坪内固有の方向性というよりは、大方の先達俳人が辿ったものと同じであり、逆にこの方向性から逃れるの が如何に困難かも承知できる。坪内が迎え入れ、坪内を迎え入れた「規範」について、とやかく言うつもりもないし、言祝ぐことさえできる。しかし、私たちの 牽引役だった坪内は私たちにとって特別な意味を持っていた。それを惜しむのは、個人的な感懐に過ぎないのか、もっと大きな喪失の痛みによるものなのか、俄には判じがたいのである。

ここで坪内が林の論難の対象――敵だというわけではもちろんない。また、「坪内が迎え入れ、坪内を迎え入れた『規範』」がそれだ、というのでもない。すでに述べたように「誰なのか、何なのかがよくわからない」ものを相手に闘っている気配だけがここにはあって、あえて敵を名指すなら、それは「時」なのかもしれない。もちろん、そう言ってしまえばことは俳句の範疇を逸脱してしまいかねないのであるが、逸脱をおそれず言いつのれば、林の批評にはどこか挽歌のようなトーンがつきまとっており、「『坪内稔典句集〈全〉』」ほど前景化していないとして も、その基調は本書全体を通じて一貫していると思う。そのことはまさしく林の文体の魅力ともなっているのだが、ただそれも、「沖縄の視界―平敷武蕉の『花鳥諷詠』批評」、「寺山修司の俳句入門」、「『西瓜』はなぜ『秋』か」(*7)、「俳句にとって歳時記とは何か」などの場合、やや平板な図式化におちいってしまっているようである。

書名を「俳句此岸」とした。「過去に送り込んでゆく現在が、常に未来の彼方に視線をもったものでありたい」(同)と前著では書いた。想いは変わらない。俳句の彼方を見るための俳句の時事は此岸には違いないが、一番彼岸が見える場所でもある。

本書の「あとがき」にはこうあるのであるが、実際には「未来の彼方」の見えなさが、ことさら林の文章のトーンを挽歌めいたものにしているのだし、また上に挙げたような論考における図式性をもたらしてもいるのだろう。しかしこれは林の視力の相対的な悪さを意味するわけではもとよりなく、俳人の多くには「俳句の彼方を見る」という前提そのものが欠如しているのだから、そもそも視力の良し悪しなど問題にもならないだけのことだ。それにしても、過去に対しては明澄な林のパースペクティブが、未来にはおよびかねているのはたしかだとして(しかしこんにち、未来に対して誰が明澄であり得ようか)、林自身によるその打開の手がかりが絶無なのかといえばそうではなく、Ⅰにおける 「田中裕明と『ゆう歳時記』」「『田中裕明全句集』」、Ⅱにおける「田中裕明の評価をめぐって」と、つづけざまに登場する田中裕明についての論考にはその萌芽が感じられる。それぞれ田中の主宰誌「ゆう」の終刊、全句集刊行、田中の盟友・小澤實が主宰する「澤」誌でおこなった田中裕明特集を話題にしたもの。同一作者がわずか数年のうちに三たびも俎上にあがるのはいかにも異例で、林にとって田中はよほど気になる存在なのであろう。実際、こだわった甲斐あって、最初の「田中裕明と『ゆう歳時記』」の段階では、

「ゆう歳時記」の作句例の偏在は、日常茶飯の記録性の中にも、古典的な季題趣味の中にも、田中と「ゆう」の俳句はなかったことを裏付けるものかもしれない。誤解を恐れずに言えば、田中と「ゆう」は、貴重な現代の高踏派だったのだろう。

といったあたりにとどまっていた林の認識は、二回、三回と筆をかさねるにつれて、あきらかに深まってゆく。具体的には、二回目の「『田中裕明全句集』」において、一見すると重くれから遠い田中に〈重くれの句のよろしけれ干大根〉の句のある不思議さに立ち止まった林は、この句が〈根本的な田中の俳句のスタンスの問題を言い得ている〉可能性を指摘して、こう述べる。

「彼 はいつも、ただとても個人的なものを詠んでいたのだと思う」(全句集栞・「秋燕」)と、田中の日常を知る妻の森賀まりは述べている。もちろん俳人の過半は べたな日常を書いているのだが、当然その作品も日常の断片を書きとめたものに止まってもいる。田中は表現でそれを突き抜けているゆえに必要な森賀の言葉な のである。「重くれ」とは、田中のぶれないスタンスの構造の自覚だったかもしれない。

ここまでくれば林にも、田中をつかまえたという手ごたえがあったはずだが、つづく「田中裕明の評価をめぐって」において林はさらに一歩を踏み出す。

田中は言葉の力と俳句形式を信頼した作家だが、それは言葉の変容力への信頼とでもいうべきもので、そこに自分自身はいかほども定着はしないという確信に満ちたものだったろう。田 中の「主体」の問題とは、言葉の変容力に身を任せきることだったのではないか。言葉以前の日常生活に、田中の「主体」の葛藤はない。日常に散在する生活者 の姿を集約しようなどとは思ってもいないだろう。そこから集められた言葉の中に現れる「主体」を生きることが、俳句を書く意味だったのではないか。その意 味で、田中は解体される主体の時代の状況に向き合おうとしていたのであろう。

田中裕明という作者を表現史の現在に位置づ けて見事だが、同時にここに記されているのはほとんど林自身の“己の夢”ではないのか、という思いもやってくる。挽歌とは死者への哀悼でありつつ、生き残った者を慰め生かすものであった。それは死者のためのものである以上に、生者のためのものであったかもしれない。死せる田中裕明について語ることで、いささか自らの未来を見通すことをしているという意味で、この一節などはいよいよ挽歌の名にふさわしいと言えようか。

本書には、全句集の書評はいくつもあるのに、「黒田杏子の三冊」を例外として、新刊の単行句集への言及は見当たらない。これは前著『俳句・彼方への現在』でも傾向はおなじなので あるが、糞か味噌かよくわからぬものをどう評価するかの賭けないし遊びの要素が林の批評には欠けていて、記述に無用の閉塞感をもたらしているとも思う。しかし、やはりこれは無いものねだりなのであろう。あくまで、喪失の確認を通じて未来を見つめようとするのが林桂という人なのだ。その意味で、三つの田中裕明論があることは、本書の救いともなっているようである。

林桂『俳句此岸 '04~'08』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)林桂『俳句此岸 ’04~’08』 風の花冠文庫6
    発行所=鬣の会 二〇〇九四月十八日刊
(*2)林桂『俳句・彼方への現在』
    詩学社 二〇〇五年
(*3)池田俊二『日本語を知らない俳人たち』
    PHP研究所 二〇〇五年
(*4)川本皓嗣「切字論」/「series俳句世界 別冊1
    芭蕉解体新書」(雄山閣出版 一九九七年)所収
(*5)長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』
    花神社 二〇〇五年
(*6)『坪内稔典句集〈全〉』 沖積舎
    二〇〇三年
(*7)「『西瓜』はなぜ『秋』か」は、前田霧人の個人誌
    「新歳時記通信」についての論評。これについて
    は、当ブログ第二十五号の拙稿参照。

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