2009年12月6日日曜日

閑中俳句日記(豊里友行句集)

閑中俳句日記(18
豊里友行句集『バーコードの森』

                       ・・・関 悦史

豊里友行句集『バーコードの森』(天荒俳句界・2002年)については既に豈weekly内に書評が上がっているのだが(第31号「「の」の字の詩学 豊里友行句集『バーコードの森』を読む」高山れおな)、この度再版したものを豊里氏から送っていただいたので再度簡単に紹介する。

収録されているのは1995年(著者19歳)から2002年までの作品で、現在の若手俳人の中では稀少なことかもしれないのだが、一見して詠まなければならないものがあるという強い気迫が感じられる。内的衝動だけではなく、政治的歴史的ひずみが集中する故郷沖縄への思い、バイトに追われつつ学生生活を送った東京への違和といったものが反骨的な土台を成し、それと身近な事物から明るい風光へと突きぬけ、ひらけていく、暗喩を多用して立体性に富んだイメージを造形していく資質とが一体となっていて、かつての前衛俳句に手法的には近いのかもしれないが、それを現在の表現として鍛え直しているといった印象。暗喩の多用もそのスパークから幻覚的なイメージを出すこと自体が最終目標なのではなく、言いたい何かを俳句表現の中にたわめ込むために必然的な要請として出てきたもののようで、要するに句に詩性があり、血や肉がある。

教室出る夢探しの入道雲

樹のラインに湧き立つ雲は十九歳

一点の蟻がたぐりよせる水平線

秒針の足音ためるコップの昼寝

落雷の闇掘り起す亀甲墓

以上は「十九歳」(1995年)の章より。

「雲」が夢や希望のコードになってしまっている若く素朴な句が多いが開放的な詩性が見て取れる。

《秒針の足音~》は昼寝の夢うつつに聞こえる秒針の音(聴覚)とコップ(視覚)が一句にコンバイン芸術のように凝縮され、肉体性を定着し得ている。

腹話術のダック臍に飼う群衆の砂

夜のパンに鮫のかなしみをぬる

守宮鳴く釈迦の瞼の動くごと

青バナナむけば炎の鮫になる

虎を飼う掌をひろげては秋の風

ブリキでも愛が芽生えて鳩の目玉

這い上がる蜥蜴の瞳は空の深み

国のない児のやわらかい蜥蜴の背

ビルの間より孔雀のような夕日迫る

絶望の甘美に漂うマンタだね

南半球どたりとパンが湿る

シャワーになるネオンを弾くコザのビート

轟音の鼠となり空齧るフェンス

以上は「群衆の砂」(1996年)から。

「鮫」や「蜥蜴」といった動物たちの、実物とも言語ともつかないものとなって何にでも変容してしまいそうな奇妙な柔らかさ、優しさは暗喩多用の作風ならでは。

守宮艶やかに水源の母老いる

光年の星の断層コオロギ鳴く

鬼餅(ムーチー)食む筋肉質の銀河ふくらむ

業火の釘を抱いて家郷出る鬼

《業火の釘を~》は「家郷出る鬼」(1997年の前半部)の章最後の句で、ここから作者の東京時代となるらしい。「業火」といい「鬼」といい上滑りしかねないところだが、作者が古代の人のように言葉を信頼していることが窺われる。

(にんべん)とはぐれバーコードの森に入る

その信頼があるから「イ(にんべん)とはぐれ」の暗喩も文字をいじっただけの思いつきには終わらない。「イ(にんべん)」から引き剥がされての魂のない「バーコードの森」への参入が大都市や管理社会の人間疎外を表すことは誰でも見て取れるが、この句で掬すべきは、そうした陳腐と紙一重のわかりやすさ(それがなければ“名句”は成立しないのかもしれないのだが)などよりもむしろ、禍々しいものとして呼び出された「バーコードの森」が同時にJ・G・バラードやウィリアム・ギブスンに通じるような人工美の魅惑を帯びてしまっているところだろう。

影のない藻になる煩悩の電車

缶詰電車ストローから吐く白い影

数式のビルの目盛りを泳ぐ目高

烏賊の如くカーテンが舞う星の罠

霜柱ハープのように脳弾く

原発の家電の鮫が泳いでら

原子炉の鬼眠るかコンピューター

地はたちまち化石の孵化のどしゃぶり

バーコード人一枚の春いちばん

「原発」「原子炉」も恐怖・嫌悪・魅惑が一体となった誘引力を持つ素材。巨大さ、制御しがたさに却って引きつけられるということがなければ句は単なるスローガン的な異議申立に終わったのではないか。誘引と反発の両義性を身にひきつけて耐えながらそれをクリアーしたところに「バーコード人」となりつつ「春いちばん」を受ける境地が開けてくる。

《缶詰電車~》も満員電車の息苦しさの中で己の核のような精気が失われていくといった寓意と読んだらさして面白くはなく、ここでは古賀春江の絵へのトリビュートといった雰囲気の、モダンで明快な幻覚を字義通り取った方が面白い。一見細部に過ぎない「ストロー」のやや道化たような風情が意外と曲者である。

手のひらが牛蒡になるまで夢掴む

さみしい鮫の背鰭で来る電子音

雲一つ持って記号のミジンコでいい

ビルのオルガン弾く落暉の荷造り

以上「宇宙軸」(1998年)から。

《ビルのオルガン~》は東京の下宿を引き払う句か。夕日のビル群が「オルガン」という別の巨大な機械に化けていてその中での別れの感慨といったものが伝わる。暗喩により風景もサイボーグとなる。

蛙鳴くついに阿摩和利(あまわり)の岩を吐く

地を泡立てる啓蟄の不発弾

新北風(ミーニシ)の頭痛か島は醒めた釘

少年の狂気の粒子握り

?は蝶の一片宇宙の錠に堕ちていく

太陽をもぐ神の拳のアダン

以上「太陽をもぐ」(1999年)から。

沖縄の風土が出てきた。

阿摩和利(あまわり)は豊里氏の師・野ざらし延男氏の解説によると沖縄の戦国武将の名。

《?は蝶の~》は文字化けに非ず、本当にこういう句。

「アダン」はウィキペディアを見ると《アダン(阿檀、学名: Pandanus odoratissimus、またはPandanus tectorius)は、タコノキ科の常緑高木。奄美諸島以南、南西諸島に広く分布する》とある。写真を見ると「拳」だなとわかります。

花蘂のバーコード揺れ地球の誤作動

(マブイ)の迷宮蝸牛のカフカ

夢のミミズ真っ直ぐ星雲を食らう

甘蔗(きび)畑は宇宙の旋毛夏至南風(カーチーベー)

十字架の交差点きのこ雲何処行くの

潮音の国旗へ沈む丸田の眩暈

以上、「疑惑の雨音」(2000年)から。

《魂(マブイ)の迷宮~》の句、沖縄の民間伝承では魂(マブイ)はちょっとの事故で落したり拾ったりするもので、落した人が死んだりするわけでもないらしい。プラハ出身でドイツ語で書き、辺境性が世界性に転じたカフカと沖縄、俳句という別種の辺境性との意想外の出会いと融和が面白い。

缶コーラの底へ地球のへその戦火

もどれないクローンおむすびの蛇穴

島丸ごと戦果のような夕日の烙印

じり貧の地球にしがみつくダルマ浮き

街じゅう花いちもんめの百円ショップ

逃れのがれ洞窟(ガマ)に根を張る百合の悲鳴

泡盛の街はどっぷり土竜になる

死児あやす平和通りの島バナナ

神の咳です空の亀裂の落葉

以上、「流星の石敢當」(2001年)から。

沖縄の現代史中の死者たちと現在とをがっぷり引き受けたヘビーな句が並ぶ。

この年同時多発テロがあり《神の咳~》の句はそれらと隣り合っている。

ここまで追ってきて気がついたが、この句集の場合、通常の無造作な編年体とは意味が違い、自分と世界の句によるクロニクルといった狙いもあるのかもしれない。

月も太陽(ティダ)も魚鱗の響(とよ)み島暦

梅が咲くそこに銀河の圧縮音

蜘蛛の巣の雨は果肉だ春の風邪

能面が迫る孑孑の足音

ココナッツの歌声スラム街のドリブル

寝転んだ季語も馬糞も銀河の野

諸行無常の季語いかがビニールハウス

以上、「季語も馬糞も」(2002年)から。

季語という制度をおちょくったような句が出てきたが同時に《梅が咲く~》のようなインパクトのある有季定型句も混じり、《寝転んだ季語も馬糞も銀河の野》となるとどちらでも大した違いはないではないかと受容する声が聞こえてくる。

飽食

   の児歪む地球パズル

飢餓

ひたひたと海

       ぼんのうの杭

ぐいぐいと星

以上、「ひたひたぐいぐい」(2002年)から。

最後は多行俳句が6句。いずれも掲出句のような、“分岐する並列の2行+統合する1行”(またはその逆)の組み合わせになっていて、これは読み下しのパターンが2通り出来、多行俳句といえども通常は頭からリニアー(線状)に読んでいくものなのでこれはその点いささか異色。

1,《飽食/の児歪む地球パズル/飢餓》

2,《飽食/飢餓/の児歪む地球パズル》

この場合1だとまず飽食の児のイメージが現われ、地球規模で見ればその裏にはしかし飢餓の児がいるのだと、飢餓の児に結論が集約される。

2となると最初から飽食・飢餓両様の児がいてそれが地球規模の一般論に落ち着いてしまう。

1,《ひたひたと海/ぼんのうの杭/ぐいぐいと星》

2,《ひたひたと海/ぐいぐいと星/ぼんのうの杭》

こちらの句だと1では「杭」は海に押された上に星にまでぐいぐい押されて、押されっぱなしである。

2では海と星、両方から押されながらも耐え切る。しかし何によって耐え切るかといえば煩悩の個体性によってであって、この場合はむしろ耐え切らない方がいいのかもしれず、大自然・大宇宙に直面しながら迷いの多い自分という実存的な句となる。

ただの想像でいえば豊里氏、本業が写真家なので、展示の際にパネル上の並べ方で文脈が変わって見えてしまうという経験でもあるのかもしれない。これらの句の場合、読みが割れるのではなく、両様の読み順自体が作品内のひとつの間として内包されていると取るべきか。

簡単に紹介するつもりが結局かなりの句数を引いてしまった。詠みたい内実が豊富にあり、それらが自己を実現していくのに相応しい方法を求めつつ生成していく句の力感と詩性とに押されてのことだ。今どき制作動機と表現方法とがこんなに幸福な関係を取り結び、清新な文学となることが可能なのだと感嘆しながら通読した。

豊里氏、現在は「海程」に投句されているらしい。あまり意味のないことながら奥付を見たら金子兜太(1919923 - )と豊里友行(1976923 - )は57年違いで誕生日が同じであった。

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■関連記事

「の」の字の詩学 豊里友行句集『バーコードの森』を読む・・・高山れおな →読む



2 件のコメント:

豊里友行 さんのコメント...

関 悦史さま

懇切丁寧な『バーコードの森』の感想ありがとうございます。

沖縄特有の固有名詞や動植物名はまだまだ俳句の世界では、未開拓な分野かもしれません。ですがやはり関連の辞書や事典など調べたり、インタネットでも簡単に調べられるものもあります。一般の俳人でも関氏の俳句の読解の姿勢が当たり前になるといいのですが。
注釈を付けないのは一般的に調べられるものに対してはつけていません。
沖縄を理解するというより、基本的に未知なるものへの好奇心が俳句の読解においても大切になります。

3行詩の形の俳句(?)は、見た目重視の表記に重きを置いています。何故3行詩なのかは見たままのデザインのようなニュアンスを大切にしているからです。ですので一行詩としてみてみると弱くなるかもしれません(泣)。

とにもかくにも高山れおな氏や関悦史氏などの懇切丁寧な読解は作り手として幸福です。
感謝!

金子兜太先生と誕生日が一緒なのには私も驚きました(笑)。

これからもどうかよろしくお願い致します。

関悦史 さんのコメント...

豊里友行さま

お送りいただいたおかげで拝読できまして、大変楽しませていただきました。

「阿麻和利」については、解説以上には突っ込まなかったのですが、この人も舞台にされると悪玉だったり英雄扱いになったり、なかなか大変そうな人ですね。
東北における「アテルイ」とか、アイヌにとっての「シャクシャイン」のような存在なのかとも思いましたが、あるいはむしろ将門に近いイメージなのか。

昨日、現代俳句協会で「俳句とインターネット」がテーマの勉強会があったのですが、ネットの普及でその辺調べやすくはなりましたね。

23日にお会いできなさそうなのは残念でありますが、今後ともよろしくお願いします。