七曜俳句クロニクル Ⅱ
・・・冨田拓也
9月13日 日曜日
第3回の芝不器男俳句新人賞の公募が、すでに始まっているそうである。
この芝不器男俳句新人賞の、第1回(2002年)の受賞者は、冨田拓也というゴミクズで、第2回(2006年)の受賞者は「藍生」「いつき組」所属の練達の士である杉山久子さん。
以下、「愛媛県文化振興財団」のホームページより今回の第3回芝不器男俳句新人賞の概要を記しておきたい。
第3回芝不器男俳句新人賞
趣意
「彗星の如く俳壇の空を通過した」(横山白虹)と評された芝不器男は、現在の愛媛県・松野町松丸に生まれ、鬼北盆地の豊かな自然と俳句好きの家庭の中に育った。昭和初期の数年間に活躍し、夭折・望郷の俳人とも呼ばれる不器男が遺した俳句は、僅か二百余句に過ぎない。しかし、一つひとつの句の持つ豊かな抒情性と瑞々しい詩性は、その後の俳句の先駆けとなるものであった。芝不器男の名を冠するこの賞は、新鮮な感覚を備え、大きな将来性を有する若い俳人に贈られる。この賞が誘因となって、今世紀の俳句をリードする新たな感性が登場することを強く願っている。
募集内容
応募者が創作した俳句 100句。(既発表句でも可。ただし、平成17年12月1日以降に発表した句で、著作権を他に譲渡していないものに限る。)
応募資格
昭和45年(1970年)1月1日以降生まれの方。
応募条件
副賞句集掲載句の出版権は、(財)愛媛県文化振興財団に帰属。
応募作品は、当財団の出版物・ホームページ・その他の事業で使用できることとする。(その際の著作権使用料はお支払致しません。)
応募方法
当ホームページ上で指定する応募様式に応募100句(前書き不可)を記入のうえ、必要事項を記載し、E-メールにより送付。
応募締切
平成21年11月30日(月)午後5時
選者(選考委員)
大石悦子(俳人) 城戸朱理(詩人) 齋藤愼爾(俳人) 対馬康子(俳人) 坪内稔典(俳人)
参与
西村我尼吾(俳人)
選考方法
氏名・年齢秘匿のまま、選考会(選考委員会/委員長 大石悦子)において討議選考。
平成22年3月に一次選考会を実施し、当ホームページで公表予定。
平成22年6月に最終選考会を公開実施予定(愛媛県松山市)。
授賞式
最終選考会終了後、同会場にて実施予定。
9月14日 月曜日
杉山久子さんの『春の柩』(愛媛県文化振興財団 2007年)と、同じく杉山さんの『猫の句も借りたい』(マルコボ・コム 2008年)を再読。
『春の柩』は100句から構成されており、
春氷たれかとほくにうたひゐる
あをぞらのどこにもふれず鳥帰る
夏痩せてピューマにしづかなる怒り
日盛や仏は持てり金の舌
といった清新さやコミカルさを伴った、全体的に危なげのない安定した実力を感じさせる作品が、多数収録された句集となっている。
一方の『猫の句も借りたい』の方は、2008年に出版されたもので、すべて猫に材を摂った108句が収録されている。内容としては、愛猫である「みー」が平成元年に作者の元へやってきてから、その「みー」が平成20年に亡くなるまでの間に詠んだ作品が、句集の大半を占めるという構成となっている。
加藤かけいという俳人に「菫100句」、「塔100句」、「山椒魚100句」といった連作の存在があるが、この『猫の句も借りたい』108句は、それらのかけいの連作と比べても遜色なく、ある面においてはかけいの連作をも凌駕する側面さえあるように思われる。かけいの連作には、その随所に見られる細部における大雑把さや、全体の構成力に欠けるなどやや難点が見受けられ、そこに読者としては若干の物足りなさが感じられてしまう憾みがあったが、この『猫の句も借りたい』における、連作としての作品内容と、その構成力の高さについては、かけいの連作のようにこれといった瑕瑾は認められず、相当の出来映えを示していよう。
猫呼びに出てみづいろに春の月
猫の子に太陽じやれてじやれてじやれて
恋猫といふ曲線の自由自在
猫去りし膝月光に照らさるる
にやむにやむと唱へて猫をおくる秋
亡き猫の鈴の音聴く余寒かな
9月15日 火曜日
「つの かる と」鹿鳴集の分ち書き 藤井富士男
作者の藤井富士男さんは中村草田男の門下生であり、「翔臨」所属。掲句は句集『苦艾』(2008年 中井書店)所載の作である。
『鹿鳴集』とは、1940年刊の会津八一の歌集名である。この歌人の短歌はひらがなのみの分ち書きで構成されていることで有名なところがある。
この句における「つの かる と」の部分は、この『鹿鳴集』の〈つの かる と しか おふ ひとは おほてら の むね ふき やぶる かぜ に かも にる〉という1首からの引用であろう。
この「つの かる と」は当然ながら奈良の「鹿の角切」で、秋の季語ということになる。しかしながら、この「鹿の角切」という季語をこのように『鹿鳴集』を介したかたちで表現した句は、他には例を見ることができないであろう。まさしく異色の1句である。
集中には、他に〈草の花小粒の雨の中にあり〉〈留守番の少年早寝青葉木莵〉〈恐竜の卵に触る夏休み〉などの140句が収録されている。
9月16日 水曜日
本郷昭雄の『不知火幻想』(昭森社 1968年)を読む。
この本郷昭雄という作者の存在について自分は知るところが少ない。この句集以後の歩みや作品展開、また現在この作者が存命なのかどうかなどといった事柄についても、自分には不明である。
せいぜいわかることといえば、野見山朱鳥の弟子であったという事実と、昭和50年代に湯川書房という出版社の「叢書 水の梔子」という、「寺山修司『わが金枝篇』、赤尾兜子『遂木』、楠本憲吉『隠花植物』、馬場駿吉『薔薇色地獄』、林田紀音夫『弦』、高柳重信『山川蝉夫句抄』、金子兜太『早春展墓』、津田清子『分水嶺』、本郷昭雄『瞳孔祭』、鈴木六林男句集『國境』、高橋睦郎『旧句帖』」といったラインナップの叢書のシリーズにおいて、句集の刊行が予定されていたようである、ということを知るくらいであろうか。
この湯川書房の「叢書 水の梔子」については、『俳句界』2008年6月号の福田基さんの「林田紀音夫の俤」という文章によると、この叢書シリーズの刊行の途中で湯川書房が倒産してしまい、何冊かが刊行されないままに打ち切られる結果となってしまったようである。
おそらく実際に出版されたのは、寺山修司『わが金枝篇』、馬場駿吉『薔薇色地獄』、高柳重信『山川蝉夫句抄』、金子兜太『早春展墓』、鈴木六林男句集『國境』、高橋睦郎『旧句帖』の6冊であり、はっきりとしたことはわからないが、おそらく、赤尾兜子『遂木』、楠本憲吉『隠花植物』、林田紀音夫『弦』、津田清子『分水嶺』、そして、本郷昭雄『瞳孔祭』の5冊については刊行されなかったのではないかと思われる。
さて、句集『不知火幻想』についてであるが、昭森社から1968年に刊行されたもので、装丁は加納光於。その作品を見てみると、全体的に現在の視点から見れば、あからさまに耽美的な傾向の作品が多く、それがやや鼻につくきらいがないではないが、それでもそれらの作品の中には、次のような作品が見出せる。
不知火を待つうつしみに風かすか
妹恋ふやなべて帰帆の春満月
枇杷の種ことりと皿に遂に孤り
鷹の目をもて為せし事過去となりし
なべて遠し冬水視野に光りつつ
ころもがへうしほのごときかなしみに
流れ去る雪片の影鷹の影
筒鳥の啼くたびわれを遥かにす
などてか憂ふ夏鶯の声もみだれ
鷹落ちて夕焼群嶺燃えこぞる
八千草の中おもひくさわすれくさ
かなしみさだか濃紅葉に墨滲むごと
正に春星なほ若き喉仏
このあたりのやや古典的な雰囲気を持つ作品のいくつかについては、現在においてもいまだにその魅力は失われてはいない、といっていいのではないかと思われる。たとえば、現在の俳人たちの自選作あたりと比較してみても、その内容は決して見劣りするものではないだろう。
特に〈かなしみさだか濃紅葉に墨滲むごと〉にみられる、紅葉のその葉っぱの一枚一枚の葉脈までもが墨の黒色に浸されてゆくようなイメージを描き出すことによって表出された悲哀の感情を表現する技法の繊細さというものは、おそらく他に例を見ないものではないかと思われる。
他にも、この句集以外の作として
水五月漢光の束のごと
といった作品が存在する。
この「水五月」という上五のやや意外性のあるはじまりと、その五月の季節における強い水のきらめきの中を歩む謎めいた「漢」(おとこ)の存在そのものを「光の束」という表現で捉えたことによって感じられる眩い超絶性など、このようなやや異色ともいうべき作品の存在も確認することができる。
こういったどちらかというと俳句らしい俳句とはなにかしら異質な作品を成した俳人であるこの本郷昭雄の、『不知火幻想』以後における作品の足取りといったものは、一体如何なる軌跡を辿る結果となったのか、非常に気掛かりなところである。
9月17日 木曜日
『小中英之歌集』(2004年 砂子屋書房)を読む。
小中英之は1937年生まれ、1961年「短歌人」入会、2001年に逝去。安東次男の唯一の内弟子ということになるらしい。
正直なところ、その短歌作品は散文性を徹底的に峻拒し、韻文性そのものに徹頭徹尾貫かれたものであり、自分にとっては理解するのに困難な作品が少なくなく、果たして読者としてどこまでその内容を理解できているのか心許なく思うところが多いのだが、その中でも
氷片にふるるがごとくめざめたり患(や)むこと神にえらばれたるや
小海線左右(さう)の残雪ここすぎてふたたび逢ふはわが死者ならむ
この寒き輪廻転生むらさきの海星に雨のふりそそぎをり
といった作品については、それこそ、いままで1度たりとも自分の記憶から消え去ってしまったことはないのではないか、という気さえする。普段、俳句に接していることが多いせいか短歌というものはやや冗長に感じられるところがあり、その大方は読んでも早々に忘れ去ってしまうのだが、これらの作品についてはまさしく例外といっていいであろう。
これらの作品が記憶から容易に雲散してしまわない理由のひとつとしては、おそらく韻律の力が大きく作用しているということが考えられよう。特に「小海線左右(さう)の残雪」「この寒き輪廻転生」といった表現から感じられる、まるで漢文を読んでいるかのような独特の感覚とリズム。こういった特異な韻律を自らのものとして自在に縦横無尽に駆使することが可能であったのが、小中英之の作者としての非凡さであったのであろう。歌集を読んでいるとこのような短歌を書くことができる歌人は今後2度と登場することはないのではないかという気さえする。
小中英之の短歌を読んでいると、どこかしら俳句の世界における次の作者たちの存在を想起するところがあった。
枯蓮消息(たより)相絶つ指呼の間 下村槐太
針を灼く裸火久し久しの夏 三橋敏雄
急ぐなかれ月谷蟆(たにくぐ)に冴えはじむ 赤尾兜子
9月18日 金曜日
俳句表現における「典型」と「破格」といった考えが、ぼんやりと思い浮かぶ。
高浜虚子を例にとれば、「典型」の俳句として
遠山に日の当りたる枯野かな
風鈴に大きな月のかかりけり
流れ行く大根の葉の早さかな
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
などといった作品が挙げられ、「破格」の俳句としては
年を以て巨人としたり歩み去る
爛々と昼の星見え菌生え
去年今年貫く棒の如きもの
高きに登る日月星辰皆西へ
といった句が挙げられよう。
現在の多くの俳人たちの自選作を『平成秀句選集』(角川学芸出版 2007年)で読んでみると、その大方の作品傾向として見られるのは多く「典型」としての俳句であるように見受けられる。
現在の虚子の信奉者たちの作品を見ても、虚子における「典型」の側面を受け継いでいる(ように見える)作者たちの存在は少なくなかろうが、「破格」の表現を自らのものになし得た作者はおそらく1人も見出せないのではないか、という気がする。
9月19日 土曜日
岡本信男の句集『挙白拾章』(書肆季節社 1977年)を繙読。
妙な句がいくつも。
フォルクスワーゲン暮しの方へ寒念仏
大学の壁自転車の涅槃せり
春の月弱者の影と電柱と
自転車の解体新書ところてん
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7 件のコメント:
冨田さん、こんにちわ、滑り出し快調ですね。
岡本さんの句。此処で読むだけですが、妙ですか?ちょっと奇抜だけど、単純な取り合わせだとおもいますが・・。このごろ良くあるタイプ。
フォルクスワーゲン暮しの方へ寒念仏
大学の壁自転車の涅槃せり
春の月弱者の影と電柱と
自転車の解体新書ところてん
以上 岡本信男 作
合っても合わなくても、読者の方が勝手に物語を作ってくれる態のものです。
「自転車」と「ところてん」が、「解体新書」でつながるところがまあ妙ですが、これ、連想の走り幅跳びみたいで面白い。
吟様
コメントありがとうございます。
そういえば、ここは「豈」でしたね。
岡本信男程度ではまだありきたりの句ということになりそうです。
最近、現在の俳人の句集をいくつも読んでいるのですが、そういった典型性の強い作品ばかり読んでいると、岡本信男の句が奇抜に見えたという側面があったのだと思われます。
岡本信男についてはまた明日取り上げます。
冨田拓也様、いえ、わたしが「豈」だからどうとか言うのではなくて(これだけ句柄=芸域の幅が広くなっているわが同人誌なのです。いまさら・・笑)、ひとつには、こういうのを「妙・奇妙」と冨田さんが感じられたことがおもしろかったのです。
コメント主義の面白いところは、書き手の意表の裏をかいて、読者のコンセプトに引き込むところです。どちらの枝道を取るにしろ、インタラクティブな共同性が生じますから、楽しいです、このごろそういう俳句が多くなっていて、この岡本さんの「俳句」にもそんなところを感じます。
では、次週のクロニクルを楽しみにしています。
冨田様
「つの かる と」の句を取り上げていただきありがとうございました。私は有季定型俳句(いわゆる伝統俳句ではありません)を作っておりますので、「季語とは何か?」と自問しなければなりません。
「草の花」は私が俳句を始めたばかりの時のもので、ほんの少し草田男先生の手が入っております。その思い出のために巻頭に置きました。
冨田さんのクロニクル楽しみにしております。以前から思っているのですが、俳句が一句できると作り得る俳句が減るのでしょか? あるいは増えるのでしょうか?
六甲山さま
「つの かる と」の句は、確かに季語についてそのような認識や考えがなければ生まれてこなかった句でしょうね。
「草の花」は、六甲山さまと、かの草田男とのいうなれば共作であったのですね。羨ましい。
さて、「以前から思っているのですが、俳句が一句できると作り得る俳句が減るのでしょか?あるいは増えるのでしょうか?」
とのご質問ですが、なんというか、私にははっきりとは答えようのないところがありますね。
個人的には一句できると作り得る俳句の数が「増える」のならいいなという思いを持っているのですが、実際のところ多くの実作者の例をみてみると、なかなか厳しいものがあるというべきかもしれませんね。
とある辛辣な評者の方は、俳人の大半は第一句集ですでにその作者の書き得るパターンをあらかた出し尽くしてしまっている、などという厳しい意見を書いておられるのを読んだことがあります。
冨田様
ご回答いただきありがとうございました。
中年までは、ぱっとしなかった俳人が晩年(高齢)になってから味わいのある枯れた俳句―自在な魅力的なもの―を作るという例がありますね。それらは一見平明です。「長生きも芸のうち」という言葉を思い出しました。
たしかに途中からよくなってゆく作者も存在しますね。中尾寿美子や清水径子あたりがそうでしょうか。加齢とともに作品の深みが増してゆくのが、作者として一番理想的であるかもしれませんね。
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