■あとがき(第28号)
■高山れおな
わたしは本文記事を書く時も、少々度が過ぎるのではというほどに「あとがき」頼みであるのに、「あとがき」でまで「あとがき」の話をするのはどうかと思うが、安川奈緒さんの詩集『MELOPHOBIA』(二〇〇六年 思潮社)の「あとがき」は大変気に入っている。
中学、高校、大学と朝から晩までテレビばかり観ていた。それ以外何もなかった。明石家さんまの輝く歯を見つめながら、「空耳アワー」のタモリのサングラスの向こうにある目を想像しながら、音楽と詩は無関係だと思った。紙面から囁きかけてくるような詩は下劣だと思った。音楽的快楽から身を引き剥がした詩以外は信じられないと、いつでも甘くなろうとするナルシスティックなリズムを殺した詩以外は信じられないと思った。音韻論とかそういう難しいこととはまた別の次元で、詩の内なる敵は何よりもまず音楽なのではないかと思った。だからMELOPHOBIA(音楽恐怖症)、有言実行できていたらとてもうれしい。この世は音楽を愛しすぎている。
気に入っているということはつまり、これを読んで「そうだ! そうだ!」と思っているわけである。しかし、実際の安川さんが音楽嫌いとはむしろ信じがたいが、わたしは音楽嫌いでないとしてもほぼ音楽不感症である。昔(中学から高校二年くらいまで)は、そうでもなかったのに、大学に入ると同時に音楽というものを聞かなくなった。一日たりとも音楽なしではいられない方も世間には少なくない中で、わたしは間違いなく、一生音楽なしでも平気なクチです。
と、前置きが長くなりましたが、昨金曜、わたしは珍しく独りでコンサートに行きました。新聞で公演の情報を見て、自腹で切符を買って。考えてみると、これまで四十年生きてきながら、わたしは音楽会のチケットというものを自分の意志で買ったことがなかったのです。子供の時は親に連れられて行ったのだし、その後は友人とか奥さんとかに誘われたり、半強制的にお相伴させられたり、仕事のなりゆきだったり。で、結論を述べれば、やはり柄にもないことはすべきではないな、と。眠ってしまいましたもの。S席六千円の子守唄でございます。別に睡眠不足でもなかったはずなのに。そんなわけで、明けて日曜日はひたらすら句集を読むつもり。もちろんBGMなど論外です。
■中村安伸
・木曜日には前週に引き続いて、ハンブルクバレエの『椿姫』を横浜まで観に行きました。主演は『人魚姫』と同じシルヴィア・アッツオーニでした。
すぐれた踊り手は身体そのものが声を発するのですが、この方の踊りのスキルは群を抜いています。また、二次的なことかもしれませんが、周囲のダンサーたちと比べて、この方は背が群を抜いて(というのもおかしな言い方ですが)低いので、人魚姫にしろ椿姫にしろ、悲惨な運命に翻弄される女性の役が非常に似合うのです。
・金曜日は国立劇場の小劇場にて文楽公演を鑑賞しました。第一部の『鑓の権三重帷子』と第二部の『敵討襤褸錦』を通しで。第三部の『女殺油地獄』は貸切で切符がとれず断念。
かつては東京での公演はもちろん、関東近辺での巡業、大阪国立文楽劇場公演、それに小さなホールで行われる素性瑠璃の会から神奈川県の山奥の神社で行われた奉納文楽に至るまで、すべて観なければ気がすまないほど文楽に嵌っていた時期もあったのですが、ここ数年、人形遣いの吉田玉男師がなくなられて以降は劇場に足を運ぶことがありませんでした。
ひさしぶりに劇場で文楽を観て、技芸員さんたちの頭に白いものが増えたというようなことが印象的でした。それよりもブランクを感じたのは、登場人物の思考回路に同調するのが難しかったこと。
近松門左衛門作の『鑓の権三重帷子』にせよ、三好松洛、文耕堂作の『敵討襤褸錦』にせよ「義理」という、現在では理解しにくい規範によって左右される人間の悲劇を主題にしたものであり、現代の感覚で観ると不条理劇に近い異様な物語です。それでも『鑓の権三』に登場するおさゐという女性が嫉妬にかられて破滅する様には、グロテスクなほどのリアルさがありました。このグロテスクさを美に昇華する技巧こそが、伝統の芸というものの力なのでしょう。
・近頃自分自身の興味が俳句から離れているということを感じます。俳句を作ることにも読むことにも心が向きません。これは周期的なものであり、しばらくすればまた元に戻るはずですが、執筆のペースは落ちてしまいそうです。
そんなわけで今回記事はお休みとさせていただきます。
先週あたりからついに症状が出はじめた花粉症が関係しているのかもしれません。
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