花びらを喰ひ―新鋭招待作品五篇
・・・中村安伸
今回より「―俳句空間―豈」47号掲載の俳句作品を読んでゆくことにしたい。
ある人から、あまり俳句作品をきちんと解釈しすぎると面白くなくなってしまう、というようなことを言われたので、少し反省していた。自分自身で作品を解釈する楽しみを少しでも奪われたくないという方は、私の記事を読まないでいただいたほうが良いのかもしれない。
ただし、釈明させていただくなら、私は俳句作品の解釈というものは本来いくとおりも存在できると思っている。そして、私が記事に書く解釈も当然その一例に過ぎないのである。もしこれまでの記事中で、他の解釈の可能性を封じるような書き方をしているとしたら、それは本意ではなく、多くの読者によって多様な解釈が提出されることによって、俳句作品の内包する価値は増大してゆくと信じている。
もちろん、明らかな誤解や誤認識にもとづく誤った解釈は排除すべきだろう。
一方で次のようにも思う。
もし他人の解釈によって読者にとっての作品の「面白さ」が損なわれるとするなら、その「面白さ」はどこに起因するものだったのだろうか。それが読者の誤解や勘違いによる「面白さ」だったのであれば、その誤解を出発点とした新たな作品の可能性を思えばよい。逆に他人の解釈がその作品のもつ「面白さ」に届いていないとすれば「面白さ」を感じた自分自身を信じればよい。
前置きが長くなったが、行き届かない点や身勝手な点は反省しつつも、作品を可能なかぎり解釈してゆくスタンスを変えるつもりはないということである。
さて、今回とりあげるのは「新鋭招待作品」5篇である。
■岡田由季「ペイズリー」
ペイズリーというのは顕微鏡でみたゾウリムシのような図柄のことであり、スコットランドの地名にちなむ名称らしいが、起源はペルシャだという。
「ミネアポリス・ジニアス」もしくは「ジ・アーチスト」ことプリンスが、大ヒットした「1999」「パープルレイン」に続き、プリンス・アンド・ザ・レボリューション名義でリリースしたのが「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」というアルバムであった。それに「ペイズリー・パーク」という曲が収録されている。歪みまくったギター、幻惑的なストリングス、過剰にエロティックなボーカル……。当時中学生だった私は度肝を抜かれたまま今に至っている。
上記のプリンスの楽曲と、この岡田由季の一連の作品とはほとんど――いやまったく関係がない。
ただ〈ペイズリー柄を見ている湯冷めかな〉という表題作を読むときに脳内でプリンスの楽曲が流れることをとどめることができないという、あまりに個人的な事情を説明しておきたかっただけである。俳句作品を読むという体験には、読者それぞれの個人的な思いがどうしても重ね合わせられてしまう。
それはさておき、岡田の作品群は感受性の網に引っかかってくる日常の事柄を掬い取るところからはじまるようだ。同号の相子智恵の文に使われていた言い方を借りるなら「現代のリアル」というものは、自然とそこに切り取られてくるだろう。
たとえば「どのボタン押しても開く」「温めるだけの食事」「地下鉄の地上駅」「駐車券くはへて」といったフレーズはたしかに現代であり、リアルである。しかし、やっかいなことにいかに現代であろうとリアルであろうと、詩の言葉というのは使用されると疲弊してしまう。それが類想のようなものではなくても、一度使われた発想の仕方、切り取り方の枠組は、その時点で疲れはじめてしまう。岡田の作品群は、詩的にはすこしばかり疲弊した「現代のリアル」をその中心に据えているように感じた。
そして、上記のようなフレーズに季語をとりあわせることにょって一句を仕立ててゆくのだが、取り合わせ方に不思議な曖昧さを残すのが岡田の手法の特徴である。たとえば〈どのボタン押しても開く初御空〉という句では、下五の初御空がとりあわせられた季語なのか、それとも上五中七の文に続けて読むべきなのか、形の上でも判然としないし、内容からいっても、どちらの受け取り方もできそうである。〈駐車券くはえてゐたり冬の星〉も同様である。もちろんこれらの句をとりあわせでないとして読んだ場合には非常にナンセンスな景となる。とりあわせとして読んだ場合と、とりあわせでないと読んだ場合のふたとおりの読みの両方を含んだものが、私にとって、これらの句の内包する価値ということになろう。
さて、私がこれらの作品のなかで最も惹かれているのは、「現代のリアル」というより「個人のリアル」というべき〈三鬼忌の指輪に合はせ細る指〉という句である。指輪を指にはめた瞬間の感慨のなかに積み重ねられた年月への想いも透けて見えるように感じる。そのように読んだとき、上五にとりあわせられた「三鬼忌」が重過ぎるようにも感じるのだが。
■酒井俊祐「戯画」
戯画と題された酒井俊祐の作品群は、豪快というべきか強引というべきか、なかなかに大胆な発想と言葉づかいが特徴である。発想の大胆さという意味では〈初夢に土地の余ってしまひけり〉のような、若干の悪意を含んだ諧謔は実に「戯画」というタイトルにふさわしいだろう。
語法の大胆さという点では、同語反復の技法を用いた句が散見され、なかでも〈比良八講四方八方パーマ伸ぶ〉という句は、「八講」と「八方」と韻を踏みながら聖から俗へと大胆に展開させたのが見事である。聖から俗と簡単に言ってしまったが「四方八方パーマ伸ぶ」というのはなかなか凄まじい。とりあわせた季語も同音の「比良八荒」を使うと若干つきすぎてしまうところだが「八講」を用いたのが巧みである。
この大胆さは一方で粗雑さにつながってしまうことがある。たとえば〈皿といふ皿蹴散らして西瓜かな〉という句の「皿といふ皿」という言い方は慣用句であって、同語反復として効果的なものとはいえないだろう。〈露台より露台に落ちる免罪符〉という句の繰り返しについては、せっかくの「露台」と「免罪符」のとりあわせの妙をぼんやりさせてしまっている感がある。
とりあわせの妙といえば〈馬肥えて浅草に鍋かがやけり〉という句は面白い。
浅草にほど近い、かつて吉原土手といわれたあたりでは桜肉鍋が名物だったという。「馬肥え」てという豊穣さを直接表現する季語と、かがやく鍋のぎらぎらとした豊かさのとりあわせには過剰なほどの熱量がある。
浅草に関する句がもうひとつあって〈甘酒やそろそろ待乳山ならん〉(待乳山に「まっちやま」とルビ)というのがそれである。「そろそろ」というからには何か乗り物に乗っているのだろう。バスかタクシーか、人力車か。あるいは時代を越えて吉原へ通う駕籠か猪牙舟にでも乗っているのだろうか。「まっちやま」という音の面白さが句の中心になっている。
さて最後に置かれた〈芙蓉てふ糸に吊られて地球かな〉についてであるが、芙蓉が地球から生えていることを、逆に芙蓉に地球が吊られていると見立てたものだ。しかし「糸」はどうなのだろう。「吊られて」から導かれた表現と思われるが、芙蓉に対する比喩としては不自然と感じる。
■佐藤文香「鳩サブレー」
「鳩サブレー」は鎌倉の銘菓として有名である。〈月並みな土産の箱へ西日さす〉という句の「月並みな土産」がすなわち「鳩サブレー」なのだろう。このタイトルによって、一連の物語のようにも見える連作の舞台が、鎌倉周辺であることが明確になっているが、それでなくても明るい海と、すぐそばに山の迫っている土地柄がよく伝わってくる。
この作品群は、ひとつの私小説のようでもあった『海藻標本』の延長線上に位置づけられるもののような気がする。しかし大きく違うのは「ぼく」という一人称を用いた句があること。どうやらこの連作では、男性が作中主体として想定されているようなのだ。佐藤はこのようにして作中主体と作者である佐藤自身を分離しようとしているのである。
しかし、確たる根拠があるわけではないが、この作品群に描かれている事柄が全くのフィクションであるとも思えない。なにかしら身辺に起きたことを元にして、人称だけを変えたか、あるいは他の人物――たとえば友人や恋人である男性など――に憑依しているような気がする。もちろん連作の背景や経緯をことさら詮索する気はない。それだけリアリティーのある作品群であることが言いたいのみである。
つまり『海藻標本』の頃からみられた、動く「主体」が動く「私」を活写するとでも言うようなダイナミックな特質が、この一連の作品にも通底しているのである。
個別に作品をみてみよう。
〈お邪魔しますの心にうつる金魚鉢〉という句は連作のストーリー展開からすると、恋人の実家をはじめて訪れて挨拶をしているといったところだろうか。そのようなある種の緊張を強いられる瞬間に、一方では視界に金魚鉢がうつりこんでくることをとらえたという、非常に現実感のある心理描写である。
〈西日さす客間よ君の書道作品〉については「書道作品」という熟さない語を用いたところが絶妙である。「書」とは言えないような素人の作品―でもやはり「作品」ではある―を見せてもらったときのぎこちなくも親しい関係が見えてくるようだ。
〈松風や空蝉の背に指を入れ〉という句は実に官能的だが、対象が空蝉であるかぎり満たされない欲望なのだろう。
〈かたまりの藻くずの乾く別れかな〉については、からみあった繊維のような関係性のもつれが、そのまま乾燥し、風化してゆくという機微を形象化したと読んだ。そうなると「別れかな」が回答になってしまっている。もちろん作者としてはなによりも「別れ」を言いたかったのであろうから、難しいところである。
■関悦史「時間」
俳句において「時間」という言葉が出てくると、阿部青鞋の〈虹自身時間はありと思いけり〉とか富澤赤黄男の〈草二本だけ生えてゐる 時間〉といった句を連想し、物質のような感触のある「時間」がそこにあるような気がしてくる。
連作中「時間」に直接関係しているのが、冒頭におかれた〈ケーニヒスベルクの時計人来る空梅雨か〉(「人」に「びと」とルビ)である。「ケーニヒスベルクの時計人」とは、つねに決まった時間に散歩にあらわれたため、人々が時計のかわりにしたという哲学者カントのことである。しかし、ここではカントその人というよりも、時計人という役割もしくは性質を抽出した存在だと思われる。現在はカリーニングラードという名でロシアの飛び地領となっているケーニヒスベルクに「空梅雨」というものがあるとは思えない。空想であれ現実であれ、これは季語の効力の及ぶ土地、すなわち日本での出来事ととらえるべきだろう。
〈たうもろこし自体を祖母は食ひにけむ〉〈卵もて岩打ち砕く雲の峰〉といった句にはやや知的操作の痕跡が露になりすぎているきらいがある。
一方で〈ΩからまたIを出す尺獲よ〉(「Ω」に「をはり」、「I」に「われ」とルビ)という句は、「Ω」と「I」それぞれの文字が尺獲の形象となっていると同時に、ルビとして付加された意味もまた高度なユーモアを実現している。知的操作もここまで徹底されると感服せざるを得ないのである。
〈静かなる場所にして鮨這ひゆくも〉〈いま口を開かば障子出でにけむ〉の強いインパクトのあるナンセンスな景も独特である。
〈燈明となる戦艦のさむさかな〉という句についてであるが「燈明」とは神仏に捧げる灯のことであり、おそらくは大破炎上する戦艦をそのように表現したものであろう。壮麗にして凄絶な句となり得べき発想ながら、下五の展開の弱さから小粒な印象になってしまったのは残念である。
「声優」や「フィギュア」といったアイテムの導入の仕方も巧みである。しかし「フィギュア」に宛てられた「仮想美少女人形」という文字の「仮想」にはひっかかりを感じる。単に「美少女人形」としたのではリアルな形状のものを想定されかねないので、アニメなどの二次元キャラクターを立体化した感じを表現するため「仮想」の文字を用いたのであろう。しかし仮想(バーチャル)という語から想起されるのは「仮想現実」というような現実感覚をデジタルに再現するものであって、むしろ表面上はリアルに近い感触のものであり、フィギュアのようなデフォルメされたものとは落差があろう。
■冨田拓也「歴程」
確固とした美学に基づくイメージの構築を特徴とした作家だが、この作品群ではむしろ叙情性を前面に出した作品が目立っている。
気になるのは叙された情感の内実であり、自らの生を回顧するような趣の作品が目立つ。〈大いなる薄氷の上を歩みゐしか〉〈鳳蝶を追ひゆくのみの生なりしか〉という二句に用いられている「か」という助詞は疑問のなかに確認が含意され、慨嘆の思いが強調されている。
〈戻れざる道のありけり敗荷〉という句は驚くほどストレートに、ある意味使いふるされた感懐を述べているのだが、そのことが逆に思いの切実さをあらわしている気がしてならない。〈芹たべて一日一日をまぼろしに〉という句も同様であるが、悔恨、むなしさ、といったネガティブな情熱が息苦しいほどに充満している。そのようななかで〈青嵐渇かざる眼を持ちつづけ〉には、かすかなポジティブさを認めることが出来よう。
上記のようなストレートに情念を表出した作品がおよそ半数、叙景の体裁をとっているものが半数といったところだろうか。
〈春の夜の水族館に人がゐる〉という句は、一種のただごとに近い述べ方ではあるが、人もまた水族のうちに含まれてしまうというイメージを言外に述べようとしたものだろう。しかしながら、景の観察者である作中主体もまた人であるということが、イメージの成就を妨げているように感じる。
〈船底に腐らぬ水や十三夜〉という句の「腐らぬ水」とは海のことだろう。十三夜の月光に照らされて粛々と航海する巨船を、水中から見上げるような視点が斬新である。
〈白桃や水はひとつにならむとす〉という句の、水が意志をもつかのように集結するという把握自体はありふれたものかもしれない。また、まるでその意志が白桃というモノとして凝ったとでも言うようなとりあわせには賛否があろう。それでもやはり美しいと思うのは、俳句形式という構造そのものの美に拠るのかもしれない。
〈花びらを喰ひすすみゐる蛞蝓かな〉という句の、網膜が焼け落ちるような、あるいは映画のスクリーンが溶けてゆくような、光を闇が侵食してゆく戦慄的なイメージ。その裏側にはあらゆる鬱屈や衝動が渦巻いている。
6 件のコメント:
この度は講評いただきありがとうございます。酒井俊祐です。
今回雑誌の上に載った自分の作品を見て、なんとなく自分のはイマイチだなぁという、どこかもやっとした感想が出てくるだけで終わってしまっていたきらいがあったのですが、この講評をいただいたことで、なるほど、と思う点がいくつも出てきました。
こうした客観的な視点を入れていただけるというのは大変私にとって勉強になります。ありがとうございました。
こんにちは。
また遊びに来ました(^^)。
冨田さまの
春の夜の水族館に人がゐる
は私は結構好きな句です。あの号の句の中では一番ぐっときました。無理していない感じが好きです。
船底に腐らぬ水や十三夜
なるほど、そんな鑑賞の仕方がありましたか!と唸らせられました。私は船旅が嫌いで、特に船底の方での旅でしたので、どうしても船底って言われちゃうだけでニオイが脳裏に蘇ってしまうのです。
「腐らぬ水=海」は美しいですね!
白桃や水はひとつにならむとす
の句はどう解釈すればいいのかな?と思っておりました。みずみずしさを表現しているのであれば、なにか足りないような気がして。
あの綺麗な甘くて素敵な匂いの白桃(しかも傷がついていないの!)にはもっと素敵な表現がありそうで、ちょっと残念でした。
関さまの、「知的操作」の感はたしかに!
というか、関さまの句、実はあんまりわかりません。(のが多いです。)多分、背景とする知識が違いすぎるんだろうと思うのですが。
あとはあんまり存じ上げない方なので、言及はやめておきます(^^)。
(だって素人ですもん)
ふたたびもみたびもありがとうございます。佐藤文香です。
「ぼく」が、鳩サブレを土産に持って来た、とは読めませんか?(って、私が聞いてどうする)
でも、鳩サブレを土産に持って来るような「ぼく」なんて、いないか。東京バナナも黒くなる時代ですもんね。
というか、あれ(鳩サブレ)は四角い缶のイメージがあるなぁ。
というわけで、なんだかリアリティーを自分で薄めてしまいましたが。
中村安伸様
拙作お読み頂きありがとうございました。
他者の眼による自作の評価というものにはやはりなかなか緊張感があります。
ご指摘の通り、たしかに私の句はなんだかネガティブなものが多いようですね。
正直、もう少しポジティブな句が書きたいと思っております。
野村麻美様
お忙しい中コメントいただきありがとうございます。
時間がございましたら、また私の連載に対しての感想などもお聞かせ下さい。
以下、新鋭招待作品より好きな句をいくつか。
馬肥えて浅草に鍋かがやけり 酒井俊祐
夏料理ぼくらの未来うやむやに 佐藤文香
振り向きて麦藁帽の影には眼 佐藤文香
ΩからまたIを出す尺獲よ 関悦史
みなさま、コメントいただきありがとうございます。
レスポンスが遅くて申し訳ありません。
>>酒井さま
講評というほどのものではありませんが、ご納得いただける点だけ受け入れていただければと思います。
これからも作品を読ませていただく機会があれば幸甚です。
>>麻実さま
冨田さんの「春の夜の水族館に人がゐる」についてですが、私の読みはやや意味を求めすぎていたような気がします。「春の夜」を中心に、素直に景そのものを味わうほうが良いのではという気もします。
「白桃や水はひとつにならむとす」については、「白桃」と「水」とはまったく別ものとして読むべきなのでしょう。それにしては両者のイメージがやや近すぎるかもしれません。
>>文香さま
なるほど。
状況を考えると「ぼく」が持ってきたお土産と読むのが自然でしょうね。「鳩サブレー」と「海」で、鎌倉って短絡的にイメージを繋げてしまったかもしれません。
鎌倉を舞台として読めないこともないけど、それが「明確である」とはとてもいえませんね。
「ぼく」と書かれていても、なかなか素直に男子を主役として思い浮かべられないということも、今回の作品における発見でした。
>>冨田さま
句の雰囲気とご本人の心境は必ずしもシンクロするわけではないと思っておりますし、ネガティブな句も決して嫌いではありません。今回の作品はある意味新境地といえるのではありませんか?
今後の展開にも期待しております。
>中村さま
お返事ありがとうございます!
>それにしては両者のイメージがやや近すぎるかもしれません。
あ!目から鱗!
違和感の訳がわかりました(^^)。
お教えいただきましてありがとうございます。
>春の夜の
ふと思いついたのですけれど、いるかさんの目線かもしれません(笑)。でも暗いなかで青色のふよふよした水槽のゆらめきと、イルカ(勝手にイルカでお送りしておりますが、シャチでも鯖でもマグロでも構いません)、人間、素直に綺麗ですよね♪
(素直に景そのものを味わう、これって間違ってませんよね?)
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