2009年3月9日月曜日

無心に充分に 阿部完市をめぐる短い覚書・・・中村安伸

無心に充分に

阿部完市をめぐる短い覚書

                       ・・・中村安伸

私が「海程」に投句しはじめたきっかけのひとつに、阿部完市氏の存在があったことは間違いない。〈少年来る無心に充分に刺すために〉〈るんるんと胎児つらぬく砲あつて〉〈ろりろりと印度の少女雲を嚙む〉といった『絵本の空』(1969)の作品を殊に鮮烈なものと感じていた。

当時「現代定型詩の会」という誌上句会のような同人誌があり、それに阿部氏が参加されていて、私も末席に加えていただくことになったのだった。十年以上前のことである。

その会では、誌上ならぬリアルの句会も行われていて、私も比較的熱心に参加していた。何度目かの句会にて阿部氏が出席される予定であると聞き、まだお目にかかったことのなかった私は、緊張しながら登場を待ったが、上野の某所で行われたその日の会に阿部氏が姿を見せることはなかった。

欠席された理由はわからずじまいだったが(あるいは忘れてしまったが)ちょうどその日は桜が満開の快晴の日であり、同席した誰かが「あべかんはきっと満開の桜に魅かれ、さまよって行ってしまったのだろう。」というようなこと言ったと記憶している。もしそれが事実なら、作品から想像していた人物像にふさわしい行為ではないかと思ったことである。

その後しばらくして、句会で何度かお会いすることができたのだが、氏の発言で今でも印象鮮明なのは「結局感覚をみがくしかない」というものである。どのような文脈かは記憶していない。
文字にしてみるととても単純なことのように見えるが、発言された氏の表情、声の調子、間のとり方等によって伝達されたニュアンスは明確に記憶していて、それこそが重要だったと思っている。

阿部氏の言葉は単に「五感を研ぎ澄ます」ということを言うのではなかった。私なりに別の言い方を探すならば、感覚を通して触れる外部世界に対して、それを受用する自らの内面を敏感に保つということだと思う。もう一段階深めるならば、感受したものを言葉に置き換えるための回路を整備しておくということだろう。

このように書くと阿部氏の俳句作品は外部からの刺激による内面の変化を言葉として掬い取ったものである、という言い方になってしまうが、そうした言い方だけでは阿部氏の俳句作品の魅力を掴みきれないのもまた事実である。

当然のことだが、内面の動きを正確に言葉に定着させるなどということは不可能であり、言葉が書かれた瞬間、そこから逆流して内面が書き換えられる動きもある。そうした動きのすべてを総合し、一句を完成させること――阿部氏は「一句成就」という語を使っていたが――を目指さなくてはならない、ということだろうか。前述の阿部氏の言葉には、一句が成就したことを見極める感覚こそを磨く、ということも含まれていたはずである。

私は何事についても単純な図式として考え、結論を出してしまうという悪癖がある。あえてその愚をくりかえすが、句作において主体の積極的なはたらきを最低限に抑制すれば、外部は感覚を経由して内面に響き、内面は言語を経由して外部へと響くという反響の連続が発生するのだと思う。つまり「感覚」は「言語」と対のものとして考えなくてはならない。そして、読者へ引き渡すための俳句をつくるには、この反響をくりかえしながら変容してゆく言語を、作品として掬い取るための、もうひとりの自分――読者としての――をはたらかせる必要がある。

このような雑駁な検討したところで、阿部完市の俳句作品の特異性にはいささかも触れ得ていないのだが、阿部氏の言葉に触発されての想念であることに間違いはない。また、氏が亡くなったことで――また桜を見にさまよい出てしまったというようにしか、今のところ感じることができないが――さらに彼の言葉は変質しはじめている。

それはさて阿部完市の俳句の単純にして深い謎をたたえた風情にいかにして肉薄することができるか、その試みは私にとっては端緒についたばかりである。まずは初期の句業から順序だてて追ってゆくということが有効な手段になる可能性があると思っている。

週刊俳句に寄稿した「一句鑑賞」にも書いたことだが、阿部氏の訃報を聞いてからその句業をふりかえって、奇妙に印象深いのは第一句集『無帽』である。ここにおさめられた句には、後にあらわれるような現実と幻想の混交はそれほどみられず、素直で透明感のある叙述が大半をしめている。たとえば〈鰯雲人を死なせてしまひけり〉〈明日もどん底あまりにうまき柏餅〉など。

そのような彼の句業が大きく転換する要因のひとつは、もしかしたら1959年に行った、LSD服用による幻覚を見ながらの句作という実験であったのかもしれない。そのとき作られた句は『阿部完市全句集』におさめられた『証』という未刊句集に一部がおさめられている。たとえば〈沼の中で文字を書いている十指〉〈生きた銀天国へ行けぬのに逃る〉など。また実験のいきさつを本人がまとめたレポートが『絶対本質の俳句論』におさめられている。その時代の作品と論を追ってゆくことが阿部完市俳句を解き明かすための鍵のひとつとなるような気がする。

精神科医という職業を選んだことも含め、自らの内面への執着ともいえる強い興味、探究心こそが、阿部完市俳句を形成する大きな動因であったとも思う。

その一方で最近の阿部氏の句業については、私が「海程」を離れて以降、あまりフォローしてこなかった。その部分については『水売』という句集が未見なので、まずはそこから確認することにしたい。

大きな才能をもつ人物の死が、巨人が眠りについてひとつの山となるようなものだとすれば、登山の準備をしなくてはならない。不謹慎かもしれないが、そのようなことを今思っている。

※参照:「週刊俳句」追悼阿部完市

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2 件のコメント:

上田信治 さんのコメント...

中村様

>大きな才能をもつ人物の死が、巨人が眠りについてひとつの山となるようなものだとすれば、

感銘。この喩えは、ズンと来ました。

匿名 さんのコメント...

上田信治さま

コメントいただきありがとうございます。
まとまりを欠いた拙文におつきあいいただき恐縮です。
拙文は氏の謦咳に接することの出来た数少ない機会について書いたものですが、阿部完市の俳句の「謎」に迫るうえで、氏がのこした言葉こそが頼りになるでしょう。
今後、さまざまな角度からの分析によって阿部完市作品の全体像がより鮮明に見えてくるのではないかと期待しておりますが、そうした試みの端緒として、週刊俳句に掲載された上田さんの文章は非常に示唆に富むものだったと思います。