「―俳句空間―豈」第47号読み倒し 〔一〕 巻頭~ア行の作者
特別作品・書下ろし50句 安井浩司「蛇結茨抄」
B では、豈本誌47号の作品評をやりまーす。ちぎっては投げちぎっては投げ、片端から読んでゆきたいなと思ってます。
A どうも。そのように。
B と、鼻息荒くはじめようとしたのに、いきなり最強選手が出てきましたの。安井浩司さんの「蛇結茨抄」です。Aさんはどう読まれましたか?
A 早速ですが、自分なぞは神野紗希さんのいう「安井浩司初心者」にすぎません。作品全体として、より映像的な鮮明さ、江里昭彦氏のように映画を挙げるならテオ・アンゲロプロスやタルコフスキーの映画を見ている印象でした。
B 基本的には後期安井世界の延長上にある作品で、イメージの立ち上げ方はわりとわかりやすいですよね。表題作の
蛇結茨酒振れば酔い絡まるや ⇒「蛇結茨」に「じゃけついばら」とルビ
それに続く、
あざみ野を渡る不敗の衣きて
蛇結茨かたまり眠るキリストら
のあたりに全体の最高潮部があります。安井世界をキリストと使徒たちがよぎってゆく、その前後の叙事詩的風景ね、きっと。
A そうですね、叙事詩的風景というのがまさにアンゲロプロスの映画なのです。『旅芸人の記録』『霧の中の風景』など、無意識の断片を綴った世界。ジャケツイバラは、調べてみると、キリストの茨の冠とは違う種ですが、あえて日本に見られる植物を配しているのでしょう。
捩杖入れて偶像の山秋の風
の句は、モーセの杖と、その後の累々たる偶像崇拝の結末を思い起こします。
とすると、キリストと使徒だけではなく、旧約聖書から始まる展開でしょう。
B ひとつ今、気になっているのは、俳句の話者の問題で、例えば、
深草風遂に女賊に乗るゆめや
まあ、美しい女賊を犯すということなのでしょうが、気になるのはこれが誰の「ゆめ」なのかということ。別にこれは安井浩司の特徴でもなんでもなく、俳句の人称の問題なのですが、安井さんの、全体として三人称性が強い俳句の中に、こういう句が来るとこの「ゆめ」が誰の夢なのかなどということがとても気になって。いちどその辺のことは、きちんと考えたいと思っています。
A あえて、「作者が不詳」となる状況を作り出しているのでしょうか。あと、加えたいことが。最初のほうの句で、
手のひらに創るほかなき冬苺
ですが、キリストの手のひらの、釘に打たれた聖痕、とも読めませんか?
B その読みは鋭いですね。きっとそうなのでしょう。「創るほかなき」という重い宿命、それを冬苺で受けるのがいかにも俳句。
A いえ、安井氏の俳句に読みの断定はないと思いますので、そんな可能性もある、ということでしょう。しかし、
死鴉を吊るし春空からす除け
は写生ではないですか。
B 「からす除け」の句のような只事めいた句は、安井浩司の句集にじつはたくさんありますの。厖大な句数でひとつの世界を立ち上げようとしているのが氏の方法論です。そこでは、一見平凡な事象の“写生”すら必須。ちなみに、Aさんの「冬苺」の解を基に注意してみると、一句目、
雁行くや空の高さに海あれど
は、ノアの大洪水のイメージですね。それが季語の最右翼のひとつ「行く雁」と取り合わせになっている。
箱柳天地も小さくなりにけり
の「箱柳」も当然「箱船」を連想させます。
梅雨のそら飛行家の肩摑む鷲
の「梅雨のそら」もまさに大洪水を引き起こした雨の暗示でしょう。それから、
ああ宮前の白萩に乳こぼし去る ⇒「前」に「さき」とルビ
のは、聖母マリアかもしれません。
笹にねて汝が唇を割る礼はあり ⇒「唇」に「くち」とルビ
の「唇を割る礼」は割礼につながっている。東アジア的日本的景物と聖書の世界が重層しているのね。
A そうだと思います。平句をあえて部分的に挿入することで、物語の緩急がつくのでしょうか。東アジアというより、もっと現実的な日本の農村風景を意識しているがゆえに、その、「死鴉」をワンカット、数秒入れてあるのでしょう。
岡田由季「ペイズリー」十二句
B さて、次は新鋭招待作家。今号は五人が登場します。安井浩司のスケールや深みを求めるわけにはいきませんが、それぞれに面白かったです。最初の岡田由季「ペイズリー」は、風俗的な浅さはあるけど、それは基本的には意図したものだろうと感じました。その浅さにおいて的確であろう、と。好意的過ぎるかしら?
A 好意的にみればそうなのでしょうね。週刊俳句賞のときのほうが、力作であった印象。ただ、この同人誌のこの欄、皆多少作りこんで出してきますね、それがどう出るかですか。
B ふだんの岡田さんと少し違う?
A いえ、普段は存じ上げないのですが。「澤」の作風に似て意図しての浅さながら達者ではあります。個々の句については、どうですか?
B いちばん面白いのは、
どのボタン押しても開く初御空
ですね。「澤」の相子智恵さんなんかが言っている、現代のリアリティのようなものを、洒落た形で句に仕立てています。
三鬼忌の指輪に合はせ細る指
は、三鬼忌がエイプリルフールだというところがミソなのかしら? そう読むとなかなか意味深な感じに受け取れます。
秋声を聴く地下鉄の地上駅
なんかは、ただの地下鉄の駅でもふつうの地上路線の駅でもなく、「地下鉄の地上駅」としたところが、繊細な目のつけ所ね。こまやか。ずっと地下を走ってきた電車が地上に出た時の、開放感と裏腹の寂しさのようなものを描こうとしたのかな、と。
駐車券くはへてゐたり冬の星
も、こういう動作って咄嗟にするものですが、うまく俳句になってる。「冬の星」が気持ちいいわ。
の「ペイズリー柄」は、自分の衣類なのでしょうか。それとも異性のものだと思いますか?
A 自分も、「どのボタン」「秋声」「駐車券」の句を取っています。「どのボタン」の句は、現代のリアリティをもっと進めて、どこか近未来的な、映画『ブレードランナー』の世界にも似た、ガラスに囲まれた焦燥感、でしょうか。「地下鉄の地上駅」も、地下から地上へでる動画がどこか近未来的ながら、ドアが開いたとたん伝統的日本の秋であったという。「駐車券」の句も、ホテルなどの地下駐車場からオレンジ系の明かりの点々とついたらせん状の坂を上って地上にでたら星がまたたいていた、という景ととりました。「ペイズリー柄」が誰のものか、とは考えなかったですね。ひとりの部屋のカーテンとか、寝室のカバー類と受け取りましたが。南仏プロヴァンスによくその柄のものがあります。あるいはひざ掛けのエトロっぽいダークな色あい。
B もちろん不満もあります。
定番の土産を提げてゆく良夜
あたりのこじんまりした纏め方を見ると、もっと悪意を!と言いたくなりますけど。わたくしのような悪意の女としては。
酒井俊祐「戯画」十二句
B さて、酒井俊祐「戯画」は、どこが戯画かよくわからなかったですが、そう言ってみたかったのね、きっと。それはともかく、
馬肥えて浅草に鍋かがやけり
初夢に土地の余つてしまひけり
比良八講四方八方パーマ伸ぶ
の三句が良かったです。馬肥えてというのは桜鍋ということではなく、ようやく秋深まって肌寒くなり、その年はじめての鍋を前にしている喜びの情景と取りました。「初夢に」はなんというか、コンサバ・ポップっていうのかしら。わたくしのイチオシは、中村安伸氏も鑑賞していた、「比良八講」ね。
A 失礼、「駐車券」の句は、自分の先の解は違いますね。郊外の広大な屋上駐車場ですね。そうでないとくわえている意味がなくなってしまう。
B いや、必ずしも広大である必要も、屋上駐車場である必要もないと思う。駐車券を口にくわえるのは、駐車場に入る時の動作でしょ。発券機から駐車券を取って、とりあえず口にくわえて発進する。だから、先のAさんの解で地下から外に出たらというのはちょっと違うでしょう。屋外であればどういう駐車場でもよろしいかと。でも、猫の額のような駐車場よりは、郊外型の少し広い駐車場の方が絵にはなるわね。
A 戻って申し訳ない。酒井さんでは、やはり「馬肥えて」「初夢に」ですね、中村氏の鑑賞にゆずりますが。「比良八講」は自分には首肯できかねます。これをほめてしまうと、以後この方向で作ってしまわないかという危惧で。昨今の若手の中で、この作者のこの姿勢は貴重ですけど。先へ進んで欲しいゆえに、取りきれぬという。
B Aさんがこの取り合わせを首肯できぬというのは、ちょっと意外です。琵琶湖上を吹き荒れる春風、へろんへろんと八方に伸びてゆくパーマ。アナロジカルに対応していると感じるけど。
A ふむ、そうですか。「春疾風」「春荒」でも可能な世界ながら、琵琶湖の広がり、それに「八講」と「四方八方」の字面と言葉の対比ですね。しかし、所謂俳句甲子園出身組の方々の句に、こういった付け合せよくあるのですよ。一時、「十二音なんとか」とやらwebでも話題に(※)なっていましたが。中村氏がその辺以前お書きになっていたはず。取り合わせに限らないですが、その作り方だと何かが足りない句の弱さを、ディベートで補填する癖がつきませんかね。「小鳥来る三億年の地層かな」(山口優夢作)、「夕立の一粒源氏物語」(佐藤文香作)などと、後に出てくる関さんの句を比べてしまいますね。
B なるほど。まあ、体を張ってまで擁護したいわけではないですけど(笑)。
佐藤文香「鳩サブレー」十二句
B 次は、佐藤文香「鳩サブレー」。これはわたくし文香版「ミヤコホテル」であるなと感心しました。ユニークな連作ですね。若い「ぼく」(素直に男性と受け取っておきます)が、彼女の家に挨拶にゆくの図と読みました。ダメ?
A まさしくその景を意図しているでしょうね。佐藤文香さんとしては凡打じゃないですか。Bさんは連作としての評価となると甘いですね。
朝涼の君の先祖を参りけり
くらいしか取れない。
月並な土産の箱へ西日さす
は、先の岡田さんの「定番の土産を提げてゆく良夜」と類想ですよ。こういうのは自選で落とすくらいの矜持が欲しいですね。
B 墓参の句も良いですが、
西日さす客間よ君の書道作品
は、わたくし傑作だと思いますの。中村安伸氏も指摘していましたが、この「書道作品」という字余りのフレーズは絶妙よ。「西日さす客間」に一挙に実在感を生じさせています。この一語の点睛によって、非常に小説的な空間が出現してません?
お邪魔しますの心にうつる金魚鉢
の屈折も心憎い。なにしろミヤコホテルですから、ある種の類型性にも意義を認めたい。「月並な土産」は、おっしゃる通り、句としてはもう少し頑張るべきだったでしょうけど、タイトルを「鳩サブレー」にして「月並な土産」を受ける趣向はまずまず気がきいてるんじゃないかしら。
A そうですか。「書道作品」から小説的、とは感じなかったですね。では、
松風や空蝉の背に指を入れ
はどうですか?
B 「をみなとはかかるものかも春の闇」(日野草城作)じゃないですが、破礼句なんでしょうね。同時に、
朝涼の君の先祖を参りけり
振り向きて麦藁帽の影には眼
松風や空蝉の背に指を入れ
の三句並びで読むと、墓参りの一連の情景とも受け取れますの。お墓には空蝉もごろごろしてるでしょう。その背に指を入れるという行為には、あえて儚いものを壊さずにはいられないような衝動があらわれているのでは? 連作三句目の
ぼくの為の氷菓を君が食べてしまふ
と、照応するようにも見えます。最後の句、
かたまりの藻くずの乾く別れかな
は、破礼句としても上等とは申しかねますけど。
関悦史「時間」十二句
A 次は関悦史さん。
B この作者は現代思想系の造詣が深い人のようです。それをかなりナマな形で俳句に持ち込んで、しかも結構成功している点、特異な個性として注目しています。
ケーニヒスベルクの時計人来る空梅雨か ⇒「人」に「びと」とルビ
は、中村安伸氏が言うように哲学者のカントのこと。で、次の
たうもろこし自体を祖母は食ひにけむ
は、カントのいわゆる「もの自体」を踏まえているのでしょう。この二句目はほどほど以上の句ではないけど、一句目はかなり面白いのでは。まず、「ケーニヒスベルクの時計人」という詩的喚起力のあるフレーズの魅力。それが「空梅雨」と取り合わされた時、極限的な知性の明るい苛烈さのようなものが浮かびあがってくる。句末の「か」の使用に、関さんの技術的前進を感じます。これによりともかく空梅雨が実体として措定されたことになり、あとは何を言ってもOKということになる。つまり「ケーニヒスベルクの時計人」といった突拍子もないものが登場しても、句の安定が崩れませんの。
A 自分も今回関さんをもっとも評価しています。「ケーニヒスベルクの時計人」はそのフレーズの吸引力はもちろん、「空梅雨」の時期の今日か明日か、今にも雨が降り出すか、と心待ちにする心理と、ああこの時刻になったから窓の外をあの人が通るだろうという期待感が、取り合わせの意外性をつなぐ伏線ですね。アクロバティックな取り合わせを、如何に着地させるか、重層的な要素の盛り込みが不可欠ですが、そこまで計算された句ですね。
「たうもろこし自体」それから、
はつなつといふものうすく目をひらく
静かなる場所にして鮨這ひゆくも
燈明となる戦艦のさむさかな
棲み入るに海市の中はうすく塵
八百万の仮想美少女人形のみ立つ八月か
⇒「八百万」に「やほよろず」、「仮想美少女人形」に「フィギュア」とルビ
も良いですね。現象を記号化して見せてくれる面白さですか。
ΩからIを出す尺蠖よ ⇒「Ω」に「をはり」、「 I 」に「われ」とルビ
の句は、安井氏の「くつがえる亀もΩも秋の風」からの発想でしょうね。
B 「静かなる場所」の句は、どのように読まれましたか? わたくしはなんだか面白げとは思いつつも、いまひとつ読みきれずにおりますの。
A まず「静かなる場所」というフレーズまたは題名がどっかにあった気がするのですが、思い出せない。しかし、鮨が白木のカウンターにぽつんと一貫づつ載っている様子が不穏で動き出しそう、と見ましたが。カメラが、カウンターの横からカウンターぎりぎりの位置で狙っているカット。
B 大江健三郎に『静かな生活』という小説があり、田中裕明には「小鳥来るここに静かな場所がある」の句がありました。「静かなる場所」は白木のカウンターと素直に読むわけですね。「這ひゆくも」を「動き出しそう」と読めばなるほど、その白木のカウンターの沁みひとつない澄み切った質感が際立つように思います。ただ、「動き出しそう」と読むのは親切な読み方で実際はそうは書いてないですよね。そこは多少問題では? あと疑問に思ったのは、
いま口を開かば障子出でにけむ
ですが、これは文法的間違いかも。「出づるらむ」にすべきではなかったのかなあ。「燈明となる戦艦のさむさかな」は、「さむさ」と言ってしまったのが惜しい。
A そう、動く云々は、自分の行き過ぎた読みです。しかし、静謐な中の不穏さ、を描いている点で評価したい。「さむさ」惜しいですが、このひらがな表記がポイントなのでは。「宇宙戦艦ヤマト」のように「さむさ」って名の戦艦かも。
B そういえば帝国海軍は漢字表記だったわけだけど、自衛隊の艦艇はひらがな表記ですね。戦艦さむさ。全く寒いですの。先ほどAさんがあげた中には、
白蓮をさはりつくせり声優は
は、入ってなかったですが、どうですか? 大昔、わたくしたちが中学生くらいの時、声優ブームってありましたね。TVを見ないので最近の様子がわかんないんだけど、「八百万」の句で暗示される秋葉原あたりの文化では、今もメジャーな存在なのでしょう。声優って見た目と発声が全くちぐはぐないところに、一種フリークな魅力があって、その不気味さのメタファーとして「白蓮をさはりつくせり」というフレーズは成功しているように思います。
A すみませぬ。ウケねらいでした。
B いや、受け狙いが寒いという意味ではなく・・・。
A 当方もここんとこテレビほとんど見ませんので現在の状況はわからないのですが、モノホンの声優さんとは仕事で会っていますので、一般的なイメージとは多少認識が違います。むしろ「声優」という素材に引きずられている感。
B なるほどね。でも、今回、関さんはほんとよかった。あとは量を書いていただきたいわ。
冨田拓也「歴程」十二句
B 冨田拓也は、第一句集『青空を欺くために雨は降る』にある「天の川ここには何もなかりけり」なんか典型だけど、あらかじめの喪失感のようなところを詠んで鮮烈な世界を持っている人。ただ、今回はその鮮烈さにおいてやや物足りないですの。
芹たべて一日一日をまぼろしに
が、中ではいちばん良かったけど。
大いなる薄氷の上を歩みゐしか
なんかも悪くないのですが、これなどさっきの関さんとは逆に句末の「か」が必要だったのかどうか。
A 今回もうひとつですね。
空蝉のうすきに充つる日と月と
船底に腐らぬ水や十三夜
が良かったです。「芹」の句は、芹の質感としてそんなものではないですか。先人の句があったような。
B なんか守りに入って、句柄が小さくなってないかな。大関昇進後の琴欧州の相撲みたようだわ。知識が増え過ぎるのもよしあしの面がありますもの。最後の
まなぶたを夜雁の過ぎてゆきにけり
なんて、「雁啼くや夜目にも見ゆる針の山」という凄い作品がすでにあるのだから・・・。苦しいところね。
A 「か」は無理に音数を整えているのでしょう。皆さんこの方の第一句集を年鑑等で絶賛してましたよね。ほめすぎは本人にとっては不幸ではないですか。そこから飛躍が難しくなってしまう。今回どの句も季語の範疇を抜けきれていません。これだけの才能がもったいない。
B あらあなた、そんなこと言ったらわたくしの正体がばれるじゃないの。でもあれよ、Aさんが句集出したらきっとほめるわよ・・・て、事前通告も変だけど。でも、俳人なんてたまさかほめて貰ったらそれで2年くらいは走りつづける超燃費の良い車みたいなものじゃない? プリウスなんかめじゃない感じで。まあ、でも苦しむもまたよしですの。その後の運命は、俳句の神さまが決めてくださいますわ。
青山茂根「臨海、ときに郊外」二十一句
B さて、ここからいよいよ同人作品に入りまーす。最初は青山茂根さん。今号は同人五十六人が作品を発表してますが、当然ながら玉石混交。ともかく自分の表現世界を持っているのが大前提だと思いますが、年齢ばかりいっていてそれが無い人も少なくないのね、びっくりだわ。五十にも六十にもなって、言葉を恣意的にくっつけ並べ、何かが出て来ればいいなーみたいな人が多いのはどうもね。でも、世界を持っていてもそれが石化してしまっていては何にもならない。そういう人もいるわね。この青山さんは、世界はあると思うし、石化もしていない一人ではあるでしょう。具体的には、
まなじりのくれなゐ流れたり金魚
みつしりと黴を育む巨塔かな
ミドルネーム空欄といふ涼しさに
メモ帳ちぎるサルビアの小ささに
GIPPO拾ふはんざきの重みとも
あたりが良いと思いました。Aさんはどう?
A ときに連作ということを意識して書いたほうがよいのでは。「ミヤコホテル」の話が先ほど出ましたが、完全なフィクションに飛ばすことも必要でしょうね。ノンフィクションの仮面かぶってるのが問題でしょう。
B 今回、わたくしが良いと思った作品では、直喩的な作りが目立つわね。一般に直喩というのは遠いもの同士をうまく関係づけた時、成功とみなされるわけだけど、「サルビアの小ささ」とか「はんざきの重み」というのは、まさにそこがグッド。一方、直喩においては作品を作る主体が安定してしまう、良くも悪くもよ。その安定が悪く出ると、
肉を焼く夕べ十薬はびこらせ
茅の輪くぐりて鬣の如き髪
何を射るべし夏痩の眼にて
とか、平凡なわりに思わせぶりな、雰囲気先行の感じになってしまうのかな。
A そう、直喩に逃げてますね。安易に作ってるのが見えてますよ。
B 直喩が悪いのではなく。あれよ、むしろ俳句は隠喩より直喩の方がフィットし易いわけだし。あと、成功はしてないかもしれないけど、
ドル紙幣さへ短夜の傷を負ふ
巣箱より見つめられたる真昼間よ
の二句も気になったですの。「あふれる」というタイトルの短文もいいわ。あれね、短文で頓珍漢なこと書いている人は作品も駄目ね、当たり前だけど。基本的に短文の出来と作品の出来はパラレルみたい。
秋元倫「白きにぎはひ」十九句
A 確かに、短文にひかれる作者は句にも魅力を感じますね。では次にいきましょうか。秋元倫さん。
B とれるのは、
モノクロの時代の母に寒紅を
エスカレーター左に寄りて冬行かす
くらいかな。
孤独とは白きにぎはひ梨の花
とか、女子高生なのあなたは、という・・・。
A 自分も取れるのは「エスカレーター」の句と、あとは
みづうみは大きな柩花のあと
くらい。介護とか余命とか、団塊くらいの方のようですが。形はきっちりしてますね。現代俳句系の方ではない?
B みづうみが大きな柩だってどういうこと? 趣味の悪い見立て俳句なのでは?
A 「花のあと」だから花が散りこんでいるのでは。純粋に景として取りましたがね。まあ、この中では、です。
池田澄子「在れば即ち」二十句
B といったところで拘泥していても仕方がないので次・・・は、いきなり池田澄子選手です。池田さんと秋元さんを比べると、池田さんは率直端的なんですの。
要はどう死ぬかなのよねワインゼリー
という句、好きではないけど、好き嫌いと関係なく受けとめざるを得ないじゃないですか、こんなふうに明晰に自分に向き合っている人がいるということ自体を。ところが、秋元さんは、
わが余命こぼさぬやうにかき氷
だもん。「こぼさぬ」ってどういうことよと突っ込みたくなっちゃう。気取りって、文学性の重要な触媒のひとつではあるけど、気取りイコール文学性じゃないわ。
A 「ワインゼリー」、人事句の有象無象を蹴飛ばして痛快ですね。一般的な結社の高齢化した句会にでると、余命、介護、わが死、そんな句のオンパレードです。
薔薇垣や永久に愛するかは微妙
の句のイマドキ言葉の取り合わせもうまいし、
普段着の方が美味なるメロンかな
ポストモダンって?テレビ画面の牡蠣旨そう
これだけのシニカルな現実世界を提示できないですね。相子智恵さんのいう現代のリアリティは、池田さんがアイロニックな方向では実践済みでしょう。
平成二十年八月十五日なり昼餉
徹底してあの戦争の句を出していくのも。
B そうか、「薔薇垣」の句の「微妙」は流行語のビミョーか。済みませんですの、気づくの遅くて。
親愛なる未生の曙杉よ 朱夏
の「親愛なる」には、泣けます。杉は千年も生きるわけですが、単なる曙杉ではなくて未生の曙杉だというところで時間性の問題がぐっと強く立ち上がって。「どう死ぬか」と考えつつ、未生の世界に思いを遣れるというのがやはり成熟ってものよね。
寒し井の底の私が誘うなり
もずいぶん暗い句だけど、暗さに溺れてはいなくて、その暗ささえきっちり抑制されてるのよ。
電気コードを秋から冬の次の間へ
は、お得意の「襖越しの批評」というやつね。
A 「親愛なる」の句、つまりまだ生まれてこない無数の命以前のものへ、ですね。その杉林に漏れる夏の日差し。足元の暗さ、未生の種の埋まっている地面と、高く枝を張った葉を漏れる光の対比。
伊東宇宙卵「非場所(ヘテロトピア)/巣穴掘り編」二十句
B しかしですね、この池田澄子の対抗頁の伊東宇宙卵が今回凄いんですね。今号で最も重厚な見開きではないかしら。暴れていて、その暴れようがキマッていて、わたくし結構感銘。文香さん以上に完全に連作だし、連作としてしか読めない句なのですが、毒のあるユーモアもあって、オトナの世界よ、これ。
A まさしく! 実は自分も今号でこれが一番の収穫でした。伊東さん、これぞ連作です。しかも成りきってるのがモグラ。上質のユーモアです。こういう連作こそ朗読ライブで演じていただきたい。ジャック・ベッケルの『穴』という映画があるのですが、(Bさんの想像するような内容ではないですよ)、その映像を思い出しましたね。脱獄を試みる話です。
B 『穴』という映画についてわたくしがどういう想像を膨らますって言うのよ! 『マルコヴィッチの穴』という映画もあったわね。傑作。ほんと、でも、わたくし連作って、俳句界全体が考え直す価値があると思いますの。その時、ザ・連作暗黒バージョンの見本となるのは本作だわ。
犬に掘られ、台無しになった個所やりなおし
――笑っちゃうわ。
A 「箇所やりなおし」、この句で一旦スピードを落とすんですね。読みながら、引き込まれる展開です。たいしたことは何も言ってないのに。いや凄い。参りましたと言って笑えてしまう。
B それから、
むこうから掘ってくる奴、大きいか、だ
のこの読点の使い方とか上手ね。
ときたま、土に混じってる虫はうまい
とか空トボケてて絶妙です。
この道掘りすすむ確信だが、わずかある
とか、この作者が自己を客観視するのをはじめて読んだような。宇宙卵さんが「わずか」しか確信を持ってなかったとは意外だけど(笑)。わたくしも今後連作を試みる場合、参考にさせて貰いますの。エピグラムとして、「深淵をのぞきこむ者は自分自身が一個の深淵になる。」って、ニーチェの言葉が掲げてあって、こういう引用もいつもはちょっと痛い文学少女風だったでしょ。でも、こんどばかりはバッチリはまってるわ。
A 終わりの展開が、詩ではなく、俳句ですよね。
なんだかコトコト笑ってしまうなア
上・下も掘って広げ、うつくしく――
明るさがあります。
B そう、ぎりぎり俳句だと思います。
丑丸敬史「代數論」四十句
次の丑丸敬史「代數論」も力作です。この人、存じ上げないのですが、とっても多産で、なんか言葉が溢れて仕方ないみたいな感じね。そういう人というのは案外、言葉が上滑りしがちだったりするものなのに、そういうことはなくて、とっても多彩。全体にどこかしら既視感があるのが難ですが、致命的なマイナスにはなってない。既視感を言葉のスピードで振り切ってる感じ。
A 取っているのは、
硝子器に母と苺と潰しけり
うるはしののぶだうつゆる帝國や
夏雲もじぱんぐも燒け殘りけり
など。言葉を掛けている句も多いですが、
オキーフのモチーフに餠詰まるかな
などは良いですね。
B Aさんがあげた句はみな良いと思います。
美しき齒科醫女醫輪觀世音
なんか上手いですよ。もちろん如意輪観音の掛詞ね。隠語では、遊女のことや、そのものずばり女性器を観音様と言いますが、これも大口あけて治療をうけながら美人女医に劣情を催しているわけね。でもそれだけじゃなくて、如意輪観音って腕が六本ある仏さまだから、忙しく治療に立ち働く歯医者さんの行動の描写にもなってるわけ。お下劣な内容なのに、品の良さを保っているところもいいわ。
夏雲や遠近法に母隠れ
は、大人しいけど、空疎ではない。真情なしとしないわ。
夏野にて與一は今も茄子を引く
は、もちろん「扇の的」の那須与一を駄洒落でもどいてるんだけど、あの時代の与一クラスの武士なら自分で農作業もしたでしょう。弓を引く名人がナスを引くのもまた楽しね。
代數論水着の姉を代入す
以下の句はみんな数学用語をちりばめていて、一句一句がどうこうという以上にその遊びが効果をあげています。これは連作ではなく、群作と呼ぶべきでしょうね。中では、
不等式四季折々を詰合わせ
は、ちょっと筑紫磐井ばりの批評眼だし、
ぱーどれのドレスの裾の素數解
は、駄洒落として上々。
月山や加減を知らぬ除乘かな
は、なんか月山山塊の存在感を機知的に言いとめたような面白さがある。「除乘かな」に「抒情かな」が隠されているかも。芭蕉の「雲の峰幾つ崩て月の山」なんて、まさに加減を知らぬ抒情という感じもするわ。
A ふむふむ、群作の面白さですね。不思議と、
陽炎や母を均して三千里
とか、
教會の尖塔破る紺ドーム
という句が混じっていても俗に流れない。
甘ぞねす母數ばかりが憙びぬ
も、母数という語が効果的で、何か深い真理があるような錯覚を起こします。言葉遊びなのに。
B 基本、頭の良い人なのでしょう。
大井恒行「無題抄」十句
B 四十句をぎっちり二段組にした丑丸氏に対して、大井恒行氏はぱらりと十句のみ。タイトルも「無題抄」と淡白です。
ハモニカを吹けば泣き止む沖の父
なんかはやや古めかしい感じではありますが、泣き止むのが子ではなくて父であるところが、よく考えると凄いし怖い。
ブロッコリーツリー山原に錆びる弾丸 ⇒「山原」に「やんばる」、「弾丸」に「たま」とルビ
詠まれている世界には新鮮味はないけど、「ブロッコリーツリー」という具体性は生きているし、とにかく作者の思いが徹っている。
極彩の爆心地かな敗戦日
かつての爆心地を夜のネオンがけばけばしく照らしだしている、ということかしら。
A おお、ほぼ同じ句をあげていますね。「ハモニカ」の句は父の退行現象、いわば幼児がえりでしょうか。その音のせつなさ。
万歳の手のどこまでも夏の花
の句は、現代の景とも、戦時中の兵士を送り出すさまとも取れて、手だけのクローズアップが夏の花とオーヴァーラップしますね。「極彩の爆心地」、爆心地のマラソンから更に時代を経ての感がします。この四十句と十句の見開きは逆に目を引きますね。
大本義幸「冬至物語外伝8 義の風2」十九句
B 大本義幸さんの句のうち、「エロス三句」と前書のある、
愛恋の歯型となりし鰯雲
愛咬の傷やわらかき山桜
硝子器に春の影さすような人
は、この前出た句集『硝子器に春の影みち』に収録されていますね。
A ええ、そちらで見た句ですね。この方の句は連作よりも一句として立っているものが多いのでは。句に透明感があり、透き通った叙情というべきでしょうか。
美しき耳もつ人や初蛍
少年や鼓膜のごとき霧の村
胎動のごとみなみに雲はかたまりぬ
夏の男に影ひとつあり長かりき
ドラマ性を負った句は、シナリオの学校に通われていた故でしょうか
B わたくしも「少年や」の句は好きですの。それと、
海ありて鼓膜のごとき過疎の村
もいいわ。この両句の「鼓膜のごとき」という直喩が効いてますね。共同体を維持できないまでに過疎が進んだ集落を「限界集落」というそうですが、それを文学的比喩で言うと「鼓膜のごとき」なのかも知れない。
敗れるより枯れよ夏の日よひまわりよ
は、この作者の現在の思想なのでしょうね。「敗れるのではなく枯れるのだ」という。わかるようでもありますし、しかしやはり個人的なものに根ざした難解さもあるかも。
A そういえば、「硝子器に」の句はエロスだったのですね。とすると行為のあと?
B 句を読むかぎりでは、全く気づかなかった。わたくしは、別に行為しなくてもいいですの。見ているだけでもエロスはあるでしょう(笑)。
A 視姦ってやつですか(笑)。個人的見解ではなく、句の観賞を。B あら、でももう時間も遅いわ。今夜のところは、そろそろゴールしましょうか。同人作品は五十音順に並んでいて、ア行の最後は岡村知昭「原人へ」二十句と恩田侑布子「桃の皮」十六句……残念ながら一句も取れませんでした。Aさん、推薦句ありませんか?
A いいえ、ここはスルーで。
※「「十二音なんとか」とやらwebでも話題に」→「十二音技法」のこと、以下を参照。
「週刊俳句」遠藤 治 「十二音技法」が俳句を滅ぼす →読む
「週刊俳句」中村安伸 十二音技法 たとえ俳句が滅びるとしても →読む
■関連記事
「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(1)
花びらを喰ひ―新鋭招待作品五篇・・・中村安伸 →読む
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3 件のコメント:
コメントしようと思っていたのですが、金曜日になってしまいました。
この匿名対談は、一人二役なのか、それとも実際に二人の人物で行われいるのでしょうか。
ともあれ、安井浩司作品の読みに感嘆いたしました。
「東アジア的日本的景物と聖書の世界が重層」ということで、諸星大二郎の漫画を思い出しました。
私の作品についてもふれていただき感謝いたします。
私も結構「時流」に引きずられているのかもしれません。
来年はもう少し気を付けたいところです。
冨田拓也様
A子氏、B子氏に替わり管理人としてお答えします。この対談は一人二役ではなく、実際にこの二名によって、チャット機能を使って行われております。そのデータを高山が受け取って書式を整理し、アップしております。初回ということもあって、その作業に思わぬ時間を要し、小生自身の原稿を書きそこねました。第二十号には第二回がアップされますが、こんどはだいぶ効率化しましたので、小生自身も書評を載せることができそうです。
大変楽しく拝見しました(>▽<)!!
A子氏とB子氏の鑑賞の評価具合も面白かったです。割と実験的試み、といいますか、言葉が悪いかな。あがきというか、新しい方向へ進もうという姿勢を強く評価されているように感じました。
(完成されてなくっていいのですものね)
お年寄り集団ではないのだから、前進しようよというようにも受け取れます。
それから
「もともと評価が高い(と思われる)人には厳しい」
これはどの世界でもそうかもしれません。
私は今回、宇宙卵さまのものが好きです。
完成されたある種の何かを感じます。
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