(作品番号12)
・・・筑紫磐井
(1)浅野批判
近代的かつ総合的な切字論は、
浅野信の『切字の研究』しかないと言われている。
現在の切字論はこの淺野の研究以上に出ることはないから、
現代切字論を確立するためには
淺野の切字論を批判し克服しなければならない。
淺野の切字の生成発展説は次の通りである。
○和歌の句切れ(定家)
○連歌の切字(二条良基→池坊専順)
○俳諧の切字(松永貞徳)
○蕉門の切字(松尾芭蕉)
淺野はこうした歴史的検討から、
切字は「切れる・字」であるとし、
その源流に和歌の親句・疎句を挙げる。
そして切字の職能的性格を、「あらゆる語・句・文が
そこで切れて独立した文になるか、ということである」とした。
そして、「この字を入れることによって、
『発句』の中の語・句・文が、まずそこで切れるようになる」例として
○一句一章の場合
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな 芭蕉
○二句一章の場合
六月や峯に雲おく嵐山 芭蕉
を例示に挙げた。一句一章の場合の
<「発句」の中の語・句・文が、まずそこで切れる>は
何を切っているかさっぱり不明であるが
それは追々論ずることとしたい。
今回は特に初期の切字(芭蕉以前の切字)を挙げて、
淺野の切字論を批判してみたい。
(2)和歌の切字はあるか(筑紫)
淺野が挙げている、和歌に切字があったという説の根拠は
次の通りである。
○「切字の事は歌にも詮議あり」(伝芭蕉『二十五箇条』元禄7年成)
○「誹諧にかぎらず和歌に切るる所かならず有るべしとは京極黄門卿の御説也」(青木鷺水『誹諧新式大成』元禄11年刊)○「歌に必ず切字有り切字なきは歌にあらずと也」(滝芳山『暁山集』元禄13年)
これらは俳諧を権威づけるためにいっており、
実証的に切字の存在を示しているわけではない
という反証が行われそうである。
実際、いかなる歌学書にも切字の言及は見つからない。
淺野自身こういう、
和歌の切字を説いたものは由来これをうかがうことすらできなかった。
こうした挙句、淺野は、歌学書で切字を掲げているたった一つの引用文献、
『倭謌切字』という怪しげな文献を発見する。
これは、烏丸資慶が著したと伝えられるものであるが、
筆写本で筆写の時代はずっと遅く元禄16年である。
この中で28の切字(目録上は29)が示されており、
浅野は品詞別にそれを整理している。
助動詞=らん、ぬ(ずの連体形)、まし、ぬ(断定詠嘆)、き、なり、む、けり[9]
助動詞+助詞=にて(断定の連用形)、めや[2]
助詞=哉、とは、なよ、よ、やは(係)、やは(反語終始)、ぞ(係)、ぞ、かは、や(係)、か(係)[11]
形容詞=なし[1]
副詞=いかで、いかに、いつしか[3]
動詞=やれ(思ひやれ)、思へ(命令形)[2]
どう考えても、この『倭謌切字』はおかしい。切字の数は、
『専順法眼之詞秘之事』(池坊専順)及び『白髪集』(伝飯尾宗祇)の18、
『連歌至宝抄』(里村紹巴)の21と下知(命令のこと)、
『無言抄』(木食上人応其)の22と下知と増加しており、
数から見ても時代が下るにつれてどんどん発達して行くのであり、
『倭謌切字』の28が
前述の初期連歌書より遡るとはどうしても考えられないのだ。
古い連歌の伝書を眺めてみよう。
悉皆挙げているわけではないが、
代表的な切字及び文末の切れの方式を挙げている例は若干ある。
[順徳院・八雲御抄の例示]
かな・べし/春霞秋の風など体にすべし
[二条良基・連理秘抄の例示]
かな・けり・なし・けれ(再出)・なれ・らん
[宗砌・密伝抄の例示]
かな・けり・や・ぞ・な・し/なにとも申し候はで、五文字にて切れ候ふ発句
これらを眺めれば、
初期にあっては、文末に来るべき切字と名詞止めに限られていた。
特に「かな」が中心をなしていたことは配列からも伺われる。
そして、宗砌のころからやっと「や」が挙げ始められたのだ。
もちろんそれ以前の発句に「や」が用いられていなかったと言うことではなく、
「や」が切字として意識されていなかった、
「や」を使う発句は名詞止めが多いから、
そのような句は切字「や」が使われたから切れるのではなく、
名詞止めで切れるという風に理解されていたものと思われる。
だから初期の、<文末に来るべき切れ字と名詞止め>をさかのぼって、
和歌の切字、あるいは切れが見えてくるとはは思えないのである。
淺野はこの『倭謌切字』の切字
(後世の連歌俳諧の伝書にも出てくるのだが)をこんな解釈をする。
すなわち切字を「意味上の切れ」と「調子上の切れ」とに分け、
後者を和歌の影響の強い切れとしているのである。
連歌・俳諧には「調子上の切字」が発生する必然性がなかったからである。
既に述べたように、「切字」とは
<句末(五七五の末尾)の切れを保証するための装置>であるとすれば
(連理秘抄などの初期の切字論書はこれを裏付けるようである)、
切字を和歌にさかのぼれない、
いや、俳句に切字はあっても、和歌(短歌)には切字がないはずである。
ではなぜ、淺野は、和歌の切字が登場させてしまったのであろうか。
連歌俳諧の切字の影響を受けて
一部の歌学書にそれが現れたとみる【注】のではなく、
和歌に独自に切字があると主張するのであろうか。
それは淺野自らが答えている。
和歌の切字というものは、その史的展開からいっても、連歌・俳諧に先立つものである。だから、和歌の切字説は正にはやくからあるべく、そしてその記載資料はまことに渇望に堪えないところのものであった。
和歌の切字はあるべきであり、だからその資料が求められていた。
こういう心理にあれば、『倭謌切字』は由緒ある伝書となり、
ミッシングリングとなってしまうのである。
実際こうして見つかった切字の効用について淺野は冷淡である、
何のための切字なのであろうか。
さて国学者であり、二条派の歌人でもある
有賀長伯(1662~1737年)の
『和歌八重垣』は著名な歌学書であるが、
この中で「切字の事」という項目があり
玄旨法印(細川幽齋のこと)曰、歌に必切る所一所あるべし、二所にて切るはわろき也と云々。歌には必ず定まりたる切字とてはなき歟、詞のつづきにていづれの字にてもきるる也。
と言って、文中での切断例24事例を挙げている
(文末の例は1つもない。また、
文末の形態は「止め」の論として別に論じられている)。
この中には多くの俳諧の切字があるが、
全く切字でないものもあがっており、
ここでは和歌の<「切れる」こと>を主に論じているのである。
伝承されるべき切字があるわけではなく、
一首の中で(すなわち文末ではなく)切れることが大切なのである。
要するに結論は、和歌に切字はなかったのだ。
このような『和歌八重垣』と『倭謌切字』を比較した場合、
どちらが信用に値するかは自ずと明らかであろう。
【注】<俳句(連歌俳諧)の切字の影響を受けて短歌評論(一部の歌学書)にそれが現れた>現象こそ、第2回の第8節で述べた、短歌総合雑誌「短歌研究」(2005年4月号)で、「隠されている短歌の約束事」という特集を行い「ニュアンスを添える語―――詠嘆・強意・願望・切れ字」が論じられたのと合致する。
(3)切れ字を取捨すること(川本皓嗣)
驚くべきことに淺野は、前出の
意味上の切れよりも、調子上の切れ(気息上の切れと高まり)を物語っていると考えられる。
との理由により『倭謌切字』の切字の一部を
「明らかに切字といえないもの」としている。
助動詞+助詞=にて
助詞=とは、やは(係)、ぞ(係)、や(係)
副詞=いかで、いかに、いつしか
この浅野の論法は、連歌、俳諧、俳句と続いてゆくから、
現代俳人の用いている切字には、
淺野の言う「本当の切字でないもの」が混じっていることになる。
こんな恣意的なことが許されるべきかどうか。
以下は、川本皓嗣「切字論」による浅野批判である。
専順などが挙げている切字の中で、
物ごとに道やあらたまるけふの春
こういう「や」は切字としては認めないというんですね。・・・この「や」は疑問の係助詞だと思いますけれども、これは切字じゃないというんです。専順たちが挙げているにもかかわらずですね。
このほかに幾つかの例を更に挙げながら更にこういう。
浅野さんは結論として「この辺のことは古人も明別を欠いていたかに見える」。はっきり区別しなかった。古い人だからちゃんと分かっていなかったと言いますが、本当にそうでしょうか。どうもこれらの解説書で係助詞のたぐいがはっきり切字とみなされている背景には、論者たちの認識不足どころか、極めて首尾一貫した切字観あったと考えられます。これをまとめて切り捨てるというのは、どんな切字もすぐ後に大きな切れ目を作るという強い先入見のせいではないでしょうか。
では切字の本質は何であろうか。
浅野さんの言い方ですと、“一句が切字で二つに分かれることによって「内容の重量感」「とりあわせの複雑さと妙味」が増し、その重みによって発句が独立することができる”というんですね。
結構です。それならば、一句の終わりに切字がきた場合はどうなるか。浅野さんは一句一章と呼んでおられますが、そういう単体の場合はどうなるか。それだと句を二分できないではないか。その場合にも、浅野さんは同じ答えで“だからこそ一句一章の句をよむ人は、なおさら「内容の重量感」「とりあわせの複雑さ」というものを心がけねばならない”というわけです。これは一種の循環論法ですね。“切字があるからこそ独立性が保たれる”だったのが“切字があっても独立性が保たれない場合は、いよいよ独立性を強化しなければならない”という、ちょっと不思議な論法になります。
ジャンルとしての形式的な発句の存立のために、二段構えの構成とか、矛盾とか複雑さというものが本当に必要だといわれてきたかというと、どうもそうではないらしい。その観点を切字の歴史全体に及ぼすのは無理ではないか、と思います。
要するに、切字に働きは、浅野先生の言うような文体の問題ではなくて、あくまでも形式上の問題であろう。内容上の重量感などというのは時代的にも一種の本末転倒ではないかと思います。
川本は、前号で述べた切字の係り結び的効果を指摘するが
それは省略するとして、いよいよ結論が近づいてくる。
こうして見ると、専順からずっと芭蕉の時代まで、切字は必ずしも直後の切れにこだわったわけじゃなくて、係結式にもっと後で切れるものを含むものだったことは、最早十分明らかじゃないでしょうか。俳諧時代になっていよいよその傾向が鮮明になります。しかし浅野さんはそれに対して“この種の切字はみんな意味の切れ目じゃない、調子の切れなんだ。「和歌的切字の悪しき遺産」だ”として、あっさりはねつけておられます。この点を現代に於いても切れ字論ではっきりとけじめをつける必要があるのではないか。
(4)二句一章批判(筑紫)
淺野の切字論の理論的論拠は、
既に述べたように「二句一章」という作句理論である。
この説は、明治末年に大須賀乙字が唱えたもので、
近代の俳句理論だ。決して俳諧の初期からの理論ではない。
もちろん乙字が発唱するに当たっては論拠があり、
江戸後期の蕪村(特に蕪村は切字を否定して「断字」といっていた)・
綾足・亦夢の主張を踏まえて、
俳句において、1句の中に語意の断切するところ、
すなわち1カ所の休止を設け2つの分肢に分ける文章法であるとする
(「日本特有の詩形」明治45年)【注1】。
実は、乙字はこれに先立って、
「新傾向俳句」を推奨したのだが(「俳句界の新傾向」明治41年)、
それは明治における新しい俳句の季語の使用法としての
「隠約法」ないし「暗示法」の提案
(「赤い椿白い椿と落ちにけり」のような「活現法」と対比される)
であった。具体的には、
思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 河東碧梧桐
が代表例句としてあげられる。
この句では、「思はずもヒヨコ生まれぬ」と「冬薔薇」は直接関係ないが、
前者の叙述の中に後者が有ることによって
句のひろがりが生まれると理解すればよいであろう
(この直前の論考「俳句の修辞法に就いて」で乙字は既に、
一句を第1分肢(季語を含まぬ分肢)、
第2分肢(季語を含む分肢)に分けるという用語法を用いている。
これは、俳句的言説を基準に基底部・干渉部に分ける
川本皓嗣とは似て非なる説であった【注2】)。
乙字の隠約法ないし暗示法は
江戸時代にもなかったわけではないが、
明治の正岡子規の改革の中で一本調子な句法が増えたために、
乙字の主張は当時の俳句界にあって新鮮であった。
おそらく、乙字は、
1句の中に季語を含む分肢と含まざる分肢が対立・交錯・融合して、
2つの部が独立して機能する
(つまり一つの文章ではなくなった)ことを発見し、
これを「二句一章」と名付け、
その最もユニークな作品の中に
隠約法ないし暗示法(即ち新傾向俳句)を見つけたのであろう
(盟友の臼田亜浪はこれに反対して一句一章の作句法を主張した)。
しかしこれは命名としては適切を欠いたものであった。
浅野は江戸時代からこの用語が存在したとして次の用例を挙げている。
実はこれは支考の『俳諧古今抄
(再撰貞享式)』(享保15年)を引用した文献である。
浅野の文献確認は不十分なようだ。
此に引き替え、一方乙字の方は
支考の説もそのまま引用して議論しているから、
よほどえらい。が今は、浅野に従っておこう。
切字の用といふは、ものに対して差別の義也。夫は是ぞと埒を明けて物を二つにする故に始あり、終りありて、二句一章のほ句とはなれり。(原田曲齋『貞享式海印録』安政6年刊)
浅野があげている(従ってまた乙字の考えている)この「二句一章」の例は、
切字を用いると浅野(また乙字の)の言っているような
「二句一章形式(後述の「2肢1句の俳句理論」)の発句となる」
といっているのではないだろう、
支考の原文ではこれに相当する言葉として
すでに「二別」(さらには「三別」)という語が用意されている。
この例は、「切字を用いるから始めと終わりのある
(あるいは迷えば悟り、動けば静まるという
相対原理により、二句を一章(一句)とする)発句となる」
と述べているのであろう【注3】。
一句が二つに分かれているのを示すとしたら、
川本のように「部」(基底部・干渉部)とか
乙字がもともと言ったように「(分)肢」とでも呼ぶかしなければならない。
川本説を採らない人のために、
「肢」という名称を仮に採用するとすれば、
「2肢1句」の俳句理論は、
2つの肢の間に切れを主張していることになるであろう。
しかしこれは
「2肢1句の俳句理論」を採用したから生まれたのであって、
別の俳句理論を採用すればこうした切れは生まれない
(臼田亜浪の「一句一章」がそうである)。
確かに、江戸時代後期には
「2肢1句の俳句理論」が存在した気配はある。
特にそれは新興俳句としての
切字否定派(蕪村ら)の動向の中でうかがえるのであり、
明治俳句が蕪村一派の影響
(蕪村はまた漢詩の影響を受けているという説もある)を受けた故に
その流れをくむ乙字の主張が広まったのである。
しかし江戸時代の多くの作法書はやはり、
「切字は心を切つて、句意を首尾させんがためなれば、たとへ定めたる切字なくとも心切、首尾ととのひたるは発句なり。」「但し心を切らず、下句に及ぼすを、平句の格とす。」(藍亭青藍『増補俳諧歳時記栞草』)
としていた。
だから明治以前の俳句の中に「2肢1句」の俳句があり、
句中に切れがあるように見えるからといって、
切字の本来の存在根拠が「切れ」であるというのは早計である。
また蕪村以降「切れ」に近い俳句理論が提唱されたからと言って、
切字の本来の存在根拠が「切れ」であるというのも早計である。
「2肢1句」俳句理論のために切字があるのではない。
「や」のような新しい文中にある切字が存在するために、
切字に句切れ効果があるように見えているだけなのだ。
切字は句を完結する(句意を首尾させる)ためにある。
【注1】後述するように支考も切字のない「心の切」、七文字を二段に分ける「中の切」などの分析をしており、乙字の説の源泉となっていないわけではないが、支考は正統的ではあるが革新的ではなく、乙字の根拠とするには足りなかったのであろう。
【注2】前回の注で述べたように、従来の<蛸壺や/はかなき夢を夏の月>とする切れの解釈に対して、川本は<蛸壺やはかなき夢を(基底部)/夏の月(干渉部)>とする切れを提案している。両説のどちらが正しいかは別にして、説によって切れが変わってくる、つい思いがちな「切れがあって解釈がある」は実は誤っており、「解釈があって切れが見えてくる」が正しいことが分かるであろう。切れはアプリオリなのではない。
【注3】従来私は、俳句1句を1章と呼ぶ例はほとんど無いと考えていたが、乙字がこの言葉を使うきっかけとなった支考の『俳諧古今抄』は支考の独特の文字癖があり、俳句1句を1章と呼んでいる例もあるので詳しく考察してみる必要がある。同書の「発句に切字の道理ある事」「切に三段の差別ある事」全文の中にある表記を比較すると次のようになる。
①俳句1句を呼ぶ呼び方
句=「此一句を評せば」
章=「前章(目に青葉の句)は武江の素隠士が鎌倉の吟行なり」
②俳句を構成する5・7・5それぞれを呼ぶ呼び方
節=「一句は三節にして」「三段の曲節と知るべし」
段=「上段中段はかくのごとく、下段の証句もあるべけれど」
句=「一句にことわり・・・二句にことわる也。あるいは三句の錯綜もあるべし」
③俳句1句を2つないし3つの部分に分ける際の単位の呼び方
別=「二字(二字切)に二別の用あれば、三字(三字切)に三別の用あり」
段=「七もじの中を二段にわくる」
このように見ると、「章」には①の用法が加わったとして、「句」には①の他に②も加わったが、③の用法はない。乙字の「2句1章」(2肢1句)は明らかに③の用法であるが、支考の用語法では③とはならない。私としては、「二句一章のほ句とはなれり」を「二句(迷う句と悟る句、動く句と静まる句)でありながらその対立を一章(一句)の中に納める発句」とする弁証法的な記述(支考は極めて先端的な俳句理論家であり、ここでも「其字に此字を敵対して而も一句ととなふりたらん」「彼れと是とを敵対す」と呼んでいるし、別伝では「万物は一に始まり相対するときは二となる。其の一は虚に起こり、其の二は実となりて姿を備ふる也」というお得意の虚実論に持って行く)として読むべきではないかと思っている。
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1 件のコメント:
いまごろですが・・・・。
とてもお勉強になりました♪
特に、【注】が読みやすく、分かりやすく、ここだけでもお得、って感じです♪♪♪♪
切れの問題も結果論に陥りやすい昨今でしょうか。
とはいえ、初心者はどうしても教えられたことから出発するから。。。。教えるほうは出来上がったことを示そうとするから。。。
振り返ること、先を見ることは、共に難しいことと思いました。
>迷う句と悟る句、動く句と静まる句<となると、切れや切れ字の問題というより、前者は句の意味内容が、後者は語の選択がむしろ大事になってくると読めましたが、どうでしょうか。
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