・・・高山れおな
寸鉄人を刺す短評から本格的な論考まで、収録された長短百本近い文章は、最も古いものが一九五一年、新しいものは二〇〇七年の執筆にかかる。つまり半世紀以上にわたって書き継がれてきた内容を含んでおり、そのジャーナリスティックな着眼の良さと、ポレミックな批評性の冴えに、野に遺賢ありの感嘆を禁じえなかった(大先輩に対してこんな言い方はなんなのであるが)。
齢を重ねつつも、いっかな老熟に至らぬ若書きの気負い見え隠れの断章を、執筆順に蒐めて一本といたしました。
と、「あとがき」にあって、しかしこれは単なる謙辞ではない。というのも、二十代に書かれた最初期の文章において著者はすでに老成した達意の叙述スタイルに到達してしまっており、一方、齢八旬を過ぎての近作においてなおその筆致は書生風の熱気を失なっていないからだ。
そもそもこのたび一本を恵まれるまで、評者は著者勝原士郎氏のお名前も存じあげなかったのであるが、巻末の年譜によると、一九二四年、東京市生まれだから今年で八十五歳になっておられるはずである。戦時中の一九四三年に中村汀女門で俳句を始めるも、一九五三年に仲間と「風花」(汀女の主宰誌)を飛び出し、「地平」旗揚げに参加している。この「地平」は、金子潤氏を代表に現在も続いている俳誌だが、四年後にはここも離れ、〈しばしがほど「俳句人」の編集を手伝う。60年安保の前後10年にわたって句作を中絶。〉との記述が見える。その後は、「伐折羅」「淡青」を経て、一九九七年、〈「こだま」に仲間入りして、いまに。〉ということらしい。
「俳句人」といえば共産党系の新俳句人連盟の機関誌だから、「ホトトギス」系の「風花」からは百八十度の転進ということになろうか。本書が、「風花」一九五一年八月号初出の「俳句の求むるもの」に始まり、以後、一九五三年、五四年に「地表」に発表された「俳人格―人間を蝕むもの」「俳句と『もの』とのすき間」などへ展開しているのに鑑みれば、作句開始からおよそ十年を経て自覚を深めた著者が、汀女流の花鳥諷詠に飽き足らなくなり、新雑誌の創刊にかかわった末に社会性俳句の方へ接近してゆく道筋は見やすい。興味深いのは、「つくる自分」という用語が本書に何度も出てくるのに徴しても金子兜太の造型俳句の考え方に影響を受けているのは明らかなのに、「海程」に接近した形跡がない点。それだけではなく、豊かな筆力の持ち主でありながら、「俳句研究」「俳句」などの総合誌に書いた文章がひとつもなく、発表先がほぼ所属誌に限られているのも目につくところだ。これは総合誌側の目配りの問題もあるにしても、むしろ著者の側にスポットライトの当る場所に近づくまいとする規制が働いていた結果なのではないかと想像される。その想像の根拠はと問われれば、行文そのものが湛えている風趣がそれだと答えておこう。
著者の俳句に庶幾するところは或る意味シンプルで、しかも五十年来、基本的には変わっていないもののようだ。「俳句の危機は」と題された、著者の俳句観をうかがうのに好適の短章があるから、全文を引いておく。
「俳句が短歌的であることが何より危機なのである」とは古館曹人の御託宣である(朝日新聞「俳句時評」)。俳句表現が俳句独自の生理とメカニズムに根ざし、制約を逆手にとってこそ、多力たりうることは、言をまたぬ。しかし、現代俳句の危機が、現代抜きの、俳句形式の危機へと矮小化されていくところに、正論とみせての俗論ぶり躍如たるものがある。五七五最短定型律に引っぱられる詩であれば、あとは短歌的であることも含めて、俳句表現の可能性を極限までおしひろげて、自己とその同時代のリアリティをうたうべきなのだ。逆説めくが、俳句が俳句的でしかないことが何よりの危機にほかならない。(「伐折羅」84・8)
勝原(以下、敬称略)は、この明確な立ち位置からさまざまなる「正論とみせての俗論」に批判の矢を繰り出すのであるが、決して批判のための批判に陥ることなく、且つみずからの悲壮に酔うようなところが微塵も無いのは、読んでいてまことにすがすがしい。また、作品の読み手としてはおよそ柔軟で、流派に捉われず、その選句や読解はいちいち正鵠を射ている印象を与える。読んでいて、名利にすり寄らぬ高潔さ、公平なバランスのとれた知性、俳句以前の人間への愛を強く感じないわけにはいかなかった。
勝原がこだわって、繰り返し論じているテーマが幾つかある。桑原武夫の「第二芸術」論や、新興俳句弾圧事件における三鬼スパイ説とその雪冤裁判などであるが、他にも戦争責任をめぐっての草田男=楸邨往復書簡、戦火想望俳句に対する草田男の批判、虚子の戦争俳句、草田男の犬論争などについてはとりわけて力のこもった文章が書かれている。敗戦時十八歳の戦中派だから当然と片付けられないのは、現に俳句界の多数派がいまだ戦中派であることを想起すればすぐわかる話だろう。これらの問題、もちろん評者とて全く知らないトピックスというわけではなかったが、勝原の的確な整理と、一方に偏しない粘り強い解析によって蒙を啓かれる点が多かった。ひとつだけ例を挙げておけば、三鬼スパイ説と雪冤裁判の一件。まず、「『密告』の波紋あれこれ」(「伐折羅」79・3&6)では、作家・小堺昭三のノン・フィクション作品『密告』に対して、川名大や山本健吉、田原千暉らによってなされた俳句界からの主たる批判を紹介しつつ、遺憾な点の多い作品であることは認めながらも川名らのロジックにもまた陥穽のある点を指摘している。
独断があり、粗いノン・フィクションものではあれ、俳句事件のあらましは伝えているのである。それも被弾圧者の側に立って書いている。密告者たちや特高へ告発的に向きあう熱っぽさは読み手に伝わるのである。
といったあたりが、『密告』そのものについての勝原としての概括であるが、
この弾圧事件の被害者たちの誰彼から、自分たちは甘かったということばが期せずして洩れたという。四十年前のみずからの「甘さ」を噛みしめる苦さは、戦争下の時代の悪気流のほどを偲(しの)ばせるに足りる。この「甘さ」から、どういう苦さを引きだしてくるかは、俳句事件に直接かかわりをもつ人たちだけではなく、わたくしたちじしんにも問いかけられている問題だといえるだろう。
といった一節にも見られるように、勝原の文章は共感・共苦を先立てた態度に貫かれている。それは、次に見るように、山本健吉への批判に際しても同じである。
「昭和俳句事件」(「東京新聞」78・11・7)を書いた山本健吉は、かさねて「西東三鬼の憂鬱」(「毎日新聞」79・4・7)なる文章を載せた。三鬼の命日がたまたま四月馬鹿の日であることにからめて、そこでは、『密告』をめぐって、三鬼スパイ説というシビアな問題が深刻めかさずに扱われた。スパイという存在は、左右を問わず人間の屑だときめつけておいて、こともあろうにそのスパイに、わが親愛する三鬼が、仕立てられたのだから唖然となる、という筆法である。だが、山本のように、スパイ一般おしなべて卑劣だ、背信だ、人間のカスだといっても、それだけでは事がすすまぬのである。スパイ行為は、目的のために手段をえらばぬやり方、生き方、運動のすすめ方のあれこれと、ひとつ根のものだと思われる。
今、山本の原文に当たる余裕がないが、勝原の要約に従う限りで言えば、人間観の深さの点で、まるで山本の負けとするしかあるまい。また、次のような指摘も、俳句弾圧事件を考える場合に留意しておかなければならないだろう。
スパイ呼ばわりするからには「物象と論拠」を示せという山本や川名のいい分は、それだけとれば、もっともな指摘ではある。しかし、川名の「俳句弾圧事件の外貌」(「俳句」78・2~3)にも見られるように、「特高月報」とか「社会運動の状況」などといった、体制側、権力側の資料によって、からくも真実をあきらかにしてゆくほかないという、俳句弾圧史研究の無念な実状の下でのことである。「物証」を示せといっても、スパイ関係の資料など、まず特高がのこす心配はない。それにもかかわらず、あえて「物証」を、と迫ることは、スパイへの疑惑を消させ、その追尋を打ち切らせる力として働きかねない。
「『密告』の波紋あれこれ」の段階では、名誉毀損で小堺昭三を訴えた三鬼の名誉回復裁判はまだ始まっていなかったが、「まがまがしき俳句事件体験を経験に」(「伐折羅」81・5)執筆の時点では裁判が始まっており、その行方を見守るためか、〈『密告』をめぐる発言が、このところ、あまり見当らぬようだ。〉と、報告されている。「俳句研究」誌では、「はたして西東三鬼は『特高のスパイか』か?」というアンケートまで取った(一九七九年八月号)そうで、これはちょっと驚いた。さて、関連記事の三番目は「三鬼雪冤裁判に思う」(「伐折羅」83・9)で、すでに裁判は三鬼遺族の勝訴に終わっている。評者などはこの裁判について、原告側――具体的には鈴木六林男や三橋敏雄らに身を寄せた位置から、宇多喜代子が少し書いているのを読んだことがあるくらいで、六林男や敏雄は旧師のために頑張って偉いくらいの、しごく浅い認識しか持っていなかったので、鈴木六林男を批判する以下のような指摘は意外であると共に、言われてみればなる程と思わざるをえない。
遺族とすれば、「冤罪」をそそがでおくべきの思いにかられるのも無理からぬこと。しかし、新興俳句のながれに立つ俳人として、遺族の怒りに、恩愛のきずな、敬愛のまなざしで自らをかさねあわすだけでいいのかと思う。三鬼の「ぬれぎぬ」晴らさでという思いのみが先立って、史的事実をあつかううえに必要な客観的・実証的態度を欠いてはいないか。三鬼の名誉回復と新興俳句弾圧事件を今日にとらえ返すこととが、ひとつことでもあるかのような曖昧さ(まやかしといってもいい)が見られるように思えてならない。
この六林男に対する批判がすぐれているのも、先ほども述べたように、勝原の人間理解の深度があればこそであり、六林男の知性と行動力がこの場合に陥ってしまった視野狭窄に対する内在的な立ち位置を確保し得ているからだろう。
「昭和の暗黒時代の回顧が、今回の裁判によって少しは明らかにされた」と静塔は書いているが、明らかになったことのひとつは、国家権力の凶暴な力にたいする新興俳句人の昔にかわらぬ甘さ、お人よし、楽観ぶりである。「新興俳句人たちの情勢分析・読みが楽観的すぎたことが弾圧を招いた要因の一つ」(「新興俳句の弾圧」)とまで川名は指摘している。「自分たちは甘かった」という苦い思いを聞書きのかたちでとりだした『密告』への悪書扱いの合唱のなかで、今回の裁判を経て、かつての甘さが温存され、増幅された感さえある。
国家が俳句を弾圧するなどということは今日では起こりえないし、想像の及ぶ範囲での将来にも起こりはしないだろう。だからといってそれが現在のわれわれに必ずしも無関係でないのは、ここで勝原が指摘しているような「甘さ、お人よし、楽観ぶり」が、いわば俳人という人間類型のうちに骨がらみの遍在ぶりを示しているからだ。例えば、次の「山鳩と雪と――高屋窓秋の『心のなかの宇宙』=劇場空間の登場者たち――」と題された高屋窓秋論の冒頭に登場する高原耕治や宇多喜代子なんかも、そういう人の良さを見せていて微笑ましい。
「原爆の句を書くのは難しいです」という高屋窓秋に、「なぜ難しいのですか」と尋ねたところ、「原爆そのものがよくわからないからです」という答えが返ってきたとのことである(「俳句技術者の〈目〉」高原耕治「未定」高屋窓秋特集号)。そのやりとりからも、高原氏は窓秋に俳句技術者の〈目〉を見てとるのだが、そうした高原氏に俳句技術者への傾性を感じてしまうのは、こちらの思いすごしだろうか。「なぜ難しいのですか」ではなく、「難しい原爆の句をなぜ書くのですか」と問うて欲しかった。
同じ「未定」の特集号の宇多喜代子さんの論攷(「高屋窓秋の雪月花」)に次のようなくだりがある。「核」一連の句にからめて、「この作品を読んで、高屋窓秋が俳句で『核』を告発していると思う人はまずいないだろうが」と。作品は受け手によって、当の表現に即したそれぞれの読みとり方があるし、あっていい。それが生半可なものに終わりかねないからといって、「核」=核戦争の危機への告発をそれらの窓秋俳句から読みとることを、ことさらにいなしてみせる書きかたは、いかがなものか。窓秋俳句をなまなましく告発にまでつなげて読みとる受け手がいることは好ましいとさえ思う。それらを告発の作とだけ読めば呆れられもしようが、告発と読む人はいないだろうと、達人の眼で読みを平準化してしまうことも空しい。(「伐折羅」93.11)
もちろん高原も宇多も優秀な人たちであり、善意という以上の敬愛の念をもって窓秋に対しているわけであるが、むしろその善意こそが窓秋の可能性を矮小化してしまっていることに勝原は苛立っているのだろう。さらに言えば、この勝原の批判を免れる俳人は実のところ多くはないし、評者、少なくともかつての評者なども例外ではなく、豊里友行の俳句を素材主義としか受け取れなかった筑紫磐井なんかも同様と思われる。しかし筑紫が、あえてと言いたい程に唐突に相馬遷子を読み直したりしているのは、彼にも何らかの反省があるのであろう。
ある意味では、勝原の発言はすべて常識に属するのかも知れない。しかしまた、われわれがしばしばその常識を見失ないがちなのは俳人だからなのか、あるいはそれ以上に、物事を見たいようにしか見ない存在で人間があるからなのか。ともかく個人的にも大きな示唆を受けたし、昨今、これほど広く読まれて欲しいと思った俳句の本は他にない。作家論としては上に一部を引いた高屋窓秋論の他、渋谷道、三橋鷹女、鶴彬、後藤夜半、意外なところでは京極杞陽なども論じている。河原枇杷男や攝津幸彦に対するかなり辛口の(しかし行き届いた)感想もある。紹介したい文章はきりもないが、以下、アフォリズム風に若干を抜粋して筆を擱く。特に、最後から二番目の坪内稔典に関する文章だけでも読んでいただければと思う。本稿の「六十年後の反転からの反転」というタイトルは、評者としてもそろそろ終わって欲しい坪内スタンダードに対する勝原の意見への共感から付けたものだからだ。
詩人にも、俳人にも、一種の虚構信仰が今日ひろがっているが、虚やまぼろしは万能の秘法ではあるまい。(中略)芭蕉は「心の味」を言いとろうとして、「乾鮭」や「空也の痩」や「寒の内」をとらまえたのであって、その逆ではない、と虚構派のひとりはいう。しかし、「乾鮭」などの匂いが、その生活圏・思想圏にあって、はじめて、ある「心の味」が芭蕉の胸奥をとらえ、一句として言いとめられたのではないだろうか。「心の味」を求めて呻吟することによって、やみくもに乾坤から呼びだされた言葉ではあるまいと思われる。(「リアリズムの現場を遠巻きに」/「伐折羅」75.2)
〈敵といふもの今は無し秋の月 虚子〉という、敗戦の年の八月二五日の「朝日」に寄せた句にしても、花鳥諷詠座の虚にいて、戦争を雲烟過眼視したればこその所産、かく洒々(しゃあしゃあ)とうたいだすことができたと、静塔は言う。しかし、この句は、考えようによっては、敗戦まで「敵」の存在を意識しつづけていたことを逆にあきらかにしてみせたものともいえるのである。詩集『記録』を世に問うた高村光太郎が己れを責めて「暗愚」と呼ばずにおれなかったその地点にまで、みずからを追いつめぬところが虚子なのである。戦争詩という視角からだけ虚子を見て、どうこういうわけにもゆかぬが、みずからを「暗愚」と呼ぶかたちで、みずからの非暗愚を証(あかし)だてたのは、光太郎のほうであった。(「歌声と櫂を漕ぐ奴隷たち」/「伐折羅」75.3)
レトリックが詩的創造の現場において、緊張関係そのもののなかで機能せずに、一人歩きし、物神化するようなことがあってはならぬ。(中略)試行ひとつ、実験ひとつ試みようとしない精神が、無力に徹したり、無力を逆手に取ろうとしても、それはかなわぬことだ。逆手に取ったつもりが、逆手にとられ、ということになりかねない。(「はかない努力に明け暮れ讃」/「伐折羅」80.1)
「俳句でなくっては現せない」ものなど、基本的には、ありはしないのだ。俳句でなくては現せないあらわし方、うたい方があるだけなのだ。俳句でなくてはうたえないものなどないと考えて、うたえそうにないものをうたおうとしてこそ、方法的自覚も研ぎすまされるのではないか。(中略)俳句には、うたえないものがあるという考えに立って、性急に、ジャンルとしての俳句に外側から絶望的に見切りをつけようとしたのが第二芸術論であった。おなじく、俳句にはうたえないものがあるという考えに根ざしつつ、内側から自足的に見切りをつけてきたのが守旧派であった。(「この小さな容れ物」/「伐折羅」83.4)
字余りを自然なかたちとして表現に移した芭蕉、「言葉の旅」から「体験の旅」への旅をした芭蕉、そうした旅を栖に老をむかえた芭蕉の、その深まりを見せた思いのたけは、表現者としていえば、「いかに描くか」と「何を描くか」を、きりはなちがたくさせていると思われる。(中略)読みを深め、詩というものの機微に触れれば触れるほど、「いかに描くか」に傾くものでもあるのだが、「何を描くか」の復権?を、それも「書評」をかりて、先達に望蜀の思いをつらねることのおかしさを、われながら感じもするけれども、この本の読後感としては、芭蕉には、「いかに描くかが、そのすべてであった」ということとは、ちがった感銘と手ごたえが残ったのである。(「『芭蕉の世界』(山下一海)を読む」/「伐折羅」85.11)
桑原武夫の言うところの「冷やかな目」でなければ見抜きえぬところの諸欠陥も現代俳句にはあって、「第二芸術」論の精彩も、真実も、そこにある。しかし、「冷やかな目」では見ることのかなわぬものもあって、それが「第二芸術」論の「欠落」や「穴」になっているのである。(「閉じられた円環を破り出るために――杉本秀太郎『第二芸術論のあたえたもの』に寄せて――」/「伐折羅」89.3&4)
そのようにして凝視をつづける過程で、表層の写生の底が抜かれ、つくる自分と対象とが、かたみに引きあったり、一如と化したりするあたりの機微を、(「凝視する」という文章で……引用者注)素逝は明らかにしていた。対象を見つめることが自分を見つめることと一つになるのだが、その場合、見つめられる自分はといえば、知らず知らずうべなわれ、許されていることが多い。批評が入りにくいのである。(「『自分を見つめる』ことなど」/「淡青」97.3)
坪内稔典は言う。桑原の指摘する未完結性、脆弱性こそが俳句という極小詩型の特色ではないか。負の条件こそが俳句の力ではないか、と居直ってみせる。だが、しばし待て。それは俳句の負の条件を腑わけすることなく、十把ひとからげにする論法であって、最短詩型であることだけを負の条件とみなすならば、そこに反転の余地は十分にあるだろう。だからといって、俳人が骨がらみ身につけてきた前近代的な残滓や視野狭窄、自己規制などのかたちをとる思想性、社会性の欠如などへの批判まで反転させて、なべて俳句の美質とするわけにはゆかぬのである。(中略)俳句において重要なのは読者であって、その読者の読む力を誘発し、あたらしい経験づくりとしての読みへと挑発するわざが大事だと、坪内稔典は主張する。だが、重要なのは読者だという言い方そのものがうさん臭いのである。俳句づくりの上で作者と作品とが肉ばなれをおこす誘因が、そこには潜められている。(「六〇年後の反転におどろき――『俳句界』〈第二芸術論〉特集を読む――」/「こだま」05.6)
「俳句は自立しない」「自立しないことそれ自体が俳句の価値だ」と著者は言う。自立しないのではなく、自立させねばならぬのである。「完成していない」ものを完成に近づけるのが俳句表現なのであって、推敲に命を削った芭蕉に思いを馳せるまでもない。(「『俳句の射程』(仁平勝)を読む」/「こだま」07.3)
(※)勝原士郎『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』は、著者から贈呈を受けました。記して感謝いたします。
(*)勝原士郎『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』
二〇〇九年十一月三十日刊 北宋社
(*)ひとつだけ不審なのは、本書の版元が北宋社である点で、社長の渡辺誠氏は、筒井康隆氏の短編集を無断編集、無断刊行した廉で訴えられていた人であるはずである。しかし、本書「あとがき」には、〈北宋社の渡辺誠さんには、企画、資料蒐めから仕上げまで、共同作業者として忍耐強く伴走してもらいました。〉とあって、この本に関してはちゃんと仕事したらしい。そういえば、岡井省二が亡くなる直前に出した『岡井省二の世界 霊性と智慧』(二〇〇一年)の版元も北宋社であった。なんなのであろうか。
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