2010年4月4日日曜日

茨木和生と相澤啓三

山椒魚革命は起こらなかった
相澤啓三詩集『冬至の薔薇』と茨木和生句集『山椒魚』を読む


                       ・・・高山れおな

二週間前の三月二十日土曜日は、一九九五年の地下鉄サリン事件からちょうど十五年ということでテレビで特別番組をやっていた。サリンの入ったビニール袋を地下鉄車内から撤去した直後にホームに倒れ、そのまま死亡した霞ヶ関駅の助役とその遺族に焦点が当てられていた。犠牲者がどんな人であったか、また遺族が事件とどう向き合ったかを再現ドラマをまじえて描くもので、オウム真理教の思想や組織について掘り下げた番組というのではない。それはそれでよいのだが、そもそも現在の疲弊したマスメディアに、オウムそのものと改めて向き合う気力、体力は残っていないのではないかとの思いもよぎったことである。

オウム事件は、理想主義に基づく大規模殺人の日本ではいちばん最近の事例になるのだろうか。実際、犯罪性人格の人間がいくら殺人を重ねても数十人止まりであろうが、理想主義ははるかにたくさん殺すことができる。当ブログ前号のあとがきで触れた英国の歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリの『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』(*1)は、その最大のケースであるボルシェビズムの歴史を、〈スターリンが「最高指導者」として権力の絶頂を極めた時点からその死に至るまでの期間に権力集団が繰り広げた宮廷劇の年代記〉として綴っている。すなわち、ソ連首脳部が展開した内政外交や軍事指導を外在的な視点で俯瞰しようとするのではなく、〈スターリンとその二〇人ほどの重臣たち〉が、〈どんなスタイルで国家を支配し、当時の独特の文化の中でどのように生きたか〉を、こう言ってよければ内在的に示そうとする試みである。

〈スターリンを中心とする寡頭支配集団を、特異なボリシェビキ文化の中で活躍した戦闘的な「宗教騎士団」〉とみなすことで、農業集団化や大テロルなど人的資源の不合理きわまる蕩尽としか見えないスターリニズムの〈不可解だった多くの謎が説明可能となるかもしれない〉と、モンテフィオーリは言う。その叙述は、首脳たちのラブレターまで含むような広範な新資料や、存命の関係者への取材で得られたオーラルヒストリーを駆使して、驚くほど精密で生気にみちたものになっている。本書は結果として〈ユートピア思想とそのシステムがはらむ重大な危険性〉についての一般的な教訓をもたらすと共に、スターリン宮廷の人間関係もまた、どんな国のどんな組織・共同体にでもあてはまりそうな普遍的な力学に支配されていることを教えてくれる。もちろん、外部世界(欧米と日本、とりわけてドイツ)に対する伝統的な不信感(これが自分以外の首脳たちを含めた自国民に対する底知れない不信感を派生する)およびボルシェビズムという、当時のロシアに固有の条件が、その力学の現われ方を際立って誇張的で過酷なものにしたわけだが。

モンテフィオーリのスターリン伝と相澤啓三の『冬至の薔薇』(*2)ではさしあたりなんの脈絡もないようであるが、それが「革命」をめぐる言説である点でじつは両者は一脈通じている。もちろんモンテフィオーリの方はすでに十七世紀のうちに「革命」を経過した国の人間として、先進的で優越的な、そしてまた冷戦の勝利者としての立ち位置から、どこまでも冷静かつ精力的に対象を記述している。それに対して相澤の詩集が提示するのは、何よりもみずからの混乱であり混沌である。

あらゆる言葉がけがされるなかで
「革命」ほど汚辱にまみれたものはない

という二行からはじまる「革命」と題された全五章の長詩は最も端的で、それは相澤の母国が、いちおうモンテフィオーリの母国同様、冷戦に勝利した側に与していながら、いわば勝利を勝利として受け入れられないような捩じれを歴史的に抱え込んでしまっているがゆえの混沌のうちに、正史と個人史の断片と、涕泣と呪詛の言葉をごったに投げ入れた態のものだ。

革命が地に墜ちてからは
自由という言葉ほど格差抑圧的なものはなくなった
経済自由主義のグローバルな覇権によって

言葉よ眠れ 唾されるままに
いま言えないことを浮かび上がらせるために
深い傷の底へ 言葉よ沈め 見えないアクションをもって

踏んでゆくしかないそこが ペダルとなって鳴る
不可能な革命 もしくは永遠に回帰して心を乱しつつ
光の繭をつむいでは闇に呑まれる音楽

これは同じ詩の終結部で、世界の客観的な記述としてだけ見るならばむしろ凡庸な省察に過ぎず、リアルポリティクスの言語からの批判にとても耐えられまいが、この詩に横溢するどこか性急なセンチメンタリズムはしかし、現在の少なくない日本人の感情におけるリアリティをたしかに捉え得てもいるようだ。弁証法的な言葉の展開のうちに、つぎつぎに立ち上がっては崩れてゆく、無力と恥辱の思い、自己処罰と自己憐憫の波頭……。

イラク戦争と自爆テロを背景に、〈吉本隆明から谷川雁に至るまで戦後詩人の多くが挑戦して果たせなかった、文学と政治とテロルとの三位一体〉〈明確なかたち〉を与えた(*5)相澤の名詩集『マンゴー幻想』(*4)の出版は二〇〇四年で、高橋睦郎が真の政治詩はエロティックな姿を取るはずだと思っていたがまさにその通りだった、という意味のことをどこかに書いていたとも記憶する。この間に『交換』(*5)もあるが、馥郁たる南国のマンゴー(そこにどんなイロニッシュな意味がこめられているとしても)から冬薔薇への六年の道行きが、老いの深まりの自覚と死への凝視の隠喩であることは、詩集と同じ「冬の薔薇」のタイトルを持つ巻頭作に、

おお、老いた魂に
血を香り立たせる冬至の薔薇!

とあるところからも確かめられる。その香り立たせられた血が、過去の回想に向かいながら未来を幻視しようとするところにこの詩集の主たるモティーフがあるとして、先の「革命」に加えては、「川の背中」と「島」という二つの長詩が、その山場をかたちづくっている。そのうち前者は、戦時下の甲府盆地での少年時代の小説風な回想をまじえながらの悲歌というべきもので、以下はその第一連の全部。


流れに沿って下ると
川はその背中しか見せない
流れに沿ってさかのぼると
川はさまざまな顔を見せる
険しく挑みかかることはあっても
おおむね川はおのれ自身に溺れている
内側から弾むままに手を振り声をあげ
ときには内股を見せて誘いさえする
真鴨たちは水掻きを紅葉のように陽に透かせて
雑木林の緑を映す川上に向かって着水し
蛇はクレオパトラの御座船のように首を水面に立て
鵜は潜航艇のようにオオカナダモを縫ってさかのぼる
生きるものは流れにさからって戯れ
川の背中には死をゆだねる

この詩でも川は一般にそうであるように人生の比喩であるが、釜無川と笛吹川という故郷のふたつの川(両者が合して富士川になる)をはじめ、内外のさまざまな川(や氷河)の名を点綴しながらの思索的描写とも描写的思索ともつかない言葉のはこびは自在をきわめている。最後の第八連になると、アフォリズム風の短章が畳み掛けられて、これはその最初に、

旅人は帰る
水のさざめきそめる
そのはじめに向かい

とあるから、西脇順三郎の『旅人かへらず』の趣向の借用と知れる。もちろん、

生きるものは
どれだけの苦しみのうちにあるのか
生きるもののなかに
苦しみが洗い出され
鋭く生をかみやぶるまでが
一箇のいのちの過程であり
全生物種の進化の至りつくところだ
そこにおいてようやく
苦の流れはかれつくす

などといった詩行はまったく西脇風に遠いが、一連(そしてこの詩そのもの)は、

もとより苦の賢者は
逃げ水を追って
サーラの木の薫る川のほとりで焼かれ
水晶の骨がばらまかれる
永遠に
似て非なるものの悲しき

と、再び西脇のパロディーで閉じられてもいて、それにしても「永遠に/似て非なるもの」とはなんなのであろうか。「苦の賢者」すなわちブッダの思想ですら永遠のようで永遠ではないということか、あるいは西脇のそれを含めての詩の運命を言うのであろうか。

華麗な隠喩と、多視点的な重層する叙法、オペラの解説書を何冊も書いているような分厚い教養によって織り成されているにもかかわらず、『冬の薔薇』の詩がさほど難解に感じられないのは、根底にある思いの道筋が共有しやすいものだからだろう(前詩集の『交換』は読みにくかったが)。一方、素朴実在論的な簡明な書きぶりに終始していながら、茨木和生の俳句は評者にはいつもひどく難しい。『往馬』(二〇〇一年)、『畳薦』(二〇〇六年)、『椣原』(二〇〇七年)と読んできて、第十句集になるという最新の『山椒魚』(*6)でもその印象は変わらない。

茨木の句が難しいのはとにかくこちらには縁遠い民俗的な細部が、言葉の上のことでなく実体的に(少なくとも実体的に感じられるように)詠まれているためで、巻を開いて三句目、四句目に、

恐れ気の子を山誉に連れゐたり
山誉の男前鬼
(ぜんき)の裔を継ぐ

のような作があって早くもお手上げとなる。なるほど歳時記には「初山(はつやま)」という季語が立項されており、その傍題に「山誉(やまほめ)」も見えてはいるが、言葉の意味の了解を、自分と同じ時空の延長にある実事に結びつけるのに、少なくとも評者の場合は相応の抵抗を覚える。ちなみに後の方の句の「前鬼」とは、役行者が使役した鬼神である前鬼・後鬼のこと。吉野の山中には、その前鬼の子孫を名乗る家があるらしい。

夜とぼしに山家を出でてゆきにけり
二の膳のまはりもされて秋わすれ

前者については、〈夜とぼしは夜に火をともして田溝の泥に浮き出ている泥鰌を捕ること〉、後者については、〈まはりは準備の意味の大和ことば〉と左注があるけれど、難しい言葉はこれに限らない。そもそも「秋わすれ」が普通に使われる語ではないし、それが「秋収め」の傍題だと知ってもそこにどうしても隔靴掻痒の感じが残るようだ。ある躊躇のようなものを覚えることしばし、ようやく「まはりもされて秋わすれ」の音韻のまろやかな流れの美しさが意識にのぼってくる。

鎌祝浮気酒よと誉められて

は、「二の膳」の句に続く句で、おそらく稲刈りを終えての同じ宴会を詠んでいるのだろう。それにしても「鎌祝」は歳時記を、「浮気酒」は国語辞書を引いてなるほどと思いつつも、誰がなぜ「誉められて」いるのかが今ひとつわからない。

火鈴(こりん)振るかりがね寒き夜の更けて
揉鬮
(もみくじ)をひとりしてをり神無月
綾子
(あやつこ)の大を大きく初詣

これらの句の「火鈴」「揉鬮」「綾子」も多くの人にとって初めて見る言葉だと思うが(少なくとも私は初めて見ました)、どれも『広辞苑』に出ているので調べてみてください。これまた三つが三つとも調べのなめらかさ、豊かさを味わうべきもの。

戦中戦後の食糧難の時代、山椒魚は乱獲されて、棲息していたいくつもの渓流から消えてしまったが、私は山椒魚がかつて棲んでいたような、いまも棲んでいるような地が好きである。人と離れ、時間と離れて、そんな地にしばらくいると、新しい命を授かるように思えてくる。

そんな命を得て、これまで人々の暮らしてきた場を見、人々が暮らしの中で摑んできた生活の知恵を見直してみたい。そこには暮らしと関わった季題・季語が多くあるだろう。そんな季題・季語を、作品を通して次の世に伝えていくためにも、作句に励みたいと思っている。

「あとがき」には、茨木の句作の志向するところが、このようにしごく淡々と述べられていて、なるほどこれまでに引いた作品を見ても、その志向と作品にはいささかの乖離も認められない。しかし、これはある意味驚くべきことでもあって、茨木が次代に伝えたいと願っている暮らしのありようなどは、ほんとうのところ風前のともしびであろう。相澤啓三は一九二九年生まれで今年八十一歳、茨木和生は一九三九年生まれで同じく七十一歳と茨木の方が十歳若く、それが気力体力の差をもたらしているということはあるだろうが、それにしても相澤の悲憤慷慨ぶりに対してこれはまたなんと雄々しくも楽観的な態度であろうか。いや、

荒らしたる山田にもゐて行々子
冬泉意地でもひとり棲むといふ
草いきれ郷社の下の田も荒れて

のような句だってあるのだ。心に秘めた絶望がないはずはないが、それをも忘れさせてしまう力がいうところの季題・季語にあるのだろうか。それはあるいは数十年単位での地域経済の消長などをはるかに超えた、長い長い時間の感覚のようなものなのだろうか。季題・季語をとかく形式主義的に捉えがちな評者のような人間は圧迫を感ずると共に、反省をも迫られるようだ。そして、茨木のそのような対季題・季語の態度を尊敬しつつも、まさにそこに茨木の句の難解な印象が生じていることにも思いが及ぶ。要するに「あとがき」にあるようなわかりやすい説明の先で、この人が何を考えているかがよくわからないということなのだが、といってもそのことは少しも不快な感情を伴ないはしない。以下、心に残った句を好みのままに。

船日よと浮かれてをりぬアッパッパ
旧道に適へり引起しの花は
熊好む色とはまこと橡の実は
掻巻にふたつの顔の寝てゐたり
硝子戸が黄ばむ春挽糸の小屋
雀色時の半裂泡吐く
牛殺しよと毒茸を指させり
話弾む鹿の百尋喰た喰たと
どて焼を売りゐる美人初戎
棘のつく若葉蛇登らずの木の
常山虫
(くさぎのむし)貴様ならばと呉れにけり
茶室より百歩のところ乳茸出づ
冬眠の蝮猪吹きて喰ふ

相澤啓三詩集『冬至の薔薇』及び茨木和生句集『山椒魚』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝いたします。

(*1)サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著
    『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』
    染谷徹訳 一月二十日刊 白水社
    原著:二〇〇三年
(*2)相澤啓三詩集『冬至の薔薇』
    三月十五日刊 書肆山田
(*3)相澤啓三詩集『マンゴー幻想』
    二〇〇四年 書肆山田
(*4)相澤啓三詩集『交換』
    二〇〇六年 書肆山田
(*5)「despera掲示板」
    二〇〇四年八月二十五日
http://ushigome.bird.to/bbs/despera0046.html
(*6)茨木和生句集『山椒魚』
    三月二十一日刊 角川書店

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