2009年1月10日土曜日

『手帖』を読む

都会人の憂愁

小川軽舟句集 『手帖』を読む

                       ・・・山口優夢




傘させば雨音寄りぬ神の留守

雨を見ていると、いつも不思議な気持ちになる。何10平方キロメートル四方の空間すべてが水滴に満たされている不思議。水の中にいるわけでもないのに、水に満ちている空間の中にいる不思議。水はひっきりなしに天から落ち続け、物に触れるたびに音をたて、街はその音の中に閉じ込められる。

建物の中から出て傘を差す。傘にあたる雨が自分のすぐ間近で音をたてて、その瞬間から、降りこめられているのは「街」という大きな概念ではなく、もっとちっぽけで具体的な「彼」そのものになる。雨は街中の人々を一人一人の人間に分断し、傘は一人の人間のみをその領域内に招き入れる。ふと現われた一人の時間に一番近く寄り添っているのは、ぱらぱらと傘を叩いてゆく雨音。

黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ 林田紀音夫
傘のねばり開きや谷崎忌 山上実樹雄

林田は傘差す人々を上から見下ろし、山上は傘を開いたところで動きを止めた。それに対して掲句は、傘をその本来の意味通りに、雨の中で濡れるのを防ぐために使い、「誰から死ぬ」「ねばり開き」のような特別な視点からではなく、誰にでも経験のあることを描いてなお、新鮮味と切れ味のある句に仕上がっている。「神の留守」のもたらす冷え冷えとした空気感、ふとした心の翳りが、ますます自分自身を寄る辺ない者と思わせ、「寄りぬ」という言葉を一層、身にひきつけて感じさせてしまう。

夢見ざる眠りまつくら神の旅
刃物よく切れ神在の出雲なり

似た季語を用いた句をさらに引いてみた。「神の留守」「神の旅」は、天文や動植物などの季語と違って、季語そのものになんらかの実感が含まれるわけではない。具体的な景物を持ってはいない。ましてや「神在」なんてどのように実感すれば良いものか、僕には見当もつかない。詠む方も読む方も、これらの季語はなかなかイメージを呼び覚ましづらいのではないかと思うのだが、彼はそれを実に容易く自由自在に操ってみせる。

夢を見ない眠りは真っ暗だ、というのは、あまりにも当たり前のことながら、何かの深淵を覗き込んでしまったかのような恐ろしさがある。虚無、と言っては安っぽくなりすぎる。存在しているはずの自分を知覚できない気味悪さ、とでも言おうか。僕は幼いころ、自分が眠りにつくということに対してそこはかとない恐れを抱いていたことを思い出す。人は自分の生きている時間の全てを正確に感じ取ることはできず、一日と一日の間には必ず断絶が訪れる。その断絶の闇を渡って行く神々の旅は、正に古代の闇からさまよい出たかのようだ。

また、二句目は、一句目と対照的に鋭い光が一筋抜けてゆくのを感じる。刃の切っ先に集まる光の背後には、出雲に押し寄せてくる神々のエネルギーが充満している。そのエネルギーが刃物の危うさとして捉えられているところに、彼のおののきがある。

彼において、「神」は、彼に親しいものでは決してない。神は彼を愛することもなければ、罰を与えに来ることもない。神はもっとはるかに遠いものであるにも関わらず、自分の存在の根幹を握っているという点で何よりも恐ろしい。神は、潜在意識という自分ではコントロールできないものの中を通り、この世のどんなものでもさっと切ってしまう刃物の切っ先に宿る。

これらの句を念頭に置くと、「傘させば」の句における「神の留守」は、忘れかけていた神に対するおののきが、自分のすぐそばで傘が立てる大きな雨音に対するほんのちょっとしたおののきに重なって思い起こされているのかもしれない。



彼の句の中では、他にも大いなるものに対するおののきが描き出されることがある。

夕日なきゆふぐれ白し落葉焚
夕方は雲あふぐ刻草の花
沈みたる日が空照らす紫苑かな
落椿空家まいにち日の暮るる
家を出て家を見てゐる西日かな
死者に畳鳥に夕空ひややかに
鎧戸のほそき夕日や漱石忌
白酒や面上ぐれば夕景色

なぜこんなにも、夕暮れ、しかも、単なる夕方の情景というよりも、夕日そのものが見えてくるような句が多いのか。「夕方は雲あふぐ刻」と自ら言っているように、夕暮れ時になると、彼は知らず知らずのうちに空を見上げてしまうのだ。この世を燃やしながら沈んでゆく太陽に魅せられ、おののいている。彼にとって、夕日は単なる美しいものではなく、さまざまなスケールで繰り返される消滅と再生の象徴なのだ。

日が沈みながらも空を照らしているという情景はそれ自体抒情的なモチーフであり、さらに滅びゆく一日の中で静かに咲いている紫苑が取り合わせられることで、日が沈んだあとも咲き続けているであろう紫苑の様子が読む者の胸に描き出されてくる。大いなる滅亡と小なるものの永遠性の対比。毎日日暮れがやってくるというのは、繰り返される日常生活のリングを想起させるにも関わらず、そこで描かれるのは「落椿」「空家」というそのリングを外れてしまった者たちである。その美しい徒労感。あるいは、「死者に畳」と併置されていることによって、鳥にとっては夕空が死に場所なのだと、これはもっとも直截的に、夕暮れを滅亡ととるメタファーが盛り込まれている。

消滅、生成という大いなる繰り返しに対して彼が何か働きかけることができるわけもなく、彼がこれらの句の中において取っている行為は単に「見る」ということのみである。二句目に「あふぐ」、五句目に「見てゐる」、八句目に「面上ぐれば」とある通りだ。しかし、彼には世界が「見えている」のではない。彼はかなり意識的に、積極的に世界を「見ている」ということが「あふぐ」「面上ぐれば」といった措辞からうかがえる。彼は自分を囲む世界に目を向け、それらの持っている一番懐かしい属性を描き出すのに秀でている。世界を描き出しているうちに、彼は自らの描き出した世界に圧倒され、彼自身の行為は見えなくなってくる。



正確に言うと、彼自身は「見る」以外に何も行為をしていないわけではない。ただし、句中における彼の「行為」は、ほとんどが、実直な生活者としてのそれであり、たとえば次に示すような詩的営為とはほど遠い。

墜ちるまね妻を突くまね夏の崖 石倉夏生
人をあやめ目立たぬやうに水つかひ 筑紫磐井
日の高み胸掻きむしりいなご食う 安井浩司

これらの句に見られる「墜ちるまね(をする)」「突くまね(をする)」「水つかひ」「いなご食う」などの行為は、何かその句の中の登場人物にしか分からない衝動や思想に基づいて行われている。少なくとも、一般の日常生活には回収し得ない営為だ。なんで「墜ちるまね」をするのか。「人をあやめ」たことと「目立たぬやうに水つかひ」の関係は何なのか(そもそもなぜ人をあやめたのか)。「胸掻きむしりいなご食う」彼の胸中には何が渦巻いているのか。これらは、万人が共通して即座に納得することではない。彼ら自身の個人的な営為がどのように読者に伝わるかということは、最終的には賭けでしかないのだ。それに対して、

拭き終へし階段のぼる年の暮
蝸牛やごはん残さず人殺めず

これらの句に見られる行為(または行為しないという行為)は、正に日常生活の範疇にあるものであり、そこに描きこまれた情感は詩人としてのそれと言うよりも、生活者としてのそれである。この「年の暮」の清廉さ、心地良さ、あるいは「蝸牛」を通して語られる実直さ。「蝸牛」の句の面白いところは、「ごはん残さず」といういかにも日常生活の中の実直さが、同じ実直さでも「人殺めず」という非日常をちらと思わせる措辞と並んでいるところであり、変に行き過ぎた実直さが醸し出すおかしみみたいなものが見えていて、なかなか一筋縄ではいかない。いずれにしろ、これらの句を支えているのは作者同様、生活者である読者の「共感」であるということは言えそうだ。

先ほどの<家を出て家を見てゐる西日かな>も、夕暮れ時から外出しなくてはならない用事のある彼が、家を出たところで我が家を見ることによってなにがしかの思いに耽っているという図式には、彼特有の事情はほとんど存在せず、読者がその情景に思い思いの感情を盛り込む余地が存在する。故に共感を呼びやすい描き方になっているのだ(まるでドラマのワンシーンのような)。

このように句中における彼の生活者としての行為の本質が「共感を呼ぶ」ことにあるとすれば、彼の詩人としての営為の本質は、やはり「見る」あるいは「感じる」ことにある。

春寒し画集ひらけば灯のうつり
灯を消せば二階が重しちちろ鳴く

偶然、どちらの句も「灯」を詠み込んだものになったが、これらの「ひらけば」「消せば」という行為は、やはり日常生活中にあるものである。しかし、今度はこれらの行為が何らかの共感を呼ぶのではなく、これらの行為が呼び水となり、「灯のうつり」「二階が重し」という「発見」がなされているところに一句の主眼がある。

もちろん、これらの発見にも共感性があるから、読者はこれらの句がいいと思えるのだが、先ほどの共感とは異なり、これらは彼の句が書かれる前にはなかった感覚である。画集に灯がうつりこむ美しさ、二階の闇の重たさは、彼が日常生活の中で見つけた感覚なのであり、もちろん、共感を呼ぶであろうという見込みがあるから句集に入れたのだろうけれども、実際にどのように読者に伝わるか、というのはある意味で賭けである。さきほど例にあげた石倉夏生ら三名の句と、その点で事情は近しい。あるいは、詩を書く、ということは、常に読者に対する賭けなのかもしれない。

このような事情は、次のように言いかえることもできるだろう。彼にとって、常に詩は外部から訪れるものであり、内部から湧き上がってくるということはほとんどない。そのことと、次の句に見られる自意識は、おそらく同根であろう。

東京の人なる我や衣被

「東京の人なる我」とは奇妙な言い回しだ。「東京に住みたる我」とも「東京に生まれし我」ともニュアンスが異なる。この言い回しから察するに、おそらくいつもは東京に住んでいる彼が、どこか東京から離れた地方に行って地元の人々とともに食事でもしているとき、その地元の人に「東京の人」と呼ばれたか何かしたのではないか。目の前には素朴な田舎料理が並び、地元でとれた衣被もその中に数個出されていて、食卓の灯は決して明るすぎず、しかし人の優しさは温かい。

彼は客人として招かれ、楽しいひと時を過ごすが、「東京の人」と言われたとき、ふとした違和感を覚える。人間は、ものを認識するときにそれを知らず知らずカテゴライズしており、その分類形式によって、その人の考えが見て取れることがままある。自分はここではあくまで「東京の人」という扱いであり、目の前に展開されているような懐かしい景色の中に入ってゆくことはできないのだ、というほんの少しのさびしさにも似た心地。「衣被」は、それでも笑みを崩さないであろう彼の心の二重性を言いとめてもいるであろう。

都会人の疎外感から来る憂愁。恵まれている人間であるがために、自分の内部に詩の火種を持たず、常に外部に目を向けて俳句を書き続けなければならない。「都会人」であることと「恵まれている人間」であることをまるでイコールで結んだかのような書き方になってしまったが、もちろん、そうでない場合もあるだろう。しかし、ここでは、「東京の人なる我や」という言い方の中にある種の憂いを認めるのであれば、それは自分が都会でいい暮らしをしているということに起因するのではないかと僕には思われる。

詩は内部から湧いてこない。では、彼は外部から何を感じ取ろうと言うのか。



めんどりに貝殻食はす桜かな
道岐れ自転車わかれ夕蛍
蘆の花空缶立ちて流れけり
書割に釘の出てをり猫の恋
ひろひたる枝濡れてをり秋の虹

これらの句それぞれに描かれている個々の情感自体は、むしろ副次的なものであるのかもしれない。そもそも、どんな情感が込められているのか、説明が難しい場合が多い。大事なのは、おそらくこれらの句を支えている圧倒的なリアリティそのものではないか。実直な生活者であり、都会人である彼にとって、日常生活をただ散漫に送っているだけでは絶対に見落としてしまう、小さな世界の動向に目を止めることこそが、彼の詩人としての存在意義なのではないか。めんどりに貝殻を食わすものなのか僕は知らない。しかし、めんどりが固い貝殻をつつく騒々しさがこの句からは聞こえてくるようだ。自転車の動き、流れゆく空缶、いかにもありそうな書割、拾った枝の手触り。これらが言葉の組み立てによって五感に訴えてくるリアリティは、いつかどこかで我々もこんな景色に出会ったはずだと錯覚させてしまうほどだ。

これらの句は、彼自身が生きてこの世にあるということの確認であり、この世界が確かに存在することの確認であるのだ。それをひたすら外部へ外部へ求めてゆくことで、彼はまるで自らの内部の空洞を埋めようとするかのようだ。そのような営為は、見えるものに対するリアリティだけではなく、想像することによって得られるリアリティさえも彼の句の中に引き込む。

空をゆく鳥の体温初氷
巴里祭翅もつものは翅に倦み
狐面狐を恋へる霞かな

彼の俳句の書き方が、ただの写生と異なるところがあるとすれば、それは彼が見えないものをも「見る」という俎上に上げようとしているところだろうか。彼は「見る」ために見ているのではなく、彼自身の存在を証明するために見ているのだから、その手法は「見る」ことを超えて存在していくことは当然であろう。

星の数ちがふてんたう虫つるむ

星の数が違うから何だと言うのであろう? 僕には分からないし、きっと彼自身にもよく分かっていない。しかし、僕にはなんだか、彼は理由もなくこの二匹の天道虫に圧倒され、天道虫をおののきながら見ているように思える。

自分の内部には存在しないものを、たとえば田舎の風景を、日本のふるい景色を、自然を、東京の生活を、あるいは真っ赤な夕日を、そしておそるべき神を、あくまで外側から描き出す。自分の持たざるものであるからこそ、それらを言葉で組み上げ、端正な句に仕立てることができるのではないか。その裏には、現代に実直に生きる恵まれた都会人の、どんな背景も背負わないことによる裏返しの憂愁が感じられるようだ。

作者は小川軽舟(1961-)

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

優夢くん、先日はお疲れ様でした。忙しい一日でしたね。小海線をもっと楽しみたかったのですが、投句するのが精一杯。でも、気がつくといつも電車は山裾を曲がっていて、なんだかこのまま永遠に走り続けるような気分ではありました。
小川軽舟句集『手帳』を読む、興味深く読ませていただきました。この句集を読み解くキーワードは次のところですね。

『詩は内部から湧いてこない。では、彼は外部から何を感じ取ろうと言うのか。』

都会人の憂愁、距離を保ったいつくしみ、乾いた叙情。さて、これからゆっくり句集を読み直してみます。

またお会いできるときを楽しみにしています。句会の受付に来てくださるときはあ行の係りでお願いします。
華子さんにもよろしく。

匿名 さんのコメント...

山口優夢様

大変面白く読ませていただきました。

「彼にとって、常に詩は外部から訪れるものであり、内部から湧き上がってくるということはほとんどない。」

「これらの句は、彼自身が生きてこの世にあるということの確認であり、この世界が確かに存在することの確認であるのだ。それをひたすら外部へ外部へ求めてゆくことで、彼はまるで自らの内部の空洞を埋めようとするかのようだ。」

この考察を私なりに咀嚼してみました。座禅を組む人が心に湧く想念を消し去ることで見るものがあるとすれば、「手帖」はそういうものを提示しているのではないでしょうか。<詩が内部から湧き上がらない><自らの内部の空洞を埋めようとする>ことはその辺と関わっていると思います。

「現代に実直に生きる恵まれた都会人の、どんな背景も背負わないことによる裏返しの憂愁」

これは「俳句」の座談会にあった「優雅な生活感」に通じる捉え方なのでしょう。私(昭和30年世代)なら、「都会人の憂愁ねえ」、とはにかむ・・・ことになりそうです(笑)。

匿名 さんのコメント...

興味深く拝読しました。
句の鑑賞、読み応えがありました。ただ、外部ー内部とか、都会ー田舎という図式が、ちょっと短絡的に感じられました。

優夢さんの文章のなかの、「詩は内部から湧いてこない」「自らの内部の空洞を埋めようとするかのようだ。」というような言葉からは、旧来的な、精神性や深さへの志向がうかがえました(内部、外部の定義が定かでないので、読み間違っているかもしれません)。深さや特権的なイメージといった常套的方法から自由になって、深さではなく広がりを志向する軽舟さんの句からは、外部ー内部とか深さー浅さといった二元論を無化するような詩情を私は感じました。

ただ、現代俳句のメジャーを代表する軽舟さんについて論じると、なんだか一般論になってしまうというむずかしさもありますね。「これって軽舟さんだけじゃなく、他の俳人にも言えるんじゃない?」という。

優夢さんの文章を読んで、俳句の詩情というものについてあらためて考えてみたいと思いました。どこかに書いたらお送りします。また今度お会いしたときにでも話しましょう。

yumu さんのコメント...

皆様、コメントをありがとうございます。

>大井さち子さま

先日はお世話になりました。佐久やら野辺山やらに行ったのは初めてだったので、車窓の景色がなかなか楽しかったです。今度は俳句なぞ作らず、ぼーっと乗ってみたいですね。笑

「距離をとったいつくしみ」というキーワード、この句集には的確なような気がします。また来月、句会の受付でお会いいたしましょう。

>イマゴンさま

座禅!なるほど、無の境地、という感じですかね。どちらかと言えばもうちょっと俗っぽい感じで、そこが面白かったりもしますが。

文章の中では触れませんでしたが、

燈火親し英語話せる火星人
酸海鼠や大阪女かはいらし

みたいな作品もあって、面白いです。

「優雅な生活感」は、実際、この句集からかなり感じるところはありますね。

>さるまるさま

あ、お久しぶりです!

「内部ー外部」はともかく、「都会ー田舎」の図式は、確かにぱっぱっとつないでしまったところがありますね。ちょっと反省。

ただ、自分の文章において、「内部ー外部」という対立項を、必ずしも「内部」が優位なものとして捉えているわけではありません。外部なら外部でも別にいいじゃないか、という気はしています。単に、内部から何か湧き上がっている人とは違いますね、と言っているだけのつもりだったのですが。

でも、「内部」と「外部」と言えば、内部の方がなんとなく偉いように思えるような書き方になってしまっているかも。そう見えるとしたら、それはこのコメント欄で訂正しておきます。あくまでフラットに違いを述べたまでです。

そもそも、僕自身、どちらかと言えば、あまりおこがましくて言い出しづらかったのですが、自分の作る俳句の方向は「外部」派(うーん、こんなに「外部」「内部」と言うならきちんと定義しなきゃいけませんね・・・)だと思っているので、軽舟さんの句は或る意味で親近感はあります。佐藤文香の「B. U. 819」でも言われていた通り、僕は今のところ人生としては「浅い」ので。。

「内部ー外部」を無化できているかどうか、そもそも無化できている、というのはどういう状況かは、正直分かりませんが、その辺はまた今度お会いしたときにでも。

「他の俳人にも言えるんじゃない?」という指摘はツライところがありますね・・・。こういう鑑賞を書くときは、それがこの俳人の固有性に届いているか、この俳人のほんの些細な一部分をつまみ出しただけになっていないか、に極力注意は払うようにはしていますが、なかなか難しいようです。