■あとがき(第85号)
■高山れおな
久しぶりに原稿を書きました。
藤田哲史さん外山一機さんは、逃走したり回避したりがお好きのようですが、八〇年代の亡霊にここで出会うとは思わなかったという気分がせぬでもない。まあ、書き手のせいというより、対象が八〇年代作者であるためかも知れませんが。ともあれ、佐々木六戈も筑紫磐井も実のところごく素直なロマン主義者なのではないでしょうか(小生もそうです)。そんでもって八〇年代の批評家というのはロマン主義を馬鹿にしていたものでした。ああ、辻褄は合っているのか。
関さんが岸本尚毅作品を読んでいますが、比類なき技術批評の人である岸本氏とはまた一風異なるニュータイプの技術批評が冴え渡っています。
「遷子を読む」の最後、筑紫さんの発言中に、「家長の文学」というフレーズが出てきます。「花鳥の文学」の間違いではないかと問い合わせたら、「家長の文学」でよいのだそうです。山崎正和さんに、『鷗外 戦う家長』という本があったのを思い出しました。花鳥文学ならぬ家長文学としての俳句。よくよく味わいたい言葉です。
■中村安伸
高山さんの記事中に、茨木和生の句の用語が難しいとありました。ほとんど同意ですが、その例として「まはり」という言葉が挙げられていることに、不思議な感じがしました。子供の頃よく母に「はよまわりしなさい!」(早く準備しなさい!)と叱られていたため、とても馴染みのある、懐かしい言葉だったからです。
ちなみに、茨木和生さんが現在住んでいらっしゃるのは私の出身地である奈良県生駒郡平群町というところで、句集名の『畳薦』は平群にかかる枕詞であり『椣原』というのは平群町内の地名です。
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