2008年12月7日日曜日

書物の影―第二回・・・堀本 吟

書物の影第二回

                       ・・・堀本 吟

1 —自己書物化への陳述    
(承前)それで、本紙連載第一回【思想のツールとしての書物の命運をさぐるーネット内浮遊塵へと既刊の書物を散らす】の文意《書物の死をめざして、自己を書物化しよう》を、もう少し具体的に述べる

本誌16号の磐井さんの論文へのコメントの応酬中に考えたこと。

「筑紫磐井」という存在は、今や「豈」の看板の最たる存在である、が、いまや、「豈」を越えた場所で俳句意識全体を俯瞰できる位置にいるエディトリアルコーディネーターなのである。エディトリアルコーディネーターというのは、このごろ私が、気にしている言葉で、一昔前はそういう人を「知識人—インテリゲンチュア」と言っていた。最近は、情報の編集と言う能力が、知識人の欠くことの出来ない要素となっている。「筑紫磐井」は、その情報編集の力がすごい人だ。彼は、一誌、一冊の編集者と言うより、もっと対極的に文化の動向を編集する存在なのである。


磐井が、岸本尚毅たちと、どういう連携プレイで何をするのか、と言うことは私にも多少興味がある。
手元には、磐井詩学の大著、小澤實、小川軽舟、少し旧いが、稲畑汀子、中岡毅雄などの評論書が一カ所にまとめてある。いわゆる「伝統俳句」に関するその立場の論客の考え方は、ここにだいたい入っているはずだが、いざ、文章化となれば、やはり読み直さないと、いまの文脈にうまくのってくれない。
筑紫磐井は、これか、いわば、経験則の累積のなかで、飛び抜けて理論派である。
【 {俳句実作入門講座4『季語と切れ字と定型と』(廣瀬直人編・角川書店)}

手近にある{俳句実作入門講座4『季語と切れ字と定型と』(廣瀬直人編・平成八年・角川書店・一六〇〇円)}を開いていたら、この本、目次を読むだけでもずいぶん参考になる。これからの検索にも役立つので少し辛気くさいが本書より『目次』を書き写しておく。

本文目次引用 

「      俳句実作入門講座4『季語と切れ字と定型と』

          目次

有季定型の魅力—独断と省略の文芸— (廣瀬直人) p7
  俳句実践の基本 俳句は生活の詩 季語がすわる 俳句特有の季語・言葉 俳句には切れがある 一字の働きできまる俳句 感覚を包むものーー簡素化によって生まれる余情 単純と平凡の狭間で

雪月花を詠むー季語の年輪— (小室善弘) p22

   雪月花の伝統 雪月花を読むー芭蕉・蕪村。一茶・季語の年輪

季語の本意・本情 (筑紫磐井) p34

  季語の本質 季節の約束の歴史 季題と季語 近代の季語の考え方

季語の種類と選び方 (福田甲子雄) p46

  季語の種類 季節感の薄れてゆく季語 季重なりの留意点

季語の置きどころ (加古宗也) p39

  俳句の醍醐味 季語を主題にした句 配合(取り合わせ)と季語 季語の選択 季語の喚起力

風土と季語 (斉藤美規) p71

  俳句は風土探求の詩 風土俳句について 地方風土と季語 地方季語の発掘 農事季語の問題 海外風土と季語

都会俳句と季語   (今井 聖) p83

  季節感の喪失 都市俳句考 都会俳句の素材 都会俳句の感性 手段としての季語へ 現在の自分を見つめる

歳時記活用法—季語を体得する (佐久間慧子) p95

  歳時記、この豊かなる詞 歳時記出版の現在 季語への追体験 蕎麦の俳句 動物園が実作の場

題詠の効用— (河野友人) p106

  俳句の題詠とは 兼題と席題—作句の心構え 虚子と俳諧散心 題詠と群作—一句の独立性 題詠の効用 ひとりで行う題詠 平成の題詠二つ  

無季の俳句に学ぶ (倉橋羊村) p119

  荻原井泉水の無季俳句論 吉岡禅寺洞の無季俳句論 無季俳句論争と結論 無季俳句の秀作 無季俳句の今後

切れ字のこころ (丸山哲郎) p131

  切れと切字 切字の省略 切字と詠嘆 切字と余情 近代俳人と切字 切字と俳句の生命

切ることーや・か・な・けりー(矢島渚男) p143

  発句はかならず言ひ切るべし 芭蕉における切字の効用 蕪村における切字の例 近代俳句に見る切れ字と俳句の名句

どこで切るかー二段切れ三段切れなど (蓬田紀枝子) p134

  はじめに 上五で切る 中七で切る 下五で切る 二段切れ 三段切れ リズムと句またがり

配合と切れ味—名句に遊ぶ (中田 剛)p165 

  詩の輪廓 配合なるもの 雲に鳥—こころの軌跡 灰汁桶の雫—時間への認識 難所とはー空間への認識

十七音詩の自由 (友岡子郷) p177

  今まで気づかなかったことに気づく 台所俳句と職場俳句 俳句は何でも詠みこめる 一七音詩の自由

引き算の詩型 (関戸靖子) p187

  俳句との出会い 省略と切字 削るということ 謂ひおほせて何かある おわりに

定型と破調 (中嶋秀子) p200

  定型のもつ安定感 定型の名句の切字の用法 字余りによる説得力 句またがりの効用 字足らずの句

現代俳句と定型感覚 (山本洋子) p213

  初心のころ 定型感覚を磨く 秀句に学ぶ 男性の俳句 女性の俳句 実作にあたって

声調・格調と余情 (廣瀬直人) p225

  まず声に出して読む 完成度の高名句 格調と{かな}止め 処女句集を読もう 作る目標をもつ

付記として

  使いこなしたい季語  編者・執筆者略歴  収録句索引   )」

                            本文引用終わり 


【目次を写し取る効用】

かなりの時間を費やして、書き写していると、いままで散漫であった「伝統俳句」についての知識や関心のありかたが多少はまとめられてきた。ときにはこういう面倒なこともやっておくものだ。(このごろは手書きをほとんどやらないから、「入力」と謂うことになるが)冨田拓也さんがえんえんと、新興俳句の作家の句を書き写してゆく(入力する)意志、あの心理が解るような気がする。心理と言っていいかどうかはまあともかくとして、ひとえに、眼で他人のものを「読み」ながら、自分の手指を動かして「書く」という手仕事は、知的な活性化に役立つ。五感を総動員して、知が内部と外部に同時にはたらきかける二つのベクトルを同時に進めることができるのである。

『俳句実作入門講座4・・』に戻れば、このようなノウハウ本は(ノウハウにもよるが、本書は実作への直接の啓蒙性が強いから執筆者も総合的な実力をそなえた人たち、そういいかげんなものではない、各執筆者にとっては持論の開陳の格好の機会である。そのエッセンスはさらに「目次」の項目によりエッセンス化して出ている)、目次の構成や小見出しを順に追って、中身を想像して行けばだいたい、現代俳句のオーソドキシィが有季定型俳句については何を考えているか、みえるようだ。(目次を読み抜く、ということ。読書にあってこれは欠かしてはならない作業であり時間だ、しかし書き写したのは久しぶり。)

たとえば、筑紫磐井についていうなら、平成六年にすでに刊行されている『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社)や、近年の『定型詩学の原理』(ふらんす堂)、『近代定型の論理』を、もう一度開いてみようという気になる。現時点では「俳句空間—豈—weekly」にクリックひとつへだてた場所で連載中の《現代俳句の可能性》と突き合わせ、彼の俳句原論の視点を理解する最もといってもいい基礎知識である。同一の著者についても、日時をへだてて違う文献を読んでいることが多いもので、そうするとどうも一人の理論家の呈示する言説の相互の関連やつながりが見えにくくなる。良い機会をつかまえて、テーマごとに一カ所に寄せると自分の中で恣意的に固定されていた作家や論客の印象が、ほぐされ、あらたな理解へと踏みだすことができる。

(いうまでもなく、目次を読んだからと言って、内容が全部わかるわけではない。俳句が巧くなるということではない。それは別の実践だ。でも、まず目次には、にはどう思考すれば、すれば「俳句」を巧く認識できて、句がじっさいに巧くなるのか、というヒントがいっぱい書いてある。目次を見る限り、一般的な俳句の手引き書のうちでは良書の部類に入ると思う。)

【 すこしだけ内容紹介。筑紫磐井の季語の定義にふれて 】

筑紫は、『季語と切れ字と定型と』の担当部分。《季語の本意・本情 季語の本質 季節の約束の歴史 季題と季語 近代の季語の考え方》にこう書く。

引用。(p34)

季語の本質
季語は文字通り季節の言葉ではあるが、単にそれだけではない。俳句における重要な「約束」としての言葉でもあるのだ。(俳句における)最も重要な約束は
二つ、そのうち形式における約束を定型といい。内容における約束を季語という。(堀本註・この二つは切字や切れよりも拘束力が強い、と筑紫はいう。季語に関わる約束としておおきく二つ掲げさらに細分化して規定する。)
1、俳句に季節の言葉(季語)を入れる約束。
2、特定の季語に特殊な意味を持たせる約束
  (1)「月は秋の月、花は春の桜などというように天文・地理・人事などの言葉が特定の季節に配分される、または特定の季節の具体物として解釈される。(2)春雨は小やみなくいつまでも降り続き、金屏は暖かく,銀屏は涼しくというように、特定の語や題が制作動機、関連使用語に制限を与えるもので、これを本意とか本情という。特に現代俳句において、(1)は、ともかく(2)のような約束が必要なのかどうかと言う問いかけは深刻である。   」
                        以上本文引用終わり。

この引用文、ひとつひとつが、たんに実作への啓蒙ではなく、俳句の表現ということを各自がどう認識するのか、という問いを投げかけてくる。「季語の本質」と言うときに、私達は多くの場合。季節と農耕文化の関わりとか、俳諧の時代から俳句が独立する際にもちこんだ要素、ということで納得しようとしてきたが、いずれも、間違ってはいないにしろ情緒的な理解である。また、切れ字などと並列に考えてきたが筑紫はより重要な「定義」、という次元で季語のことを述べている。これは、俳句を俳句たらしめる「言葉」としての「約束」なのだ、というのだ。季語が現実の季節の運行の中から生まれつつも、一次元を違えた観念=言葉であることをあらためて自覚させる記述であった。「約束」は守られねばならないが、ばあいによっては破棄されることもあることも、別の思いとして湧いてきた。規範化(定義)は、俳句ジャンルを知の問題領域に相対化する、第一歩なのである。

私は、季語の定義に関してこういう明快な記号性、あるいは契約性を明記した文章には、ほとんどはじめてであう。・重要なことだかから「重要マーク」を付けておく。また、平成八年というからこれは十年前にすでに定式化されており。その後の『定型詩学の原理』での定式化の原型であると考えられる。
筑紫磐井の論法にのると、まず、現象を。かたっぱしから自分で規定してゆく、この思考法に慣れねばならない。

床に溢れる積ん読本のなかから、「書き」移して、「読」んで」、彼がはやくから、俳句の概念整理への志向を見せていたことに、気がついた、これが正しいとかまちがっているとか、いまはそういうことをいうつもりはないが、先日来、伝統俳句なる領域を、これも不器用な書き写しをかさねて検討していたときと、おなじ感想が湧いた。経験則としての季語論は蔓延しているが、思索のツールとしての本質的な季語論はあまり眼にしないことに気がついたのだ。自分もときには季語のことを書きちらしてきたが、かなり自己採点があまかった、ということを思ったのである。

ただ、私には依然として、新興俳句の無季俳句をくぐっているうえに、ほとんど季語にこだわらずそういう定義にも関心のない川柳ジャンルにもすこし関心をもってきたものだから、季語は方法であり目的ではない、という認識をかなり強固に維持している。

「季語の本質」については明快だが、この段階で、筑紫磐井は「俳句の本質」を「季語」を前提にして考えかねない。

しかし、季語は俳句の本質に触れるものかどうか、ということの「反」の見方も出てきておかしくはない。
磐井が明記したこの「俳句の約束」として季語は絶対的な属性である必要はないのだ。(少なくとも今の私には)。季語論をカッコに入れて俳句概念を構想したときには、季節の問題はどういう形でこの俳句宇宙に取り込めるのか、そういう興味もある。

【 筑紫磐井という書物 】

さきにもふれかけたように、筑紫磐井が、「伝統俳句系」と「反伝統俳句系」の俳句空間全体を俯瞰するためのもっとも重要な理論家(エディトリアルコーディネーターであることはまちがいいない。しかも、彼は規範化の権化(のようなところがあり)。その構想は正しすぎる(ところがある)。表面の動き方だけでは、その功罪を決めつけるところはできない。独創的に口の悪いところが魅力の高山れおなが、「策士策に溺れるの感」と悪口をいっていたが、私はその動きについても、磐井の場合は、俳壇政治力学の中の動き方、というようなことではなくて、彼自身のコーディネーターの資質と、自前でうちたてている規範化のなりゆきで、彼をそこへ連れて行った、そう言う動き方だと思うのである。自分が見た現実と自分が考えた規範を検証しようとするおそろしくまじめな好奇心、探求心の方を先に感じる。彼は、極めて冷静に、自己が組み立てた規範を機能させているのである。表徴が一致すれば彼はきっとどこへでも行く。

私は、筑紫磐井ほどの学的な教養はもちあわせないし、資料操作そのたの事務的諸能力は更に及ばぬところはあるので、彼ほどの仕事は出来ないと思うが、状況の整理のしかたや、「伝統」への葛藤に処理のしかたなど、考え方があんがい似ているのではないか、と思うときがある。


國文學十二月別冊での拙文のなかに、「稲畑汀子への愛情」をすばやく感知したのは磐井の嗅覚の鋭さ・・。こういうところに論理の表にはださない彼の対象への感じ方「伝統への愛情」を覗かせてくれている。

(汀子の句には、普通の女の普通の生活感覚が、そのまんま吐露されて「俳句」になっている(そう見せている)。

  昼寝するつもりがケーキ焼くことに
  しづけさにありて爽やかなりしかな     稲畑汀子

あくまで、日常的な場所に生じるかそけき気配をいい留める、その技法を会得して、家庭を詩的宇宙に変えているのである。)

【 筑紫磐井の両義性 】

おもえば、摂津幸彦は、最も早く高いレベルで伝統俳句に転向した存在であったような気がするが、筑紫磐井は、その両義性をひきうけて、ホトトギスと豈の振幅を言ったり来たりして、その途中に膨大な書物をおいて行く奇特な俳人なのである。(尤も、私の関心は、磐井に対しても言葉の機能よりは思想のツールを杭たてている、という読み方をしてしまうのであるが。)

あるいは、磐井こそまさに自己書物化の権化—書物の影と言える人格かも知れない。現実や自然を。あたかの書物のように読むことができ、それを編集できる。そこで考えたことことを書きつづけ、自己書物化をはたし、そういう道をゆく人である。そのために彼独自の「辞書」の引き出しを頭脳に内蔵しているのである。(大阪の学習会に来てくれたときに、「辞書態」ということを彼は言っていた。)


私はこういう論客の登場に関して、一個の起爆剤とする俳句空間が新しい知の方向をひつようとしているあらわれであるとして、興味をもって注目している。

もし伝統俳句が彼を必要とするならば、そこで、彼は、経験則として語られている俳句理論や批評の領域が、巧く自己を再編して書物化できるように編集するだろうし、我々のような「反伝統」戦略を持とうとしているときにはその方向で、ある種の理念的なフォーマットを提供してくれるだろう。

それで、幾つか本を開きながらわきあがってきた、今回の文章に顕在しはじめたタイトルをメモしておこう。

    ↑

自己書物化の一例 「筑紫磐井という書物」


エディトリアルコーディネーターとは、『知の編集工学』(朝日新聞社)松岡正剛が使用している。情報社会で、ある文化的なパラダイムつくられるとしたら、こういうタイプの知識人が欠くべからざる存在として活躍するだろうということが書かれている。(了)

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■関連記事

書物の影―思想のツールとしての書物の命運をさぐる―
第一回 ネット内浮遊塵へと既刊の書物を散らす・・・堀本 吟   →読む

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5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんにちはo(^-^)o
ご無沙汰しております。
作らない読者の産婦人科医です。

>経験則としての季語論は蔓延しているが、思索のツールとしての本質的な季語論はあまり眼にしないことに気がついた

なるほど!と思いました。
作りませんけれど。季語は「ツール」わかりやすいです。作るよりも、読む側にとって、一番わかりやすい定義であるように感じてしまいました。
ありがとうございました。

まだ今のところ「季語」についてあまりよくわかっていないというか、入れないほうが力強いのでは?などと思っている部類でしたので。これからも勉強していきたいと思っています。

Unknown さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
Unknown さんのコメント...

野村麻実 さま

どうして削除したかと言えば、麻美さんで決定してしまうくせがなおらないのと、アジ目に言っているときに吹き出されそうな誤入力っがあったため。
(感性受精・・とかね。産婦人科のお医者さんだから、まあ、いいか、とはおもったのだけど、やっぱりね、日本語は正しい使い方、書き方ををしよう、とおもって。)

で、以下が、最初のコメントの構成済のものです。

*****************************
本文、 あいかわず、「大局的」のつもりで、「対極的」、と書いてしまったり。わたしって不器用でドジですね。

コメントありがとうございます。大海に乗り出したような気分ですが、よろしくご愛読お願いします。

純粋読者が育ちにくいのが、短詩形ジャンルの弱点、です。大衆性をもったメディアが成熟してきて、だいぶん改善されましたが・・・。まだ、結社など党派的思惑が強いです。ネット読者はそう言う意味では、こわいほど公平なのではないかとおもいます。

磐井さんのお説は、こういう時代にはひじょうに有効だとおもいます。ただ、あまりに大著であることと、曰く言い難いところで情緒的に分かり合っていたところが白日に定義されてくるので、「両刃の剣」というところがあります。でも、掲出の入門書のような、エッセンスが短縮された形での解題では、良い留める言葉使いの正確さ、果断さはさすが冴えているなあ、と・・いつもまなぶところがあります。

季語については、わたしも、解らないことが多くて、色々な人の「季語」認識をさぐってみているのです。面白い本をみつけて、またご紹介します。

私が取り上げたい本は、自分の好奇心にまかせていると、どこまでもひろがりまして、困ってしまうのですが、そのつど、麻実さんのような偏見のない読み手が来てくださると、はげまされます。
貴女は、書かれた作品ー俳句。を読む方向からこられているので、読むためのツールとしての批評の言葉に敏感ですね、すばらしい感受性だと思います。

匿名 さんのコメント...

堀本吟様
 ありがとうございます。途中から追加になったので、1週間遅れで見ました。事情あってコメントとはせず、第19号の評論でお答えさせていただきます。
           筑紫磐井

Unknown さんのコメント...

 麻実さま。訂正した文でまたまちがっちゃいまして。

「アジ目に言っているときに吹き出されそうな誤入力っがあったため。」

 私のパソコンで、ちかごろときどき「m」が、反応しにくいのです。だから「マジメ」に打っていても、「アジメ」となり、変換して「アジ目」。全く吹き出されますヨネ。重ね重ねドジなことです。それを、つらつらながめていて、次のような句が出来まして、今日の神戸でのこちらの句会に出してみました。

 キー欝とまじめな鰺の目玉に凝り 吟

 もちろん得点なし(一人ぐらいは、実験精神を買ってくれていいだろう、と思ったのですが)、「どういう意味ヤ」、とさんざん問いつめられ応えに窮しました。「面白いけどいただけないわ」、というのはまあまあ好意的な意見の限界。自分では気にいっていますのに。誤変換がゼンエイ俳句まがいの言葉の鬼子を産んだ例です。産婦人科の先生は、すべての子供に愛を注がれて、その誕生をたすけてくださることと、おもっております。

磐井さま。
 筆が遅いのでもたもたしています。この週の文は、土曜日の「川島芳子」と翌日の「篤姫」をみてしまい、発車時刻に遅れました。(でも、「黄金海岸」の馬場善樹の文章をみなおしたり、してますから、それもいずれ。)
 この日曜(すでに昨日)は、「北の句会」忘年会で、「篤姫」最終回はみのがし、この欄の原稿も未完、目下やっつけております。編集部に申し訳ないことです、が。

 拙文拙論への返事をいただけるとか。感謝。いますぐ無理にということならお返事は急ぎませんが、うれしい限りです、
 「書物の影」の連載開始の意図は、迅速性や即応性、をもったこのウエブのメディアの特性を生かして、読み手と書き手の二役をつかいわけ、取り込んでいます。

 やることはささやかなものですが。まあ、何回か進めば、私の意図と「筑紫磐井」の言説への関心や対峙のあり方が絡んできて、一種の知の図式がみえてくると思いますので、(成果を直ちには期待しないけど)「迅速に」「ゆっくり」とまいりろうか、と。

 ここに書かれる諸文は、それぞれ面白い。 
これらを総合的にみる読者の視線を示すのも、ひとつのやくわりです。
 「俳句空間—豈」も、やっと「空間」の名を実質化する途についたのかもしれませんね。
ともにすすみましょう。 吟