2009年3月8日日曜日

紀貫之とおまけの古池

紀貫之とおまけの古池
神田龍身『紀貫之』を読む、追記あり



                       ・・・高山れおな

少し前の豈本誌の誌上で、桑原武夫の「第二芸術」論をめぐって、仁平勝と川名大が「大根を正宗で切るな」(四十五号)とか、「『第二芸術』論の意義と『戦後俳句』擁護――仁平勝の批判に応えて――」(四十六号)とかやりあっていて面白かったが、それはあくまで他人の喧嘩を見物する面白さで、ほんとうは大して面白くもなかったのかもしれない。評者としては桑原武夫の行文の内実にあまり関心はないものの(もうこの人自体、俳人と歌人と桑原武夫賞の選考委員以外の記憶からは消えてしまっているわけだし)、「第二芸術」というネーミングないしレッテルの貼り方の見事さだけは未だに感心する気持ちが消えない。仁平勝が桑原論文をいくら〈品がない〉とこきおろしても、ともかくこの言葉は六十年保っているわけで、ジャーナリズム言語としては稀有な成功例に属するだろう。もちろん、芸術神話そのものがほぼ全面解体しつつある現在では、さすがにこのフレーズの賞味期限切れも近いのではあろうが。ちなみに、仁平の「大人の文学」論は、俳句に対する侮辱的な言辞として桑原論文以来のものだと思うが、到底六十年は保ちそうにない。これを俳句のために喜ぶべきか、悲しむべきか、評者としては判断つきかねている。

時間をさかのぼって、「第二芸術」論以前における短詩型文学批判のクリーンヒットを考えると、なんと言っても正岡子規の一連の「歌よみに与ふる書」に指を屈する。特に、「再び歌よみに与ふる書」の冒頭、

貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。

というマニフェストの迫力はただごとではない。子規の『古今集』批判、『万葉集』称揚は、単に「歌よみ」だけではなく、国文学者をも呪縛した点、その浸透力は「第二芸術」論をはるかに凌駕すると言ってよい。桑原自身、芭蕉は第一芸術だと断わっているように、「第二芸術」論はあくまで近代文学としての俳句を攻撃したのであり、芭蕉や蕪村の研究者たちが心理的なダメージを受けることはたぶん少なかっただろう。しかし、和歌をめぐる子規の言説は、桑原論文同様、かなり荒っぽいジャーナリスティックなものだったにもかかわらず、たしかに専門の古典学者の間にも長く残響の尾を引いたのであり、比較的近年の古典の注釈書でも、例えば掛け言葉を使った歌について、なんだか片身が狭そうに解説している場面に出くわしたりすることがある。研究者はともかく、一般読者のレベルでは、大岡信『日本詩人選七 紀貫之』(*1)が貫之の名誉を回復したということになっていて、きっとその通りなのだろうが、貫之の日本文化史における冠絶した重要性に比して、その人気というか存在感のようなものは、それでもこんにちなお不当に低いもしくは希薄な気がしてならない。

現在、手軽に読める貫之の評伝としては大岡のものの他、目崎徳衛著『人物叢書73 紀貫之』(*2)や藤岡忠美著『紀貫之』(*3)などがあるが、さきごろ神田龍身の『ミネルヴァ日本評伝選 紀貫之――あるかなきかの世にこそありけれ――』(*4)がこれに加わった。『源氏物語』宇治十帖を記号論的な手法で読み解いたこの人の前著(*5)がとても面白かったこともあり、よろこびいさんで読んでみると、これもまた期待に違わない。それにしても「はしがき」にいきなり、

本書は、いわゆる資料・史料から貫之の人生史を肉付けし復原することを目的としない。

との一節があり、〈いわゆる伝記〉についてはすぐれた先行書が幾つもあるからそちらを読むようにというのだから、「日本評伝選」と銘打ったシリーズ本の一冊としては、著者も書肆も思い切ったものである。もちろん、「資料・史料」ではなく文学テキストから貫之の生涯の意味を照射するのも、作家論としてはなんの不思議もないのではあろうけれど。まず、目次を掲げる。

目次
はしがき
第一章 『古今和歌集』仮名序――あまりに普遍的な和歌観
  1 政教主義の欠落
  2 文化的アナーキズム
  3 『貫之集』の基礎
第二章 『貫之集』――はじめに屏風歌あり
  1 キャンバスとしての水面
  2 フィクションとしての発見
  3 現象とは何か
  4 テクストとしての屏風歌
第三章 『貫之集』――恋歌・雑歌の世界
  1 恋歌の喩(ゆ)
  2 ホモ・ソーシャル的連帯
  3 反復・引用される貫之歌
第四章 『貫之集』――土佐守以降の歌風
  1 醍醐朝の終焉
  2 「近隣(ちかどなり)」歌群の表現構造
第五章 貫之の『伊勢物語』体験
  1 政治的敗北者と和歌
  2 禁忌の恋と和歌
  3 もう一つの「やまと歌」の世界
第六章 『土佐日記』――言葉と死
  1 文学空間としての海
  2 喪失感と虚無
  3 ないものを現前させる
  4 水の枯渇
第七章 仮名表記の思想
  1 仮名=日本語音
  2 フィクションとしての日本語音
終章  『新撰和歌集』漢文序――本音としての漢文
  1 署名つき漢文テキスト
  2 フィクションとしての人生
参考文献・読書案内
あとがき
紀貫之略年譜
人名・引用和歌索引

上掲の目次にあきらかなように、本書の焦点となる貫之のテキストは五つ――『古今和歌集』仮名序・『貫之集』・『伊勢物語』・『土佐日記』・『新撰和歌集』漢文序。このようにテキスト名を列挙しただけで、すでに幾つか興味深い点が浮かびあがっていて、ひとつは三十歳そこそこの若き貫之の筆になる『古今和歌集』の序が仮名文なのに、最晩年の七十二歳から七十四歳頃に書かれた『新撰和歌集』の序が漢文であることで、貫之の文学活動の起点と終点におけるこの対称の意味するところの読み解きは、本書におけるもっともスリリングな山場のひとつになる。もうひとつは、『伊勢物語』を貫之の作品としていることで、これは驚きだった。評者は知らなかったが、定説とは言えないまでも決して神田ひとりの主張ではなく、近年は専門家の間でもかなり強い支持を得ているらしい。神田は本書で、貫之を『伊勢物語』の作者と仮定した場合におのずから導き出される、貫之の作家的な展開と『伊勢物語』の作品世界の間の合理的で相互補完的な関係を提示することで、読者に「うん、これはどうも貫之作でしか有り得ない」という感触を抱かせる作戦に出ていて、少なくとも評者はかなり納得させられてしまった(その方が面白いし)。

紀貫之とは何者か。おそらくは女手=平仮名による表記のシステムの完成者であると同時に、その表記システムを使ったコンテンツの創出をも一身に担った当の本人なのであり、先に「日本文化史における冠絶した重要性」と述べたのはそれゆえである。この意味では、芭蕉など問題にもならないし、紫式部や藤原定家にくらべてさえも日本語の歴史に果たした役割はより決定的であった。もちろん、韓国の女手=ハングルが、国王・世宗の号令一下、学者たちによって人工的に制定されたのとは異なり、日本の仮名はたぶんに自然発生的なものだから、それを貫之個人の制作物とするわけにはゆかない。しかし、わが国の女手表記の確立の時期が宇多・醍醐朝を中心に、おおむね九世紀後半から十世紀前半頃と考えられる以上、貫之はじめ、菅原道真、宇多天皇、醍醐天皇など、その成立に特権的なかかわりを持ったであろう幾つかの固有名詞を想定することは可能である。中でも、『古今和歌集』という韻文集成と、『伊勢物語』『土佐日記』という仮名による散文の双方を生み出した貫之の貢献はぬきんでたものに違いない。やまと言葉に表音的に当て字された漢字(万葉仮名)をぐずぐずの草書として記すふるまいそのものは、当時の識字者たちの誰もがしたことであろう。だがそのことと、そのようにしてなし崩し的に生まれた文字を統辞法と調和させ、さらにその表記システムによって記述すべき文章の規範を創出する行為とは、およそ次元を異にしている。これらのことは或いは常識の範疇かも知れぬが(しかし、ほんとうに?)、本書の意義は、それを貫之が遺したテキスト内部の事件として統一的に説明しきっているところにある。

主人公のなしとげた仕事が根源的なものであるだけに、本書の指摘するところの数々もまたおのずから長い射程を持っている。例えば、〈やまと歌は、ひとのこゝろをたねとして、よろずのことのはとぞなれりける。〉の書き出しで知られる『古今和歌集』仮名序が、これにおよそ八十年から九十年先立つ嵯峨朝の勅撰漢詩集の序文と比較して、その政教主義=文章経国的文学観を著しく後退させ、〈「脱政治化された普遍的心情主義」〉に彩られたものになっているとの指摘。文章経国的文学観とは、〈文章は経国の大業、不朽の盛事なり〉(*6)というような態度を指すが、このような後退が起こったのは、藤原氏の摂関政治の確立により、文学の理想と政治の理想を一体的に追及するような文学観が相対化されてしまったためであり、そのような理想の最大の体現者であった菅原道真の栄光と悲惨が事態を最終的に決着させたのだという。

道真事件は、和歌をも含めた文化活動全般を政治の表舞台から放逐すべく決定づけた。文化を文化として、政治的には無害なものとして囲い込むにいたったのである。たしかに和歌は勅撰の対象となったが、もはや政治的には去勢されての文化的台頭だったのである。

仮に道真の失脚がなかったとしても、所詮わが国において文章経国的文学観が根付くことはなかったであろうという予感と同時に、事実として日本文学は国家第二位の顕官=政治家の手から、少壮の一事務官僚へと下げ渡される格好で出発を遂げたのだという、その光景の原型性に感じ入らざるを得ない。我々の政治的代理人たちのあれこれの教養溢れるふるまいや、我々の“無害な”俳句まで、あとは一瀉千里の道が続くわけである。

貫之の仮名表記の問題に関しては、『土佐日記』をめぐる章に詳しい。なぜ、『古今和歌集』でも『伊勢物語』でもなく『土佐日記』なのかといえば、じつはあらゆる王朝仮名文学の中で『土佐日記』だけが、作者が書いた通りの表記を復元できるからなのだ。『土佐日記』以外は、『枕草子』にせよ『源氏物語』にせよ、テキスト形成の過程が複雑に入り組んでいる上に、後代の筆写の過程で平安末期以降の漢字仮名混じり文の論理が表記に入りこんでしまっているのだが、『土佐日記』ばかりは貫之の自筆成稿が室町時代まで伝世したため、原型にきわめて忠実な信頼性の高い写本を利用できるのである。

十七日。くもれる雲なくなりて、暁
月夜いとおもしろければ、船
を出だして漕ぎゆく。この間に、
雲のうへも海の底も、おなじ
ごとくになむありける。むべも、む
かしの男は、「棹は穿つ波
のうへの月を。船は圧
(おそ)ふ海の
うちの天
(そら)を」とはいひけむ。(*7)

上は、現在の一般的な刊本の表記で、ご覧の通り、現代人に読みやすいよう漢字仮名混じり文でに組まれているが、貫之の原本の表記は次のようなものだった。

十七日くもれるくもなくなりてあかつ
きつくよいとおもしろけれはふね
をいたしてこきゆくこのあひたに
くものうへもうみのそこもおなし
ことくになむありけるむへもむ
かしのをとこはさをはうかつなみ
のうへのつきをふねはおそふうみの
うちのそらをとはいひけむ
(*8)

引用箇所では日付のみが漢字で、あとはひたすら仮名で書かれているが、神田によれば『土佐日記』全体でも同様で、日付の他は、「願(ぐわん)」「京(きやう)」「白散(びやくさん)」「明神(みやうじん)」など、拗音を含むため表記の難しい音漢字のみが漢字で表記されており、その数もごく少ないという。このような表記が、では、貫之の時代に一般的だったかといえば、必ずしもそうではないらしい。五七五七七の音節で区切ることで比較的簡単に単語を拾うことができる和歌はともかく、散文の場合は適宜漢字を混ぜた表記の方がわかりやすいに決まっているのである。それなのに、貫之がこうした徹底的な仮名書きを実践したのは、〈パロールそれ自体に最大限接近〉するためだと神田はいう。『土佐日記』は和歌を引用する場合(掲出した部分では鍵括弧でくくった漢詩を見よ)でも改行したり行頭を下げたりせず、地の文にそのまま続けてしまうのだが、それは〈そもそも音声に改行なぞあるはずも〉ないからである。

じつは神田は、表記の問題に入る前に『土佐日記』の主題を分析しており、それが「言語の喩」としての水面(=海)の上で繰り広げられる、死と喪失のドラマであることをあきらかにしている。貫之に水に映った鏡像を詠んだ歌が多いことは大岡信の先掲書がつとに指摘するところだが、土佐から京までの船旅の記録という体裁をとる『土佐日記』も例外ではない。その上で、水面を「言語の喩」であるとする神田の着眼は、『土佐日記』というテキストの現在的な意義をにわかに浮き彫りにする。

さてこう見てくると、『土佐日記』が、舞台を海というガランとした空間にとったことの意味があらためて了解されてくる。波の花が咲き、波の雪が降り、また鏡のごとき海面に宇宙が映じていようとも、その海面の裏には何もなく、すべては薄い面上での記号の戯れにすぎなかった。そして喪失感の根底にあるものも同じく「死」「不在」であり、だからこそこの何もない世界から亡児追懐なり惟喬哀傷なりの多彩なイリュージョンが出現し得たのである。

この神田の見通しは、旅の一行が京都の旧宅に帰り着き、荒涼とした屋敷の中で、〈池めいて窪まり、水つけるところ〉に対面するラストシーンで証明される。〈自在にして放漫な想像力を喚起せしめた海の旅が終り〉を告げ、〈涸れかかった水溜りは、言葉の死、記号の死、そして想像力の死を意味〉しつつそこに現前するのだ。

このような主題を持つ『土佐日記』における仮名表記を神田は、〈パロールがパロールとしてあるのではなく、それはエクリチュールの世界にどっぷり身を浸すものが渇望したパロールの世界〉であり、〈死へと退行していく心性がかろうじてつかんだ事後的始原〉であるとする。エクリチュール=漢文を駆使して業務をこなす実務官僚である紀貫之が、〈をとこもすなる日記(にき)といふものを、をむなもしてみんとて、するなり。〉という仮構のもとで、女や子供、船頭といったエクリチュールの周縁に位置する人間たちの声を拾う形で成立した、〈偽装の日本語音〉で、それはあったのだ。

『古今和歌集』の和歌もまたこのような「偽装のパロール」を前提としていることは、すでに国語学者の小松英雄があきらかにしている(*9)。あくまでパロールが前提にあり、それを書き取った万葉歌の段階に対し、古今歌では全く同じ短歌形式でありながら仮名表記(それも清音表記)を前提にした技法を極度に発達させた。それがつまり掛け言葉であり、書家の石川九楊にいたってはさらに掛け字の存在をも指摘している(*10)。中国や西欧の言語はいざしらず、〈中国語・日本語という二重構造〉を内包している日本語にあっては、パロールを書き取るということ自体に、すでに偽装性が孕まれている(我々は耳で聞いた言葉、目で見た仮名書きの単語を常に漢字に変換しながら了解している)のであり、本書から見えてくるのは貫之がそのことに徹底して自覚的だった事実だ。

貫之の言語に対する燃犀さは、和歌と詞書の関係にも向けられていた。要するに短詩型は、詞書の付け替えによって、いくらでも異なる文脈で読む(読ませる)ことが出来るのであり、そのことに最初に気づいたのも貫之だったらしい。『古今和歌集』『貫之集』の編集の過程でそれを認識した貫之なればこそ『伊勢物語』を書き得たというのが神田の本から見えてくる筋道である。この認識がいわば日記・物語というジャンルの形成へと繋がってゆくわけだが、詞書による文脈形成の意義自体はそのためにかえって曖昧なものになってしまったとも言えるだろう。それを鋭く再認識したのは、発句に〈光を添る〉ものとしての詞書を発見した蕉門の人々であるが、今回はそこまで話をひろげるのはやめにしておく。むしろここで触れておくべきは、『新撰和歌集』の序が漢文で書かれていた問題の方であろう。神田の論をかいつまんで言えば、貫之自身の手で仮名文がフィクションの手法として確立してしまったがゆえに、パトロンの藤原兼輔はじめ多くの知友に先立たれた晩年の失意の肉声をダイレクトに響かせたこの序文は、是非とも漢文で書かれなくてはならなかったのである。肉声=パロールに相即するはずの仮名文が、その偽装性ゆえにじつは個人的な意味での肉声を直截に盛る器として用をなさなくなってしまったわけで、なんとも皮肉な事態ではある。なお、『古今和歌集』仮名序が無署名であるのに対して、『新撰和歌集』漢文序が筆者の名を明示しているのも、筆者にとっての両者の性質の違いを証し立てているということらしい。

       *       *       *

先日届いた「船団」誌の最新号(*11)に坪内稔典が、「俳句五百年⑥ 古池の句新釈」というエッセイを寄せている。長谷川櫂の『古池に蛙は飛びこんだか』(*12)に絡めてのものであるが、その文中に大輪靖弘の「江戸時代の文芸の新しさ」(*13)という論文を紹介しているのが目を引いた。そこに〈古池や蛙飛びこむ水の音〉の句の新釈が出ているというのである。

大輪は、古池を単純に古い池と受け取ってはいけないと言い、古井戸を例に挙げる。「いまでは誰からも顧みられなくなった井戸」が古井戸であり、実は古池も同様だ。古池は「あらゆる生物たちから見捨てられた死の世界」であり、「音も動きもない」。その古池に、「蛙飛びこむ水の音」がする。「忘れられた世界が急に生きたものになる」。

坪内が引いた大輪の言葉はとても魅力的だ。逆に言えばこの句が、最高に有名でありながら、現代人には今ひとつ良さが伝わってこない(だからこそ長谷川のように本を一冊書く人まで現われる)のは、「古池」の語のわかりにくさに由来していることが、大輪の解釈から見えてくる。たまたま芭蕉の句があるために我々の頭には「古池」なる単語がインプットされているが、そうでなければこれはただ辞書の中にだけ存在する平凡な死語のひとつであろう。簡単な複合語であるからいちおう意味はわかるようでありながら、「古池」の語を実感的に受け取るのはじつは至難のわざなのである。

ところで、紀貫之の本の紹介のあとになぜこの話題を無理矢理持ち出してきたか、明察の読者はすでにお気づきであろう。そう、芭蕉の蛙が飛び込んだ先は、長谷川櫂が言うような「心の中に浮かんだ幻の古池」なんぞではさらになく、従五位下前土佐守紀朝臣貫之の荒屋敷の〈池めいて窪まり、水つけるところ〉だったのだ。〈言葉の死、記号の死、そして想像力の死〉を意味するその水たまりに、はるかな時空を超えて一匹の蛙が飛びこんだ。それによって、「かな書きの詩」に何百年ぶりかで「言葉の命、記号の命、想像力の命」が蘇ったのである。しかも、嵐山光三郎の観察によれば蛙は飛び込む時に音などたてないらしい(*14)。つまり、この「水の音」もまた「偽装のパロール」だったのです。キャブン。


(*1)大岡信『日本詩人選七 紀貫之』 一九七一年 筑摩書房
(*2)目崎徳衛『人物叢書73 紀貫之』 一九六一年 吉川弘文館/新装版:一九九五年
(*3)藤岡忠美『紀貫之』 二〇〇五年 講談社学術文庫/原著:一九八五年
(*4)神田龍身『ミネルヴァ日本評伝選 紀貫之――あるかなきかの世にこそありけれ――』 二〇〇九年一月十日刊 ミネルヴァ書房
(*5)神田龍身『源氏物語=性の迷宮へ』 二〇〇一年 講談社選書メチエ
(*6)魏の文帝「典論論文一首」の一節。『文選』所収。
(*7)木村正中校注『新潮日本古典集成 土佐日記 貫之集』(一九八八年 新潮社)による。但し、(*8)に準じて改行箇所を改めた。
(*8)神田龍身の本に引かれた青谿書屋本に基づく翻刻。
(*9)小松英雄『みそひと文字の抒情詩――古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』 二〇〇四年 笠間書院
(*10)「芸術新潮」二〇〇六年二月号/解説=石川九楊「特集 古今和歌集1100年 ひらがなの謎を解く」
(*11)「船団」(第八十号 三月一日発行)は、編集部より贈呈を受けました。記して感謝します。
(*12)長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』 二〇〇五年 花神社
(*13)大輪靖宏編『江戸文学の冒険』(二〇〇七年 翰林書房)所収
(*14)嵐山光三郎『芭蕉紀行』 二〇〇四年 新潮文庫/原著:二〇〇〇年)
(*)拙稿末尾の「キャブン」は、正岡子規『俳諧大要』による。〈古池に蛙が飛びこんでキヤブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。〉

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3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 興味深く読ませてもらいました。仮名表記のこと、伊勢物語の作者のことなど興味をそそられる論点はいくつもありますが、特に興味を引かれたのは

>神田の論をかいつまんで言えば、貫之自身の手で仮名文がフィクションの手法として確立してしまったがゆえに、パトロンの藤原兼輔はじめ多くの知友に先立たれた晩年の失意の肉声をダイレクトに響かせたこの序文は、是非とも漢文で書かれなくてはならなかったのである。

のところにある皮肉です。宮沢賢治の文語詩、萩原朔太郎の漢文読み下し調の『氷島』に通底している問題のように感じました。言いかえれば、宮沢賢治、萩原朔太郎の事例の淵源がこんなにも遡れるのかという驚きがありました。
 ときどき関西圏のしゃべり言葉で書いてみるのですが、どうもいつもしゃべっているわりには、書いていると肩凝り感がいつも残ります。なぜなんだろう(正確には、なんでやろう)、と思っていたのですが、疑問が氷解しました。もっとも、肉声を響かせるためには、いったんフィクションの手法を確立させる回路を通らねばならない、という気もします。ともあれ、非常に参考になりました。ありがとう。

Unknown さんのコメント...

野口さんと同じく、私も面白く拝見しました。いくつかの箇所は、改行に対する私の最近の関心と響き合うので、思考のきっかけになり刺激的です。


〈そもそも音声に改行なぞあるはずも〉なし

について。

;;

「週刊俳句」今号に、阿部完市追悼特集が組まれています。そこで、評者の多くが彼の「ひらがな」志向にふれて句を鑑賞しています。私も「きのうきようまつかぜごつこはやるなり」(阿部完市『春日朝歌』)を、完市俳句の特徴としてあげて、これが、どういう意味や情景を指示しているかを辿りました。

いつのまにかおんいんそのもののたわむれのながれにとりこまれてゆき、さいごのなりのあたりにきて、ずいぶんながいあいだまつかぜごつこであそんだあなあ、とだまされたようなこれでよかったようなきぶんになりました。

(貴文にもどりますが)、音声(聴覚的な言葉の聞き取り)には確かに改行はありませんが、脳内の認識のメカニズムのゆえにかそれを読んでいる者の視線からの認識(音の読み取り)という回路があります。文学というのは、人間のその読み取りの能力を発揮して、文字描線(形。意匠。記号。いい方や切り口がありますが)にすぎない場面から、世界の全体性を把握し理解してきました。

貴文や、その紹介本のなかで、文学とくに和歌というのは意味だけではないこと、韻律や実際の音声的韻律、文字的形象を総合した「表層」を感受する技である、という表現の本質的な性格が、浮き上がっています。

「読むことと聞くこと」「文字と音声」「意味的理解の幾つかの位相」「和歌部分と地の文部分の区別の仕方」これらは表現にともなって表裏いったいにとしてあらわれてくるものです。両者一緒に考えられてはじめて、ただしく理解されるのではないでしょうか?(堀本 吟)

匿名 さんのコメント...

野口裕様

コメント有難うございます。
貫之晩年の漢文回帰に、朔太郎の先蹤を見るとのご指摘、まことに鋭いと思います。貫之は、日本文学のいろいろな問題のプロトタイプになっていて、巨人的とも言える役割を果たした人だと痛感しております。決してポレミックなタイプではなかったでしょうが、ある意味、子規その人とも近いところがあるのではと思ったりします。貫之の俳句分類ならぬ短歌分類から日本文学は始まったようなものですから。