2010年5月23日日曜日

閑中俳句日記(34) 竹中宏『アナモルフォーズ』

閑中俳句日記(34)
竹中宏句集『アナモルフォーズ』


                       ・・・ 関 悦史


『アナモルフォーズ』は2003年に刊行された竹中宏の第2句集。

アナモルフォーズは歪像画の意味で、有名なのが著者が自跋でも例に出しているルネサンス期ドイツの画家ホルバインの「大使たち」という絵である。二人の男性がこちらを向いて立っている肖像画だが、その手前の床に白く細長い、何ともわからぬものが斜めに立ち上がっている。この正体不明の代物が、画面左下側から見上げると途端にはっきりと頭蓋骨に変貌するのだ(ウィキペディアの「アナモルフォーシス」の項に、画面を正面からみたところと左下からの拡大図の両方が載っている)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9

技法がそのままタイトルになっているという、極めて方法的な自覚のはっきりした句集ということになるのだが、そこから生み出される句は当然ひとつひとつが極めて奇怪。著者の自跋から引けば「ひづみ・ゆがみ・かたむき」の感覚を帯びることになる。

これは逆からいえば、俳句において誰も見たことのない驚異的なものを実現しようとするときに、単に幻想的な風景をイラストレーションするのでもなければ、二物衝撃といった既成の方法を用いるのではなく、イメージを統制する透視図法・視点自体を複数重ねあわせることによって、その組織化に成功しているという稀有な句集だということでもある。

わらうて呑みこむ山盛り飯か夜櫻は
喉かわいたものから小聲樫落ち葉
夏へむかふ淺瀬くるしく鮒こえゆき

1句目、夜桜が山盛り飯に見えるというだけならば通常の見立ての範囲に収まるかもしれない。だがそこに「呑みこむ」が加わり、さらに「わらうて」が加わると、巨人の顔が虚空から夜桜の上にのしかかってくるような不穏な気配が漂いだす。「山盛り」で日光の強飯式じみた過剰さを帯びるとはいえ、「飯」である以上、食われるところまでは当然といえば当然。だがここでは「食う」ではなく「呑みこむ」なのだ。

ここに歪像画を組織する際のひとつのポイント、注意深く、慎重で厳密な手捌きがある。「食」われてしまえば夜桜はたちまち通常の物体、ただの食事に堕す。これが「呑みこむ」となり、さらに「山盛り」の過剰さとバランスを取るべく「わらうて」の過剰がつけくわえられたことで「夜櫻」がただの物質の次元を脱し、イメージの世界へ移りつつ、さらにあらぬ方へと伸び広がっていく力動を一句に纏め上げることが可能となるのである。それに協働する字余りも、当然のごとくいささかの無理も伴わぬまま、しかし強引にしなやかに伸び上がる。

安井浩司や志賀康が明らかに別な世界律を持った神話的世界を描こうとするのに対し、竹中宏は現物のイメージから引き出しうる潜勢力を、複数の透視図法・視点のはざまから注意深く大胆に彫り上げていくことにより、異界を現出させるのである。

この方法がショッキングなのは、句が読み下された瞬間、正常な遠近法に基づいて知覚されていた現実の世界までもが返す刀で相対化され、あやしげな浮動性を帯びてしまうからである。正常な遠近法といえども一つの制度、一つの視点に過ぎないということを顕にするファルマコン(毒にして薬)の力能をこの方法は持っているのだ。句の風合いは必然的にグロテスクなものとなる。

《夏へむかふ淺瀬くるしく鮒こえゆき》。この鮒の越境の苦しみは、知覚し得ない「夏」という高揚を、句でもって実現しようとする作者その人の似姿にも見えてくる。「深淵」ではなく「淺瀬」である。「深み」は容易に私語りの心情性や神秘思想に陥るが、そうしたものとは別次元の、遠近法と遠近法のはざまに発生する極薄の「淺瀬」、それこそが越えられるべきものと意識されているのである。

《喉かわいたものから小聲樫落ち葉》も通常の擬人法とはその成り立ちが全く異なる。

辺りに降り積もった「樫落ち葉」の一つ二つが風で動き、乾いた音を立てる。そのさまを詠んでいると、まずは取れるが、その言い表し方が奇妙なのだ。喉がかわいたものから小声を立てるとなると、鮮やかな修辞だとか共感に基づく擬人化だとかいった領域から途端にずれ出してしまい、「樫落ち葉」が謎の生命体のように見えてくる。それもある程度の意思疎通が可能な哺乳類ではなく、次元が違いすぎて意思疎通のしようがない魚介や昆虫のような。

「喉かわいた」とここでも苦しみが表出されていることが目を引く。このかわきの苦痛が句集全体のトーンを決定づけているのだ。ここに語り手の実存性や、さらには、遠近法と遠近法のはざまから世界を絞り出すという方法自体が持つ謎めいた営みの苦行性が重なりあっている。

視線に執念がこもるという点は師の草田男に通じるが、草田男が一枝の影も欺かない冬の水を詠むにせよ、膝に寄ってくる模様に満ちた春着の子を詠むにせよ、自分の視覚自体への疑いは毫もなく、飽くまでその視線が実在物に密着していたのに対し、竹中宏は知覚法同士のずれを介して、そのはざまの知覚不能な「物自体」をかすめつつ、そこへ求心的に向かっていくことも避け、どこにも還元できない強度を持った幻惑的イメージを引き出そうとしているのだ。

ジョコンダが蟹妊めりと風呂でおもふ

注意深くエステティックなイメージのずらしと重ね合わせの手際、そして苦しみの要素がここにも見て取れる。

「ジョコンダ」はレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の別称。

あの微笑は蟹を孕んだという秘密に由来するものであったか、いやああいう微笑を見せる存在ならば蟹くらい孕みもしようという、例の微笑の謎めいた印象を表現する、極めつけに風変わりで奇矯ななレトリックと、一応は穏やかに解釈し得る余地はあるものの、この句は却ってそれを土台にしつつ、厳然たる事実として蟹を孕んだと判断している風情。

体内にカニというだけでも苦痛を想わせはするが、英語で癌をカニと同じくキャンサーと呼ぶということも同時に連想させられないわけでもない。どちらも「キャンサー」なのは腫瘍部分の形状がカニに似て見えるためらしく、ラテン語に由来するという。

また語り手がいるのが風呂の中。この羊水や胎児を連想させる状態が「孕む」の必然化に一役買うという作りになっている。

ではこの孕まれた蟹と温水につかった語り手が換喩的にイコールで結びつくのかというと、そうではなく、「おもふ」によりここには厳然と越えがたい一線が走っている(ちょうど絵と観客のごとく)。蟹を孕んだジョコンダの奇怪なイメージは、夜桜をわらって呑みこむ何ものかと同様、世界そのものの如き圧力を上空から感じさせつつ浮遊しているようだ。

方法だけでなく、素材レベルでも西洋美術に由来するものとしては次の句もある。

ヒアシンス空気遠近法黎明期

これにもレオナルドが関わる。

西洋絵画における遠近法が仕上がったのがルネサンスの時期。遠いものほど小さく描かれ、やがて消失点に至る「線遠近法」は、精度を問わなければそれ以前からあることはあったが、ここにもう一つ「空気遠近法」という技法を付け加えたのが他ならぬレオナルド・ダ・ヴィンチなのだ。遠くにあるものほど間の空気の影響で色が淡く、青みがかったものになり、境界もぼやけるという描き方である。

つまり「空気遠近法」の語だけでうっすらと青みを帯びた遠さの感覚を共示しうるし、その「黎明期」となれば歴史の彼方でなにごとかが立ち上がりゆく新鮮さと、その一方の蒼古さという相反する詩情と時間的距離感が現れる。そうしたルネサンス美術史との取り合わせを得て眼前のヒアシンスが殊に瑞々しく感じられると、そういった鑑賞でも一応は事足りるて見える、この句集の中ではあっさりした句だが、「ヒアシンス」の名は、いうまでもなくギリシア神話でアポローンに愛された美少年「ヒュアキントス」に由来する。

ヒュアキントスはアポローンとの遊戯中、アポローンの投げた円盤に当たって死ぬ。そのときの出血から生えたとされるのがヒアシンスなのだ。つまり全く無関係なもの同士の取り合わせではなく、ヒアシンス―ヒュアキントス―同性愛―レオナルド・ダ・ヴィンチ―空気遠近法という連鎖とずれ行きが一句の中に繰り込まれているわけである。

ではこの、五七五定型の中へと組織される稠密強固にして執拗なイメージ相互のずれ、重ね合わせ、引き伸ばし、歪曲は一体何を意味するのか。

奇想研究の泰斗として知られる美術史家ユルギス・バルトルシャイティスは、そうした「動きや形態の過激な幾何学化」や「その激情」についてこう述べている。

《変形と形成とは、不可抗力的に結びつき、論理的発展の行きつく時に分裂へと到達する。秩序と無秩序は混合し、それらの直接的対決から生じた技巧の世界を否定することなく、しかし、いわば永遠性や魂の不死を確かにしながら、自分白身のために新たな自分を再発見し、再確認するようになるのである。》 ユルギス・バルトルシャイティス『異形のロマネスク 石に刻まれた中世の奇想』(講談社 2009年)

つまり安井浩司らとはまた異なるものの、このアナモルフォーズという方法の根底を成すのも、個人が生身に留まったまま永遠の次元に相渉ろうとする即身成仏じみた営みなのだ。竹中宏の句が硬質と苦痛の感覚に満ちつつ奇怪な、そして時にユーモラスなイメージを築き上げていくのは必然なのである。読み手のわれわれからすれば、これは例えば、J・G・バラードや吉岡実にも通底する現代文学の奇果といえる。

引用した『異形のロマネスク 石に刻まれた中世の奇想』は柱頭やファサード(正面)など、いわば建築における定型ともいえる部分に刻み込まれた怪物的イメージを蒐集した本だが、バルトルシャイティスにはそのものずばりの『アナモルフォーズ』(国書刊行会 1992年)と題された著書もある。その内容紹介は以下のようなものだ。

《近代合理主義そのものの象徴とされる遠近法という視覚構造そのものが、一個の壮大な夢、奇怪千万なアベラシオンにほかならなかった。理性によって世界を一貫したヴィジョンに整合しさろうとする精神は、そもそもの出発点から、その方法を 〈遊び〉へと逸脱させることで疑い、笑おうとする強烈な敵につきまとわれることになった。遠近法が諸学の中心的関心事となったルネッサンス期にあって、それを蝕む歪曲遠近法の研究や図像が、反ルネッサンス運動としてのマニエリスムにとっての中核的テーマとなる。》

全くもって竹中宏の句業をそのまま言い表したような紹介文である。

厳格に「理性」を運用しつつ、理を内側から破り逸脱していく過剰さの遊戯。俳句形式を額縁・抵抗材として使いつつ、その歴史をドグマティックなまでになぞることで、極めて明確堅固でありながら錯雑した異形のイメージを奔騰させるのが竹中宏の句なのだ。

絵を描くという能力はネアンデルタール人にはなく、クロマニヨン人に至って初めて発生したという。それは人類の進化や知恵に深く関わる能力なのだ。世界認知の方法自体に関わるレベルで満たされぬものを抱え、句作の原動力に据えている竹中宏がその方法の核心に「美術」を据えているのも故なきことではないのかもしれない。

學生服陰畫(ネガ)に木であり黴であり
梅雨の梅田で返り血てふ語みづみづし
枇杷を剥く櫺子
(れんじ)のうちに尻から剥く
(じゃ)を裝(かざ)る二階の手すり醉ひざめ船
ずつてくる甍の地獄蜀葵
(たちあふひ)
立つ蛆(うじ)に手の有無からうじて俳句
白蓮
(しらはす)より來て盤上の汗血馬
明朝活字填
(つま)りて邃(ふか)し石榴なり
短日の頬のあたりへロープウェイ
睦月いまだ球體を切る術
(すべ)いぶかし
むらきもの暴走死から崖櫻
岩に坐
(ゐ)る青田から善き壺釣るかと
爆薬よりも砂のふかさと夜涼にいふ
夏以後の暑を志士とその親の墓
新松子悔みつづけて寄り目の神
(もた)せかけ仁王のすさましき死に體
審きもまた光と響き大牡丹
青葉木菟「藥をくだされ」と上眼
(うはめ)
われら踊りまわたのごときをダムは吐く
カメラ百個床に撒き盆かくて過ぐ
あつき下痢せりバロックの晩き夏
一月の接して渉らず二つの円
黒南風や燭盡きたれば鐵の針
擴聲器どろりと笑ひあと灼ける
秋不穩なり土手のかげ百疊閒
葱と連翹太陽にペニスがある話
肋から肋へたどり落ち椿
まだら服と見えたがポスト、草田男忌
地球抱
(だ)けばかすみの奥の癇癪玉
玳瑁
(たいまい)の「母よ眞鶸(まひは)よ」てふ吐息
黒板からもフラスコからも鶺鴒翔つ
天の川狭き函より流れ出で
「ヨーゼフ=ボイス」の背もかぐろしと冷しそば
秋蝉の鐵のうなじの出しぶる聲
アジア東部の冷え幹降
(くだ)り身に降る
首堤燈一氣に露のカイバルまで
ソウルにても焚き火の煙すぐ川面
(かはも)
蛸の目は肉にしりぞき春泥に
番茶にも飯にも母の木の葉髪
瞬いて首の飛んだる青嵐

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3 件のコメント:

さんのコメント...

kopitair関悦史さま。おみごと、というべき卓抜な書評。明晰な批評の視線によって書かれた散文があたえる快感があります。「竹中俳句」の領域は、伝統俳句より前衛俳句などが切り開いた感性や理論的姿勢に近いものがあります。
 しかし、氏の原点はあくまで写生写実から立ち上る反写生の世界の現出です。これは、観念のアモルフ(不定形)が、かたちを持って行くシュールリアリズムとは違うようです。
「葱と連翹太陽にペニスがある話・宏」
この句の「葱=ペニス」「連翹=太陽」、という形状や色彩か連想され比喩化された光景、あるいは単純なものです。
前半と後半の世界の飛躍は、「ペニス」は「陽物」となづけられていますから。具象の世界が想像世界と対応しながら、シカシ、、最後ガ最初に帰ってきます。こういうオチが付くんだよ、という「譚」(はなし)にしたてあげられているので、ますますわかりやすいでしょう?異化のあり方をそのまま投げ出して種明かしがされていると、考えても好いでしょう。わかりやすいアナモルフォーズです。
 でも、関悦史の感想をくぐって、この俳句世界がふくらんできました。
 竹中詩学をここまで、書きくだいた文章はなかなかありません。(堀本吟)

関悦史 さんのコメント...

堀本吟さま
ありがとうございます。普段俳句に興味ない読者にこそ読んでほしい作者ですね、竹中氏は。おっしゃる通りでいわゆる前衛ではなく、前衛俳句がときに持つ底が割れた感じがしなくて。
本当はもっと一句一句に鑑賞をつけたかったのですが、えらい長さになりそうなのでここまでで上げてしまいました。
《葱と連翹太陽にペニスがある話》もそうした句の一つで、おっしゃるとおりのわかり易い次元でもちゃんと読めるようになっているのですが、実はこの「太陽にペニスがある話」も典拠があって、ユングが診た患者の妄想に「風は太陽のペニスが動くことによて起こる」というものがあり、同じイメージが全然別の神話・伝説にも見られることから「集合無意識」の概念が出来る元になったということらしいのですね。そういうわけで「風」のイメージも伴って、もう一、二枚、別の図柄も埋め込まれているということになりそうです。

さんのコメント...

関悦史 さま
「太陽」「ペニス」の句そうだったんですか?
ユングの著書からの引用が入っているんですね。
うーん、これは気がつかなかった。眼を開かれました。
竹中さんの俳句を読むときにはきょうようがいるんですね。吟