2009年8月16日日曜日

あとがき(第52号)

あとがき(第52号)



■高山れおな

私用で旅行に出ていたりしたため、高山は今週、執筆をお休みさせていただきましたが、お蔭様で力稿が揃っております。

関悦史さんの三橋鷹女論はいつもながら精緻にして大胆な議論が展開されています。大変面白く、興奮させられました。惜しむらくは、関さんの鷹女に対する愛の在り処が見えにくいところでしょうか。

冨田拓也さん「俳人ファイル」は、林田紀音夫。大部の全句集の読み込みが必要だったゆえ前号はお休みだったわけですが、さすがそれだけのことはあります。紀音夫の韻律と槐太のそれとの関係など、鋭い指摘が随所にみられます。

「遷子を読む」は、議論そのものはやや夏痩せの気味ながら、話題となっている遷子の句がいつにもまして深読みを誘う魅力を湛えています。磐井師匠による「遷子ミステリーツアー」も好読み物です。西村和子女史との偽善的な会話も良い感じ。

大井恒行さんは新しい職場で忙しくなさっていたようで、連載がしばらく中断しておりましたが、執筆再開です。攝津さんの会での鬼房のことは、小生もよく覚えております。

岡村知昭さんからは「安井浩司の近作を読む」読書会のレポートが届きました。俎上にのぼっているのは「蛇結茨抄」「天類抄」ですが、選句ひとつをとってもまことにいろいろで興味深いです。しかし、豈本誌四十八号に書いた拙稿はどうでも、当ブログに発表された関さんの安井浩司論さえ碌に参照された様子がない(約一名を除き)のはちと淋しくはあります。東は東、西は西ということでしょうか。となればしかし、安井浩司は東のビートそのものじゃないかと思いますけどね。もう単純に、神社仏閣の密度とかからして、くだんの読書会の方々がお住まいのあたりと東北地方では雲泥の差があります。ずっと関西だと案外そういうこともわかりにくいでしょうが、耕衣的禅機とも異なる独自の神話を安井が紡ぎ出そうとしている(紡ぎ出さねばならない)条件のひとつには、そんな場のあり方もかかわっていようかと思っております。

こしのゆみこ氏から、話題の句集『コイツァンの猫』を御恵贈いただきました。アマゾンで買った同句集が届いた直後のことでした。時々起こる悲劇ですな。



■中村安伸

冨田拓也さんからメールでご指摘いただいたのですが「―俳句空間―豈weekly」の創刊準備号(0号)を発刊したのが昨年の8月15日、第1号が8月17日ですから、今号でほぼ一周年ということになります。

第49号ばかり意識して忘れておりましたが、ともかく次号からは二年目の「豈weekly」ということになります。

ご閲読の皆々様におかれましては、今後ともなおいっそうのご贔屓、お引き立てを賜りますようお願い申し上げます。


3 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

「当ブログに発表された関さんの安井浩司論さえ碌に参照された様子がない(約一名を除き)のはちと淋しくはあります。東は東、西は西ということでしょうか。」(れおな)

 今回は、「俳句空間ー豈」の特集批評文を引用できなくて済みません。「東」はおろか「西」の私たちが書いた文章も今回はあえて、話題にはしませんでした。でも、それは、岡村さん達のひとつの方針でした。むしろ作家の新作に敬意を表しているこことでもあります。その人の手持ちの関心と教養で読んで、どこまで納得できるか、と言うことです。
 別に誰を無視しているのではなくて、私は批評と作品鑑賞を同時に進めることを大事に考えていますし、関さんのお説は注目していますから、後日、かならず参考にして言う日が来ると思います。

当日の話は、微妙なところが、司会者だとかえってまとめにくい内容も混じっているので、これも、すこし濾過した上で、ポイントはこの報告を受けて、後日私などによってまた文章化されるでしょう。

なお。大本義幸さんが来てくれて、安井さんが「遅参性」:をいっていたころの作だ、とか、安井の特集はよかったよ、これは成功だ、こういうのをやると好い、たとえば赤尾兜子などは、特集をやる価値がある、と言うようなことを、筆談で言っておられました。それがどこまで実現できるか、と言うことはありますけど。
(そうそう大本義幸さんは、このあと予防切除手術で入院中ですが、もうそろそろ退院でしょう。)

 ともかく、このたびはじめて作品を読む、という単純な作業をこころみ。安井浩司のことばの特異さや意外な具象性にふれる快感を得られたことが大きな収穫です。単純ですが基本的な姿勢です。みな、なかなか好い読み方をしているでしょう?

 安井俳句をめぐる、批評、もしくは作家自身の思想の散文脈については、先日の会が終わった段階から、ヒコイズム研究会の読書課題として発展してゆきますので、そこの場で新たに考えたく思っています。これについては、私がいちおう畑を振っていても、そんなに大組織ではありません。いつも数人でやっています。誰も来なければ私ひとりで続けますからご安心下さい。そういう読者をどレだけ獲得するか、と言うことが今回の出版や「俳句空間ー豈」特集の成果のきめてになるはずです。
 また、安井さんは、言葉の使い方などは、読ませる俳句、文字と共に視覚的喚起性のつよい作風です。ウェブ媒体と共に紙媒体が絶対必要だとおもいます。
  れおなさん達は、今後も表舞台でまことにめざましい水先案内人となってくださいますことを。
              堀本吟

 

高山れおな さんのコメント...

堀本吟様

ご丁寧なコメント恐縮です。小生のあれはビーンボールですので無視してください。週末にカミツキガメの霊が憑依していたというまでです。今は別の霊が憑依しております。いずれ低級な動物霊でありましょうが、種別はつまびらかではありません。ではでは。

Unknown さんのコメント...

アナタ、ジャングル若獅子かな、と思っていたら、カミツキガメ、なのですか?
自己省察もちゃんとできてなおちゃんと悪口がいえるれおなさんは、なかなか面白いキャラです。
私はまあジャジャウマ。ときどき真面目にカミツきたい、こないだも、金子兜太先生の、うっかりみんなが本気にしてしまいそうな俳句=国民文芸」説にちょっとだけ噛みついてきたところです。(参照。詩誌「ビークル^詩の海へ」3号4号)。
それは、ともかく、このウェブ上、どちらもあえてトリックスターの役割を演じていることは、ふしぎな一致です。

あなたの書いていることで、あたっているところ、をひとつ。私たちの盲点を有益に傷つけてくれたお説の例として、

「もう単純に、神社仏閣の密度とかからして、くだんの読書会の方々がお住まいのあたりと東北地方では雲泥の差があります。ずっと関西だと案外そういうこともわかりにくいでしょうが、耕衣的禅機とも異なる独自の神話を安井が紡ぎ出そうとしている(紡ぎ出さねばならない)条件のひとつには、そんな場のあり方もかかわっていようかと思っております。」(れおな)

これには、眼を開かれました。てぢかに拝むものがありすぎる、というのも良くありませんね。
耕衣さんを禅樹、と言う宗教的俳人というキャラだけでみていいのかどうか。それはぎもんですが、
(大正リベラリズム。昭和のモダニズム、の精神性を感じます。根源俳句論争の時の耕衣の役割は、たしかに相対的には東洋思想へ傾斜が濃いですけど)。
安井さんの住む地方の文化環境に着目、されたところ、そういう考え方への誘導が、貴下の一文には見られますね。これはおもしおrかった。参考にさせてください。