鶏頭から脇道へ逸れて
・・・中村安伸
山口優夢氏が前号の「-俳句空間-豈weekly」に掲載した記事「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」をめぐって、さまざまな反応があるようである。なかでも田島健一氏のブログ「たじま屋のぶろぐ」での反応(「主体という領域 ~相対性俳句論(断片)」)が興味深かった。それに対する山口氏のブログ「そらはなないろ」での返答(「ちょっとにちょっと、にあれこれ、にちょっとずつ」)、さらにその記事に反応した田島氏の記事(「災厄 ~相対性俳句論(断片)」)を含め、もとの「読みにおける作者と作品との関係」というテーマからはそれるが、若干思うところを述べてみたいと思う。
田島氏が「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」※1.と書いていること。これをもっと乱暴に、身も蓋もなく言えば「人はみんな死ぬ」ということになるかもしれない。
人間はいつか自分が死ななければいけないということから目を背けている。もちろん誰もがその事実を理解してはいるが、死を自らの身に起きることとして、リアリティーをもって想像するという苦痛を避けることが、平穏に暮らしていくためには必要なのだ。もちろん「自分自身の死」ばかりではなく、さまざまな、生存に都合の悪い事実に、目を向けないようにしているのである。
山口、田島両氏は「戦争」「死病」「放浪」といった主題が今の時代の若者には無いと言う。これらはいずれも主題である前に経験である。経験せずに「戦争」を俳句の主題にすれば、それは「戦火想望俳句」ということになるが、問題となっているのは個別の作品や作品群における主題ではなく、作者がその全存在を傾けるべき主題ということのようである。「戦争」「死病」「放浪」のような経験は、いずれも、人間をして「自分自身の死」を、現実感をもって想像せざるを得ない状況に置くものである。
人間を表現へと駆り立てる衝動の根幹には「死への恐怖」があると私は思っている。
たまたま「戦争」「死病」「放浪」という経験によって、死を強く意識させられた者は、その経験を軸にした表現を行うことが出来る。つまりそれを「主題」として選択するということであるが、このことはむしろ読者にとってメリットが大きいような気がする。つまり「戦争」「死病」「放浪」という主題を媒介物にすることで、読者は自分自身に関係の無いものとして「死」を想像することができるのである。
上記のような経験を持たない人が、想像力によって「自分自身の死」を見据えるということは、生存本能に反する、痛苦をともなう行為である。それを持続的に行うことが出来るのはすぐれた詩人のみであり、凡人には難しい。また、読者にとっては、媒介物なしに直接的に提示される死への観照の成果物は、往々にして難解、醜悪なものに感じられる場合がある。
「死への恐怖」と並ぶ、もう一つの衝動として「性的欲望」があるのではないだろうか。
「季節感を表す詞を季題としたコンセンサスとはどのようなコンセンサスか。万葉時代の相聞が平安貴族社会で特殊化された恋の、色好みの、雅の感覚のコンセンサスだ。つまり神と人との相聞から生まれた季節感を持つ言葉を、人と人との恋が幾代にもわたって磨きあげて、取捨選択して行ったのだ。」(高橋睦郎『私自身のための俳句入門』)
つまり、性的欲望とは恋であり、恋から美意識が生じる。その美意識によって洗練されたものが季の体系であるということだ。
小川軽舟が『現代俳句の海図』でとりあげた作家たちは、上記のような経験を持たない人々である。だからといって想像力で「死」と向き合うことはせず、むしろ、洗練された文体によって「季」を描こうとしているのだろうと思う。晩年に「死病」という経験と向き合っている田中裕明は例外である。
ここまで「季」と「死」とを対立するもののように述べたが、実はそれらは同じものの表と裏である筈だ。だから、徹底して「季」の追求を深めることにより「死」を裏側から照射するに至ることはあるだろうし、実際にそれを感じさせる作品こそが、名作として人口に膾炙していると感じる。
さて、山口氏もまた「死」を自分に起きるものとして、想像力によって実感しようとはしていないと思われる。少なくとも積極的、持続的には。
「自分たちの世代が句を残してゆくための戦略」※2.という彼の言葉からも、そのことは推察できる。戦略(ストラテジー)には当然、目標(ターゲット)が必要である。彼はそれが「句を残す」ことだという。もちろん後世に、ということなのだが、自身では達成を確認できない目標を、それとなく挙げてしまっていることに、「自分自身の死」への想像の欠如があるのではないだろうか。それは、田島氏が「これらの「死病」「放浪」「戦争」というような災厄が、実は既に身の上にも起きているにも関わらず、それが見えていない。」※3.というやや屈折した言い方に通じるのかもしれない。
これは決して責められるべきことではない。しかし、彼は「我々は十七音に古典をまとうことではなく、別の方法によってこの問題を越えていかなければならない。」※.4と記しているのであり、徹底して季を描くという「昭和三十年世代」の方法とは別の道を模索しようとしていると思われる。彼の言う「古典」が、私のイメージしている「季」と重ねて良いものなのかどうかは、検討が必要だが。
「戦争」はともかく「死病」は世代に関わらず誰にでも起き得ることだし、「放浪」を選択することも不可能ではない。また「戦争」やそれに代わる災厄が今後発生しないとも限らない。主題という「死への媒介物」を手にするということは、それだけ読者への伝達性において優位に立つということでもあるが、一方で生活上、非常に大きな犠牲を払うことでもある。
主題に昇華できるような経験が無いとして、想像力によって「死」を描くか、徹底して洗練された「季」を描くか。
まずは現実的なプランとして、平凡に見える日常のなかに潜んでいる危機へと想像力を働かせること、季と美意識を活性化すること、これらふたつのアプローチを融合させていくという戦術があるかもしれない。
ともかく、主題が無いということは、作者にとって難しい状況かもしれないが、それ故の自由さもある。また、難しいからこそ面白い、などと言うと楽観的過ぎるだろうか。
※1.「たじま屋のぶろぐ」2010/1/31「主体という領域 ~相対性俳句論(断片)」(田島健一)より
※2.※4.「-俳句空間-豈weekly」2010/1/31「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」(山口優夢)より
※3.「たじま屋のぶろぐ」2010/2/6「災厄 ~相対性俳句論(断片)」(田島健一)より
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5 件のコメント:
こんにちは。大変面白かったです。
仏教で四苦というのがあるらしく、(私はあまり宗教は知らないのですが)その4つの苦というのは「生・老・病・死」なのだそうです。
私の勤務する「病院」という場所では、一般の方々が突然にこれらの事象に直面させられ、怒り、惑い、苦しみ、そして時には受容し、そういった感情の中で揺れ動きながら生活をしている場面が良くみられます。
病院の中から世間を見ていて思うのは、世間の人がいかに「死」を忘れ去ろうと普段から努力していて(努力さえしていない、本当に忘れ去っているのかもしれません)、いざとなったときにもどことなく他人事から始まるんですよね。
詠み手だけではなく、読者にもそういう方はきっと多くて、昨今はそれは若い方だけには全然限らないのですが、句として詠まれても、「子規の時代の話なら、そういった病気の苦しみは理解できる」「現代は医学が発達しているから、きっと助けてもらえる。病気なのはかわいそうだけどちょっと他人事」という異世界をみるような読まれ方をしてるんじゃないかなぁ?と心配になります。
なんか「死」でさえ「生」でさえちょっと他人事なんですよね。
だからこれからの俳句の主題として「死」を理解できない(今の時代の人は本当に死を理解できない、と私は不満に思います。死んでいく家族に対しての対応などをみていて、ですが)人が多すぎて、主題となりにくい側面もあるのかもしれないと思いました。
(すみません。かなり愚痴が入っています。医学はそんなにみなさんが思うほど万能じゃないのよ~っ!!!!)
「性的欲望」に関しては、産婦人科医をやっておりますと語りたくないことの方が多いので、妊娠したらまずい場合には気をつけてください。お願いします。
は、ともかくとして、となると残るは「季」を描くということになるのかもしれませんね。
世間の多様化も良いのですが、共通基盤の脆弱化もたった17文字で語れる世界を難しくしているような気がします。
この評文のテーマは、高山、山口、田島諸氏の取り上げる俳句史的テーマである「鶏頭論争」
からそれて、
「
田島氏が「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」※1.と書いていること。これをもっと乱暴に、身も蓋もなく言えば「人はみんな死ぬ」ということになるかもしれない。
」(安伸)
という「思い」の理論化である。そこが切実で良かった。
1 「死」と「季」 → 「子規」と連想の筋を示した導入には、諧謔を感じた。
2 つぎに、「新撰」組のもっともネックとされる大きな主題の喪失ー消費性。受け身の感受性、にかかわる安伸さんのピックアップ。
「戦争、死病、放浪」という主題の喪失。
があるとする、山口達にたいして、「これは「主題」ではなく「経験」の問題であることを指摘する視点はするどい。
私も、この頃思うことがある。
たとえば、「阪神大震災」は、なぜ東京の人たちや関西でも大きな被害を受けなかった地域の人たちの主題にならないのだろうか?
「職が見つからない」「他人とコミュニケーションがもてないー社会的引き籠もり」、これらの弱者「個人的な経験」が、「時代的な経験」という深甚なテーマとして、俳人たちの今日の俳句の主題にのぼらないわけはなんだろうか?
3
安伸さんは、経験しない死について創造することは生存本能に反する、という。そこから、意図的に「死」(人間主義といってもいい)と「季」(花鳥諷詠主義といってもいい)を対立させる。
山口優夢さんが、(小川軽舟の選んだ作家にも当てはまるが)、想像的にも死と向かい合わないことを批判的に指摘。生きのびるための「世代の戦略」のみがあることを、である。
この世代の戦略。むかし団塊の世代の「戦略」として聞いたことがある、こういう上昇意識は自然に生まれるものだが、若さ(それもセンター試験や俳句甲子園の競争をくぐってきた若者の自信)は「弱」ではなくいまや「強」であり「高齢者への脅威である」ことを、今度の「新撰21」はしめした。
4 つぎに安伸さんは面白いことを言っている。
表現への衝動が、死への恐怖・と恋(性的な欲望)であると。この二つが、「季」を洗練させたのだ、と。
私見。これも穿った認識であるものの、死の恐怖を恋することは、ほんとうにできないのだろうか?「吸血鬼」とか「青髭」がなぜはやるか、とか、倉阪鬼一朗的ホラー怪奇小説家が、なぜ職業として成り立つのか?
経験しない死を創造することは至難の業であり、ときには醜悪である。というところも、安伸の思考法を端的に表しているが、表現の動機の深層心理について、優夢さんも安伸さんもまだまだおさない。
5 むすびの、
「
主題に昇華できるような経験が無いとして、想像力によって。/平凡に見える日常のなかに潜んでいる危機へと想像力を働かせること、/主題が無いということは、作者にとって難しい状況かもしれないが、それ故の自由さもある。」(安伸)
安伸さんの真摯さとか、ヒューマニズムはこころよかった。しかし、新撰組の年長さんとしてはの最後は年少さんへの理解を示してしまったが、安伸さんもう少し、優夢君をいじめてもいいのではないだろうか?
なんだ、この程度で生きのびられるとおもってるのか?少年よ大志を抱け、なんて、一喝してあげたらいかがなものか?
:::
やはり、れおなさんが、こういうことを考えさせるいい挑発的な仕掛けをしていますね。久留島元(曽呂利亭)さんも真面目に緻密に解析していて。わかわかしかった。
●
わたし?鶏頭の句、面白いと思います。「十四五本」なんて数の限定はなかなか出来ない、出来ないがこのていどはあるだろう、そうあって欲しい、と写生を粧って、ものの数の限定が質はなかなかできないことをずばっと言っている。名句だおもいます。子規は病気で感受性が鋭くなっていたのかもしれないね。
またまた長い年寄りの冷や水。すこしなまぬるくなってますが、ごめんなさい。(吟)
野村麻実さま
お読みいただきありがとうございました。
コメントをいただいた後で若干文章を直した部分がありますが、主旨は変わっておりません。
いろいろと混線している部分はありますが、ともかく最初に書きたいと思った内容は書けたと思っています。
昨年亡くなった祖父の介護を手伝った折に「生老病死」ということについて考えさせられました。
当たり前ですが、百歳を超えていても、やはり死ぬことは恐ろしいし、生きることは苦しい。
その様子を目の当たりにしながらも、私自身はどこか他人事と感じている部分がありました。
それでも、祖父の苦しみを想像してみることが、自分自身の死へ向き合う縁になったような気はしています。
野村さまのように、普段から病院にお勤めの方は人の死に接する機会も、それによって自分自身の死へと思いを向ける機会も多いのでしょう。
俳人として大きな仕事をした人に医師を職業とした方が多いのも、このことと無関係ではないように思います。
豈ウィークリーに連載中の「遷子を読む」シリーズ、なかでもご本人も医師でいらっしゃる仲寒蝉さんのコメントを読んでいると、そのことを強く感じます。
自分自身の死はもちろん、生ですら他人事のように感じているというのは、私自身にも思い当たるフシはあります。
一方でそのような自分が、生の実感に最も近づくことが出来るのが、俳句などの表現を試みている時である、という面もあるように思います。
そのあたりは、次号(かそれ以降に)書かせていただきたいと思っております。
吟さま
コメントありがとうございます。
次号以降に補足してゆきたいと思っておりますが、この文章では整理しきれていないことが多々あります。
「死」と「季」→子規、というのは、正直意識してなかったので驚きました。われながら面白い。
仰るとおり「表現の動機の深層心理」にはもっと複雑な様相があると思っております。
「死への恐怖」「性的欲望」というのは、その代表的な顕現でしょうが、たとえば死への欲望や性への恐怖もあるでしょうし、言語化するのが難しい領域だと思います。しかし、興味深いです。
「もう少し優夢くんをいじめてもいいのでは」とのことですが、確かに彼の「不幸が無いのが不幸」という言葉には衝撃を受けましたが、すでにその点については田島さんはじめ、いろんな方からの指摘を彼は受けているところでもあるので、私からは触れませんでした。
他人を一喝できるほど、自分自身に確信がないということもあるのですが。
安伸様、
山口優夢さんは、今回のペースメーカーの感があり、あばあちゃん世代は「戦略的にも」注目しています。週刊俳句の方で一句鑑賞を頼まれていて問題作をさがしているのですが、私としては、彼などは第一候補です。人生の機微の凄く、微妙なあたりにふれてくる、「不幸のない不幸なんて」ほんとにおもっているのか・・信じられません。
鉄は熱いうちに打て。おおいに苛めましょう。お相撲界ではこれをかわいがる、と言います。
安伸さんは、理論化、の文体が独特なので、これも前からそうですが 「俳句空間ー豈」同人として注目しているのです。
今日は、今年初も北の句会、みなくるはずです。きかいあったら、貴方も、関西の集まりにご参集下さい。では、また。
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