■『鑑賞 女性俳句の世界』第六巻を読む(1)
・・・高山れおな
先ごろ完結した『鑑賞 女性俳句の世界』(角川学芸出版)を読んでみたい。全部で六巻。元禄時代の捨女や園女から、昭和三十年代生まれの石田郷子・櫂未知子らまで、百五十四人の女性俳人の作品を生年順にそれぞれ十数句ずつ掲出して鑑賞し、あわせて各人の百句選を添えている。以って三百数十年にわたる女性俳句の歴史を展望するシリーズであるが、たまたま評者も執筆陣に加わっている第六巻をまずは俎上に乗せ、以後、回を改めながら順次に各巻を読みすすめてゆこうと思う。
このシリーズは、歳時記類を別にすれば俳句界では近年最も大規模な企画出版物であるが、仄聞するところでは売れ行きはかんばしくないらしい。多少なりとも動きがあるのは第五巻、第六巻のみで、あとはさっぱりだという。第五巻、第六巻は鑑賞の対象となっているのが現存俳人だから関係者による纏まった買い取りがあるが、物故俳人が中心となる第四巻以前の巻ではそれもないということか。今や俳句愛好者の最大多数派となった中高年女性による購入を期待しての企画であることは一目瞭然ながら、みごとに肩透かしを食ったわけである。
売れない理由として考えられるのはなんだろうか。まずは出版不況という大状況。しかしここでそれを云々しても仕方がない。次いでは主たるマーケットとして期待された俳句を愛好する中高年女性が、日常的に本を購入する習慣を持っている社会集団ではおそらくないこと。しかし、これをあげつらうことも、おなじく不毛であろう。ここで考えるべきはやはり企画それ自体の質であり、結局のところ「女性俳句」という枠組の正当性の問題にゆきあたる。さすがに鳴り物入りの出版物だけあって、本シリーズについての書評・紹介記事は少なくなかったようだが、この点に言及しているのは2008年7月22日付の東京新聞に載った宗田安正の「俳句月評」だけではなかったかと思う。シリーズの完結を報告し、出版の意義をみとめた上で宗田は次のように述べる。
ところで女性俳句の問題点の一つはその表現史がないことだ。林桂のかつての発言
「発芽から結実までを自力のみでなした人は少なく」「一人の正岡子規も河東碧梧桐も高浜虚子も水原秋桜子も……高柳重信も金子兜太もいなかった」(『女流俳句集成』の意義」)の答えは、今も出ていない。歴史の浅さもあろう。また林の評価は男性俳句の座標軸によるものであり、違った女性俳句の座標軸による評価もあり得るのかもしれない。
ここで宗田が引用している『女流俳句集成』(一九九九年 立風書房)に対する林桂の書評は、詩誌「詩学」の一九九九年九月号に発表されたもので、林の評論集『俳句・彼方への現在』(二〇〇五年 詩学社)で読むことができる(宗田の引用には不正確なところがあり、「発芽から結実までを自力のみでなした人は少なく」の部分は、林ではなく『女流俳句集成』にある宇多喜代子の解説の文言である)。この『女流俳句集成』は宇多喜代子・黒田杏子の共編。近世は対象に含まず、近現代の女性俳人八十一人による全一巻のアンソロジーで、まずはこんどの『鑑賞 女性俳句の世界』の先蹤とみなしてよいものである(八十一名のうち七十名までが『鑑賞 女性俳句の世界』に登場する)。したがって現に宗田がそうしているように、林の『女流俳句集成』への批判はそのまま『鑑賞 女性俳句の世界』に対する批判としても相当程度に有効なのである。宗田の引用の仕方によってごく穏便な印象を与えるかも知れないが、じつは林の書評の調子はかなり激越なもので、〈俳句総合誌に「入門」と「女流」企画のない月はないくらい〉であるにもかかわらず『女流俳句集成』以前に類似のアンソロジーがなかったのは、〈「女流俳句」アンソロジーを編むだけの「視力」を持つ編集者が不在だった〉ためであり、さらに〈「女流俳句」を通史的に読む必要性を、誰もが切実には感じてこなかったからではないか〉と言い切っている。もちろん林は同書に対して単純に否定的なわけではなく、〈こうしたアンソロジーを要請し、編集を可能とするグローバルな「視力」として、宇多、黒田を持つまでに「女流俳人」は成熟してきた〉とも述べているのだが。
さて、以来十年近くを経て、宇多・黒田が最も透徹した「視力」を持つ女流俳人であるような事態に変化はないように思えるが、『鑑賞 女性俳句の世界』の不振を耳にする時、〈「女流俳句」を通史的に読む必要性を、誰もが切実には感じてこなかった〉という状況もまた変わってはいないのではないか、とすら疑われるのである。そこで宗田の先の文章に戻ると、もし女性俳句が表現史を欠いているならば、そもそも女性俳句を通史的に読む義務は誰にもないと言うべきであろう。女性俳句の歴史になどつながらなくても、俳句を作る上でも読む上でも支障はないことになるからである。
もちろん、ある本が売れたか売れなかったかは、その本の質とは必ずしも(というかほとんど)関係がないのもたしか。ただ、如上の考察を踏まえるならば、『鑑賞 女性俳句の世界』が表現史を立ち上げ得ているか、あるいは少なくとも立ち上げる努力を払っているかには注意をむけるべきで、先回りして結論を述べておくならば答えは否であろう。明示された編者がおらず(つまり責任の所在が不明ということだ)、『女流俳句集成』における宇多や黒田の全体解説にあたるようなものを欠いた本シリーズの理念は、実際のところ全巻の帯に大書されている「鑑賞にまさる入門書なし!」のコピーに集約されてしまっている。なるほど、その通りかも知れない。しかし、それが女性俳句の鑑賞でなくてはならない理由は、全六巻のどこにも書いてないのだ!
本シリーズはこのようにコンセプトの面では疑問なしとしないのであるが、それでもなお興味深い点があるとすれば、ともかく百五十四人という多数の女性俳人を対象とし、ほぼおなじ頭数の執筆者(宇多喜代子、櫂未知子、片山由美子、山西雅子は複数回執筆している)がおなじ条件で纏まった分量の鑑賞文を寄せているという、いささか残酷な一覧性のゆえである。鑑賞の対象となった女性俳人たちもさることながら、むしろ鑑賞文の書き手(これは男女を問わない)の側の能力をこれほど大規模に比較秤量できる機会も少ないであろう。力ある筆者の中には担当した個別の俳人の鑑賞の枠内で可能な限り表現史の方向へ踏み出そうとする場合がある一方、これで木戸銭を取るのはいかがなものかといった水準の文章も混じる。現俳壇の批評的力量というか力量不足が、今更ながら白日のもとにさらし出されているわけだ。
第六巻を読むはずが、だいぶ前置きが長くなってしまった。ここで改めて同巻の目次を掲げておく。
鑑賞 女性俳句の世界 第六巻 華やかな群像 目次
日本の根と向き合うひと 宇多喜代子 小澤實
開花から結実へ 中嶋秀子 岩永佐保
ディテールの思想 池田澄子 仁平勝
醸し出す香り 岩淵喜代子 高浦銘子
自然を観る、心を観る 永方裕子 押野裕
軽やかさと深さと 檜紀代 峯尾文世
存在の深みへ 豊口陽子 城戸朱理
遊びをせむとて 大石悦子 岩津厚子
昏がりに潜む鋭意 森田智子 塩見恵介
季語を生きる 黒田杏子 小島ゆかり
雪の中の蕗のとう 大木あまり 山西雅子
理知とエロスと 鳴戸奈菜 鎌倉佐弓
「かくも短き詩を愛」する人 寺井谷子 久保純夫
山尾玉藻の世界 山尾玉藻 中田剛
津軽との出会い 辻桃子 岸本尚毅
生きるとは寂しくも楽し あざ蓉子 五島高資
我が心音と 西村和子 横澤放川
しなやかな遊離 鳥居真理子 青山茂根
地下街に見えたもの 奥坂まや 筑紫磐井
宇宙の音 正木ゆう子 坪内稔典
詩的挑発の愉しさ 片山由美子 今野寿美
骨色のエロティシズム 鎌倉佐弓 高山れおな
凛として 井上弘美 小林千史
森羅万象への挨拶 石田郷子 山根真矢
永遠なるもの 藺草慶子 秋山夢
言葉が言葉であるということ 山西雅子 神野紗希
驀進して、未知へ 櫂未知子 高柳克弘
平成女性俳句年表 山田閏子編
ご覧のように、第六巻の巻頭では宇多喜代子の俳句を小澤實が鑑賞している。これが偶然でないことは、各巻の最初の項を並べてみればわかる。
第一巻 元禄期の女性俳人 堀切実
第二巻 黎明を拓くひと 沢田はぎ女 小林貴子
第三巻 美しき距離 細見綾子 櫂未知子
第四巻 ひとりの奈落 野澤節子 福永法弘
第五巻 些事がたいせつ 岡本眸 河野裕子
第六巻 日本の根と向き合うひと 宇多喜代子 小澤實
女性俳人の絶対数が少ない時代をカヴァーする第一巻、第二巻はともかく、第三巻以降は生年の順に加えて実績とポピュラリティーを勘案し、これらの人たちが巻のトップに来るように調整が行われているとおぼしい。それは商業的配慮には違いないが、それを離れても、現俳壇で最も精力的に活動している女性たちを収めた第六巻の先頭に宇多が立つことには象徴的意義があろう。というのは、すでに見た通り、宇多こそが女性俳句を通史的に語る言説の実質的な創始者だからであり、宗田の時評にあった〈違った女性俳句の座標軸による評価〉への一歩を踏み出した最初の人だからだ。つい先ごろ刊行された宇多の『女性俳句の光と影 明治から平成まで』(NHK出版)は、『女流俳句集成』に収める解説「女流俳句――百年の流れ」を敷衍したものであり、軽い体裁からは思いがけない深い奥行きを持った本である。それは表現史への志向を持ちながら、なお社会史(宇多自身は「現象論」と言っている)にとどまるといった性質を帯びているが、そうしたありよう自体が感動的なのはまさにパイオニアの仕事だからだろう(宇多には他に『イメージの女流俳句 女流俳人の系譜』[一九九四年 弘栄堂書店]があるが評者は未見)。
さて、小澤實による鑑賞文の方は、さすがにベテランらしく要を得たもの。あえて言えば、冒頭の〈宇多喜代子は現在、現代俳句協会会長の重職にある。女性として、初めて会長となった。すでに俳壇最高の賞、蛇笏賞も受賞している。現代の女性俳句をまさに代表するひとりであるという評価は動かない。〉といった書きぶりはなんとかならないものだろうか。会長職や賞のことなど、扉ページの略歴欄にあれば充分だろう。これが小説家や詩人に関する文章だったとして、誰々氏は何々協会の会長を務められ、などという記述があり得るだろうか。いささか俳壇的話法の旧弊になずみ過ぎているように感じた。個々の句の鑑賞では、〈あきざくら咽喉に穴あく情死かな〉を実体的に読んでいるところが気になった。小澤自身が指摘する通り、〈咽喉に穴あく情死体〉ではなく〈情死かな〉であるところが表現の肝であるはずなのに、小澤はあたかも〈咽喉に穴あく情死体〉と書かれているかのごとく読んでしまっている。評者はと言えば、〈あきざくら〉のみが実体で、中七下五は全く観念の句として読んできた。それこそ西鶴・近松・一葉から、現在の三面記事的くさぐざにいたるまで綿々とつづく男女の痴情、業に対する突き放しつつの共感といったものを表現した句だと思ってきたわけである。その苦々しい感嘆、否定しつつのいとおしみを〈咽喉に穴あく〉という即物的表現で表したところに俳句的妙味があるのだ。〈あきざくら〉はさしずめ、救済の象徴といった働き方をしていようか。小澤の解釈が誤りということではないが、大切の句ゆえ拙解をも提示しておく次第。
と、こんな調子ではきりがないので、以下は簡単に済ます。第六巻で最もすぐれた鑑賞文は、仁平勝による池田澄子鑑賞、岸本尚毅による辻桃子鑑賞、坪内稔典による正木ゆう子鑑賞だろうと思う。この三人のみが、俳句を鑑賞するという行為に対する明確な方法意識を持っている。結果として、読み物としても端的に面白いものになっている。ただし、そのことは必ずしも書かれている内容に賛成ということを意味しない。特に仁平による池田の鑑賞については、文章のプロとしてのサービス精神を認めるにやぶさかではないにせよ、納得しがたいところも多い。これについては長くなりそうなので、次号で単独でとりあげることにしたい。
他に読み甲斐があるのは、城戸朱理による豊口陽子鑑賞、筑紫磐井による奥坂まや鑑賞、高柳克弘による櫂未知子鑑賞など。城戸・筑紫の老練はとうぜんとしても、高柳の沈着な筆運びにはいつもながら感心した。例の櫂と奥坂のトラブルの件も、奥坂が結社(「鷹」)の先輩であることを考えると筆が鈍りそうなものなのにしっかり書いてある。誰にでもできることではないだろう。
さて、評者自身のことは棚上げせざるを得ないのが心苦しいが、不出来なケースについても確認しておく。例えば押野裕による永方裕子鑑賞。〈自然や人事を真摯にとらえ、率直な表現を心がける俳句である。〉〈永方氏の感受性が、自然の存在を確かにとらえたと思わせる一句。〉〈永方氏が自然を単に描写するだけではなく、自然の存在をもとらえた句として忘れがたい。〉〈影を曳いて生きてゆかざるを得ない宿命を負う人間も、大きな自然の中で生かされていることを知る。〉〈自然の中で生きているという意識は、自然の中で生かされていると知る自覚へと認識が深まってゆくのではないか。〉〈しかし、あらゆる人事は私たちが自然の中に生きているからこそ行われる。〉〈自然を観る目と感性がさらに研ぎ澄まされている。〉〈一句における自然の生命は揺るぎない。〉〈この句も自然と真摯に向き合っている。〉〈永方氏はその自然の景の中に人の姿をとらえた。〉――どの句を鑑賞する場合でも、自然、自然、自然で思考停止。押野は、価値保障のイデオロギーとしての“自然”を楯にしなくては、俳句を読むことができないのであろうか。
峯尾文世による檜紀代鑑賞は、とにかく俗読みがはなはだしい。〈海の傷持たぬものなし桜貝〉の句について、〈ここに作者は、人の世に生きる自身の姿、ひいては人としての生き様を見たのである。この世に生を受けた以上、傷つくことなく生きていくことはできない。だが、だからこそ、人は強く、そして美しく“在る”のである。〉とは、たいへんな演歌調鑑賞文もあったものである。〈水中花咲かせ身じろぎできぬ水〉や〈香水の中よりとどめさす言葉〉の読みにも唖然とする。〈泰然と自若と銀杏黄葉散る〉について〈黄葉の散りざまも、その黄色を保ちながら、「散る」という事実に決して引け目を感じることなく堂々としている。〉と述べ、〈蒔く種の嬉々と大地にまぎれこむ〉について〈大地と種とを対等にみる作者独自の目がある。〉と述べるあたりもなんだか凄い。しかし、峯尾が案内する限りでは、そもそも檜紀代という作者が俗っぽい句の作り手なのだと思わざるを得なかった。
岩津厚子による大石悦子鑑賞も冴えているとは言いがたく、特に〈桔梗や男に下野の処世あり〉の鑑賞はよくない。〈「潔さも男の値打ちなのに下野なんて、おやおや……」といった気持だろうか。処世という致し方なきことも、「桔梗」の前ではいささか薄汚れてしまうのも道理。〉とあるが、文章の調子の低さはさておいても、岩津は下野という言葉の意味を知らずに書いているかのごとくである。作者は下野のふるまいを肯定的に見ているのであり、だからこそ桔梗を取り合わせている。パワーゲームにうつつを抜かす男という在りように対して距離はおきつつも、作者の視線は決して冷たくはないし、第一、下野という処世のない(つまり権力の座にこれまで基本的に縁の無かった)みずからの性に対する嗟嘆(淡いものであるにせよ)を汲み取らなくては、この句を読んだことにならないと思う。
他に、塩見恵介による森田智子鑑賞や秋山夢による藺草慶子鑑賞にも、熟さない表現が多くていらいらさせられたが、しかし、本書の裏の真打というべきは、横澤放川による西村和子鑑賞であろう。
このひとの面輪には、大やかな美しさのなかに、それでも遠いものとかよいあえるような、なにか悲喜ひとつに包まれたといったような端正な魅力がある。俳人協会の評論賞を受賞して挨拶に立ったその姿をややに仰ぐ視角からながめていて、ああ伎芸天におわしたかと、はたと合点がいった。あの秋篠寺の御仏の面影にかようものを感じさせるのである。
好意の表し方というのはまことに難しいものだと痛感する。この後も突っ込みどころ満載の鑑賞文がつづくのだが、冒頭のパラグラフを書き写しただけで脱力してしまった。いちおう助け舟を出しておくと、横澤は西村とは長い交流があるらしく、作品世界への理解のほどは、選句のたしかさにうかがわれる。そのせっかくの理解が、文学趣味と仏教趣味がない交ぜになった奇妙で大袈裟な文章のせいで台無しになっている。
押野、峯尾、岩津、横澤あるいは塩野や秋山の鑑賞文の欠点が彼らの未熟さ、力の不足に由来するのに対して、力の過剰(?)によってわけのわからないものになっているのが久保純夫による寺井谷子鑑賞である。〈少年の円陣殺されしは鳥か〉を解釈するにあたって、〈現在でこそ、少年犯罪は日常のごとく報道されている。〉といった方向へ踏み出してゆくのが、鈴木六林男以来の「花曜」の流儀なのであれば、何も言うことはない。評者には、見当違いの大演説としか思えないが、それなりにひとつのスタイルになってしまっている。〈仏壇に実梅が三つ母の家〉という特にどうということもない句(もちろん悪い句ではない)を鑑賞するのに、〈実家に対して虚家という存在がある、ようだ。〉などと面白いことを口走ってしまう久保を、誰にも止めることはできないだろう。
* 第2号へつづく。
* 文中の、宇多喜代子著『女性俳句の光と影 明治から平成まで』は、著者から贈呈を受けました。記して感謝します。
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1 件のコメント:
拝見させていただきました。
毎週たのしみにしております☆
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