2010年1月3日日曜日

勝原士郎句集2冊

あぎとふ魚の戦後想望
勝原士郎句集『鈍行にて』及び『薔薇は太陽』を読む


                       ・・・高山れおな

前々号で評論集『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』(*1)を紹介した勝原士郎氏から、その後、二冊の句集を恵まれた。『鈍行にて』(*2)は一九二四年生まれの著者が齢知命を過ぎての一九七四年に初めて世に問うた第一句集、『薔薇は太陽』(*3)はそれから三十余年を経た二〇〇五年に刊行された第二句集である(以下、敬称略)。

勝原が中村汀女のもとで俳句を始めたこと、のちに汀女の「風花」を離れて仲間と俳誌を興し、一時期は新俳句人連盟の機関誌「俳句人」の編集にもかかわっていたことなどについては、評論集を紹介した際に簡単にふれた。また、金子兜太の造型論の影響も受けていることも指摘した上で、読後の印象として、〈名利にすり寄らぬ高潔さ、公平なバランスのとれた知性、俳句以前の人間への愛〉を感じたと述べたのであるが、両句集を読んで、その印象は強まりこそすれ、弱まることはなかった。『鈍行にて』には自らのそれまでの句作を三期に分けて振り返る「あとがき」があり、『薔薇は太陽』には「あとがき」の他に、「たどりて、今に――俳句にかかわるメモワール」と題せられた半生を回顧するエッセイが収められている。これらによって勝原の閲歴についても若干を補いながら、いくばくかの作品を読んでみたい。

春曉の汽笛誘はれ鳴りつづき

『鈍行にて』より。この句集には制作年が明記されていないが、句の排列はおおむね編年順とおぼしく、前後に〈夜業の燈かなしきまでに凍て並ぶ〉〈壕を掘る土をかぶりし物芽かな〉の句があることからしても、船の汽笛ではなく、勤労動員された工場の汽笛であろうと当たりをつけたところ、やはりそれでよかったようだ。「たどりて、今に」によれば勝原は、府立第五中学(都立小石川高校の前身)から松本高校(信州大学の前身)、京都帝大法学部(戦後になって東京大学経済学部へ転学)と進み、敗戦の年の六月に水戸歩兵営に入隊している。掲句は、松本高校時代に勤労動員された愛知県春日井市の軍需工場の情景だという。「誘はれ」が眼目で、大工場の諸処に汽笛が鳴り継ぐのを、やや擬人法的に表現しているのだが、「春曉」という設定と合わせて気の弾みがよく伝わってくる。

ハンカチの手ののぼりゆく驛の階
淺草の夜涼の玻璃に頬を寄せ
地圖にある八百屋の林檎見えて來し

『鈍行にて』より。敗戦直後の九月に京大に復学した後しばらくは、食料事情の逼迫をはじめ不如意のことも多かったとはいえ、学歴などから考えても、社会の中で勝原の境遇はどちらかといえば恵まれたものであったには違いない。この三句などは、「寒雷」の句会にも出てはみたものの、その〈表現が詰屈に〉感じられ、〈汀女や長谷川素逝の句にみられるようなリリシズムに惹かれ〉て、やがて汀女に師事するに至った、作者本来のシティーボーイ的な資質がよく出ている詠作だろう。特に二句目には、素逝の〈さよならと梅雨の車窓に指で書く〉を誰しも連想するに違いない。三句目は道順を記した手書きの地図を頼りに、誰かの家を訪ねるといった場面とおぼしい。橋本多佳子の〈星空へ店より林檎あふれをり〉もおおむね同時代の作であるが、多佳子の句の林檎がそうであるように、勝原の林檎もまたそれ自体がこの物の無い時代において豊かさの表象なのであり、そのことが同時にこの訪問への内心の期待を垣間見せるように働いている。

メーデーのぶつ倒されし手に手錠
メーデーの血が頬をながれ少女なり
メーデーの怒れる石をまだ飛ばす
メーデー以後かたみに聲をひそめをり
汗拭きあひ混じる私服にこころせよ
近藤さんの遺影の髪ふさふさと夏の花すこし
汗ばみて學生葬のアコーデオンひくは少女

『鈍行にて』より。掲出の一連には、「血の日曜日」の標題が立てられている。一九五二年五月一日のいわゆる「血のメーデー事件」を詠んだ連作であり、六句目の「近藤さん」は、デモ隊と警官隊の衝突に際して死亡した法政大学生・近藤巨士(ひろし)のこと。他に東京都職員の高橋正夫が射殺されている。これら二名の死者の他、負傷者千数百名(うち警察側が八百名という)、検挙者千二百余名を出したこの騒擾事件の現場にしかし、勝原氏は居合わせたわけではない。「たどりて、今に」には、その間のことが次のように回想されている。

『風花』の寒川支部(神奈川県寒川町……引用者注)では、毎年、つつじ咲く五月はじめに句会をひらいていた。たまたまその年は一日が日曜だったので、日曜日に鶴巻温泉で、ということになった。汀女にお供して、わたくしも出かけた。

〈メーデーに誰れ彼れ行きし麦の蝶〉という句が汀女にあるが、その日、わたくしの身辺でも誰彼がメーデーに参加していた。メーデーに行かずに昼の温泉宿に来ているうしろめたさが心を離れなかった。夕方、帰宅して分かったのだが、血のメーデー事件が起こっていたのだった。そのことは花鳥諷詠の有閑性を思い知らせてくれた。

これらの句はだから、勝原氏が〈その場その時を思い描き、怒りをこめてフィクショナルに詠んだ〉ものであり、〈栗林一石路の推輓〉で「新日本文学」に載ったものだという。上に引いた七句は「新日本文学」掲載の十二句から句集に採られた全部である。

『新日本文学』に掲載されたことが汀女の耳にも入って、一石路と私のどちらを師とするのかと問いただされた。師弟関係をもっとゆるやかなものと考えていたわたくしは、その問いには答えずに黙っていた。問いただされたといっても、破門を迫るといった強圧的なものではなくて、どんな題材でも句としてよければ採りますよと、目の前で問題のメーデーの句の中のいくつかに汀女は丸をつけた。

「どんな題材でも句としてよければ採りますよ」という汀女の言葉には、この「ホトトギス」の大俳人の虚子ゆずりの柔軟性と共に、すでにそれが「題材」の問題ではなく思想の問題である点への認識の欠如を見てとることができるだろう。いや、実際には、その点への認識を正しく持っていたとして、汀女としてはこう言う他なかったであろうし、一方で、〈朝鮮戦争前後の時代の閉塞状況、悪気流へのあらがいの心情のたかぶりのままに、それを俳句表現にかかわらせていこうとする気負いばかりが先立って〉いた勝原の側においても、汀女がいかに自らの行動を理解し、許容してくれたとしても、すでに「花鳥諷詠の有閑性」への羞恥を深く内部化していた以上は、〈『風花』とのわかれ〉は必定だったはずだ。

さて、作品そのものへ戻るとして、勝原が〈いわゆる想望俳句であった。〉と自ら述べるように、「血の日曜日」連作は、制作のプロセスとしても、書かれた言葉そのものの次元としても、三橋敏雄らの戦火想望俳句と同じ表現の水準にあると見える。戦火想望俳句は、「ホトトギス」の分派としての新興俳句の中から生まれてきた以上、そこまでは「風花」の手法の延長上で到達することが可能だったし、汀女の側ではそれを採ることさえ出来たということになるだろうか。中では、〈汗拭きあひ混じる私服にこころせよ〉には、勝原自身やその周辺(十歳年上の早世した長兄は、戦前、慶応義塾の学生左翼運動にかかわっていた)の経験の反映があるように思われ、「想望俳句」から一歩踏み込んだリアリティがあって面白い。他方、〈メーデーの血が頬をながれ少女なり〉〈汗ばみて學生葬のアコーデオンひくは少女〉における「少女」の強調は、現在の眼にはなにやらひどく感傷的なものに映る(これらの「少女」はその後、その感傷性ともどもアニメの戦闘美少女に変成した、のかもしれない)。なにより連作を背後で支えていた共産主義の理想や革命幻想が現在では(一般的には)消滅してしまっているために、作品そのものも応分に色褪せてしまっているのはやむを得ない。従ってこれらの句を救おうとすれば、山口誓子のラグビー俳句を読むのと同様に主題の価値を括弧にくくって(そもそもラグビーに主題価値は無い)読む他ないし、実際、この連作の修辞は誓子のラグビー連作の影響を受けている気配がある。

口開けしままのクレーン沖縄還る

『鈍行にて』より。「風花」離脱後の勝原は、一時期「俳句人」の編集にも携わっており、当然、社会性俳句色の強い作品が多くなる。その標題、前書の類を列挙しておけば、「片面講和發效」「破防法」「独立以後……」「多喜二・百合子を偲ぶ集まりにて、幻燈」「原水禁東京大會」「久保山すずさん、國連行き拒まる」などなど。メーデー連作の場合と同様、こちらが時代の空気あるいは理想を共有していないために、全てが風俗に見えてしまうというのは半分は読み手側の責任であるが、しかし「少女」の強調についての場合と同様に、総じて感傷過多と感じられてしまうのは作り手の側の問題に属する。もとよりその表現態度の真率は胸を打たないではないが、視野いささか感傷に曇り、表現において突き抜けきれなかったのは、例えば金子兜太のそれと比較してこの時期の勝原の作品が物足りない点である。中で掲句の「口開けしままのクレーン」という表現は、事物の正確な描写がそのまま、沖縄返還という事態に直面しての作者個人のセルフイメージとなり、さらに社会・国家のイメージへと同心円的に広がってゆく按配で、形象としてきまっていると思う。この種の、眼前の描写が暗喩に転じる手法が成功しているケースとしては、他に

朝雨の點線玻璃に多喜二忌なり

がある。小林多喜二の拷問死は、一九三三年二月二十日だから、この「朝雨」は鳥肌がたつような早春の冷雨ということになる。

土本典昭『水俣――患者さんとその世界』に寄せて(四句のうち二句)
石くれ打つよろけ歩きに野球好き
怨の御詠歌 習ひさざめき病家族

震盪し痙攣し露の夜の煙草火
發作ばねにされ美しい日本の私
  *「美しい日本の私」は川端康成の
   ノーベル賞受賞記念講演の題名
笑まふ十九のよだれ引く娘を負ひ冬へ

ユージン・スミス寫眞展『水俣』に寄せて
のけぞる喉元まで闇 誕生日の顔して

水俣湾の逆光にさへ転ぶしのぶ
  *坂本しのぶ

最後の一句のみ『薔薇は太陽』からで、他は『鈍行にて』所収。最後の句に登場する坂本しのぶは、胎児性水俣病患者である。それぞれの句がいつの作かわからないものの、とにかく勝原の水俣病への関心はかなり継続的なもののようだ。これらの句にしても想望俳句には違いなかろうが、ここには共感があって感傷がなく、それが句を強くしている。特に五句目の〈發作ばねにされ美しい日本の私〉がすぐれていると思う。この句の「され」は丁寧語ではなく、受け身形である。劇症患者が激しく痙攣するさまを「發作ばね」と捉えた造語が残酷かつ的確であり(つまり「發作をバネに」ではない)、この作者にしては珍しくプレテキスト(「美しい日本の私」)を使って巧みに受けている。

春三日月繊(ほそ)かりけるは火の鳥病む

『鈍行にて』より。〈外電、ストラヴィンスキー危篤を傳ふ〉の前書がある。イーゴリ・ストラヴィンスキーの死去は、一九七一年四月六日。「火の鳥」はもちろんストラヴィンスキー初期のバレエ音楽のタイトルであり、この場合は作曲家自身を指す換喩ということになる。共産党のシンパであり、労働問題や公害問題、反戦運動に関心を寄せつづける勝原だが、一方で舞台芸術や絵画に造詣の深い教養人でもあって、その方面の句もじつはかなり多い。掲句は中でも感覚性に勝ったところを見せるが、戦前に左翼運動にかかわり、一九四五年五月の新宿空襲で死んだ画家の柳瀬正夢を詠んだ

正夢(まさむ)忌の拳突き出でよ梅雨雲裂き

のように、美術への関心と政治的信念が混合したふうの作品もある。柳瀬の代表作のひとつ、《五万の読者と手を握れ》(一九二七年)を踏まえているだろう。赤い色をしたたくましい右腕が、握手をするようにぐっと手前に差し出されている作品で、タイトルに「手を握れ」とあるように、手のひらは開かれており、拳を握っているわけではないが。思いの筋道がストレートに出すぎているきらいはあるものの、天上から突き出される巨大な腕のイメージは壮大かつ爽快。これも『鈍行にて』より。

三つ凭(もた)せあふ洋梨も暗き谷間
ふるさとの泥鰌
(どじょう)の髭を描きて戦死

『薔薇は太陽』所収の、「戦没画学生遺作展 六句」のうち。一句目の「暗き谷間」は、展示された作品が制作された時代を指し示している。この暗喩は通俗的という他ないけれど、「三つ凭(もた)せあふ洋梨」という、絵を描写する繊細な表現に救われている。二句目は、「ふるさとの泥鰌(どじょう)の髭を描きて」ののんびりした叙述が、「戦死」の三音へぶつっと回収されてしまうリズムが良い。

坂本繁二郎展
銃後の岸へ水圧ぬけて上がる馬
中川一政展
百歳へ描きて薔薇の薔薇の薔薇

『薔薇は太陽』より。一句目の坂本繁二郎は、馬の絵を好んで描いた画家で、ここで詠まれているのは東京国立近代美術館所蔵の代表作《水より上がる馬》であろう。一九三七年の作だから「銃後」でよいわけである。「水圧」の世界を「ぬけ」出ても、そこは別の圧力に押しひしがれた「銃後の岸」だった――と説明してしまうと理屈っぽくなるけれど、「水圧ぬけて」という表現は、坂本作品の雄渾なタッチに応じる物象感豊かな措辞になっていると思う。二句目の中川一政は、九十七歳と長命し、膨大な数の薔薇の絵を描き残したことで知られる。「薔薇の薔薇の薔薇」という、レトリックを捨てたレトリックが、老画家のエネルギッシュな制作ぶりに対する驚嘆をよく伝える。

腹を上あぎとふ魚に三菱見ゆ

『薔薇は太陽』より。「水島製油所重油流出 六句」のうちの六句目にあたる。一九七四年十二月に、岡山県倉敷市にある三菱石油水島製油所で起きた重油流出事故を詠んでいる。瀬戸内海の三分の一が汚染された大事故だったという。〈魚形して重油を鎧(よろ)ふ海の幸〉〈湾底に逆立(さかだ)つ重油藻とゆらゆら〉といった句もあるが、起句「腹を上」の端的さといい、結句「三菱見ゆ」の皮肉といい、掲句は一段とすぐれていよう。ちなみに、この皮肉がかくも痛烈に炸裂しているのは、「三菱」が社名であると同時にエンブレムそのものの名称でもあるからで、「三井見ゆ」や「住友見ゆ」ではこんな効果は出ない。「魚」は告発しているわけではなく、ただ苦しんでいるだけである。「三菱」は単に責任企業の名称を示しているだけでなく、エンブレムなどというものを必要とする人間一般の虚栄の象徴ともなっているだろう。

核爆(は)ぜ山羊一瞬前へ出て後へ

『薔薇は太陽』より。重油流出事故だけでなく、チェルノブイリ原発事故、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、イラク戦争、北オセチア学校占拠事件まで、第二句集においても勝川は、内外の社会事象を倦まず俳句にし続けている。必ずしも佳作は多くはないが、記録映像を見ての作とおぼしい掲句などは秀逸に数えられるだろう。被験動物の「山羊」が、爆風に吹き煽られる映像を、当方も見た覚えがある。「一瞬前へ」よろけ、次いで「後ろ」へすさる――ひたすら描写を細かくし、「かくはぜ/やぎ//いっしゅんまえへ//でて/あとへ」と句割れ・句跨りを複雑に駆使することによって、言外の思いへと思いを誘う。核実験が行われる土漠地帯の空気さながらに句が乾いている。そこがよい。

金子兜太氏が、『地平』(勝原が「風花」離脱後に仲間と作った雑誌……引用者注)一五〇号記念に寄せた文章のなかで、『地平』に拠るわたくしたちを「真面目集団」と呼んでいたことが思いおこされる。この呼び名を慶祝の挨拶とだけ受けとるわけにはゆかぬようである。日常的現実に密着しすぎて、そこから、あくがれでることがかなわぬほどの硬直した真面目さは、詩人としては困りものだということでもあるのだろう。

『鈍行にて』の「あとがき」にこんな一節が見える。勝原は新しい文体を生み出したとは言えないだろう。すぐれた自覚的な大衆のひとりだったが、金子兜太ほどには芸術家でなかった。理想主義者としての側面が、創作家としては必須のエゴイズムを弱めてしまったということなのかもしれない。ともあれ勝原が、「想望」による時事俳句を作りつづけて、その可能性を示すに足りるいくつかの秀作をものしているのは事実であり、それはたぶんかなりの仕事だと言ってよいのだと思う。


(※)勝原士郎句集『鈍行にて』及び『薔薇は太陽』は、著者から贈呈を受けました。記して感謝いたします。 

(*1)
勝原士郎『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』 北宋社 二〇〇九年
(*2)勝原士郎句集『鈍行にて』 クリティカ編集室 一九七四年
(*3)勝原士郎句集『薔薇は太陽』 ウインかもがわ 二〇〇五年
--------------------------------------------------

■関連記事

六十年後の反転からの反転 勝原士郎『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』を読む・・・高山れおな →読む

-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。

0 件のコメント: