2009年3月1日日曜日

江里昭彦『空塵秘抄』

流れゆく時の相のもとに
恩田侑布子句集『空塵秘抄』評


                       ・・・江里昭彦

この作品集における恩田侑布子は、あらゆる事象を変化と流転の相のもとに捉える詩人として佇立している。

まず、句集のなかで離ればなれに配されている次の二句を、一対のものとみなして検討することから始めようか。

加齢なき春の雲かな双つゆく
また育つ古き写真の雲の峰

雲はもともと不定形でうつろいやすいものである。地上からは動いていないように見える場合でも、常に中空を移動しつつ姿を変えている。だから、一句目の「加齢なき」は言わずもがなの形容のように思えるが、「双つゆく」と関わって読むとき、様相が異なってくる。双つの雲は流れているから、やがて視界から外れてゆく。しかし、見えなくなったとしても雲たちは、齢を加えることなく消滅するにちがいない。句はそう暗暗裡に語っているのだ。このとき際立つのは、雲を消長の観点によって眺め、終末を言いあてる、その認識のありようである。

二番目の句にも、この消長の観点が躍っている。静止画像として固定された写真の雲の峰が「また育つ」のは、シュールレアリズム風の味つけというより、封印されたはずの変化の力の再起動をそこに見いだしているからだろう。

一瀑があり恋の火のまうしろに

この句は、あらゆる事象を変化と流転の相のもとに捉える恩田の姿勢を、典型的に示している。恋愛感情はいつもゆれ動く。思慕と欲望という基本要素のうちに、ときに猜疑・ためらい・不安などが混入して、常に複雑な動きを余儀なくされるだろう。恋愛感情に恒常的な安定などない。そして、滝もまた、いつも動いている水の態様なのである。

この句には、いくつかの対比が巧妙に組みあわされている。滝の“水”と恋の“火”。落“下”する水と燃え“上”がる火。“一”瀑に対して、恋愛感情を交わす“二”人――こうした対比構造は、いつも動き変化するという恋愛感情と滝との類似性によって繋ぎとめられるのでなければ、理知のまさった技巧と受けとめられたかもしれない。

ここで『空塵秘抄』に滝の句が多く見られるのに留意しておこう。

足元の切つて落とさる春の瀧
近寄れば壺のなき瀧春愁
中空にとだえし瀧や糸櫻
召さるるまで時泡立てむ大瀧よ
壺中の天どこまで高し冬の瀧
冬の瀧磊磊と身を砕きたり
瀧音のかすかに若菜摘みゆけり

やむことのない滝の落下、そこに示される力の蕩尽は、無償の行為のようでもあり、徒労感を漂わせた宿命のようでもある。

大花火浮生の影のしたたりぬ
海上花火死へ向くごとく足揃へ

滝を人生の比喩にみたてることは慎まねばならない。滝の態様は、人生のそれとあまりにかけ離れているから。しかし、ここに掲げた花火の二句には、そうした比喩を適用しても宥されよう。芥川龍之介は、『舞踏会』の終わり近く、登場人物のピエール・ロティにこう言わせているではないか。
「私は花火の事を考えていたのです。我々の生のような花火の事を。」

浮生夢のごとし――そう呟く人間は少なくない。問題は、かかる認識が俳句形式において、いかなる事象を、いかなる風景として把握するか、にある。

とある日のとある正午の藤の房

「とある日」と、選びだされた日が任意なら、「とある正午」と、選びだされた時刻も任意である。けれども眼に映る藤の花房は、いまここでの一回きりのものだ。来年また藤が咲くとしても、それは別の花房である。藤の樹は命を保ちつづけるけれど、同一の花を咲かせることは絶対ない。

この作品をじっくり読むと、不思議な感興がわきあがる。任意のなかの特定、反復のなかの一回性。背馳するはずの二つの性質が、互いを不可欠の相手として緊密に支えあっているからだ。

そして、認識の赴くところ、人間存在もまた任意のなかの特定、反復のなかの一回性なのだという自覚が、川が海へ流れこむかのように育ってゆくだろう。

未来にも稜線あらむ雪解風
この地質若いと指せり青嵐
現し身といふ雲中の登山かな
山越の阿弥陀のこゑや返り花
山茶花や誰もうつしみを途中下車

『空塵秘抄』が「富嶽」の一章をもつのは、あらゆる事象を変化と流転の相のもとに捉えようとする営みにとって、富士山が必ず挑まなくてはならない対象だからであろう。静岡在住の恩田侑布子が、日々慣れ親しんでいる富嶽諸景を、いつか俳句に詠んでみようという構想を温めてきたとしても、それは副次的な動機とみるべきである。

なぜなら、永遠の山容を四海に誇るかのごとき霊峰富士は、実際には強風で山肌を削られたり、斜面のあちこちで崩落が生じたりしており、常に山容が変貌しつつあるからだ。遠望する眼には悠久にして不変とみえる富士が、じつは痛ましい変化と流転のただなかに置かれているという現実。したがって、富嶽こそ、この世界に永遠不変のものなどなにひとつないという公理を具体的な風景として示すのに、格好の題材なのである。

夏の富士使ひはしりの魑魅なる
裏富士や天空をゆく座頭蜘蛛

『空塵秘抄』を三度四度と繙きながら、私は若い時分に読んだヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』の一節を思いだしていた。浩瀚なこの小説のほとんどを忘れはてたというのに、次の一節だけは強く印象に残り、いまだに私を魅了する。(川村二郎訳)

あたりはいよいよ暗くなり、人びとの顔はおぼろめき、岸辺は蒼ざめ、船の姿もさだかに見わけがたくなった。ただ歌ばかりが残っていた、いよいよ明るく支配的になり、さながら船と櫂の拍子に指揮をあたえようとするかのようだった、……
……かがやく歌の上高く、かがやくたそがれの上高く、大空は息づいていた。きびしく晴れやかなこの空の秋めいた美しさは、幾十万年このかたそのままにくりかえされてきたのだし、さらに幾十万年も、このままくりかえし現われることだろう。だがこの大空の息吹きは、今、ここ一回かぎりのものだった。そして明るい絹のようなその穹窿のかがやきは、おりしもはじまる夜の静けさにひたひたとひたされていた。

なぜこの一節に魅了されるづけるのか。理由ははっきり自覚している。第一に、ここでは〈永遠の今〉という主題が語られているから。次に、この主題が、変化と動きに貫かれた風景として提示されているからだ。

夕べから夜へと移行する時間のなかで、水が動き、船が動き、歌声が動いている。かくのごとく、万物は流転し、すべては生成変化し、やがて消滅する。そうではあるが、しかし、人間が生きる刻々は、まさに変化と流転のただなかにあるあらゆる事象によって満たされている! こう悟ったとき、無常観が反転して、なにかしら生の歓喜のような感情がこみあげてくる。たしかに永遠不変のものなどなにひとつ存在しないが、うつろい変容してゆくあらゆるものを、いま、ここにおいて、この私が見ているのだ、という覚醒が結晶するのだ。先の引用のうち、「だがこの大空の息吹きは、今、ここ一回かぎりのものだった。」のくだりに、微かにではあっても、誇らしげな響きが俄に流れでるのを、聴き逃さないでおこう。

恩田侑布子は句集の「あとがき」で、自らを「吹き飛ぶ塵」と控えめに形容するが、『空塵秘抄』一巻には朗々たる声調、凛とした姿勢、明澄なまなざしがゆきわたっていて、われわれを瞠目させる。「人生は虚しい」とか「すべて儚い」といった、ありきたりの退嬰や低次元の冷笑癖は微塵もみられない。無常観が反転したところの生の歓喜が、精神の脊柱として、彼女の佇立を支えているからだろう。無常なるがゆえに、この私は見なければならぬ、そして詠まねばならぬ、という詩人の矜持は、そこに根を持っていよう。

最後に、再びブロッホを引用する。

ただ歌ばかりが残っていた、いよいよ明るく支配的になり、さながら船と櫂の拍子に指揮をあたえようとするかのようだった、

この部分と「同質」の詩趣を与えてくれる作品はないものだろうか、と探していた私は、次の句を見いだした。

睡蓮やあをぞらは青生みつづけ

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