2009年5月17日日曜日

閑中俳句日記(07)

閑中俳句日記(07)
誌上句集 中田有恒『有恒句集』全句書写




                       ・・・関 悦史

以前、この豈weeklyの冨田拓也氏の連載「俳句九十九折」で、中田有恒という俳人が取り上げられていた。私も全く未知の俳人だったが、その後『有恒句集』を見る機会を得た。著者没後の1963年(昭和38年)に新書林という出版社から出たもので、発行者は大原テルカズ。内容は第一自選句集『流魄』からの抄出「流魄抄」と、それ以後「東虹」に発表された句から抜粋した「空蝉篇」の二部から成る。

著者中田有恒は1956年に没している。年譜に胸郭成形の記述があり結核だったらしい。没後50年以上が経過しており、著作権は切れているはずなので『有恒句集』の全句をそっくりここに掲載しようと思う。豈weekly版青空文庫である。

中田有恒の略歴に関しては冨田氏の記載もあり末尾に年譜も転記しておくが、簡単にさらうと1921年(大正10年)横浜市の生まれ。1939年(昭和14年)旧海軍三校の一つである海軍経理学校に入学するが、翌1940年胸膜炎のため退校し、陸軍の徴兵検査を強いられて甲種合格。1941年歩兵として華北に出征後、胸部疾患のため兵役免除となった。

以後、短歌・日本画に熱中。斎藤茂吉からの通信指導も受けている。
1945年江戸川区役所に就職。
1947年から石田波郷の指導を受け、句作開始。
1948年、間中よね(世禰)と結婚。胸患再発。千葉に転居。
1949年、大野我羊主宰の「東虹」に入会。その2年後に第一句集『流魄』刊行。高柳重信、加藤楸邨らがこの句集への言及を残している。
1953年、2度に渡る胸郭手術。1956年死去。享年35。

結核は1950年代まで日本人の死因の1位を占めており、俳人に限らず文学者の評伝などにはよく「胸部成形」が登場する。これが実際のところどういう治療法なのか今ひとつはっきりイメージ出来なかったのだが、最近たまたま川西政明の評伝『吉村昭』(河出書房新社 2008年)で吉村昭の手術体験の記述を見かけたので、全くの他人の例だが参考までにそれを引く(吉村昭の手術が行われたのは1948年のことだった。中田有恒の5年前に当たる)。

《胸郭成形術は肋骨の一部を背部から切除し、胸郭を縮小して肺を圧迫する手術であった。胸郭成形術は一年半後の生存率が三十パーセントくらいの危険な手術であった。東京大学附属病院分院での吉村昭の手術は八十三番目であった。

手術は局所麻酔でおこなわれた。高圧麻酔法がなかったからである。ドイツで高圧酸素吸入器はできていたが、この機械では麻酔ができない。高圧にすれば肺が縮まらないからで、手術中のバイタリティを保つ意味もあって局所麻酔でおこなった。

この局所麻酔は患者に苦痛を強いた。最初、メスがツーと切ってゆくのが吉村昭にはわかった。冷たいメスが走るのを実感した。局所麻酔は皮膚で効く。肋骨神経にも麻酔するが、痛さは想像を絶する。骨を切るには肋骨剪刀という特製の刀を使う。第一肋骨を切るときは、第一肋骨剪刀を使用する。前方だけを剪刀で切って、脊椎についた側は手で骨を折る。田中先生が「これからちょっと痛いよ」と言う。その瞬間、顔の右半分から交叉するように左足にかけて、何万本という針を同時に刺されたような気がした。その骨折りが五回おこなわれた。苦痛のただなかにあって吉村昭は「時間は確実に流れる」と考えた。時間が流れれば手術は終わる。命は助かると念じた。それが唯一の救いであった。》

『有恒句集』の巻末には有恒の友人であった大原テルカズの跋文と、妻世禰による後記がある。

「海落暉病む枯園を射しとおす」「秋風や病めば穢のごとうずくまる」等、病苦や絶望から昇華せんとした黙示性がこらえきれない言いすぎの措辞と相打ちに終わっている句も多く、「稲妻に夜陰のしぐさ映さるる」「暗黒の夜半の宙より一風鈴」などにも或る捨てがたい魅力は感じつつも正直第一級の俳人というほどの印象は持たなかった中田有恒の句集をわざわざ全句打ち込んでしまうに至ったのは、この二人の熱意に感じてというところもある。

大原テルカズは

《……有恒の無名性はその途上に於いて、惜命思想の生命継承の線からそれるように頑強に這い出し、その力点を虚無として決定づけ、露命の表出を天命として打ち出すことによって、カフカのように人間が昆虫になるのではなく、血を喀いた昆虫が営々として有恒の思念にはぐぐまれ陥し入れられてゆく過程を克明にしている。やがて当然の如く暗い幻覚性を独自なものとして形成してゆく。

真夜とおき梅雨の蛙と相擁く
血を喀くや氷雪の音懐に

この点は波郷氏後年の「春嵐」ともより異る位相である。》

と病苦が虚無・幻へと通じていく経路を辿って、さらに有恒作品の文語表象機能に見られる呪縛性・誘導性と、日本画に通じる「漂白捨象の浄化性」、にも関わらず絵画的な定着の句が少なく「形式論理ともみまちがう程の実相観入的」な態度のものが多いとその特質を明らかにしている。

私が個人的に引っかかった句から幾つか引くと

身に遠く晩夏の波浪くずれ去る
夏濤に遠ただようは鵜か胸か

では、身体からの解離感を詠みながら「遠い」と位置関係が明記されることで却って錯乱からはほど遠い知覚の統一性の中に外界が定位されているし、入院に伴って転居を強いられる妻の漂泊感を思いやった旨の前書きのついた

おびただしき貝殻ふむや夏流離



睡しや妻夜もすがらなる青葉木菟

にも健やかさの裏打ちがある。

その上での細みの感覚を生かした象徴化の句に佳品が多いようで、非現実への飛距離や観念観想の深度といったものよりも、むしろ身の回りのものへの銅版画的克明さを帯びた注意力がおのずと呼び込む幻想性がこの作家の持ち味ではないかと思える。

夜の楽枯木におよぶひかりなし
糸ほどの春三日月になに祈らん
蟻地獄凶はつぶさに来つつあり
野火つける手許しずかに刻ながれ
夕野火にたれも寂しき胸聳
(た)てて

妻・世禰の後記がまた思いの濃いものであった。遺句集出版を毎日念いながらも「自己満足でよい」と思いきりがついて実際に出すまでに丸六年の歳月がかかっているのだ。

《夫が亡くなつて、すぐさま常識的に遺句集出版ということですべてを終らせたくはなかつたし、また彼が無名のまま死んでしまつては尚更であつた。いつしか遺族の自己満足では済まされないようなものが私の中にひそんでいたに違いない。だがやつとその準備が出来て、今日彼の七回忌の十二月三日、この後記が書けると云うことは、何にも勝る喜びである。》

《戦前の彼は短歌に志していた。個人的に斎藤茂吉先生に師事していた。それに併行して日本画にも志していた。日本画は病弱な彼の体力がゆるさなかつたようではあるが、その両方とも俳句には及ばなかつた。彼は死の直前まで俳句を作り続けていたのである。

彼は今、千葉県五井の野つ原の一角に眠り続けている。俗名も戒名も消えて墓標は朽ち果てているに違いない。それでもいい。私はこの句集を抱いてつぶやくのである。「貴下は生きていますよ」と。》

*********************

有恒句集

流魄抄

   明暗

  身の放埓に家を出て久しく独居す
枯れ立ちし黍ふれがたき時雨かな

悴めばスタンドの灯を掌にいだく

雪暮れて焼原の灯の乏しさよ

元日も孤りしあれば昨日
(きぞ)のまま

春寒し落魄の身はいつよりか

梅咲きぬ清きものをば忘じいし

さすらいに似て春寒き十字路に

困憊の列ライターの灯を頒つ

春寒き街忌の家に逢えるかな

  結婚を機に永年住み古りし舟堀より小松川に移る
妻寂しやなじめぬ街の五月の灯

階住みや流謫のごとく妻も痩す

  八月、身体の変調来し、遂に江戸川保健所にて
  長期療養の必要をつげらる

夏雲を恋うとせざりき昨日(きぞ)までは

夏川に喘ぎて佇てば孤り隔つ

バス降りて胸背衝かる炎日に

病めるより階住む西日耐えがたき

追わるるごと街の晩夏になお病めり

稲妻に夜陰のしぐさ映さるる

いのち病む階に飯炊く秋の暮

ひえ草の実のたしかさも悲しきや

  十月、父母の生地千葉県五井に
  転地することに決す
秋天に輓馬垂れたる頸あげよ

積み了えて家具なき秋灯洞然と

ふりかえる秋橋灯のつらなれば

八衢
(やちまた)の夜霧に紛れ去らんとす

身にしむや鉄路の秋灯ふた色に

墓原をゆけばはたはた無慮に立つ

秋炎となる墓碑裏に汗おとす

村住の虫の宵毎や妻嘆く

熱立ちて四五日秋風と相逢わず

秋風や馭者鞭あげる習慣に

枯れ果つや低き野墓ら現
(あ)れいでて

凍天の野辺の墓域もおとろえり

枯原に陽の落つるときいのち愛
(かな)

寒暮光野の墓域には灯らずに

雪線を野にひけばみな荒寥と

皚雪の暁こころあたたかく

朝焼に息白々と馬は蹴る

冬浜の干潟や匂うものもなく


   修羅

吹かれいて椿は燃ゆる二月尽

芽木の日々人の叫喚おろかしや

くれないにみな天指せり芽木の尖

蝌蚪かえるはかなきまでの平安に

梅若忌われより母が詳しくす

  更に姉ヶ崎に移る
行く雁やひとの流離に関らず

青あらし豊饒なるは木立のみ

復職の望み遠しや若葉に噎せ

蝿交み了えては拭う非情の手

落暉の後みな影もたず四散せり

秋風の野に沈めるはみな墳墓

病める葦なり秋日華麗に炎え落ちる

秋風や病めば穢のごとうずくまる

妻いねば雑炊よべも余したり

夕しぐれなによりも灯を身に近く

日々しぐれみな寥燭の家となる

しぐるるや海の昏きに瞳をそらす

枯れがれて額にひた射す海落暉

冬痩せぬ海の落日のみに耐え

海落暉病む枯園を射しとおす

冬三日月海に痕
(きず)あるごと昏し

日に額を射られしままに枯芒

夜半の庭のぞく木枯とどろけば

月光にみれば修羅なす夜の枯木

夜の楽枯木におよぶひかりなし

冬金魚恥あるごとく息づけり

咳込めば世には不覚の身と見られ

夜の曲みだらを覗く枯木の手

降雪を嘉
(よみ)するはみな孤独なり

雪霏々と降るときのみを現身に

街晴れて雪景いとも頼りなし


   猶予なし

春三日月妻に指されて臥処より

春三日月汚れし四肢を曲げて臥す

恋猫に啼かれ昏れ果てしと思う

蜂を打つときも必死に妻ひとり

青葉木菟妻の炊烟のぼりそむ

なお痩せて十薬の花はびこらす

蛇に逢う妻の霹靂帰してもなお

虹現われ忿恚の思いにて臥する

零落の影わが前後虹見るとき

穀象の必ず無為のほとりに居り

  八月二十日、東虹千葉在住同人会を鴨川の吉田屋
  旅館にて開催
  旅情にあくがれ、病中を推参せしが、我羊先生は
  じめ同人諸兄にかえつて御迷惑をかく
身に遠く晩夏の波浪くずれ去る

秋立つや天涯の波陸
(くが)を指す

  鋸山一句
石山は白雨に聳(た)ちて仰がしめず

燈台の点滅すでに秋の燭

鶏飼いぬまた妻の愚痴ふえると思う

銀漢や夜はたれよりも天仰ぐ

  連日の猛暑に疲労深く、八月二十八日五井保健所
  より帰りしに全く動けず、床上に呻吟し、しばし
  ば医師を迎う。加え、屋根ひくき茅屋は残暑に垂
  れて安静をさまたげることおびただし
炎叢よ墓石家族らしずみ栖む

灼然と炎叢に身をしずめ咳く

屋根おおう木犀昼も夜も噎せて

呪詛されて病むかや朝の法師蝉

枯黍をばさばさ倒す見ておれず

痩身の過ぎても螽蟖らはたと止む

陽は真赤にうつむきて去る秋の暮

秋暮色蝉の一樹も余さずに

秋風や一燈あればわが家足る

われ幸を享くるに遠き秋の天

秋蝶や舞いおさめゆく木の暗
(くれ)

かいまみて秋厨かなし赤々焚く

三日月のひかりはじめて猶予なし

三日月や不遇なるとき地に低し

病み果てて夜毎の雁に啼かれをり

待つごとく夜毎の雁をきき惜しむ

昏き地を翔ちては雁ら天に啼く

轣轆と雁わたり過ぐ病屋舎

秋川となりては行かず臥しつづく

秋の霖孤舟のごとく真夜を臥す

樹も波の音たて野分海より来

妻あわれ秋厨に暮れ怪しまず

秋草のみなむきむきになぐさまず

秋草の満ちて孤影を佇たしめず

虫啼くや暗き負目
(おいめ)のわが昼夜

啼きたてて露命くらぶや秋の蝉

草絮の暗きへ堕ちて耀かず

虫絶えてよりの天明おくれゆく

真夜しぐれ四方の滴り輾転す

素枯れては樹々の雨滴の貧しさよ

永病むや鞭
(しもと)の彩(いろ)に草枯るる

熱の日々落葉はひとり妻が焚く

枯れ立ちし木々のみ安し熱の瞳に

冬日射地に口吻けてすべて枯る

北風馳けて野の一身をひるがえす

疲れても目
(もく)するところ枯木満つ

真夜の貨車終
(つい)の一輌過ぎ寒し

身に近き細木も天に枯れ至る

衰えし膚髪たよるもあわれ妻

寒木や磔けられし如く臥す

寒病臥墓よりむしろむざむざと

ゆうべ濃き寒暉沖より来て沖へ

射たれては痩軀栄えなき寒雀

  老父病む 二句
冬の雁はなれて父子の禱りあう

冬の雁ふた声啼くはちちはは乎
(か)

枯木もて枯木うつ音夜半の身に

  師に一句
冬日さし流魄の身をつつまれぬ

試歩の杖枯草を指しよるべなき

餅を切る妻の手力身にひびく


空蝉篇

   空蝉

萌え立つやわれと隔絶はなはだし

わが孤燭かざして新樹夜もひかる

病みながら炎ゆかなしさよ夜の蛙

麦扱きにかこまれ一日響き暮る

麦藁を焚く音と知り口渇く

父母に訪わる薄暑の胸を拭きおれば

夕虹に彳つ身のしばし幹と化す

雹降るやおろおろ吾も臥より起つ

無残なる雹たばしりて臥に堪えず

燃え了わる病手の花火妻が継ぐ

漂いてひとり泳ぐは見て寂し

炎天にためらわずして貨車響く

空蝉を出でて皆目知れぬかな

  弟五男久に来る
逢い見ても病む現身のまず汗す

虫啼いて海落暉はや暑とならず

目つむれば身より暮れゆく秋の風

痩臑をつつみて良夜椅子による

頭に近くちちろ鳴きそめ露けしや

  父母のもとにて十五夜を過す
ちちははとあわれ侍りし雨月かな

雑草の穂に出てあわれ稲の中

露の樹々懺悔のいのり満身に

雁啼くや病臥の夜天おし移し

露浴びし樹々の零落身にせまる

秋深し妻が薪割る掛声の

末枯や蟻も日射へ蹣めき臥す

生きて冬いとなむものに霜荒るる

死相曳く冬蟷螂を描きけり

極月や流離の暦身に古りて

冬没日遠きながらも明日約す


   入院前後

牡丹雪なべての希い遂ぐごとし

たちまちに妻が掌にせし雪あわれ

牡丹雪樹間の海に濃く昏るる

雪ののち日毎清冽さを濁す

鳩啼いて永日影の怠りおり

糸ほどの春三日月になに祈らん

春園に跼むや動きそめしかと

蟻出でて生ける験にはや為せり

  父母のもとに過す 二句
母よ胸白きはむかしつばくらめ

父母と見る春水として目にあふる

世に生れて右往左往の蝌蚪と見る

  姉ヶ崎を去らんと思う
勿忘草こたび移ればいよよ遠し

蝌蚪の群覚束なきは人にあり

  二十八日はまた吾等が婚日にてはや四年を経たり
新樹のみあたらし彼の日この日かな

蠛蠓のはかなき宙を栖みわかつ

飛蟻
(はあり)幾群世に家なきは吹かれ立つ

蟻地獄凶はつぶさに来つつあり

  七月八日、遂に木更津市君津病院に入院を許さ
  る。しかし、身の入院と共に妻もまた家を移ら
  ねばならぬことは正に匆々たり
  妻の感傷ふかし
おびただしき貝殻ふむや夏流離

きりぎりす世にあるかぎり啼きあえぐ

長梅雨のカンナは裂けて憔悴す

梅雨幾夜幾夜経
(ふ)りても充たすなし

身に燃ゆるは羸弱の熱きようも暑し

羅に尖れる肩の隠すなし

  七月二十日、入院日を告知さる
真夜とおき梅雨の蛙と相擁く

驟雨過の袖ぬらしおり母がまず

  七月二十四日、入院の荷造りと、家移りの荷造り
  と。兄が来たりて助く。たちまちにして部屋ぬち
  洞然となる
(こぼ)つ如汗の荷物を縛しおり

茶立虫今宵すぐればこの家になし

  七月二十五日、入院す
今日の蝉別れ交してふりしぼる

罪を得て夏日を仰がざる如し

朝起きて赤き療養所の蚤つぶす

朝の飢しずかに涼し配膳車

蚯蚓鳴くや妻のりし汽車いま響
(な)り発つ

夕蝉のいかに啼くとも暮るるのみ

緑蔭に雀も入りて食みこぼす

病廊はいくおれ暗きいなびかり

黎明の焼雲露のたまのおに

暁くらき露は胸にも置かるるや

朝毎の露に輝りつつ亡びそむ

かまつかの暮雨にも紅く妻かえる

あわれ妻寒林の日を負い帰る

雪後の木しらじらと肌渇きおり


   瑠璃の如

暁光の至る遅さよ霜満ちて

  茂吉の死、余りにも余りにもその死や悲し
茂吉の死悲しめば地に落ちる咳

実朝忌妻居て充ちて黙しおり

巣雀の日永き宙に出ては入る

 <胸郭成形前後> 二十四句
春の露妻の願いは瑠璃の如

  手術決定
押す梅雨雲すでに金剛不壊の如

  一次成形
梅雨の彼方の父母の禱りの耿々と

  二次成形
梅雨につぐ梅雨ことごとく遠隔つ

呼び呼びて妻を寝かさず梅雨夜明

人の子よ髪膚もいとえ梅雨淋漓

梅雨三日月充たぬひかりに隠りおり

梅雨暗く行方知らずも七肋骨

肋なき胸元に来て初螢

白百合の清に彳つ辺や予後尋常

病むや灯に影さえ曳かず飛蟻寄る

早乙女の如き早桃をもたらしぬ

梅雨に抱く左胸永久肋なし

痕背負う汗のベツトにまみれつつ

暗黒の夜半の宙より一風鈴

蝉止めば炎天の樹やよるべなき

肋なき胸にて汗の噴き極む

西日ながしなお惜命の苦を明日へ

蟻地獄われら地に待つなにかある

汗のベツト負いてききおり一遠蝉

裸無残昼もひらめくいなびかり

背の傷痕むしろ空蝉きよらかに

妻禱るや濡れて銀漢夜ごと濃く

秋天の瑠璃の如くにいつ起たん

生き継ぎて踏めば穂草のはじき合う

  姉ヶ崎を想えば
秋の暮いつの日か海妻と見む

初時雨かえりて妻のなき園に

露霜や声なして散る銀杏黄葉

北に根を向け枯葦の地に殉ず

打臥すや鵙の鋭声の光
(かげ)浴びつ

きらきらと深秋の露の夜の眼なす

蟷螂の愚鈍一途に枯れ縋る

生きて残りて愚や蟷螂の冬の貌

沁みては枯るる露の光の冬へ臥す

冬の雁夜の轣轆となり渡る

冬雁の妻呼ぶ声のはるけさよ

冬三日月顴骨たかく痩せ臥すも

深冬野や枯蓮田のみ炎えつづけ

枯枝に雨滴栖むこといくばくか

「聖しこの夜」遠き妻との間充たし

極月や不眠の闇の巌なす

師走三日月擁かるるがに妻の手紙
(ふみ)

療園の径すべもなく枯野指す

妻恋う冬病呆けたりと言わるまで

犬として目頭ぬらし枯野ゆく

日当れど沁むものばかり枯園に


   妻隠(つまごめ)

  <仰臥句録>十五句
  一月二日来院
妻が来て蠅の圓舞や冬ぬくし

  昭和二十七年七月、姉ヶ崎を離るる折の句に「妻
  隠や今日を限りの蝉時雨」と詠みしあり。爾来、
  一年半余いまだ癒えず「妻隠」など更に遠き事な
  り。されば妻のたまさかに来たりて、旬日も倶に
  過すことあれば、これ業苦を忍び合う二人の何も
  のにもかえがたきよすがなり。しかし、あるいは
  足れる人これをむなしき感傷と嗤うらんか。さも
  あらばあれ
祈りにも似し妻隠や寒臥して

吾に来て妻初泣きす惜しまずに

初泣妻よ珠とも枷とも胸ぬらし

寒禽の来て妻隠を覗かるも

妻隠や仰臥のわれと初句会

  なお、成形手術当時の句に「晩夏光胸にいつ擁く
  妻ならん」「妻隠や禱り遙かに二ッ星」「露浴びる
  死なざりし影妻の影」等ありしを思えば
寒臥幾歳妻うち捨てし如く経し

寒雷の遠く渇きて切に燃ゆ

冬灯うるおい点す妻が手よ

  同室の時田氏妻子措きて病めり。折に夫人来たり
  て看護し、時に永く付添いてゆけり。たまたま来
  し世袮と夫人と一緒になり即同病相憐の情そのま
  ま、初面接ながら親しくこころ触れあえり。まこ
  とに病夫を負うは女のもつとも重き十字架ならん
  と今更に妻の嘆きの身に沁みて
春待つと寄りては禱る妻二人

  時田氏夫人に。世袮の句に「三十や母ともならず
  若菜摘む」とあり。それを思えば
北風を来てなお圓やかに母子の像

胸々の空やはなやぎ雪降り出す

限りなく降る雪もなお身のそとに

  二月十四日家兄来院
春雪を来し白息ゆたにあたたかし

短軀安泰腰までの靴雪ちりばめ

妹と行けば五月月野の川咽ぶ

梅雨の玻璃身はことごとく渇きおり

梅雨晴のはや蔭愛し踏み入るも

  とある店に妻の勤めて
石竹や紅さし妻の出勤(いず)る刻

恍惚とひとり濡れおり花氷

遠き妻闘魚となりて勤め居ん

  “今日もまた”などと嘆かえば、それこそ、また
  岩田兄に詰られんと思えど……
今日もまた汗の臥像や乱れがち

  妻へ
今日も祈る遠田の蓮の一紅蓮

水漬くがに未明の胸や一遠蝉

  百数十日ぶりに妻来院 四句
夏痩をかたみに頒けて相逢うも

痩せつつも白服の妻匂いけり

妻泊めて真実青き夏夜かな

睡しや妻夜もすがらなる青葉木菟

風鈴やはやあかつきは零落す

昨日もあり胸かき抱きて一死蝉

世に遠きごとき病臥よ原爆忌

  妻失職の報に 二句
失職の手紙へ音たて汗落とす

虹消えて枷とけるなき病者妻

蝉もまた使者をかこみて一縁者

暮れ惜しむ秋蝉われも出て惜しむ

秋ふかし露を露とは思えずに

雁のこえ直下に臥して寝もやらず

妻よりの銭のみ熱し秋の風

かりがねや妻よりの銭珠のごと

  他家に住込める妻を思う
寝しや妻冬月なれど澄むものを


   氷雪

初鴉こえくれないと聴きいたり

暁紅の離々と地に降る寒雀

病むことの永きよ寒暉身にそそぎ

寒雀流離かさぬる胸々よ

野鳥来て歩みやまざる寒土かな

冬晴の珠のごときを臥て惜しむ

  二月三日久に父母を訪う
二月故郷樹々の風痕のみ胸に

  二月十四日母危篤の報至る
病軀急き来て逢えざる母よ凍て縋る

末黒野を葬列すぐるとき堪えず

海苔干してはや喪の家を隠すなる

  四月三日、亡母の四十九日忌法要のため世袮来
  総、帰途病院に寄る。たまたま有恒発熱苦痛の
  最中にして世袮愕く。三月中半より不意に四〇
  度三分の発熱を来せしが世袮には知らせずにあ
  りしためなり。世袮はそのまま看護のため泊ま
  る
熱の身に来て春水をさわに汲む

春あけぼの家居のごとし割烹着妻

遠森のさくらを妻の肩越しに

囀りを胸に妻まだ覚めぬらし

方尺の玻璃の春天可惜
(あたら)臥て

  五月十二日、妻来院すれば久々に出でて木更津鳥
  居崎海岸に遊ぶ。海を見ることもまた久しぶりな
  り。風浪爽快にして病患を忘る
妻へいう言葉そのまま夏濤へ

細目して指す夏濤の彩濃き辺

夏濤に遠ただようは鵜か胸か

沖の瑠璃白服妻が指せば濃し

梅雨強くして籠る身のなぐさまる

刈らるべく身を熟麦の渇き立つ

  本島高弓氏を悼みて 二句
午後の秋遠き葬りの刻を臥す

遠き顔・顔そに妻も居ん秋の葬

末枯や恃むに似たる石ひとつ

  十二月五日夜胃潰瘍で吐血、成形手術後の療養途
  上にて暗澹たり
血を吐くや氷雪の音懐に

せめて欲し夜の冬木の影さわに

冬鳥られいろうと啼き飢えやまず

  妻来る
十二月振る手の繊き稼ぎ妻


   瀕死斧

  三月以来快き日和少なし。ようよう四月というに
  尚寒冷にして曇りつ、降りつの空を重ね、日曜の
  今日も朝より雨なり。久に妻来るというにいかば
  かり憂き春の狂天といわん

相逢えば言(こと)より先に手袋脱ぎ

雪降ると妻の音声
(おんじよう)こまやかに

淡くして春雪すべて濃く触るる

身をこめて晩春の雪宙に惜しむ

妻隠の館裏にて雪激す

妹はなやぐ夜半こめて降る雪かも知れず

またの日を恋う木蓮の一片散る

子なくして旅のすみれが妻の土産
(つと)

日の過ぎて茫と匂える遠ざくら

  決意だけはいつも強く持つているのだが、所詮病
  弱の身は無力に、日々の生活も緩慢に流れて了つ
  て愁悶のほかはない。そしてかくも空しい月日
  が、また半歳経つて了い、全く白駒の踵は見るべ
  くもなく、可惜、今夏も見送ろうとしている。ひ
  たすら平安であれ、と祈ることは唯生きているだ
  けではない筈である
  嗟呼、決意と謂い、希願といい、なにに拠つて恃
  もうとするの乎
いつまでかこの野の蝌蚪の脆弱(かよわ)さは

野火つける手許しずかに刻ながれ

夕野火にたれも寂しき胸聳
(た)てて

  五月七日、弟実妻子と共に来院
鯉のぼり袖をつらねて兄弟

茄子の花ほどの平安賜えよかし

いねがたし青葉木菟より遠きわれ

赫と没日あああの声は初蝉か

枇杷むいて滴らすや母恋い妻を恋い

とおくして宵々
(よよ)の空宙螢待つ

夕蝉の黄なる声ごえ宙に充つ

過ぎし日の空蝉さえもかく鮮
(あたら)


   補遺(中田世袮収録)

  重患となつた十月頃の作品
強時雨いずこも仮の宿ながら

恃みなき神無月打つ危篤報

残る虫身はいつまでの生たもつ

縋るものなき目にあらき昼時雨


   遺作(中田世袮収録)

  十一月十日頃メモさせた句
冬天に擬す蟷螂の瀕死斧

  同日頃酒井さんへ一句
肋きつて哀れ寒臥の女かな

  十一月十日以後認められたと思われる八句、祈禱
  書の中にはさまれていたもの

ただ冬天に生の目を遣るほかのなし

死なんと思い生きんと病みつ日々時雨

冬空のなつかしければ生きんとす

むしろ軽し芦生が露の炊夢より

時雨夜の十字架負うも生きたけれ

蕭条と真夜は時雨のひとり踏む

時雨音踏みきて帰る影か死か

生死彷徨真夜は踏み来る時雨音

*********************

有恒年譜
          中田世禰編


  大正十年

一月一日、横浜市綿花町に生る。十二人兄姉四男。

  昭和四年

東京都江戸川区西船堀に一家を挙げて移住。
この頃よりボーイスカウトに参加、訓練を受ける。

  昭和十四年

剣道三段、柔道二股の資格を得る。四月海軍経理学校入校。

  昭和十五年

胸膜炎の診断を受け退校、陸軍に徴兵検査を強いられ、甲種合格となる。

  昭和十六年

歩兵新兵として華北を一巡、再び胸部疾患のため兵役免除さる。
この頃より詩歌に専念、斎藤茂吉氏より通信にて指導を受ける。

  昭和十八年

日本画に興味を持ち学びはじめる。

  昭和二十年

終戦。
船堀短歌会創刊。江戸川区役所に就職。

  昭和二十一年

富取風堂先生の門を叩き、本格的に日本画を学ぶ。

  昭和二十二年

石田波郷先生の指導を受け、俳句を始める。
船堀短歌会を文学会と改称、俳誌に近づく。
なお「芝火」に投句。古川克巳、本島高弓、山下青
芝、大原テルカズの諸氏を識り、大いに啓発される。

  昭和二十三年

日展、院展を目ざして大作に挑むも落選。間中よねと
結婚。胸患再発、千葉県五井に移住。

  昭和二十四年

大野我羊主宰「東紅」創刊、入会。病状悪化喀血す。
三月千葉県姉ケ崎町に転居。俳句にのみ全力をつく
す。

  昭和二十五年

第一回東虹賞受賞。東虹八月号に小論「彷徨の言」
―創造性について―を発表。

  昭和二十六年

大野我羊、本高高弓、大原テルカズ氏らの努力によ
り、第一句集「流魄」刊行会発足。二月、小品「ひ
とすじの火影」を発表(東虹二月号)。七月、石田波
郷氏の「暗く炎え上る紅色」(病俳人への手紙)―中
田有恒君に―(同二、三月号)に応えて「身の影は身
の形に」を発表(東虹七月号)、十二月「流魄」刊行
さる。

  昭和二十七年

東虹二月号に楠本憲吉氏が「中田有恒の実存」を、高
柳重信氏が「流魄について思うこと」を執筆せられ
る。同三月号に小論「表現について」を発表。同五月
号に於て加藤楸邨氏「流魄の三句」の稿を賜る。七月
病勢つのり木更津市長須賀君津病院に入院。

  昭和二十八年

六月胸郭手術を受けるも術後大量喀血す。七月第二回
手術を受く。波郷氏の短冊を四壁に飾る。

  昭和二十九年

体力回復せず横臥の年をすごす。

  昭和三十年

母死亡。東虹文化賞受賞。

  昭和三十一年

随筆「牀上雑記」、「海辺通信」「蚊帳」「意味のない
歌」を「東虹」に発表。十二月三日未明、不帰の客
となる。

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■関連記事

俳句九十九折(20)俳人ファイル ⅩⅡ 中田有恒・・・冨田拓也   →読む

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3 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

関悦史様

有恒句集、筆写、ご苦労様に存じます。惨憺たる病生涯ですが、頑張って詠んだものだと思います。中で、昭和三十年、母親が亡くなったおりの作として、

海苔干してはや喪の家を隠すなる

という句がありました。有恒の実家は江戸川区船堀にあったようですが、小生も江戸川区北葛西の住人なので興味深く読みました。

小生の住むあたりの旧地名が宇喜田(浮田)だったことからも察しられられますが、今や完全に陸地化され住宅地化されて面影とてないものの、要はかつて江戸川区の南半は広大な湿地・湿田によって占められていたもののようです。蓮田があったり、海辺では海苔の栽培がなされていたりしていたらしく、波郷の『江東歳時記』にも、昭和四十年頃の当地の様子が活写されております。

小生は南砂にお住まいの澤好摩氏より、往時の海苔干しのさまなども聞きました。いちめんに干された海苔が、日に当たって乾燥し、ぱりぱりと音を立てていたそうです。しかし、そういう情景も有恒のこの句が作られた時期を境に急速に消えていったのでしょう。

冨田拓也 さんのコメント...

関悦史様

中田有恒の句集が今回そのまま登場したのには驚きました。
これからこういった句集単位のデータベースが増えて来るかもしれませんね。

中田有恒への奥様と大原テルカズの思いには胸に迫るものがありますね。
中田有恒の作品は私小説的なところがあり、そういった側面については、句集全体でなければ看取し得ないところがあるので、今回のブログ上での句集全体の復刻は意味のあるものであると思いました。

中田有恒の作品が単なる境涯詠にのみとどまらなかったのには、やはり本島高弓と大原テルカズの影響が大きかったのかもしれませんね。
大原テルカズについては以前取り上げましたので、本島高弓について、少し記しておきたいと思います。

本島高弓は大正元年に生まれ、昭和30年に亡くなった俳人です。
「有恒句集」にも、「本島高弓を悼みて」という前書のある、

午後の秋遠き葬りの刻を臥す

遠き顔・顔そに妻も居ん秋の葬

の2句がありましたね。
この本島高弓については、富澤赤黄男、三橋鷹女、高柳重信が絶大な信頼を寄せていたとのことです。
三橋鷹女を「薔薇」へ引き入れたのも、この本島高弓であったとか。
高柳重信にも「有恒句集」の書評において「その頃、僕が、心の兄として仰ぎ、心の盟友として信頼しきつていた本島高弓ほどの男が、この中田有恒に何故ふかく心を動かしていたのかということを、この数刻の歓語のうちに、たちまち僕は理解することが出来た。」という言葉が見えます。

以前、この本島高弓の作品をいくつか見たのですが、現在の目から見ると全体的にはさほど面白い句は認められないようでした。それでもいくつかの作品については興趣をおぼえましたので、一応ご参考までに掲載させていただきます。

火の島を去る船ともり雪降れり

かぎりなく雁帰る日の旅信書く

零落の家に秋の燈眼の如し

放埓の夜の星屑がふる運河

つねに彼方 薄明をゆく 影のあり

突堤の男を越えて 蝶光る

稲妻の 虚空へ伸びし枯木の手

海昏れてより 美しき火の 彷徨

日蝕の 黒い雫の かたつむり

関悦史 さんのコメント...

高山れおな様

ありがとうございます。
お住まいが近くだったのですね、そういえば。

江戸川区でいちめんの海苔干しというのも今やあまり想像がつかない光景ではありますが、半世紀前と今とでは句だけからではわからない生活上の変化が相当にあるのでしょうね。入院生活の実際にしても、今からしたらわからないところはかなりありそうです。
掲出の海苔の句など、喪という特殊状況があっさり周囲の日常性に呑みこまれてしまうその象徴として「海苔干し」なのでしょうし。

考えたら私の住んでいる霞ヶ浦から筑波山の間あたりでも、この20~30年だけでも相応に変化はしているのですが。


冨田拓也様

冨田さんのおかげで未知の俳人を知ることが出来、今回こういう仕儀となりました。
普段から句の抄出作業というのがどちらかというと苦手で、読んでいるうちに(手間がかかるのを別にすれば)全部紹介したくなってくることも多い上、ネットの場合活字メディアと違って枚数制限というものがないので、著作権の切れた人に関しては全部一度に上げてもいいだろうと(読む方は大変でしょうが)。

今回は句の紹介というよりも、冨田さんによって生じた奇縁による半世紀遅れの供養という感じでしたね。

闘病中の句作となると病苦を紛らせたり、不安を俳句形式に吐き出して対象化したりということ自体が強い制作動機になるので作れはするのですが、その結果として句がその素材に引きずり倒されるところもある。
中田有恒が40~50代を生きていたらどういう境地へ抜けたかは見てみたかった気がします。

本島高弓というのがまた知らない俳人ですが、一字開けの技法が入るようになってから後の句が次第に象徴性が強まっていくようで面白いです。