2010年6月28日月曜日

後藤貴子『飯蛸の眼球』後篇

蛸とイヴのリアリズム
後藤貴子句集『飯蛸の眼球』を読む(後篇)


                       ・・・高山れおな



句集のタイトルというのは当然、著者の意欲や批評意識(あるいはそれらの欠如)、機知や美意識、衒学趣味やナルシシズムなどを反映していて、それ自体しばしば興味深いものだ。後藤貴子の場合はどうか。第一句集のタイトルは『Frau』で、これは先週号で紹介した通り、若い女性の性がその主たるモティーフなのであってみれば、明確な主張を持ったネーミングということになるだろう。同じその人の第二句集の『飯蛸の眼球』という集名を、では如何様に受け取ったらいいのか。このタイトルは、

飯蛸の眼球饐える地球かな

という、集中の句のフレーズを典拠にしていて、これはもちろん句集の命名法としては最も普通のやり方だけど、それにしても色っぽくないというか、可愛げのないタイトルで、しかしそこに感じられる反骨の手応えはやはり『Frau』以来のものだと思う。そもそもこの句、例えば〈水の地球すこしはなれて春の月〉(正木ゆう子)や〈飯蛸に猪口才な口ありにけり〉(中原道夫)に、言葉の上でもまたそれを書いた意識についても少しもわかりにくいところがないのと比べると、いささか不透明な印象がある。「飯蛸の眼球饐える」なる、どちらかといえば不快な些事がなぜ「地球」への意識を呼び出してしまうのか。いやむしろ話は逆で、「地球かな」のロマンティシズムに冷水を浴びせる形で出て来た上五中七なのかもしれない。といってそこにシニシズムがあるわけでもない。いっそこれはリアリズムなのであろうか。飯蛸の眼球と地球の両者にピントが合ってしまうような異常な焦点深度を持ったカメラによるリアリズム。そのイメージの中で、やがて飯蛸の眼球と地球とは、一個の饐えた球体として分かち難く重層しはじめるだろう。どろどろに濁り、生臭い匂いを発するその球体こそ後藤が、そしてあなたや私が暮らす星なのである。

『飯蛸の眼球』は全部で二十五編の連作を、七章に分ける構成をとっている。連作といっても各句が相互に補完する体のものではなく、ゆるやかに主題を共有するといった感じで、具体例をあげると、Ⅰとして纏められた三編(「MEGAMARKET」「厨俳句の今日」「肉を切る刃」)では、たべもの/たべることが、Ⅱの三編(「『ホテル・ロンドン』」「愛咬の喉」「二度寝ぬ」」では性愛が、共通のくくりになっている。巻頭に置かれた「MEGAMARKET」十一句のうち、以下は前半の五句。

手に余る巨大いちじく目に隠す
捌かれた手相が並ぶマーケット
あさりの死葱の死臭で消してある
ほるもんの法衣を放る美僧かな
愛ばかり包めば湿る新聞紙

一句目の「いちじく」は女性器の暗示でもあって、前句集以来のこの作者の強迫観念を示しながら食と生殖の関係性を一挙に前景化する。句に直接描かれているのは果実であろうが、「いちじく」と「隠す」の結び付きから葉の方への連想も生まれ、パラダイス・ロストの物語や西洋彫刻の股間表現のイメージが透かし見えるのもおもしろい。二句目の「捌かれた手相」は、食品売り場にならぶ捌かれた魚や動物の肉のイメージと、人間の身体を重ね合わせてさしだした按配だ。三句目は「葱の死臭」で消されたのが浅蜊の死臭ではなく「あさりの死」そのものだという形で、我々が目をそむけようとしているものを暴きたてる。四句目は「ほるもん」の頭韻から「法衣」が呼び出され、「法衣」の連想から「美僧」が登場したわけだが、「美僧」なのだからして生臭坊主を風刺したり揶揄したりという着地にはならず、食の欲望が性的な視線の欲望に回収されたことになろう。食料品を買うのはほとんどスーパーだからよくわからないのだが、今でも町なかの魚屋では五句目に詠まれた情景のように、魚を新聞紙で包んだりすることがあるのだろうか。新聞紙に包まれた小さな生き物の死骸というところまで矮小化された「愛」。しかし矮小化されたそれは、新聞紙を湿らせるという形で確かな実在感を伝える存在になった。

ちんすこう共寝のたびに音たてて
ばれいしょの飛翔や舌も胸も生え
あそびたりないタマネギの帯電ぞ
みみうらのあぶらたくさん湧く日かな
平らげし花の腐肉が舌なめて
死ねないほどの退屈もあるコンビニよ

引き続き「MEGAMARKET」の後半六句である。前半五句と同様に、食べものに性愛の暗示を結びつけるスタンスで書かれている。食べものとはイコール死せるものであり、死せるものを食べてやがて死にゆく己が身を養う、我々の在り方の淫靡さが浮き上がってくる、それがこの十一句の仕組であった。最後の「コンビニ」の句のみは、具体的な対象物を欠いたまま、そこで売られているのは「死ねないほどの退屈」だと言っている。それはもちろん、十一句の全体を蔽っている認識でもあるだろう。この連作に見られるサタイアは、必ずしも独創的な視点を持っているとは言えないのかもしれない。しかし、食べ物の物質感を写生的な方法とは異なるやり方で捉え、たくみに異化してみせた、したたかな俳句になっているのは間違いないだろう。

「MEGAMARKET」に「厨俳句の今日」が続くのは、マーケットで購入された食材のその後、という趣向と受け取れる。第一句集『Frau』が、富澤赤黄男の挑発にあえて乗っての討ち死にの記録であったように、厨俳句、台所俳句の現在を示そうとする本作もまた、後藤貴子の俳句史との野心的な切り結びを強く感じさせる。厨俳句という言葉が、場合によっては蔑称であったことを考えるとなおさらである。蔑称としての厨俳句の前提であった男性中心主義や文学主義の基盤はこんにちでは掘り崩されてしまったが、それにしても人間が厨=食べることから解放されることはないのだ。

まないたに等間隔の鯉の闇
煮るほどに聖痕しみるこんにゃくよ
ざるの穴は五芒星です台所
鍋底の塩の明滅山眠る
エーゲ海の分裂やまぬスープ皿
いやに皿汚すキクラゲどこが耳

「厨俳句の今日」十三句のうち六句。「厨俳句の今日」では、「MEGAMARKET」の段階から一歩進んで、切り刻み、煮込み、焼き、咀嚼する、より直接的な行為が描かれる。より猥雑で、より卑小であることが、かえって聖性への回路を開く機微を、これらの句から読み取ることができる。「闇」「聖痕」「五芒星」などの語は、その見やすい符牒である。

すでに述べたように、Ⅱとして纏められた「『ホテル・ロンドン』」「愛咬の喉」「二度寝ぬ」の三つの連作は、性愛が表現の軸になる。前句集『Frau』のモティーフを引き継ぐものであるが、さすがに対象に向かう手つきははるかに沈着になっている。なにしろ、

睾丸を運ぶ手筈を整える

などというのだから余裕ではないか。前句集にはあった、成功しようが失敗しようが、性愛を描こうとしてのめりこむような姿勢はもはやここにはない。

仏手柑をまたぐ姿勢にこだわりぬ
愛されて純物質がほとばしる

は、それでもなお直接性を残しており、特に後者は美しい句になっていよう。しかし、より強い欲望を感じさせるのは(なんならより猥褻と言い換えてもよいが)、一見さらりとした、

手が精悍「ホテル・ロンドン」出づる時

の方かもしれない。ラブホテルを出る時、男の手が精悍に見えたということであろうが、川端康成の『雪国』にある、指が覚えている云々の一節を思い出したことだ。ちなみに、後藤も越後の人なのであるが。それにしても、

瓦版に昨日の体位書いてある
天金の書の二度と寝ぬ男女
(なんにょ)かな

といった句を見ると、後藤にとっての性のモティーフが、一種の間接性を帯びはじめていることがうかがえる。秋風ぞ吹く凋落感のうちにも「瓦版」の句のふてぶてしい諧謔は、とても女性が書いたとは思えない感じではある。実際、渡辺隆夫あたりの川柳のテイストにとても近いのではないだろうか。

以下、興に入った句を幾つか、個別に見てゆく。

全力で少女であった日草の絮

連作「少女は少女に」より。こんな手放しの感傷は、この句集では珍しい。少女であったことはない当方であるが、とても共感できる。

真鍮の男根につくひかりごけ

本作を含む「ひかりごけ」および次の「三角サンド」は、歴史批判の連作となっている。ファリシズムの偶像のごとき「真鍮の男根」は、当然、戦争をはじめとする歴史の栄光と悲劇を駆動する男性性の象徴なのでもあろう。戦時下のカニバリズムを描いた武田泰淳の小説「ひかりごけ」から言葉を借りているわけだが、餓えとも愛とも無縁の「真鍮の男根」の永遠の屹立が空しくも可憐に荘厳されたおもむき。寂しく美しく、冷え冷えと可笑しい。

辻斬りのおまえの指の瀬音かな

本作の見える「魑魅(すだま)たち ~地球(テラ)へ~」のモティーフは芸能ということになろうか。寺山修司や岸田森などの芸能者が登場し、ヴァイオリンやコントラバスがもののけめいた相貌を見せ、曲馬団が駆け抜け、ヤクザ映画のワンシーンが突如大写しになる。掲句も時代劇めいた道具立てながら、「指の瀬音」とはまたすこぶる意味シンなフレーズではないか。ちょっとぞくぞくするようなエロティクな句だが、しかしどうも等身大の作者は今や、「家族の肖像」という連作中にある

切り株やイヴとアダムと欠け茶碗

の句あたりにいるような気がする。

『飯蛸の眼球』は、二十六歳から四十四歳までの作品を収めているという。その「あとがき」で、後藤は次のように述べている。

何度も、句作を断念しようと考えた。なまけものの私にとって、作句は楽しみというよりは苦行に近かったし、自分が俳句形式に選ばれた存在だとも思えなかった。しかし、私は俳句をやめることができなかった。この十八年間は、「自分自身にとって、俳句形式を通じた言語表現活動が必要である」ことを再確認するために必要な時間だった、と思う。

「切り株」をちゃぶ台代わりに「欠け茶碗」で食事する「イヴとアダム」。蛇に誘惑されて知恵の木の実を食べてしまったイヴは、なんと俳句を作っているらしい。彼女がいる場所はすでに楽園ではないから、それが苦行なのもいたしかたないだろう。彼女の俳句が描き出す世界もあきらかに楽園ではない世界だ。楽園ではないから俳句が「必要である」のだろう、後藤にも私たちにも。

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