■あとがき(第31号)
■高山れおな
春分の日に、金沢21世紀美術館で「杉本博司 歴史の歴史」展を見ることが出来ました。「海景」シリーズなどで世界的にも評価の高いこの写真家は、かつてニューヨークで古美術ディーラーをしていたこともあり、現在でも神道美術を中心としたコレクションを続けています。「歴史の歴史」展は、杉本氏の回顧展であると共に、氏のコレクションをも使ったインスタレーション的な展示が見どころです。私自身は、この人の作家的コンセプトを素晴らしいとは思うものの、写真そのものには馴染みきれないところがあったのですが、今展は思いのほか楽しめました。
中でも「反重力構造」と題された展示は、当麻寺の三重塔の古材(明治末年の解体修理に際して、老朽のため新材に差し替えられた部材)と、現在の塔の柱や斗供(ときょう。屋根を支えるために柱の上に置かれる組物)の原寸大写真とが組み合わせられ、強い垂直性に満ちた空間が生まれていました。また、平安時代の木造十一面観音像と代表作の「海景」を、美術館の中央にある円形の部屋に配した展示も見応えがありました。まんなかに観音像(法量一メートル内外の像でした)が立ち、ぐるりの壁にたしか十点の「海景」が並んでいたのです。「海景」は、世界各地で撮影された(され続けている)海の写真による連作で、船も人も陸も建造物も排除された画面には、海と空と両者を分かつ水平線しか写っていません。なんだか取り付くしまもないような恐ろしくミニマルでハイブロウな作品ですが、しかし、そこに古い仏像があることで、古代人が目撃した海という、このシリーズのコンセプトがにわかになまなましく迫ってくるようでした。
金沢近辺には何度も行っているのに、いつも時間が無くて参拝せずにきた小松市の那谷寺へも、今回はじめて立ち寄ることができました。奈良時代に泰澄上人が開いたこの寺は、境内の奇岩がおりなす景観を補陀落山(=観音浄土)に見立てた観音信仰・白山信仰の古刹です。そして我々にとってはなにより、芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途上、
石山の石より白し秋の風
と詠んだ故地ということになります。午前中、小雨が降って岩が濡れていたせいもあるのでしょうか、「石より白し」の実感はありませんでしたが、たしかに胸さわがせる奇景ではありました。掛造りの本殿や、建築というよりはまるで工芸品のような小ぶりで装飾的な造りの三重塔など建物も興味深く、断じて〈らちもなき春ゆふぐれの古刹出づ 槐太〉などということはありませんでした。
今号より中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井の各氏による、「遷子を読む」の連載がはじまりました。肝煎りの筑紫氏によれば、三年くらいかかる壮大な計画の由。今回はまだイントロダクションですが、多士済々のメンバーによって次回からどんな“読み”が施されることになるのか、展開に大いに期待したいと思います。
■中村安伸
31号の発行が一週間遅れとなってしまい、読者、執筆者他のみなさまにご迷惑をおかけいたしました。
14、15日に中学校時代からの友人と渥美半島を旅行していたため、もともと一日遅れで発行する予定でしたが、15日夜に祖父、正司が急逝したため、高山さんと相談のうえ一週間お休みをいただくことになりました。ご説明が遅くなり申し訳ありません。
祖父は昨年の6月に入院し、8月に一度退院したものの、寝たきりの生活となっていました。
一月にふたたび入院しましたが、徐々に回復しつつあると思っていました。つい数週間前、両親に代わって看護をするために帰省したのですが、そのときはときおり痛みを訴えるものの、病院の食事をほとんど残さず、体調はよさそうでした。数値も改善をつづけており、順調なら今月末頃に退院できるという話もあったので、今回の訃報はまさに晴天の霹靂でした。
享年百三ということで天寿を全うしたともいえるでしょうが、私が付き添っていたときも「もう一度だけ元気になりたい」と言い続けていたので、無念だったことと思います。
祖父のことを事細かに書くべき場ではありませんが、私が俳句を作るようになったきっかけを与えてくれたのがこの祖父でした。元日に必ず披露する自慢話のひとつが、某雑誌の新年号の俳句欄に投稿した句が松瀬青々の特選に入り、かなりの額の賞金を得たというものでした。句は「若水や暁雲に雪まじる」というもので、これが私が記憶した最初の俳句作品となりました。
その話を聞いて興味を持った私が、ひとりで俳句を作りはじめたのが10歳くらいのときだったと思います。祖父は直接私に手ほどきをしてくれるということはなかったのですが、かわりに楠本健吉著の俳句入門書を買い与えてくれたのでした。
若い頃、松瀬青々の「倦鳥」に投句したり、近在の仲間とともに句会をしたこともあったようですが、生業が多忙になるにつれ、句作からは遠ざかっていったようです。「俳句を続けていれば結社の主宰くらいにはなっていただろう。」と言っていたこともありました。
一方で、読者としては俳句に興味を持ちつづけており、特に蕪村の句を好んでいました。私の作品も読んでくれていたようで「安伸の俳句は難しい」と感想を言ってくれたこともありました。
一冊の句集を上梓することもなく、日記に書き付けられた数句が残されているのみですが、濃密に季語の世界を生きていた祖父は、私などよりはるかに「俳人」であったと思っています。
1 件のコメント:
中村安伸様; この間、堺谷さん達とともに柿衛文庫へいったときに、お祖父様のことをお聞きしたのに、それからまもなくこんなことになって・・。大往生とはいうものの、寝付かれてこんなにはやく逝かれて残念ですね。俳句をやっておられたというので、貴方にそれが引き継がれて心強く思われていたのではないでしょうか?
故人の冥福をおいのりもうしあげます。
高山れおな様;
金沢の21世紀美術館は、変わった設計ですよね。当麻寺へはときどき行きます。
一般人があまり気のつかぬところに焦点を当てている写真の視線・・諸現象をもう一度再編集してあたらしい風景を創っているわけで、紹介された部分は面白いですね。
東奔西走超多忙のスケジュールをこなしておられるので敬意を感じます。
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