2010年3月13日土曜日

閑中俳句日記(26) 塩野谷仁句集評

閑中俳句日記(26)
塩野谷仁『独唱楽譜』


                       ・・・関 悦史

『独唱楽譜』は昨年11月に第6句集『全景』を上梓したばかりの塩野谷仁が1988年に出した第3句集。

師・金子兜太は序文で、その句風の〈意志的屈折〉や音律そのものの軋みに触れつつ《私はそうした〈前衛の時期〉を懐かしく思い浮かべていたのだが、と同時に、その時期も遠ざかるころになってもなお執拗にこうした自己表現に執している塩野谷仁の別の面を――彼自身の生活内面に関わることを――思わないわけにはいかなかった》として《唖子(あこ)に秘かなさくらあまりにも日暮れて》等のいかにも柔らかく優しい句を引いている。この句集が前衛の季節の後(80年代後半)に刊行されたものであり、その時期にもなおごつごつと塩野谷仁は屈曲した言葉を編み出し続けるが、しかし兜太はその作品世界にむしろ内面的なやさしみをこそ見出そうとしている(言い方を変えれば欲望している)といった事情がこの序文から一度にまとめて見て取れる。

高窓一つ灯り熟柿は深夜の肺
帰雁の気配あいつが火を点けて俺も
電車の中までさくらは全体でさくら
冬のランナー倒れる方へ密なる方へ
陸橋に一人すくなくとも鳥色

《高窓一つ灯り熟柿は深夜の肺》は灯った高窓と熟柿、人工物と自然との緊張をはらんだ対峙が「深夜の肺」の孤独な内界の感覚にまとめられ、熟柿が己の内臓のごとく知覚されている。人工と自然のコンバイン芸術じみた圧縮と、孤独感漂う叙情性という特質がここで既に概ね見られる。

《電車の中までさくらは全体でさくら》となると人工(電車の中)と自然(さくら)との不意打ち的な出会いの美しさだけではなく、移動感覚の中で窓外を流れるさくらが量塊(全体)として捉えられ、それが「中まで」進入してくるというダイナミズムを備えている。「全体でさくら」という認識に達した瞬間を彫り上げるように詠んでいて、その認識や驚きがそのまま硬質な叙情をなしているのだ。

《冬のランナー倒れる方へ密なる方へ》の「密なる方へ」や《陸橋に一人すくなくとも鳥色》の「一人/鳥色」にもそうした質量への還元と変容のダイナミズムが叙情に通じる機微が見て取れる。

芽吹きとは散らばることときに大河
わが力学驟雨後は耳も猫も淋し
多分唖子
(あこ)の絵の中赤とんぼ昇る
地下街晩夏佇ち尽くす少女であった
われに落石感太平洋沿岸雨
美食のごとし霧の底なる電球一個
鍵一個混るさびしさ痒い青野

《芽吹きとは散らばることときに大河》。新たな認識とそれによる叙情となれば「とは」が出るのは半ば必定だが、鼻につきやすい言い方だけに濫用はされておらず、他には《自転とはくもり日に交わるコスモス》があるくらいだろうか。いずれも植物と大景の間の領域が、強引に見えてただの強引ではない「散らばることときに」「くもり日に交わる」の点滅するような繊細さを介して押し広げられ、通じ合っていくさまが快感。

《美食のごとし霧の底なる電球一個》は珍しく直喩の句。電球の孤独さ、硬質さとそれを押し包む霧の広がりが、食欲の対象に見立てられたことでこれもまた肉感的に華やかに止揚されている。フィルム撮影の特撮ものに現れる古めかしいなデザインのサイボーグのような、懐かしくも奇怪な美しさがこの作者の持ち味だろうか。

蝶はかなしからずや自転車古典的な
野に出ても蝶になれぬ自転車八月
テレビに白鳥積まれた書は余熱の類い
えんぴつは硬きがいい花栗に霧が
紫陽花咲きやがて硝子工となりゆく
濃霧六月峠の鏡ににんげん澄んで
霧がくるから夜汽車へ電報うとう

この辺りの句の「自転車」「テレビ」、硬い「えんぴつ」といった器物・機械たちからもそうした、擬人化とも共感とも違う冷たい違和感を帯びたままに共に在るといった感覚が味わえる。

一〇〇メートル内に飛脚はいず緑海
野の虹なら負いやすしいま握力30
徒歩20分鯉と会うくもりのち紅梅
われに鱗なく標高八五〇メートルの青旅

質量への還元ということでは、直接数値を入れてしまった句が多いことも特徴。

「握力30」はあまり強い方ではあるまいが、それが市街の虹でも海の虹でもない「野の虹」の親密な繊細さに見合いつつ、肉体の即物性をも立ち上がらせてその微妙な齟齬感がユーモラスでもある。

《徒歩20分鯉と会うくもりのち紅梅》ともなれば尚更。ただの散歩、身辺雑記じみたモチーフに微細なずらしを重ね加えて奇妙な世界を作り上げている。「徒歩20分」の厳密化のおかしみ、鯉を見るではなく「鯉と会う」(アニミズムというよりも人間関係といいたくなる妙な存在感の鯉だ)、くもりの後が晴とか雨ではなく「くもりのち紅梅」と、これも上空に見たものを経時的に順を追って並べたというよりは、茫漠たる曇り空が勝手に「紅梅」に物理的変化を起こしたような、存在の玄妙さに戯画化でもって真面目な顔のまま戯れかかっているような風情が合わさっている。

骨肉は揺れをらむ深山熱飯(あつめし)

物理化志向と情の厚みを湛えた孤心とが、手応えのある重い隠喩でがっちりと一句を成したという点では、この句が白眉ではないか。

以下、惹かれた句。

おおかたは闇で色づくか雲雀は
葱坊主頭
(づ)の中広いという不思議な
魔羅よりさびしく吉野の雨に緋鯉
大ぐもり立葵つぶやかぬ骨です
たしかに目鼻向日葵にあり砕かれてあり
灯に近く好敵手見えそうで霧が
鍵かけて波を聴くかならず晩秋
猫より自由に宿の朝刊に熟柿が
窓のくもりに熟柿ローマはわが距離なり
たしかに音する春二人に二つの煙草火
木で打たば三日月燃えむ三日月は骨
宇宙傾きつつあり群れてアキアカネは
梨かじるさあ無人劇場がひらくぞ
色鳥われ食塩こぼせば珠
(たま)なりし
大晴天歴史という風のつばきは
空蝉投うりいま恐ろしきもの空蝉
だれか冬木算えだれか遠目赤目
父病んでいっぽん濃く昏れてひまわり
父死後の白さるすべり一日一乱
だれかはみださむ秋たんぽぽの宇宙
踏切の春を越しやや垂直思考
雑学や黄の蝶に天からの蝶が 


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1 件のコメント:

関悦史 さんのコメント...

塩野谷仁の第5、第6句集の抜粋、別館の方に上げました。

第5句集『荒髪』
http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2010/03/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E8%B0%B7%E4%BB%81%E5%8F%A5%E9%9B%86%E8%8D%92%E9%AB%AA.html

第6句集『全景』
http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2010/01/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E8%B0%B7%E4%BB%81%E5%8F%A5%E9%9B%86%E5%85%A8%E6%99%AF.html