2010年4月25日日曜日

磯辺勝『巨人たちの俳句』評

ハイクは目黒に限る、の巻
磯辺勝『巨人たちの俳句 源内から荷風まで』を読む

                       ・・・高山れおな


生業の方で「芭蕉から蕪村へ 俳画は遊ぶ」(*1という特集記事を作ってから、ちょうど四年になる。室町時代の山崎宗鑑の自画自賛の自画像にはじまって、立圃(りゅうほ)、西鶴、芭蕉、其角から、蕪村一派を経て、幕末維新期の俳諧一枚摺まで、近世の俳画の流れをひととおりカヴァーする内容だった。解説者には雲英末雄先生というこの方面の第一人者が立ってくださっていたのだからそれで心配ないようなものの、俳画というのは研究分野として確立しているわけではなく、手がかりになる参考書類が寥々として少ない点は、編集にあたっていささか心細かったように覚えている。集英社の『俳人の書画美術』(*2という十二巻からなる全集もあるにはあるのだが、大部なわりにはムムムムムな感じだし。そうした中、最も頼りにしたのは岡田柿衞翁の『俳画の世界』(*3、それから磯辺勝氏の『江戸俳画紀行』(*4だった。正確には、『江戸俳画紀行』はその時点ではまだ書籍化されておらず、そのもとになった「ににん」誌における連載を読んでいたのだが、《西鶴自画賛十二ヶ月》についての批評の一節をそのまま引用させていただいたりもしたものだ。

「芭蕉から蕪村へ 俳画は遊ぶ」は、売り上げは可もなく不可もなくだったが、手にとってくれた人たちからはなかなか好評であった。ただ、ひとつ心残りがあって、それは俳画は江戸時代と共に終わったというふうに論断してしまったことである。雲英先生はもちろん当方とて小川芋銭(うせん)や山口八九子(はちくし)のことを知らなかったわけではないし、それでなくとも明治から大正期まではまだまだ相当数の俳画が描かれていたことは認識していたが、いわば価値観の問題として俳画は近世のもの、と決着を付けてしまったのである。連句を楽しむ人はいても近代が連句の時代ではないのと同様に、それはそれで別に間違いではあるまいが、とはいえその後、誰彼のあれこれの具体的な作品に出会うたびに反省の思いが湧いたのも事実。特集をした時点では、雲英先生にも近代の俳画について系統立てて論じる用意はなかったのは仕方ないとして、雲英先生の急逝によって再説の可能性までが全く失われてしまったのは残念なことだった。

さて、磯辺勝(以下、敬称略)の新著『巨人たちの俳句 源内から荷風まで』(*5を読んで、そんな反省を誘う実例にまたしても出会ったようである。そのひとつは、戸外に出したテーブルでワインを楽しみつつ読書や執筆にいそしむらしい自画像に、〈永き日やつば垂れさがる古帽子〉という句を添えた永井荷風の扇面画。自画像は、句に詠まれた通り、鍔広の帽子をかぶったダンディーな洋服姿だ。絵と句の関係が匂い付けではなくベタ付けなのは遺憾ながら、掲載された小さなモノクロ図版で見ても愛嬌たっぷりな絵のようだ。もうひとつは南方熊楠。こちらは磯辺の説明を引いてしまおう。まず、

小春日や猫が鼠をとるところ

飾り海老食て脚たつ猫の春

寒のいり猫もマントをほしげなり

ふくろふよ知らぬ顔して幾秋ぞ

くさびらは幾刧へたる宿対ぞ

あんずとは病家に厚き木なるべし

という六句を引いたのち、それぞれに付せられた俳画について磯辺はこんなふうに書いている。

一句目は猫が前肢で鼠をおさえているところが描かれているのだから、いらざる説明である。猫もあんまりご面相がよくない。二句目は手紙のなかに猫のスケッチとともに添えられた句。「猫が海老を食うと腰を抜かす」ということわざをふまえたものだという。四肢を伸ばして、威嚇する猫の絵はまずまず。おかしいのは三句目が書き込まれた俳画で、囲炉裏の縁に猫が頭から布団をかぶって寝ている。「猫もマントをほしげなり」はいうまでもなく芭蕉の「猿も小蓑をほしげ也」のもじりだ。こうみてくると、熊楠の猫好きは相当なものである。四句目の「ふくろふ」も、もともと梟は猫に似た鳥だが、いよいよ猫の親戚に見えてくる。五句目の「くさびら」は茸の一種。お銚子を手にした自画像が、茸を並べた台を前に座っている(章扉図版)。おそろしく深い因縁によって、茸と対決しているのだ。ていねいに描かれた杏の絵に「あんず」の句、贈った相手が病だったのだろう。

このうち「くさびら」句の俳画のみが同書中に掲出されていて、それを見ると一茶のもの程ではないけれど、俳画としても省筆のはなはだしい部類に属する。茸も人も、踊るような筆致で描かれており、頬骨の高い髭面の人物(すなわち熊楠自身)がこちらに向けた視線がなんとも怪しげだ。他に「猫もマントをほしげなり」の絵もぜひ見てみたいと思わせられる。

『巨人たちの俳句 源内から荷風まで』は、荷風、熊楠に加え、堺利彦、物外(もつがい)和尚、平賀源内、二世市川団十郎と、計六人の、いうところの“巨人たち”と俳句とのかかわりを探った本である。列伝形式の俳句の本ということでは石川桂郎の『俳人風狂列伝』(*6や加藤郁乎の『俳の山なみ 粋で洒脱な風流人帖』(*7なんかが思い浮かぶが、もちろん同じではない。石川の本でとりあげられている十一人(*8は、乱暴に括ってしまえばまずは俳句以外に取り柄のない人たちであるが、磯辺が論じる六人は俳句を度外視してもほとんど評価に差のない偉い人ばかりだ。その意味では、学者や小説家、実業家など本業で名をなした人たちの俳句遊歴の紹介を中心にした加藤の本の方が、趣旨としては近いことは近く、永井荷風のようにどちらの本にも登場する人もいる。とはいえ、両者の執筆態度には大いに径庭があって、加藤の筆を駆り立てているのは、自らがとりあげる人なり俳句なりが閑却されていることに対する憤懣であり、彼らの作品を俳句史上の一級品なり、と宣揚すべく奮闘しているのに対して、磯辺にはそんな傾きは少しもない。磯辺のモティーフはむしろ、俳句なぞにかかわらずともなすべきことがあり、現に多くをなしとげた人たちが、にもかかわらずなぜ俳句を(場合によっては終生)作りつづけたのかというところにあったようだ。

今、六人の巨人たちの俳諧・俳句を読んできて見えてきたことは、この人たちのいわば本業は、荷風の小説、二世団十郎の舞台などを考えても、公的に、社会に向けて提供されるものですが、これに対して、俳諧・俳句は、極めて私的な、ほとんど非社会的なものであるということです。その私的で、非社会的な俳諧・俳句を、荷風や二世団十郎が手ばなさなかった理由を、筆者はこう考えました。公的な仕事は、一人歩きして、ときには作者や役者の虚像をつくりあげるだけに、その背後にいる実像でしかない作者や役者には、バランス上、一個人である自身を支える営みが必要だったのではないか、と。それが彼らの場合、たまたま若い日に出合った俳諧・俳句だったのです。そう考えると、巨人たちにとっての俳句も、軽く趣味といってすますことのできない、生きることに密接にかかわる肉声として聞こえてきます。

上に引いたのはあとがきの一節で、その所説にはかなりな程度まで納得できる。もちろん「一個人である自身を支える営み」としての俳句は“巨人たち”の占有物ではない。“巨人たち”の場合のように広範に認知されてはいないにせよ、一般の無名人にしてもやはり何らかの社会的な“虚像”を生きているには違いないわけで、俳句を“作ること”に対する需要の莫大さはそこに淵源していると言うこともできるだろう。一方、「一個人である自身を支える営み」としてではなく、むしろ公的な“虚像”を獲得せんがために俳句にかかわる逆立ちした連中もいて、それがつまり“俳人”である。そのような意味での俳人批判は本書中に何度か出てきて、評者は俳人なので反撥も覚えたし、磯辺の批判を再批判することは難しくないとは思ったものの、このすぐれたポルトレ集にそんな脇筋の部分で絡んでも仕方がない。

六人のうち堺利彦、物外和尚、二世団十郎は、評者は名前しか知らなかった人たちである。また朧気ながら人物像の輪郭くらいは持っている他の三人にしたところで、荷風はともかく、熊楠、源内について俳句とのかかわりに限定して論じるなどとは、それを可能にする著者の調査力にまずはシャッポを脱がないわけにはゆかない。中で、物外和尚の章だけは、禅宗に対する著者の知識が充分でないために、対象を追いつめきれていないのではないかという印象を持ったが、それ以外の五人のものはいずれも間然するところのないエッセイになっていよう。個人的にはとりわけ、「二世市川団十郎 あらたのしの目黒」の章に惹かれた。「あらたのしの目黒」とは、二世団十郎が一家をなしてから営んだ目黒の別宅での風流生活を指している。其角や一蝶とのかかわりなど逸話的な要素もいちいち興味深いし、父である初代団十郎追善のために編んだ大部の俳諧選集『父の恩』を、雲英コレクションの一本により、冒頭で触れた俳画特集に載せた思い出もある。かてて加えて二世団十郎、作品が良いのだ。作品が弱くては、いくら人物が面白くても締まらなかっただろう。事実、堺利彦や南方熊楠の場合は、ややそれに近いのだが。

これらの発句をゆっくりと読んでゆくと、二世団十郎が俳諧に求めた境地のまっとうさ、というものを知ることができる。役者の、軽い交際の具にすぎない、などとはいえまい。二世は十七歳で父親の初代団十郎を失い、一人で自分の芸境を切り開いていったが、父親の創出した荒事の芸をそのなかに生かしていった。俳諧においても、二世はよく似た軌跡をみせている。二十歳のとき俳諧の師其角を失ったが、難解な其角俳諧の真似事から出発して自分でそこから脱け出し、しかも其角俳諧のおもしろさを受け継いだ栢莚(二世団十郎の俳号……引用者注)俳諧をつくりあげていった。

説得的な分析の裏に濃やかな共感が溢れる好文章ではないだろうか。文中にいう「これらの発句」から若干を引いて擱筆する。「これらの発句」とは、磯辺が二世の千句を超える現存句から抜いた二十余句で、〈ほとんどが宝暦に入ってからの、二世が五十五歳を過ぎた晩年の句〉になったという。

物洗ふおとおさまりて天の川

万歳やわけ来る道もつゞみ草

やま人の赤い物喰ふさむさかな

音楽は空に聞へて枇杷の花

浦風や千鳥の中に馬の耳

神垣や杉戸がすこし明てある

春かぜや菜畑をゆく大神楽

家ごとに海士も髪ゆふ月見かな

木がらしや何もなき田の水の波

寝酒のむ五十三次夜寒かな

(※)磯辺勝『巨人たちの俳句 源内から荷風まで』は著者から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1「芸術新潮」二〇〇六年六月号

    特集「芭蕉から蕪村へ 俳画は遊ぶ」

(*2『俳人の書画美術』全十二巻 集英社

一九七八~一九八〇年

(*3岡田利兵衞翁の『俳画の世界』

    淡交新社 一九六六年

(*4磯辺勝『江戸俳画紀行』

中公新書 二〇〇八年

(*5磯辺勝『巨人たちの俳句 源内から荷風まで』

平凡社新書 四月十五日刊

(*6石川桂郎『俳人風狂列伝』

角川書店 一九七三年

(*7加藤郁乎『俳の山なみ 粋で洒脱な風流人帖』

    角川学芸出版 二〇〇九年

(*8高橋鏡太郎、伊庭心猿、種田山頭火、

岩田昌寿、岡本癖三酔、田尻得次郎、

松根東洋城、尾崎放哉、相良万吉、

阿部浪漫子、西東三鬼

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