2010年7月11日日曜日

閑中俳句日記(40) 高橋睦郎『百枕』

閑中俳句日記(40)
高橋睦郎『百枕』


                       ・・・関 悦史


高橋睦郎『百枕(ももまくら)』は今月、書肆山田の叢書「りぶるどるしおる」の1冊として出たばかりの新刊。

「りぶるどるしおる」はこれまでにサミュエル・ベケット、エドモン・ジャベス、ジョルジュ・バタイユ、吉増剛造、前田英樹、宇野邦一などを出している現代詩、現代思想、海外文学に跨る叢書で、歌集では石井辰彦『全人類が老いた夜』、岡井隆『伊太利亜』などがあったが、ここからの句集というのはこれが初めてと思われる。

当初「俳句研究」に、その休刊後は「澤」に連載された作品をまとめたもので、各回は規則正しく、俳句10句+エッセイ+エッセイに対する反歌の如き1句で計11句で構成され、それが30回と後記の3句で、合わせて全333句が収録されている。そして驚くべきことに、その333句、全てに必ず「枕」の一字が含まれている。

高橋睦郎には先に『爾比麻久良(にひまくら)』『歌枕合』という2つの著作があり、前者は《おそらくは土地信仰起源の修飾語としての枕詞》、後者は《古歌名歌を踏まえた歌作の題材としての名所をいう歌枕》に対応している。つまり枕に関する著作としてはこれが3冊目となるわけだが、著者には《具体的な枕そのもの、また具体的な枕を含む類語を用いて詩歌作品を試みたいとの私かな望みがかねてあり、その作品は自由詩でも短歌でもなく、俳句でなければならないと思いつづけてきた》という。ただの偏愛や思いつきで出てきた枕ではなく、また物件としての枕に関心が限定されているわけでもない。この古今のあらゆる詩形を自在に操る詩人の句にとり、枕とは一体如何なるものなのか。

初回において「マクラ」の語源についての諸説が並べられ、その最後に平凡社『大百科事典』から《枕に頭をあてがうと魂が肉体から遊離して枕の中に宿る、これが睡眠であるとするところから、魂の倉(容物いれもの)》という説が引かれるのだが、これを欠かすわけにはいくまいとしているところが手がかりとなる。

高橋睦郎の句には専業俳人のそれとはやや異なる感触がある。そしてそれは必ずしも俳人と詩人一般の差異に還元出来るものではない。一言でいえば、虚ろなもの、虚空的なものがそのままで餅菓子か何かのようにしっとりと重く身の詰まった実体感へと転じて鎮座しているといった奇観的な感触であり、これは意識が虚ろとなることがそのままで充実に転ずる眠りというものの逆説的ありように通じている。ここにおいて「枕」とは「眠り」の換喩(メトニミー)に他なるまい。魂の遊離まで視野に入っていることからすれば、ここから永眠まではほんの一歩である。

魂座(たまくら)に叶ふ輕さよ籠枕
たらちねの慈悲や古蚊帳古枕
汗臭き鼾累々長枕
捨枕蟲の邯鄲鳴き澁る
干菊の香を死の香とも菊枕
手枕を解いて灯入るゝ時雨かな

夏の「籠枕」、丸太に何人もが並んで頭を乗せる「長枕」、邯鄲の夢枕の故事を踏まえた捨枕等々、季節を経巡りつつ様々の枕が並ぶが、終盤、年の暮を迎えての句に凄愴味がある。

坂まくら枕(ま)ける異形や年の神
年逝くや枕の果ての海驫
(とゝ゛ろ)
時の恩枕の恩や年ほろぶ
われを待つ晦枕年の淵

「晦枕」は「つごもりまくら」と訓ませる。造語である。《年頭の初夢枕に対応する年暮の枕である。ならば、その枕は夢一つ見ぬ、ひたすら眠りという名の闇の詰った晦(つごもり)枕というのは如何か。その枕に疲れ果てた首(こうべ)を預けたまま目覚めぬというなら、なおさらめでたいではないか。それ覚者中の覚者釈尊も宣(のたも)うとおり、永劫つづく苦の輪廻の大車輪から弾き出され、全き無となりおおせることこそ、生という迷妄に搦め取られた人間なる者の大理想だからだ。》 このエッセイ部分の末尾に反歌的に添えられた句が《われを待つ晦枕年の淵》である。「年の淵」「年ほろぶ」に冥府に接した呪力がある。

後記の中に編入された3句は以下のようなもの。

枕との旅なゝそとせ唯朧
枕これ夢の器ぞ花の晝
※「夢」は旧字。「宀」に「爿」に「夢」
枕より進まぬ噺暮遅き

「枕」とは七十年を連れ添った相方でもあり、生という夢の器でもあり、本題に入らぬ前の導入部でもある。本題に入ってしまえば「暮遅き」ではなく、どっぷり闇の中となり、この世のものではなくなる。七十年の人生も、起きて活動している時間ではなく、枕とともに眠りについてきた時間において勘定されている。ここまで来ると「枕」とは最早「眠り」の時間の換喩(メトニミー)であるに留まらず、己の身と相似のひとつの分身でもあろう。生命と身の虚ろさを託す先が例えば「空蝉」などではなく、目も鼻もない親しくも生命なき器物、重く柔らかい触覚的な密着性を持つ「枕」であるというところが高橋睦郎の句の感触の根底に通じている。高橋睦郎の句にとって異界とは遠く遙かに窺うものではなく、肌ざわりを伴って己の生そのものの内に充填されているものなのだ。

以下、触れられなかった句を少し引く。

霜白き枕や白き夢白き
※「夢」は「宀」に「爿」に「夢」
  旅中
極月の枕に人の匂ひかな
その鼻の長き生
(よ)たのむ獏枕
涅槃會や枕のやうな山麓
春寒し釋迦に始まる北枕
草枕旅はわが家にありてもよ
蛞蝓の化けて枕や梅雨長き
うとましきものに酸き髪汗枕
歌枕訪ねん靴は白きをば
秋の夜の枕詞のあれやこれ
枕繪の赤なつかしや置炬燵
枕木の定年思へ年の暮
晝寢好きわれも巫枕占
陶枕の高きに上る秋の蟻
渡り鳥雲の枕を乘り次いで
落鮎に水の枕や暗ぐらと
枕して夢を狩るなり戀の山
戀狩のなれの果てとよ常
(とこ)
枕知らぬ狩處女汝
(かりをとめなれ)戀知らず
枕に謝す三百六十五夜の寢
(しん)

《枕知らぬ狩處女汝(かりをとめなれ)戀知らず》は、ギリシア神話で、狩の最中に誤って女神アルテミスらの水浴姿を目にし、鹿に姿を変えられた上で己の猟犬に惨殺されたアクタイオーンの挿話を踏まえている。

※『百枕』は著者より恵贈を受けました。記して感謝します。

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