・・・関悦史
先週の月曜日、正岡子規国際俳句賞の受賞者講演を聴くため、椿山荘に行ってきた。
正岡子規国際俳句賞は愛媛県文化振興財団他が主催し、今回が4回目。
第1回(平成12年) 大賞=イヴ・ボヌフォア(仏詩人。ほか4名が俳句賞等)
第2回(平成14年) 大賞なし(米作家コール・バン・デン・フーベル等3名が俳句賞等)
第3回(平成16年) 大賞=ゲイリー・スナイダー(米詩人。ほか3名が俳句賞等)
今回第4回にして初めて大賞に日本の俳人金子兜太が選出された。声望の高さの割りには然るべき顕彰を受けてきたとは言いがたい河原枇杷男への「俳句賞」授賞と合わせ、受賞者の名を並べただけでもこの賞の視野の広さと奥行きが窺える。国際俳句フェスティバルはその受賞者講演と交流懇親会を主とするイベントで、初日2月15日には愛媛で、2日目の16日は東京でと、会場を移しつつ2日続けて行われた。私が行ったのはその2日目の方である。
受付の脇に立っていた西村我尼吾さんに挨拶したら前から2列目の席に案内されてしまい、良い席には違いないが、ほんの3メートルほどしか離れていないすぐ真向かいに白布のかかった受賞者席があって、ここに4人の受賞者すなわち大賞の金子兜太(89)、俳句賞の河原枇杷男(78)、スウェーデン賞の内田園生(84)と李御寧(イ・オリョン、74)の各氏が居並ぶ。 椅子に短躯を沈めた老金子兜太の、つぶらなような、糸くずのような、奇妙な動物のような目がとにかくずっと私の方に向いている。位置関係的に自然にそうなるというだけなのだが、顔を上げるたびに金子兜太と見つめあい、二人だけの世界になってしまうのが少々困る。
有馬朗人選考委員長による受賞者紹介、大賞は「激論の末、本命中の本命」金子兜太氏にというのに続けて、俳句賞は「俳句に復活されることをお願いし」河原枇杷男氏に。受賞者席の金子兜太がここで大きく肯いた。
以下は4氏のスピーチの要旨。
最初が「30分経ったら教えてください」と演壇に上がった金子兜太氏だが無論時間内には収まらない。
《……また毎度言っていることですが、私は秩父という、山の中で育ちまして、親父が歌が好き、歌というか踊りですね、「秩父音頭」というのがあって踊ってばかりいた。その五七の音律が幼いころから私の体には染み付いていまして、五七五という肉体、いわばナショナルアイデンティティですが、私の体はナショナルアイデンティティで出来ているわけです。そのナショナルアイデンティティを放っておいて他に賞を出すというのは考えられない!(笑)。上手下手の問題ではない!!(笑・拍手)
父たちが句会をやると秩父の山奥ですから野生の男たちが、それも知的な野生の男たちが集まってきた。憧れましたね。花鳥諷詠なんかではない。
俳句は文学の一部です。五七五が伝統、他は属性です。季語は属性。だから堀葦男と「海程」を作る際、「自由律はやるまい」と、そう言い合って始めたんです。
そこで造形俳句論ということを言いだしまして、主体と現実とを一元化する作業、その合間に“創る自分”というのを設定した。これは人に伝わる保証がない。芭蕉が「赤冊子」で「物の微・情の誠」ということを言っていますが(※注1)、これを一体化させるのが詩人の一つの仕事ですね。前衛なんぞとも呼ばれましたけど、これは第一次大戦の後の歴史的呼称としてのアヴァンギャルドとは違う、ニックネームであって悪態ですよ。高柳重信というのがいて重信は言葉重視、対談なんかでやりあいましたが、こっちは平明で重いもの・伝達重視。
虚子は心を排除しましたね。それが「客観写生」。子規の「写生」の裏にあったダイナミックな心を消してしまった。
60年代になると「戦後は終わった」なんてことを云いはじめる人たちが出てきて、何をいいやがるんだと思って、何か人間が信じられなくなってきた。それで放浪者の人間存在性という方に関心が行って、社会性俳句から山頭火とかの方へ行くわけです。
そこにいる黒田杏子さん(最前列で聴いていた)が強引に連れ出してくれた(笑)おかげで晩年の鶴見和子さんと対談ができたんですが、鶴見さんもアニミストですね。花鳥を詠んでも、花鳥を通じてアニミズムに行く人。こういう人に親しみを感じる。次にそこにいる河原枇杷男さんが昨日と同じ空海や何かを引合いに出してのアニミズムの話をするかと思いますが(笑)、グローバリズムだのハチの頭(?)だのはどうでもいいんで、(アニミズムによって)俳句は世界に拡がる詩形です!(拍手)》
続いてその河原枇杷男氏。
兜太氏と違って人前に出る機会が少なく、まず容貌の印象自体が希薄な上にあの作風と断筆が嫌でも神秘性を高める。河原枇杷男を見るというのが主目的の出席者は私の他にも結構いたのではないか。枇杷男はパンフに掲載されていた写真とは違い、胡麻塩頭というか白髪を短く刈り込んで眼鏡を着用、思いのほか陽気で能弁な関西なまりでのスピーチだった。
《昨日と同じ話をするかどうかという話を控え室でしてまして、同じ話というのもと思って10分くらいの原稿書いたんですが、これここで喋ってしまっても勿体無いので有馬朗人選考委員長の言を容れ、昨日と同じ話をします(笑)。
『河原枇杷男句集』というのは手元にないかと問い合わせが来ることがあって、あるとき「海」の編集者だった安原顕からも来た。なぜ今頃と思ったら松浦寿輝が「虻」という短篇を「新潮」の1月号に書いたんですね。そこに私の句が使われていて、安原顕は最初架空の俳人かと思ったそうなんですが、どうも一味も二味も違う、こんな句松浦はよう作らんと思い、「この河原枇杷男というのは実在するのか」と人に訊いて初めて本当にいると知って問い合わせて来たらしいんですね。
それで句集は手元にないし「全句集」をじき出すからと言って終わりになったんですが、数ヶ月後にヤスケンの訃報が入りました。電話してきたのがもう肺がんで告知後だったんですね。自分の死が近い人間が何故枇杷男の句を読みたがるのか。
松浦寿輝が「虻」で引用した句は『閻浮提考(えんぶだいこう)』という句集に入っている「死ぬや虻死のよろこびは仰向きに」という句です。「死ぬや虻」…アブが死ぬんですね、「死のよろこびは仰向きに」…ヤレヤレ死ねたなァと転がってる俳句。うつむけか仰向けか、世界の誰も見ていないところを俳人が観ている。それを入院先から抜け出てきた男が隣で呑んでいる男に語る小説なんですね。枇杷男の句にはおまじないみたいなところがあると書いてくれている。それでヤスケンも自分も楽になると思ったのかなと思ってみたり…。》
ここで短篇「虻」の本文を引くと、この酔った饒舌な語り手は「死ぬや虻死のよろこびは仰向きに」「或る闇は蟲の形をして哭けり」「紐つひにおのれに絡む月夜かな」を論じたのに続けて「身の中のまつ暗がりの螢狩り」「ほととぎす死へ七曲り七峠」「野菊まで行くに四五人斃れけり」と次々に諳んじ、こう語る。
《いやいや、どうかわたしのことを感傷的な文芸愛好者だなんて思わないでほしい。わたしなんざ、芭蕉も蕪村も区別がつかない無粋な男だよ。ただ、この枇杷男という俳人の詠んだ句にはね、何かおまじないみたいなところがあって、こいつは参ったなというときに記憶の底から呼び出して、ちょいと唱えてみる。と、ふっと気持ちが楽になってくる、何かそういう功徳みたいなものがあるんだよ。》松浦寿輝「虻」(『そこでゆっくりと死んでいきたい気持ちをそそる場所』所収)
枇杷男のスピーチに戻る。
《フランスのガリマール書店が「ポエジー・ガリマール」という海外文学の叢書を出していて、ここに俳句も入れるというので俳句だけで一巻になっている。ここに現代俳人で採られているのが誰が一番多いかというと、一位が金子兜太で6句なんです(拍手)、二位がかくいう河原枇杷男で4句(拍手)、この4句というのは「身のなかのまつ暗がりの螢狩り」「或る闇は蟲の形をして哭けり」「枯野くるひとりは嗄れし死者の聲」「誰かまた銀河に溺るる一悲鳴」です。他に誰が入っているか。飯田龍太と森澄雄は1句ずつなんですね。高柳重信と三橋敏雄が2句ずつ、加藤楸邨と永田耕衣が3句ずつ。明治以前に遡ると松尾芭蕉41句、与謝蕪村46句、正岡子規45句、夏目漱石と高浜虚子が13句。一番多いのは誰やと思います。小林一茶で60句入ってるんですね。(金子兜太大拍手)
秋の季の美しさではなく、言葉通りに取って「或る闇は」の句を発見したのは哲学者の梅原猛です。この句と「秋の暮たましひ熟れて堕ちゆくも」と2句取り上げて、人間の声で語っている句じゃない、宇宙の独白、声なきものの声がある、不思議な世界を作ったと言ってくれている。
いったい俳句とは何か?
俳句とは、自身が俳句とは何かと問いながら歩いている何かである。常に己。「われわれはどこから来たか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」。この永遠の問いを見失ったときに世界は内側から腐りはじめるのではないか。
一方、もう一つのコスモス(宇宙)を夢見ること、森羅万象のなかに実は言葉が、存在の言葉が書き込まれている。それを解読するのが俳句。
空海の『声字実相義』には「五大みな響きあり」とある。宇宙は言葉の交響曲なんですね。それに魂の内なる目を凝らし、耳を傾けろ、違った世界が見えるぞ。これはアニミズムの一番出来上がった哲学ではないか。(受賞者席の金子兜太腕を組み、難しい表情で黙考)
マーラーの交響曲第3番、これが私は好きでCDもやたらに買いましたが、6つの楽章から成る交響曲ですが、そのそれぞれの楽章の章題がみな、野原の花が私に語るとか「何何が私に語ること」というふうになっている(※注2)。
道元も同じことを言っている。『正法眼蔵』第二十九の「山水経」、あれは水の哲学です。谷川の水が八万四千の法を説いていた!
砂漠の民、遊牧の民が地平線に日が沈むのを見て立ちすくむ。存在の言葉が響いてくる。このとき砂漠の民は詩人となっている。あるいは娼婦が河べりに佇み、流木が流れていくのを見る。この娼婦も詩人になっている。詩人だから詩を書くのであって、詩を書くから詩人なのではない。
野原の花の声に耳を傾けたマーラーの交響曲第3番のような句があるか? 病める深い魂を秘めた俳句はまことに少ない。
本格かどうかというのは量ではない。
句会で高い点を取る句がいい句なのでもない。下村槐太は句会やって弟子が良い点取るとあとでこっそり呼び出して注意したそうです。句会で高点句になったということは短時間で選べる句だということで、そんなのは大した句じゃないぞと。永田耕衣も「句会というのは実力が同じでないと効果がない」といって句会しませんでしたね。
俳句形式は余計なことしないんです。先生もたまには濁世に出てきて下さいよなんて言われたりもしますが。》
3番目の内田園生は鶴のように痩せた元外交官で、駐セネガル・モロッコ・ヴァチカン大使を歴任。セネガル大使時代には詩人大統領として名高いJ・S・サンゴール大統領の協力を仰いで俳句コンクールを発足させ、このコンクール、現在でも盛況という。モロッコ、ヴァチカンでも俳句普及に多大な貢献があったとのこと。近著『世界に広がる俳句』にその事跡が詳しいとのこと。
体調不良で前日の松山会場には出席出来なかったとのことで、授賞式もこちらで行われ、椅子にかけてのスピーチ。クロアチアの空襲のさなか、俳句にひとつの救いを見出した人たちのエピソード等を紹介され、終わると拍手に包まれつつ一人先に退出された。
最後が李御寧氏。
《俳句というのは短いものだと思ったんですが、(兜太、枇杷男のスピーチは)長いですね。(笑、拍手)
韓国人は俳句知らない。どうしてか?
蕪村の句に「高麗船(こまぶね)のよらで過ぎ行く霞かな」というのがある。霞の隔たりを表現するのに、高麗船という別物を並べる。蕪村には「白梅や墨芳しき鴻臚館」というのもある。白は寒い。日本の叙情は紅梅ですね。道真の飛び梅も紅梅。
芭蕉の句では「よく見れば薺花咲く垣根かな」というのがある。素晴らしい。ところがこれを韓国で学生に言うと笑うんですね。泥棒でもないのに何故よく見るのかと。
韓国人はよく見ない。遠目さらに良しと言ってフワリと見る。それでナニがナニしてどうなった「ああ悲しい」まで論理的に言わなければ気が済まない。
私、俳句に初めて対面したのが正岡子規だったのですね。運悪く。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。柿を食ったら腹が満たされた、あるいは柿を食ったら腹が冷えたというならわかる。先生なぜ柿を食ったら鐘が鳴るのですか? と学生に言われる。何の句か誰もわからない。それで自分で研究し始めた。
食うことの名作というのは世界文学の中にないですね。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」「古池や蛙飛こむ水のおと」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」。
この中で「鐘」「蛙」「蝉の声」というのは同じ(要素)ですね。「法隆寺」「古池」(閑さやの句が詠まれた)「立石寺」も一緒、それで(声を強めて)「食う」「飛こむ」「しみ入る」が一緒。俳句は激しいアクションの文学ですね。激しいアクションの結果、うるさかった蝉の声もしずかなものになる。》
李御寧氏といえば私は80年代にベストセラーとなった日本人論『「縮み」志向の日本人』の著者という認識しかなかったのだが、たまたま最近氏の俳句論『蛙はなぜ古池に飛びこんだか―「俳句」と日本人の発想』が意外な好著らしいと聞き、興味を持ち始めたところ。パンフによるとこれは前著の『俳句で日本を読む』を充実させたものらしい。
李氏の話、日本語の発音がややたどたどしかったせいもあり脈絡がつかみきれなかったところもあったのだが、『蛙ははなぜ古池に飛びこんだか』は同種の話題に触れているようだ。後で読んでみよう。
受賞者のスピーチが予定時間を大きく超えて、予定されていた筑紫磐井(コーディネーター)・西村我尼吾(進行役)によるトークセッション「受賞者と語る」は中止、そのまま隣の広間に会場を移して立食形式の懇親会に。
資料面での質問にメールでのみお答えいただいたことのある鳴戸奈菜氏に直接お会い出来た。田中亜美さんとその友人のオーストリア出身の男女にも会った。女性の方は日本語ペラペラだが男性の方は全くわからないにも関わらずの来場。それでも詩人カネコトウタのヴァイブレーションに感銘を受けたという。
河原枇杷男氏と話す。
スピーチの中で書き起こすのを省いた部分に、句集が欲しいという安原顕からの問い合わせに続き、詩人の宗左近からも似た状況で同じ問い合わせが来たというエピソードがあったのだ。
《宗左近氏夫人から「なければ借りて書き写したいから持っている人を紹介してくれ」と言われて仰天した。宗左近が書き写すほどのものではないと。東京の方だと都立図書館にはあるのだが自慢たらしいので言わなかった》と枇杷男氏が言ったので、私はちょっと驚いた。10年ほど前都立図書館に注文を出し、当時出たばかりだった『河原枇杷男句集』を購入させたのが私だったからである。注文を出したら間もなく図書館職員から出版社の「序曲社」というのがわからないと問い合わせが返ってきたので、新聞の俳壇時評の切抜きを見せ、確かにこういう名前のところから出ているはずだからと買わせてすぐに借り出し、全句ワープロ(当時パソコンは持っていなかった)に打ち込んだのだ(奥付には「序曲社」の住所も記載されていたが、これが枇杷男の自宅住所と一緒だった。わからなかったはずだ)。
その証拠の手打ちでプリントアウトした紙束の『河原枇杷男句集』を持っていたら何人かから「それ寄越せ」の声がかかり、これは帰宅後希望者にメールで送信。
我尼吾さんに引かれて人に紹介されたり、あちこちで数人ずつ集まっては行われている記念撮影のシャッターを押したり押されたりしつつ会場を半周し、隅に立って我尼吾さんと有季定型の話。物、素材を詠んだ句を作れとのアドバイスを受ける。当方の、具体から離れての立ち枯れを危ぶまれたものか。
懇親会終了後、金子兜太は「海程」の会員らしき婦人方に囲まれて上の階の喫茶ルームに移っていったが、田中さんが私も引っ張り込んでくれたおかげで兜太氏、鳴戸氏の正面でお話できた。
河原枇杷男氏のスピーチが空海を引合いに出して五大すなわち「地水火風空」のエレメントという抽象的なものまでアニミズムの枠内で捉える件りになった際、兜太氏が難しい顔になって聞いていたもので、その点お二人の捉え方に相違があるのではとお訊きしたところ、アニミズムというのが注目されるようになったのは19世紀に人類学者のタイラーが言い出してからだがその時には五大みたいなものまで枠内に含まれていた、河原枇杷男のはその頃のアニミズムだと即答。兜太氏本人のアニミズムは動植物までをイメージしたものらしい。「君、枇杷男の句を見て、あれ肉体がある句と思うか」とも。単なる身体性偏重の人ではなく、急逝されたあの阿部完市氏がその選句眼に全幅の信頼を寄せていた金子兜太の言である。この問いも問いの形のまま身の中のどこかに転がしておくことにする(それとは別に河原枇杷男のあのグノーシス性の勝った作品群は本当に本人が云う如くアニミズムの句なのか、アニミズムの要素は認められるにせよそれは通過点に過ぎず、到達点は別のところにあるのではないかという疑問もある。無論、論と作とが過不足なく一致し、実作が理論の図解にしかならないのであれば大した作家ではないとも云えるから、己の論からの生産的なズレは実作者にとって必ずしも不名誉ではない)。
兜太氏、現在食事の支度などは「嫁がみんなしてくれる。私の体のことを考えた献立で上げ膳据え膳」とのこと。同席していたのが私以外みな女性だったこともあり、そこから「仕事があってその帰りにスーパーに寄り家事がある、両方がある女性の方が句作の上で有利なのではないか」といった発言が続き、それを受けた兜太氏、「そういうことは考えたことなかったな。今日は新しいことを教わった。いいこと聞いた」。90歳を目前にしての柔軟さに驚く。
午後6時過ぎ、兜太氏を乗り込ませたタクシーを見送り、散会。
注1=服部土芳がまとめた『三冊子』のなかの「赤冊子」に以下の記述がある。《習へといふは物に入(いり)てその微(び)の顕れて情感(かんず)るや、句と成る所也。たとへば、ものあらわ(は)にいひ出ても、そのものより自然(じねん)に出(いづ)る情にあらざれば物我二つに成りて、その情誠に不至(いたらず)。私意のなす作意也。》(『校本芭蕉全集 第七巻 俳論篇』角川書店)
注2=マーラー交響曲第3番の章題は以下の通り。但しこれらの章題は後に作曲者自身により破棄された。序奏「牧神(パン)が目覚める」、第1楽章「夏が行進してくる(バッカスの行進)」、第2楽章「野原の花々が私に語ること」、第3楽章「森の動物たちが私に語ること」、第4楽章「夜が私に語ること」、第5楽章「天使たちが私に語ること」、第6楽章「愛が私に語ること」。
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3 件のコメント:
関様
詳細緻密な報告に驚きました。人間テープレコーダのようです。
私自身は、報告中にあるように、「受賞者に聞く」コーナーを控えて、あれこれ考え、やがて時間が何分あるのか気になり、はては県の職員から「筑紫先生、中止」といわれがっくりし、と細かい点を聞いているゆとりもなく、今読み直して感心しているところ。それにしても、小生、職場を休暇を取った意味は何であったのか。聞くところによると、受賞者が示し合わせて、えんえんとしゃべってやろうと決めていたとか。確信犯ですな。
まあそれはそれとして、いい会ではありました。関さんもお楽しみいただけたでしょう。
筑紫
関さん、俳句の重要イベントのニュースがはやくも。大変有り難い報告です。「俳句空間—豈—weekly」のモットーの一つ「迅速性」が、威力を発揮しましたね。
私は松山の方の会に満席で予約できなくて残念でした。とても盛況だったらしいですね。
関西発の詩の雑誌「びーぐる3号」の俳句時評に書く題材をさがしていて、磐井さんの「各氏講演報告」要約をさきにメールで教えてもらっていたのですが、私のその原稿には、ネットに公開されている主催者の「趣旨文」のほうをつかいました。
磐井さん。受賞者の当日の講演記録は、関さんのとあわせて再読します。さらに確実な資料をあつめ吟味して、選考趣旨と対応させて。後日別の機会の文章に援用させていただきます。
それから、「WEP俳句通信」48号の「ヘンな俳人」三人の《わが峠越え》特集。なかなかおもしろいですね。)これも、稔典、磐井、坊城俊樹ですから・・。三物衝撃 というか。急に「ヘン」なのが主流になったような。(笑)
なお、この選考委員の各氏への《受賞理由》、論旨完璧で、戦後俳句の総括と現状のおさえになっています。郷里松山発の今年の賞のグローバルにしてナショナルな視野もまたみなおしました。
ただ、兜太氏の受賞は両手を挙げて賛成ですが、氏がべつの場で、《俳句人口1000万人、国民文芸》といっておられるのには私としては異を唱えたい。「人口数」についてはさいばら天気氏がすでに昨年末「週俳」に書いておられます。そういう趣旨の文章です。(吟)
筑紫様
俳人は意外と能弁な方多いですね(普段「ものが言えない」形式に関わっていることと関係あるのやらないのやら)。
私はおかげさまで楽しんでこられたのですが、筑紫さん、あのイベントである意味一番お疲れになった立場かもしれませんね(筑紫さんが気をもんでいる様子も視野に入っていればレポートに入れられたのですが、真横に近い遠方だったので気づけなかったのが残念です)。
吟様
松山の方が関連イベントなども多かったはずで、そちらの方が多分盛況だったのだろうと思います(東京の方は、席の数は足りていたように見えました)。
受賞理由等も含めて、志の高さが感じられる催しで、長く続いてほしいと本当に思いますね。
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