杉原祐之句集『先つぽへ』、宇井十間句集『千年紀』
・・・関 悦史
今週は最近出た句集2点の紹介。どちらも若手作家の第1句集である。
杉原祐之(すぎはら・ゆうし)は1979年生まれ。慶大俳句を経て現在「山茶花」同人、「夏潮」運営委員。ふたつ下になる中本真人と経歴に重なるところが多く、近しいらしい。句集『先つぽへ』は而立を迎えての第1句集ということになり、「夏潮」主宰・本井英の序文と「山茶花」主宰・三村純也の栞がつく。
都市生活を送る会社員が普段眼にする風景を有季定型ですっきりと詠んだといった句が主で、殊更新奇な素材を追っているわけではなく、農事の句などもあるのだが、いつ詠まれたのかわからない古めかしい句が支配的なわけでもない。21世紀初頭の普通の生活者の感覚を写真記録のように淡々と、しかし無感動にではなく留めた等身大の句集としてほのかな新鮮味を持つ。
新緑の谷へ落ちゆくダムの壁
フィナーレの真白く光る大花火
ガードレールに囲まれてゐる稲田かな
ハロウィンの子供が登る麻布坂
新緑の中のダムにせよ、ガードレールの中の稲田にせよ素材としては既に見慣れぬものではなく、実際こういうものを詠んだ句も無数にあるはずだが、ここでの扱われ方は、自然の中に見慣れぬものが介入したと辛辣な目を向けるものでもなければ、違和を言い立てて面白がるというものでもない。単に生活圏内に普通にある物件や光景から、今初めてそれを見たかのように瑞々しさを引き出していている。
この淡々たる印象は素材選択だけによるものではなく、詠み方が対象との安定した距離を形成しているので、例えば「フィナーレの真白く光る大花火」を「フィナーレは真白き光大花火」などとしたら途端に圧迫感と力みが出る。対象に引き回されない距離感が作者の持ち味なのだろう(それが伝統的な行事へと向かったときなどに、《獅子舞にわが子を抱へ喰はせけり》といった、やや新味に乏しい句が出てきてしまったりもするのだが。この句の場合「わが子」を「喰はせ」るいささか陳腐化した滑稽を「抱へ」の肉体性が巻き返そうとしつつ、しきれていない観がある)。
風音を聞いてをるなり卒業す
初任給貰ひ鶯餅喰らふ
パソコンに呟いてゐる夜業かな
「卒業」に対する「風音」、「初任給」に対する「鶯餅」。人生の記念日的な局面における思い入れの逸らし方、その距離と方向も、鼻につくようなわざとらしさと陳腐さの隙間をごく自然に縫いつつ、はかなくも親わしい「風音」や「鶯餅」へと帰着する。
《パソコンに呟いてゐる夜業かな》も、パソコンでの仕事の句も最近よく目にするが、まだ俳句にしっとり馴染んだとは言いがたい「パソコン」を、「呟いて」が何ら昂ることなく静かに句の中に受肉させ、なおかつ季語「夜業」をも現代の生活実態に引き寄せて無理なく更新させている。
こうした資質がよく生かされているのが東京の地誌や叙景の句だ。
ビル街の高くて狭き初御空
風薫る本郷台は江戸の外
電気街からも神輿を担ぎ来る
高層のビルより夕立見下しぬ
《ビル街の高くて狭き初御空》のビル街の空は狭いだけではなく視線を上げる必要上「高」いという、スリットから差し挟まれたような微量の発見感、《高層のビルより夕立見下しぬ》で高所に置かれ夕立を見下ろす身体の希薄ながらも明確な実在感。
どぎつく見せびらかすことを避けつつ、その回避のしぐさ自体も目立たせないという作りで、素材、感性、情感、詠み口ともにいかにも東京の人の句という味わい。
さて標題の「先つぽ」とは何かということなのだが、著者のあとがきにこうある。
《岬へ行くことが好きであった。岬に立つ白亜の燈台、船乗の目印となった岬山。幾つもの岬に立ちその先を眺めた。(中略)タイトルの「先つぽへ」については、そのような岬に立った大きな気分から名付けた。》
「岬」が「先つぽ」に言い換えられたとき、ある質的な変化が起こる。
岬とはいわば人界とその外との境界、そこから一歩でも踏み出せば到底無事では済まない他界へと迫り出したこの世の最先端であり、東京のように台地と低地が複雑に入り組んだ都市においては高台の先端部に神社が建てられてきたという人類学的、霊的に特別なトポスでもあるらしい。卑近な例でいえば2時間ドラマの最後、犯人が追い詰められて告白するシーンに何故か突然海に面した断崖絶壁が出てきてしまったりすることなどもそうした地形が持つ意味と無関係ではないのだろうが、その「岬」を「先つぽ」に言い換えるというのは、岬の持つ個人の手には負えない大きな潜勢力を、手にとって玩弄できるサイズに縮小し無害化させる行為にほかならない。怪力乱心を語ることもなく、遙か彼方へのロマン主義的な憧憬へのめり込むこともないという立ち位置の確認が「先つぽ」という何とも軽い語感にこめられているのだ。殊更に江戸の粋を売り物にするというのとも異なる、飾らない都会人の含羞がこの句集の根底を成している。
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宇井十間(うい・とげん 1969年生まれ)の第1句集『千年紀』は、それとは逆に遙か彼方の、見えないもののみを描こうとしてる。
砂の上に足跡とだえ夏の雲
泳ぎおえ遥か異国の神話かな
そらのはて遠くしずかに瀑布ある
泉へのあゆみみえざるものの脱衣
地図になき村しんかんと穀雨かな
ひぐらしや遠い世界に泉湧く
千年後の廃墟にしばし鳥の恋
耕すや虚無を育てているごとく
これだけ引いただけでも主要なモチーフはほぼ出揃っていて、「遠い」「世界」「千年」「百年」「神話」「精霊」「太初」といった単語が句集の至るところに現れる。
序文の高野ムツオも言うとおり《自明のことだが、宇宙の彼方は、彼方のままでは永遠に姿を現わすことはない。(中略)宇井が、身辺をとりまく微小微細なものに目を止めるのも、それが微小微細であるからではない。パースペクティブに、他の一切の世界と呼応する役割を担うことが可能だからだ。》
これでこの句集の詩学的な仕掛けはほぼ言い尽くされている。イデーの世界、人類滅亡後/発生前といった、時間的にも空間的にもこの世を超えた領域を直接叙述することは不可能なので、その足場として「泳」いだり「耕」したりする人影、「ひぐらし」「蜻蛉」その他の生きものが現れるのだ。
ここに見られるのは哲学的な存在論の句ではない。彼方を憧憬するロマンティックな心性の句である(収録句の中には《黄落のなか中世の塔の街》《噴水ふたつみつメルヘンのような城》といった作もある)。
火を焚くや遠い世界の音がする
麦を踏むとおく雪崩を聴くごとく
遠く白き霧の彼方へ橋懸かる
巻末には著者による阿部完市論も併録されているのだが、阿部完市の句が特定の意味に帰着しないというのとは宇井十間の句の成り立ちが違い、描き難い世界を現出させるために、かなりの句に「遠い世界」といった方向指示が標識のように介入している。つまり句中の語り手や言説内容は何の壊乱も見せはいないし、その世界観も一様に遠近が整除理されたものになっている。言い換えれば極めて平明な作品群であり、俳句の技巧や読解になじみのない、イメージやストーリーにまず注意が向く中高生のファンタジー読者などに手渡す最初の一冊として最適なのかもしれない。
麦を踏む背後に暗き雲みえて
蜘蛛行き交い誰の内部が描かれる
大地に歴史なく記憶なく虹懸かる
1、2句目は標識性が「暗き雲」「誰の内部」といった隠喩に置き換えられていて、その分「遠い世界」が肉化され得た印象。
3句目の《大地に歴史なく記憶なく虹懸かる》は、逆にほとんど言説で押し切りながらも、ごつごつした字余りの韻律も手伝い、人の営為の基盤となりながら人の営為がそっくり差し引かれた世界のスケールを詩化することに成功している。以下の句も同様。
Ideeそこに「私」が泳ぎはじめる 「私」の不在
巨きな手が世界を記述する ゴドーの黙示
天体を編み孤独なる手はきゆる
1句目、イデーが本来の世界であり、この現実世界はその単なる投影と見れば、本来の世界に帰った「私」は当然かりそめの世からは消えるのだろうし、2句目、劇の終わりまでついに姿を現わさないベケットのゴドーがゴッド(神)から来ているとの説に従えば現世はそのまま造物主による読めない記述ということのにもなるのだろう。
天体を編んで消え去る手を「孤独」と見る目には、造物主の営為に人のスケールのまま共感を寄せる、いわば理解を絶しているはずのものを擬人化して理解を寄せてしまうという動きが見られる。この二つのスケール、神なりイデーなりの巨大な世界と、語り手の生きている現世とはきれいに遠く分離されたままである。同じ大きな手とはいっても北原白秋の《大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも》における、スパークを引き起こすような越境の瞬間の眩暈はない。この句集は、形なきものの世界を、最小限のイメージのみを足場に望見することに徹しようとしている。謎はそのどちら側にもない。
世界の謎みえず 落葉する正午
なおこの句集は角川学芸出版が最近スタートさせた「角川新鋭俳句叢書」というシリーズの2冊目に当たる。杉田菜穂第1句集『夏帽子』が3月に刊行され、宇井十間句集『千年紀』が4月刊行である。
角川書店発行のシリーズとしては既に、角川書店創立60周年記念企画「角川俳句叢書」全60巻と、昭和20年以前生まれの作者を集めた「角川平成俳句叢書」、昭和21年以後生まれの作者を集めた「角川21世紀俳句叢書」の計3種が刊行中のようなのだが、それらとは別にこちらは若手作家の句集を出していく模様。今後何が出てくるか(発売は全て角川グループパブリッシング)。
(杉原祐之句集『先つぽへ』、宇井十間句集『千年紀』はいずれも著者または発行者から贈呈を受けました。記して感謝します。)
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■関連書籍を以下より購入できます。
2 件のコメント:
関悦史様
かたや志賀康句集や竹中宏句集に対する熱烈書評、こなた褒めつ腐しつの玉虫色書評、いずれも堂に入って、感嘆しながら拝読しています。今回のカップリング、朝日新聞の時評でやろうかと当方も考えていたところなので(でも、白状すればまだ読んでないのです)、先を越されました。しかし、御稿読んで読む気が湧いてきたというのも本当のところ(特に哲学者氏の方は)。東京の人ならぬ茨城の人(当方は日立市生まれ)として、俳句らぶ、あなたも!で、参りましょう。
高山れおな様
いや、まあ、玉虫色と仰られてしまうと身も蓋もない感じではありますが、言い換えれば、杉原さんのケレンのギラつきのない篤実な都市叙景も、宇井さんの素朴な彼方への憧れも、それぞれ読みどころがあったということです。
俳人以外の人に読ませたら宇井さんの方がわかりやすいのかもしれません。天文学や撮影技術に何の関心もなくともきれいな星空の写真集を買う層はいるだろうという意味では。哲学的な術語を使った句もほとんどありませんでしたし。
尤もこの句集の本当の読みどころは、あまり触れなかった併収のアベカン論の“創造的誤読”ぶりの方なのかもしれないのですが。
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