2010年2月8日月曜日

愛と仮名しみの暮玲露

俳誌雑読 其の十一
愛と仮名しみの暮玲露



                       ・・・高山れおな


もうだいぶ前のことだが、ある結社誌で、布施明の「シクラメンのかほり」について難癖を付けているのを読んだことがある。その某氏(御尊名失念)は、「香り」は旧仮名では「かをり」と表記するのが正しい、「かほり」などという日本語は無い、日本語を乱すけしからん歌だ、というような趣旨のことを述べておられた。芭蕉や蕪村が「香り」をどう表記していたかも知らずに、旧仮名=歴史的仮名遣いと思い込んだまま他人の仮名遣いを批判する、その蛮勇ぶりが印象的で、なんとなく記憶に残っている。

「俳句界」二月号の特集は「激論!! 旧かなvs新かな」。特集の扉に、〈今回は便宜上、歴史的仮名遣いを『旧かな』、現代仮名遣いを『新かな』という名称で統一した〉旨の但し書きがしてあって、さすがに編集部が某氏のような勘違いをしているわけではない。しかし、もし本気で仮名遣いについての認識を深めようとするのなら、旧かな新かなという正確とは言い難い、どこまでも便宜的な呼び方をしないことを要件にして特集を組んだ方が、おそらく生産的だったであろう。もちろんこれは、「俳句界」編集部が、生産的であろうとしてなどいないことを承知の上での、無いものねだりですが。

特集は木暮陶句郎と鹿又英一両氏の対談と、岸本尚毅、山西雅子、三村純也、武田伸一の四氏のエッセイで構成されている。現代仮名遣いで俳句を作っているのは鹿又と武田で、あとの方々は歴史的仮名遣いで書いているようである。議論としては想定の範囲内というか、格別のこともない。作句にあたって圧倒的多数が歴史的仮名遣いを用い、残りの人たちが現代仮名遣いで書く、という俳句界の現状を追認する内容と言ってよいだろう。そのような形勢になっている理由を、岸本は次のように端的に要約している。

俳人の実態は、旧かなを用いる人が大多数だと思います。それは、文語を用いる俳人が大多数であることを反映していると思います。文語口語の問題には深く立ち入りませんが、「や」「かな」「けり」との相性、内言語の表出における優位性、歯切れの良さなどの点から、俳句において文語が選好されるのは自然な姿だと思います。その結果、文語との相性のよい仮名遣いとして、旧かなが選好されるのも当然だと思います。

格別のこともないとは言ったが、「文語口語の問題には深く立ち入りませんが」とか「自然な姿だと思います」とか「文語との相性のよい」とか、あちこちで煙幕をはりながらの用心深い筆運びはさすがである。この箇所に限らず、問題をどこまでも俳句づくりの範囲に限定し、個別の作品とその表記の効果をあげつらいながら論を進めているのも、それが当然のはずなのだが、この手の議論をする時に忘れられがちな点だ。この特集でいえば例えば三村純也が、岸本とは対照的な脇の甘いところを見せている。

俳句の伝統を守るという意味からも、私は歴史的仮名遣い(旧かな)を支持する。「思う」「思ふ」、「思い」「思ひ」、比べてみて、歴史的仮名遣いのほうが、かそけきやさしさを感じてしまうのは、私の独善だろうか。日本語というのは、もっとやさしいものだったはずのように思う。ひそやかな気配というものを、深く湛えていたものではなかったか。そういう息吹を、現代仮名遣いでは、表現し切れないのではないか。ふと、そんなことも思う。

「思う」「思ふ」、「思い」「思ひ」の各表記に異なるニュアンスを感じるのは、そこにこだわるかどうかは別にして、もちろん三村の独善ではない。ただ、それに「俳句の伝統を守る」などという理由付けをしてしまっては自らの首を絞めることになるだろう。そのような立派な理由があるのであれば、なぜ三村は散文でも歴史的仮名遣いを使わないのかという、当然の疑問が出てくるからである。もちろん職場その他、日常生活の場で歴史的仮名遣いを使えと言っているわけではない。しかし、俳句関係の文章を歴史的仮名遣いで書くことはできるし、現にそうしている人は少数ながらいるのである(*1)。なぜ、三村はこの「俳句界」の原稿を歴史的仮名遣いで書いて、そこに「ひそやかな気配」を「深く湛え」ようと試みなかったのか。「伝統を守る」気概の持ち主である三村が、まさか面倒臭いから散文では歴史的仮名遣いを使わない、などということはないであろう。あえてこちらで答えを用意するなら、それが「自然な姿」ではないからではないか。俳句で歴史的仮名遣いを使う根拠に、「自然な姿」とか「相性」とか、ほとんど理由にならない理由をあげ、いわば説得しないことで説得する岸本の論述の、三村に比べての隙の無さが際立つところだ。理由にならない理由には、つっこみようもないからである。

仮名遣いの選択などというのは、所詮末節の末節であって、それこそフェティシズムということで済ませてしまってもよいのである。もとより、夏炉冬扇たる俳句から、フェティシズムを排除するいわれもないわけで、各自好きなように書けばよいだけの話だ。ただし、歴史的仮名遣いの“選好”にフェティシズムの要素が含まれているからといって、俳句の表記の問題の全体をフェティシズムで片付けるわけにもゆかない。評者が考えるに、俳句の本質を表記の面から規定するなら、それが漢字仮名まじり文であるところに求められる。仮名文学たる和歌・連歌に淵源しつつ、俳言(俗語と漢語)を取り入れることで自立したのが俳句なのだから、俳句にとっては漢字仮名まじり文であることこそ本質なのである。それは短歌が、近代短歌に変革された結果として漢字仮名まじり文化したのとも、漢字だけで書く漢詩が廃れて漢字仮名まじりの文語自由詩・口語自由詩に取って代わられたのとも一線を画する事態であり、なんなら三村流にそこに「俳句の伝統」があると言ってもよい。とはいえ現在では韻文・散文のすべてが漢字仮名まじり表記されるのだから、俳句が漢字仮名まじり文である点ををことさら意識したところであまり意味はないのであるが、意味はなくとも俳句の発生史が教える俳句の表記の本質はそこにあるということは承知しておいてもよいだろう。

それにしても、三村のように、たかだか歴史的仮名遣いの使用に“伝統”を持ち出すのは、多少おっちょこちょいな印象を免れないようだ。なぜなら、ここで問題になっているような意味での仮名遣いの選択が、書家の石川九楊に倣って言えば、あくまで活字を正書体とする近代の枠内の出来事である点に意識が届いていないからだ。では、近代以前の仮名遣いとはどういうものだったかといえば、芭蕉や蕪村が「香り」を「かほり」と書いていたように、江戸時代には歴史的仮名遣い(というかその前身の契沖仮名遣い)がほとんど行なわれておらず、実際に行なわれていたのはいわゆる定家仮名遣いの崩れたような仮名遣いだった――というのは一応常識だろうが、しかしある意味それ以上に重要なのは、歴史的仮名遣いが変体仮名を排除することで成り立っていることで、これはささいなことのようだけれど、この規定によって仮名文字の本質が見えにくくなっているところは大きいと思う。今、漢字仮名まじり文で、

鶯の声なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし

と、記され得る歌(中務の作)があるとして、これを通行の平仮名で清音表記すると、

うくひすのこゑなかりせはゆきゝえぬやまさといかてはるをしらまし

となる。ところが『粘葉本倭漢朗詠集』という古筆の名品でこの歌は、

うくひ(春)のこゑ(那)(可)りせはゆ(支)ゝえぬやまさとい(可)て(者)るをしらま(志)

と、書かれている。括弧内に字母を表示する形で記したのが変体仮名である。変体仮名ではない、通常の平仮名の字母は、「す/寸」、「な/奈」、「か/加」、「き/幾」、「は/波」「し/之」。“変体”仮名という名称自体がすでに、それを排斥する立ち位置からの名づけであることは一目瞭然だが、実際の運用を見れば、上の歌で使われている「可」「者」を字母とする仮名などの使用頻度は、「加」「波」を字母とする仮名のそれに全く遜色なく、特殊・例外というニュアンスのある“変体”仮名という名称はかなり不当な感じがする。ちなみに、仮名の変遷を乱暴に要約すると、万葉仮名→草仮名→女手(平仮名)となるが、このプロセスにおいて、万葉仮名が大和言葉の発音を書き言葉化するのに、音仮名・訓仮名・戯訓などさまざまな手法をとりまぜて、どのように漢字を使うのが適切であるかを問題にしていたとすれば、女手では同一音に複数ある仮名のセットからどの字を選べば見た目が美しいかというところへ、意識の重点がシフトしてしまっていることには注意しておきたい。

なんだか迂遠な話をしているようだが、実際、迂遠と感じられて当然で、その当然である事実の中に我々の“伝統”との乖離がはっきり示されているのである。そもそも一音一字表記された漢字の草書をさらにぐずぐずに変形し、それを連綿(続け書き)させたところに仮名の本来の性質があり、その本来の性質の中でこそ意味を持っていたのが変体仮名であった。正書体が、手書き文字から活字に移行した時に、仮名は漢字の楷書体に準じて硬化し、それと同時に、字母の異なる仮名を取り混ぜることで表記の効果を追及する文化は失われてしまった。現に評者はいま一首の歌を引用したが、そこでは字母である漢字は表示できても変体仮名そのものは表示できなかったのだし、フォントを作成すれば変体仮名の表示は不可能ではないとしても、それはとうてい変体仮名が持っていた美的効果の再現にはならないだろう。歴史的仮名遣いと現代仮名遣いの使い分けが、我々に多少の興味と多少の意義を感じさせるのは、それが“伝統”の問題などではなく、活字文化の範疇における我々の眼前の問題だからであって、百年と少し前まで続いていたある種の仮名の文化の“伝統”は、基本的には失われているのである。

ところで、先に引用した一節で、岸本が「文語口語の問題には深く立ち入りませんが」と巧妙に回避してしまった「文語口語の問題」の方が、表記のことなどよりはやはり気になるのである。そもそも俳句で使われているのは文語なのだろうか、という根本的な疑問が評者にはある。文語か口語か、文の形の上からは判別できない俳句作品は現実にははなはだ多い上に、いわゆる文語助動詞や「や」「かな」「けり」の類を使っているから即文語とみなせるか、少なくとも本格的な文語とみなせるか、これははなはだ怪しいと思う。同じようなことを、たしか島田牙城が「里」誌で述べていたように記憶するし、先ごろ頂戴した矢島渚男の新著(*2)にも、

芭蕉が最期につくった〈旅に病で夢は枯野をかけ廻る〉〈此秋は何で年よる雲に鳥〉でさえ、口語文脈としてもよいのではなかろうか。

との一節があって、この両句のことは当方も前々から気づいていたので、我が意を得たりであった。他にも、〈から鮭も空也の痩も寒の内〉〈梅若菜まりこの宿のとろゝ汁〉〈雲の峰幾つ崩て月の山〉あたりはどうなんですかねえ。俳句は文語を使わなければならないという(多分、誤まった)思い込みのせいで不幸になっている人が増えているような気がするので、本当は“深く立ち入って”みたいところだが、国語学の教養にあまりに欠けているので今は止めておきます。

(*1)俳句作品だけでなく散文も歴史的仮名遣いで書いている人として、評者が知っている範囲では、島田牙城(「里」発行人)、酒巻英一郎(「豈」同人)などがいる。酒巻にいたっては、「豈」の編集に関しての連絡メモまで正漢字+歴史的仮名遣いである。
(*2)矢島渚男『俳句の明日へⅢ―古典と現代のあいだ―』 紅書房 二〇一〇年一月十二日刊


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3 件のコメント:

島田牙城 さんのコメント...

れおなさま
三度も僕が登場して恐縮です。
二度でせうとおほせになるやもしれませんが、いやいや、どうも三度のやうです。
「御尊名失念」はたぶん私めであります。「シクラメンのかほり」については、仮名遣ひについて語るときにしよつちゆう例として使はせて頂いてきましたし、一度文章にもしたことがあります。ただ、二三当つてみたのですが、今日のところは見当たりませんでした。
一言でいへば、芭蕉さんが使つてゐるから良いではないか、虚子が使つてゐるから良いではないか、では済まし得ない、現代人が意識的に選び取つて使用する歴史仮名遣ひの問題が潜んでをると思つてをります。
意識的に自らのために選び取るといふところが、実にフェティッシュではあるのですけれど……。
「俳句界」を取り寄せて近々に「里」に書かうかなと思ひます。実はちらりと立ち読みはしたのですが、またやつてるね、程度の感想で棚に戻してしまつたのでした。だつて、仮名遣ひのこと、たとへば「現代仮名遣い」と「現代かなづかい」の違ひも知らない人が多すぎて、当然「契沖仮名遣ひ」と「歴史仮名遣ひ」の違ひも知らないで使つてをられる。
もう僕は仮名遣ひについては発言しないと心の中では思つてゐたのですが、れおなさんの変体仮名の話が面白いかつたので、少し書く気になりました。
さうさう、これは仮名遣ひとは別の頭で考へなきやならんことですが、口語、渚男さんが書いてをられますか。それは何より。芭蕉さんには口語発想が多いんです。といふか、たつた十七音ですから、芭蕉に限らず、文語とも口語ともつかないもののはうが圧倒的に多い。もも文語か口語かつて決められないんですから。僕が文語派の人達で不思議に思ふのは、すぐに「や・かな・けり」の切れ字を「文語」と決めてかかる人が多いといふ実態です。「けり」は文語でせうけれど、「や・かな」つて古語ではあつても文語とは決められないと思つてゐます。
では、お礼かたがた蛇足まで。

島田牙城 さんのコメント...

あれ
今のコメントの下から7行目、
もも文語か……
のところ、例句を入れたのですが、
反映されてをりませんね。
花の雲鐘は上野か浅草か

一月の川一月の谷の中
も文語か……
と続きます。
芭蕉句の二つ目の「か」を難しい漢字にしたので弾かれたのか、山鍵括弧が弾かれたのか、失礼しました。

高山れおな さんのコメント...

牙城様

コメント有難うございます。ここで言及している“結社誌”は、「里」ではなく「梟」です。従って“御尊名失念”は牙城さんのことではなく、かと言って矢島先生でもありません。「梟」の同人のどなたかです。調べればわかるでしょうが、調べる程のことでもないのでこういう書き方にしました。