2009年8月2日日曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(下) ついてゆきたいあたたかい・・・中村安伸

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(下)
ついてゆきたいあたたかい

                       ・・・中村安伸

先週にひきつづいて、こしのゆみこ句集「コイツァンの猫」に寄せられた小野裕三による跋文をベースに同句集の検討をつづけるのだが、その前に、金子兜太の「序にかえて」に興味をひかれた箇所があったので、まずそちらを検討してみたい。

「序にかえて」には、こしのが以前自作に関して書いたという随筆「越野商店の幻想俳句から」が引用された部分がある。原典が手元にないため孫引きになるが、それを一部抜き出してみたい。かぎかっこ内がこしの自身の言葉だろう。〈こうも書いていた。自分は「体内五・七・五感覚が音痴なのだ」言葉が自然と湧き出るような「俳人の体」になれない体質なのだ。そのため意識して作る、と。〉

また、こしの自身の「あとがき」に次のような記述がある。〈「意識して」絵を描く時のような無数の線や消しゴム跡を作ることによって、私の中にしまわれていた「目がうるうる」の言葉が引き出されてくるのを感じます。〉これは上記の序文へ答えたものだろう。

言葉が自然と「俳句となって」湧き出る俳人の体、というものが、どれほどのレベルのものを指すのかわからないが、俳句の定型感覚を身に着けることよりも、むしろ、俳句形式による表現を続けながら、定型感覚への違和感を持ち続けていることのほうが、はるかに難しいことのように感じる。やすやすと形式に親和し、巧みな作品を生産しつづける俳人が多いなかで、こしののように内在するリズムを大切にするということは、稀少価値のあることではないだろうか。

俳人の完成形というものが、自分自身と形式が一体化したようなものであるとするならば、こしのは現時点では、そのような俳人からは遠いといえる。しかし、自らの持つリズムを手放さず、つねに意識して定型のリズムとの折り合いをつける努力をするという態度は、完成への遠回りに見えて、実は近道であるのかもしれない。またそのような努力によって生み出された作品は、時になんともいえぬ玄妙な魅力をたたえたリズムをあらわすのである。たとえば、

母はひろってきれいに毬をあらう

という波打つような破調に、独特のリズム感が強く出ているように思う。

 *

さて、小野裕三の跋文における二つ目の断章は「やさしい場所」と名づけられている。ここで小野は次のように指摘する。〈彼女が語り続けるメッセージは、実はひとつしかない。世界とはなんとやさしい場所なのだろう、というたったひとつのメッセージだ。〉

これは、金子兜太が「序にかえて」で述べている次のような印象に共通するものだろう。〈この人の俳句を読んでいると、里山に春が来て、最後にぽこっと一つ、山頂ちかい凹みに残っている雪、その丸いかたまりが見えてくる(中略)その雪の丸いかたまりはしだいに綿か羽のかたまりのようにも見えてくる。もやっとした、やわらかい感触になって、芽ぶきのはじめった枯木のなかでぼんやりと、なんとなくにこにこと、そこにいるのである。〉金子がこのように述べるのは、こしの作品の手触り、肌触り、いわば仕上がりの部分の印象である。そして小野がこしののメッセージだという「世界とはなんとやさしい場所なのだろう」という言葉は、こしの作品を読み終えたときに読者がもつ印象、つまり読後感である。

このような読後感のやわらかさ、やさしい印象はどこから来るのだろう。

ひとつの要因としては、家族、動物などの題材に向けられたまなざしのやさしさ、そして、そのような明るくやさしいものを書こうとする意志、ということがあるだろう。こしのは、ことさらやさしい場所を描こうとしているわけではないと思うが、身近なものを好んで描こうとしていることは確かであろう。家族や動物といった、愛すべきものを描いた作品が、やさしい手触りを持つのは自然なことである。1997年の私の文章からふたたび引用してみる。〈最初は何気ない顔をしていたこしのさんの作品たちは、何度か繰返して読むうちに意外に複雑な内面を見せはじめた。 昼寝する父に睫毛のありにけり

姉家族白鳥家族食べてばかり

ひよこ売りについてゆきたいあたたかい

こしのさんの作品に多く登場する父母や姉弟などの血縁者は、あたたかく注意深く見守られている。また、「少年」や「ひよこ売り」などの人々にも、「白鳥」のような動物や「桔梗」などの植物にも家族のイメージが重ねあわせられ、同じ視線が注がれる。そこに身近な人々への愛情から出発した世界が、ほのぼのとひろがるのを感じる。それだけではあまりにも単純になるところだが、どことなくグロテスクな異物を含んでいるのが、これらの作品の特徴であり魅力でもある。父の「睫毛」の不似合いさがそうであるし、「食べてばかり」にちょっとした偏執性を感じることもできる。そして「ひよこ売り」自体、表面的な印象とはうらはらの残虐性を含んでいるものだ。

小鳥屋をのぞく父たち帰るかな

おとうとはどこか天道虫くっつけて

あさがおのあの口あいて家族眠る

これらも家族を登場させている。「帰る」ことの安心感、「天道虫くっつけて」いることの安心感。そして同じ「あ」でも「あさがお」の「あ」は朝が必ず来ることを保証してくれているようである。このように説得力のある安心感にはなかなかお目にかかれないものだ。こしのさんの句の多くは、身近な物を確かに見据える強さを持っている。〉

上の文中に引用された句のなかには、句集におさめられていないものもある。
句集中から家族を描いたものを拾っておきたい。

一階に母二階時々緑雨かな

父上京幸福の空豆さげて

待つ母がいちにちあります花空木

夜のトマト家族の額映っている

少し遅れ家族の昼寝にくわわりぬ

家族ならビーチパラソル支えなさい

時々は立ち泳ぎして家族待つ

帰省して母の草履でゆく海辺

夏座敷父はともだちがいない

夏の川ゴールデンタイムちらちらす

蜻蛉にまざっていたる父の顔

子規の忌の夜具の重たき母の家

手枕の父を月光降りしきる

露つけて帰りし姉の深く眠る

片恋の兄猛烈に黄落す

母はひろってきれいに毬をあらう

新年に向かう父と子の自転車

初旅の父というもの髭を剃る

これら家族の句の多くが一章「ゴールデンタイム」におさめられている。一章と二章はどちらも夏の句をおさめたものだが、一章のほうは子供時代、少女時代、家族とともに過ごした時代をテーマにした作品をあつめたもののようだ。

ゴールデンタイムとは、一般的にはテレビ、広告などの言葉であり、家族が夕食を囲みながらテレビを見る、一日で最も視聴率の高くなる時間帯を指すが、こしのにとっては、かつて家族とともに過ごした、戻らない時間のことをも指しているようだ。そして、彼女にとってのゴールデンタイムはまた、夏という季節に重ね合わせられている。店を営んでいた一家は、夏休みになれば一日中一緒にすごすことになったはずである。

 *

しかし、こしの作品のほとんどすべてに共通する仕上げの手触りのやわらかさ、やさしさは、その題材のみによって説明できるものではない。

たとえば次のような作品がある。

草笛吹く兄を信じて大丈夫

まんじゅしゃげ勇気出すたび傷付いて

ひよこ売りについてゆきたいあたたかい

時々は野を焼く父についてゆく

野遊びのいわれるままに目を瞑る

これらの句にあらわれている受身の姿勢は注目すべきものである。大きな意志や力をもつ存在に、抵抗することなく、最終的には身をまかせてしまう態度である。もちろん彼女は無条件に従順なわけではない、〈草笛吹く兄を信じて大丈夫〉という句の「大丈夫」は自分へのはげましであり、兄に対しどこかしら不安を感じている部分があって、それを払拭するための言葉なのである。〈片影ゆく兄の不思議なつめたさよ〉という句はこれに対応しているようにも見える。

父や兄に象徴されるような力に、得体の知れぬ不安を感じつつも「ついてゆく」ということ。それは小野の跋文中の〈彼らが「あたたかい場所」を描こうとするのは、「つめたい場所」について無知だからではなく、「つめたい場所」を十分に知っているからこそ、あえて「あたたかい場所」を描こうとするのだ。〉という指摘に対応している。こしのの従順さは無知からのそれではなく、不安を乗り越え、決意した上での力強い従順さなのである。

さて、これら一連の句のなかでも、こしのの代表句として名高い〈ひよこ売りについてゆきたいあたたかい〉についてだが、先に引用した拙文中にも述べたように、私はこれを非常に不思議な感覚をもつものとして受け止めている。

この句の内容面をよりストレートに叙述したと思われる句を、句集中に見つけたので挙げておきたい。

悪に身を染めそうになり苺買う

ひよこ売りとは「善」と「悪」では、あきらかに「悪」に属する者だろう。すぐに死ぬことのわかっているひよこを縁日で子供に売りつけるなど、とうてい善良な行いであるとはいいがたい。「ひよこ売り」の句は、表面的にはひよこの羽毛の印象もあって、ふわふわとした心地よさを感じるものであるが、裏側を見つめれば、悪の魅力にひきこまれてゆく自分の心の有り様を「あたたかい」と感じている句でもあるのだ。その二面性こそが「ひよこ売り」句の魅力であり、こしのゆみこの個性の端的なあらわれであると感じる。

「悪に身を」の句は、叙述もややストレートすぎるし、とりあわせた「苺」の、血の海を思わせる視覚的イメージも直接的すぎて一句単独としての評価はしづらいものの、句集を読み解くうえでの重要なヒントとなるものではあった。

蝉羽月誰か椅子をひいてくれる

木漏れ日を椅子ごと運んでゆきにけり

森へ森へ椅子はこばれるクリスマス

これらの句に登場する「椅子」は自らが座る場所、すなわち自我そのものの象徴である。それを自分ではない誰かが動かしてもらうということ。ここに描かれているのもやはり従順さというモチーフなのだ。
この従順さが、世界との摩擦を減らし、世界をやわらかなもの、やさしいものとして感じさせているのである。そしてこの受身の姿勢は、心の深いところで彼女が何かをあきらめていることに起因するような気がするのである。あきらめという言葉がネガティブすぎるなら「悟り」としても良いだろう。

 *

さて、最後にとりあげる断章は「詩の抽斗」と名づけられている。ここで小野は、こしの作品の秘密が、彼女の実家が経営していた雑貨店「越野商店」にあるのだという。さっそく小野の文を引用してみよう。〈さまざまな雑貨類が雑多に置かれていたのだろうその場所には、実はいろんな異次元空間に繋がる詩の抽斗が隠されている。それは確かな時間の影を宿した雑多な空間であると同時に、徹底して俗な空間でもあり、であるがゆえにその空間を詩に昇華させる強い力を持つ。そして実はそのような力とは、季語や歳時記がもつ性質とも強く類似している。つまり、彼女にとっての「越野商店」とは、歳時記と同質な機能を果たしている独自の詩嚢なのだ。〉ということで〈歳時記とは似てしかし非なる空間を詩嚢として持っている〉ことが、こしの作品を特徴づけていると小野は指摘するのである。

小野はもちろん、こしのが「季語」の代替物として「越野商店」を持つのだとは言っていない。「越野商店」と「季語」というふたつを「詩嚢」としてあわせ持っているということになるのだろう。しかし、ふたつの詩嚢を併せ持つこと自体は、決して特別なことではない。おそらくは誰もが、幼少時の記憶を意識の深層に刻み付けており、それを「原風景」などと呼んだりしている。こうした個人的な空間と、季語という、俳人の誰もが共有している空間の二つとは、俳人なら誰もが活用することの出来るものであるはずだ。

また、この二つの空間は単に両立しているのみではなく、個人的空間を表現するための媒介として、季語という共有空間を活用するということを、多くの俳人が一般的に行っている。

こしのにとっての「個人的空間」が「越野商店」という雑貨店であるということが、彼女の作品にある傾向をもたらしていることは事実だろうし、こしのがこの個人的空間に、強い執着を示しているように見えることも事実である。

雑貨店という個人的空間、あるいは原風景は、こしのの作品にどのような色づけをすることになるのだろうか。子供時代に目に触れた風景、手に触れたモノなどはその人物の精神に大きな影を落とすだろう。雑多で俗な、彩りに満ちた空間というものが、こしのの作品の豊富な詩想につながっているという小野の指摘はもっともなのであるが、私が重視したいのは、こうした彩りに満ちた数々のモノが、すべて取引されるべき商品として、一時的に彼女の手の届く範囲に置かれていたにすぎないということである。

その原風景は、すべてのものごとが売買の対象であり。無条件に自らの手に入るものはないという諦観として、彼女の精神に影を落としているように感じるのだ。句集を読むと、「売る」「買う」という語をもちいたものが散見されることに気づくだろう。たとえば、次のような作品がある。

水売りの鈴いっぱいの袋かな

銀杏紅葉父はマドレーヌ買いに

人買いのごとく磐越西線父黙る

きらきらの冬のあまつぶついて売られ

ひよこ売りについてゆきたいあたたかい

犬連れて風船売りはおとなしい

お菓子も水も風船も動物も、人でさえも売買の対象でありうる。しかし、彼女自身が売買をするのではない。父や父の面影をもつ「ひよこ売り」が、彼女のかわりに売買する。その様子を見る彼女、すべてのものは彼女の意思にかかわらず、一方的に奪われ、与えられる。

先に述べた、こしのゆみこのやさしさを支えている深いところでのあきらめ、あるいは悟り。それは、この雑貨店という原風景のなかで培われていったものなのかもしれない。

 *

こしのが、季語の活用に積極的であることは、句集の章構成が季語別になっていることからも見てとることができる。

個人的空間への通路としてこしのは、季語という共有空間を利用しているのである。

夏氷皿百枚越野商店御中

「夏氷」という季語を冒頭に置いたことで、この句の空間は大きく開かれた。また、越野商店という雑貨店が彼女の原風景にあることや、また小野も指摘しているとおり、作品としての「こしのゆみこ」という筆名についても読者は大きなヒントを得ることができるだろう。この句集の、一冊の書物としての完成度を高めるためには、明るくてなつかしいこの句を冒頭に置くべきであったかもしれない。

しかし、実際に冒頭におかれたのは次の句である。

一階に母二階時々緑雨かな

茫洋とした不思議な世界と日常が境を接している。このような奇妙な世界を描いた句を導入部に置いたことも、こしのさんらしくて良かったのかもしれない、とも思うのである。

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■関連記事

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上) 放物線の途中に・・・中村安伸   →読む


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2 件のコメント:

さんのコメント...

こしのゆみこさんのお名前はいつか覚えていましたが、これを読んで、あらためてすてきな俳句の書き手発見。

金子、小野、中村三氏の読みがすてきで「ついてゆきたいあたたかい」です。

引用 1
草笛吹く兄を信じて大丈夫

まんじゅしゃげ勇気出すたび傷付いて

ひよこ売りについてゆきたいあたたかい

時々は野を焼く父についてゆ


  「こしのゆみこ 俳句」

引用 2
〈「意識して」絵を描く時のような無数の線や消しゴム跡を作ることによって、私の中にしまわれていた「目がうるうる」の言葉が引き出されてくるのを感じます。〉
「こしのゆみこ あとがき」

生理的なところからうきあがってくる「うるうるの575」(17音詩)。これも「それらしく」つくろうとする「意志」や「勇気」の結果でしょうか。

 まんじゅしゃげ勇気出すたび傷付いて 

は、とても好きです。
彼岸と此岸のさかいに咲いているこの花をひらがなで措いたことで、「勇気」以下の心情は、追悼の呟きとも聞こえ、矜恃の屈折ともよめて、含蓄があります。
自然にかつ巧みに、「境界」をえがいた秀句だと思いました。

謎も答えも、その一語、一句、一冊の中にあるものでしょう。

中村安伸 さんのコメント...

吟さま
コメントをありがとうございました。

まんじゅしゃげ勇気出すたび傷付いて

は、私も好きな句ですが、作者自身に関する回想の句だと、なんとなく思っていました。
しかし、この「て」という締め方、というか締めない終え方からは、いろいろな想像をかきたてられますね。