2008年9月20日土曜日

あとがき(第6号)

あとがき(第6号)


■中村安伸

・今回初登場していただくのは、関西在住の詩人で、俳句、短歌にも幅広く関心を持っておられる湊圭史氏。「詩」と「俳」という二項対立の放棄ということをテーマにした本格評論の前半を、本号に掲載させていただきました。一部で「詩」と「俳」を茶化した「ポエミー」と「ハイミー」という語が流行っているようですが、これらも放棄すべきでしょうか?

参考: http://hw02.blogspot.com/2008/07/blog-post_25.html

・冨田、筑紫、高山の「3T」の記事には、一種のシンクロニシティーというか、共通する空気が流れていると感じます。これもまた「週刊」という場のなせる現象のひとつでしょうか。「選という暴力」「死後忘れ去られる俳人」「やめてしまった俳人」など、ややネガティブな現象がクローズアップされがちですが、眼を見開こうとすれば暗がりがよりはっきりと見えてくるのは仕方のないことです。

・もちろん上記のような空気の影響を、私自身も受けていないはずはありません。


■高山れおな

「鬣 TATEGAMI」同人の後藤貴子さんから投稿メールが来た。第三号掲載の水野真由美句集『八月の橋』についての拙稿を読んで思うところがあってのことという。本体記事とするにはやや短く、バックナンバーのコメント欄では読者の目に触れにくいと思われるので、ここに全文を掲げることにする。

高山れおな様 編集諸氏の皆様 はじめまして。

佐藤清美さんのHPからここにたどりつき、大変おもしろく読ませていただいております。鉄は熱いうち…ではないですが、俳句(句集)の時評は、どうも熱いどころか作品がすっかり覚めて、初出の興奮が忘れられてから出る傾向があり、そのためなんとなく盛り上がりに欠ける面があるのですが、このHPはリアルタイムで、しかも質の高い論評が読め、たいへんすばらしいと思います。しかも更新の頻度も高い。そのぶん、参加諸氏は大変でしょうが、きっと注目を集めるHPとなるでしょう。「読むことに怠惰であったのではないかという反省」(高山れおな 第0号より)を俳人諸氏が持っているならば。

ところで、水野真由美さんの『八月の橋』を私も読みました。生身の水野さんはたしかに『詩人で博徒で酔漢(酔女?)といういたって柄の悪い猫』(本稿より)といえるでしょう。しかし、その内実はきわめて純粋で、人情に篤い方です。こんど彼女に会う機会があったなら、その瞳を凝視してみてください。向こうからにこにこしてやってきてくれるでしょう。

しかも、詩人として(私は俳人=詩人でなければならないと信じています)きわめて良心的な感覚を持っています。彼女は前句集『陸封譚』のあとがきで、竹田青嗣の『誰でもまずは美にひきつけられ、自分のうちに生じた感銘を信じてそれをまた自分もまた実現したいという欲望に捉えられる』という言葉を、『自分の俳句との関わり方として共感した』と書いています。彼女はその言葉に忠実に俳句と関わり続けていると感じますし、前句集も本句集も、その信念に基づいて編纂されていると思います。

以前、私は個人的に、水野さんは俳句の主題としてなぜ「エログロ」を扱わないのか、理由を尋ねたことがあります。それは最低限の作家の良心である、と彼女は言っていたように覚えています。『彼女の俳句は近代詩・戦後詩のエートスに厚く覆われている。』(本稿より)それが詩人としての良心であり、彼女の俳句の最大の魅力の一つですが、実は物足りなさでもある。前句集『陸封譚』中の『遊星』の句や『星を生み出す樹』のような傑作は、今のところ彼女の土壌の中にある日本近代詩の「美」の精神が昇華して生まれたものですが、あえてそこから逸脱することで、それを上回る傑作を生んでくれるだろうと、彼女の一ファンとして思っています。

それでは。皆様の今後のますますのご活躍を影ながら祈ります。長文深謝。ごめんくださいませ。

当ブログを丁寧に読んでいただいて、とてもありがたい。また、こんな理解ある読者がいる水野真由美氏がうらやましい。ついでと言ってはなんだが、「鬣 TATEGAMI」二〇〇八年五月号に載っている後藤さんのプロフィールを紹介しておこう。

後藤貴子 一九六五年新潟市生まれ。水瓶座。O型。中学校の国語教師兼一児の母。二七歳の時『Frau』という句集を出したが、以後私生活が多忙だったため現在、俳句リハビリ中。目標はまともな作品をものにすることとパソコンの上達。

この『Frau』(一九九二年 冬青社)は出版当時には読んでおらず、つい一、二年前やっと入手することができた。十六歳から二十五歳までの作品を纏めたもので、女流俳人はズロースを脱いだ俳句を作ってみせよという、今となってはセクハラ紛いの富沢赤黄男の挑発に、あえて乗ってみせることをひとつのモチーフにしていた。こんなふうに。

夢の中では自由自在の春の棒

昇天するまで噛みおらん初氷

網目よりあらわれ男焦げており

今号の拙稿中に引用した若き江里昭彦の言葉にある、一九八〇年代前半における“俳句を活性化せんとする潮流”のはるかな残響ともいうべき青春句集だったと思う。


▲▲▲▲▲▲▲▲▲「豈」発行人からのお知らせ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
■「―俳句空間―豈」47号発行予定:10月中(今のところ特に変更なし)
■イベント:
 攝津幸彦13回忌法要:9月28日(日)に攝津家により。
 豈東京句会:9月27日(土)1~5時 白金台福祉会館/3句持参
         会費500円 別会計で2次会あり

 豈忘年句会:恒例の忘年会を兼ねた句会を11月22日(土)に予定。
■同人の出版:
 池田澄子『あさがや草紙』(8月29日角川学芸出版刊) 1714円
 『貞永まこと句集』近刊予定。

※句会等の問い合わせは中村(メールアドレスはプロフィール参照)まで。

--------------------------------------------------

■関連記事

水野真由美句集『八月の橋』を読む・・・高山れおな   →読む

0 件のコメント: