・・・関 悦史
もう旧聞に属してしまうのかもしれないが、先日現代俳句協会青年部のシンポジウム『「俳句以後」の世界』を聴きに行った。
聴いてみて、去年のシンポジウムのように全部再現するような形でのレポートを書く気にはならなかったのだが、何かしら感想をまとめておこうと思いつつ、最近の雨風で自宅がひどいことになってその処理でやたらに疲れてしまい、今週も果たせぬままとなる。
その代わりといってはなんだがシンポジウムのパネラーの一人であった岸本尚毅氏の句集『感謝』を以前頂いていたのを読み返してみた。
岸本氏の特質は初期の《冬空へ出てはつきりと蚊のかたち》に既にはっきり現れていて、近著の評論集の標題に『俳句の力学』と物理学的メタファーが用いられていることからもわかるとおり、空間の中に発生する緊張感、二つのものの間にポテンシャルを孕んだ隙間が発生するとそれを直ちに反射的に捉えるといった句に佳句が多く、この句でいえば外へ出た「蚊」がその瞬間「冬空」に全方位からカチッと囲繞され、物理学的質量としての存在感をあらわにしたところを捉えている。
『感謝』の句にもそうした特質は健在である。
星出でてまたたきも無き出水かな
秋山や進む如くに並ぶ石
水汲んで青空映る彼岸かな
秋晴の押し包みたる部屋暗し
この寒さ大陸よりぞ饂飩食ふ
流れ去る如き木目の火鉢かな
《星出でてまたたきも無き出水かな》は星がまたたいていてはならず、静止して出水の水面と対峙していなければならないのだ。《水汲んで青空映る彼岸かな》も同様。
《秋晴の押し包みたる部屋暗し》《この寒さ大陸よりぞ饂飩食ふ》の「秋晴」と「部屋」、大陸からの「寒さ」と「饂飩」との大きな空間が小さな物を囲繞する関係は「冬空」と「蚊」のそれに相似だし、《流れ去る如き木目の火鉢かな》は見た目に流動性を生じている「木目」と流れ去るはずもない「火鉢」そのものとの間に発生した緊張と惑乱を掬っている。
《秋山や進む如くに並ぶ石》となると、高野素十の《甘草の芽のとびとびのひとならび》を連想させる。
じっさい、空間に発生したテンション(張力)を掬うという点、岸本句は素十と共通しているのだが《ひつぱれる糸まつすぐや甲虫》《くもの糸一すぢよぎる百合の前》などの素十句が、発生した間自体を物象化してスタティックに詠んでいるのに比べ、岸本句の空間には、単に鋭い緊張感が走っているということだけでは片付かない、もう少し不穏なユーモアやグロテスクさが漂っている。
深淵に浮いて平たき蛙かな
避暑の子や白き枕を一つづつ
鯵釣の黒々としてうねりかな
堰越ゆるところが薄し春の水
「深淵」に平たく(この脱力の味が面白い)浮いた「蛙」、「白き枕」という改めて色まで明示されると途端に何とも平穏ならぬ雰囲気を漂わせ始める代物と正確に一対一対応させられる子供たち、「鯵釣」の前に広がる「黒々」とした「うねり」、これらはみな危機感と表裏を成すユーモラスさを出している。
《堰越ゆるところが薄し春の水》となると、緊張が極まって「堰」を越え落ちる「春の水」の「薄」さはユーモラスなだけではなく、擬人法も何も用いず無機物を描いているだけであるにも関わらず鮮明にエロティックである(エロティックな句としてはほかに《鳥の恋孔子の教へわれ知らず》などというのも収録されている。非儒教的な、多数のものによるしかも空中での交歓が描かれているわけで、所属誌「ゆう」主宰であった田中裕明に最も接近したモチーフの句ではないか)。
岸本句の特長と魅力は、事物が物理的な質量やテンションに還元されたときに見せるブラックユーモアの要素を精確に定着する神経と技巧にある。そしてこのブラックさ、グロテスクなユーモアの中に、この世ならぬものからの視点が密かに繰り込まれているのだ。
避暑たのし焼きし魚の歯が焦げて
焼藷を割つていづれも湯気が立つ
鮟鱇の肉片鰭を立てにけり
歩み居る虫に友来る冬日和
これらの句にはグロテスクや諧謔の要素がわりとはっきり素材選択のレベルから現れているが(「歩み居る虫に友来る」の「友」など、果たして虫なのか人なのか)、ここではむしろ山口優夢氏が以前豈weeklyに発表した『感謝』評で、「現れる」という動詞の頻出に着目していたことを想起したい。
現れてしばらく遠し土用波
ふりやまぬ雪に現れ夜半の月
現れて一歩一歩や秋の海女
寒鯉の背なの高みの現れし
栗の虫頭振りつつ現れし
現れて消えて祭の何やかや
明易や山が現れ水が見え
「現れる」とはそれまで見えなかったものが突如姿を不意に姿を見せる、つまりこの世の外の消息に濃厚に通じる言葉で、その点では
秋潮のくぼみて波を生むところ
ある年の子規忌の雨に虚子が立つ
いくたびも同じところを花吹雪
その姿大きく長し螇蚸とぶ
の「生む」「立つ」や、「いくたびも同じところ」に生成消滅するといった一連の動きも同じ働きをなしている。《その姿大きく長し螇蚸とぶ》のわざわざ言われた「その姿」も修辞上「現れる」と同じ働きをしているといってよい。そして「現れる」「生まれる」ということは、現れたもの、生まれたものらが果たしてどこから到来したのかという不可知の間を必然的に孕むのだ(《いくたびも同じところを花吹雪》など取りようによっては永劫回帰を傍から見ているような、「花吹雪」の人生性が機械的な反復の中に取り込まれてしまったような、カラッと無機的に毒気のある句である)。
素十に《くもの糸一すぢよぎる百合の前》があり、岸本氏に《冬晴や消えつつ続く蜘蛛の糸》がある(『感謝』収録句)。
同じく蜘蛛の糸を扱いながら、前者が見えている範囲だけをモチーフとし、後者が「消えつつ続く」と不可視の領域に認識を延ばしていることに注目されたい。糸が消えていく先と生まれたもの、現れたものたちがやって来た先は同じである。
テンションを孕んだ間は、空間的な囲繞関係や生成と消滅の間にのみ発生するわけではない。
似通いつつも異なる質料を持つ二者の間には、鮮明な緊張関係とは違う、わずかに濁りを帯びた無機的ながらもユーモラスな隙間が生じる。
馬鹿浅蜊砂吹き合うて暮れにけり
うすうすとあやめの水に油かな
紅葉してゐるや茶色に紫に
藻と思ひ泥と思ひてうららかに
頼朝のこと思ひつつ実朝忌
窓と空澄み競ひつつ神の旅
一句目の「馬鹿浅蜊」は馬鹿な浅蜊ではなく、バカガイとアサリであろう。
「水」に浮く「油」、「紅」葉だと明言されているにも関わらずそこに乱入する「茶色」や「紫」、「藻」と「泥」、「頼朝」と「実朝」、「窓」と「空」等が異なる質料同士のゆるやかに混じりあった別種の間を形作っているのだ。
以下の句の機械と自然との関わりのおかしみも、そのヴァリエーションと取れよう。
テキサスは石油を掘つて長閑なり
もろもろの機械はうごく深雪かな
焼却炉錆び果つるとも梅白し
他に今回再読してみて目に付いたのが、《近さ》《短さ》《寸詰まりさ》《凝縮》の感覚の強い句である。
凹みたるところが赤き焚火かな
日沈む方へ歩きて日短
穴開きて其処より黴びてゐたるもの
短日のあかつきもまた短くて
水の底突けば固しや水澄める
濃く縮む正午の影や立葵
木に遠く家に近しや蝉の穴
藻を入れて松の面影金魚玉
秋晴の打つ蚊打つ蚊の皆小さし
寒雀小さく鳴きて近く来る
では反対に《長さ》の感覚を持った句はどうか。
数は少ないがこちらも確かにあることはある。
雨止んでそののち長し秋の暮
鬼房の居らぬ日脚の伸びにけり
《長さ》が発生するのは、この世での持続が果てた後のことなのだ。
ここから振り返ってみると《近さ》《短さ》の句たちはみな、写生された事象がこの世の提喩(部分で全体を表す)となっていて、一句全体=この世全体が他界から囲繞され、そのことが圧迫感と緊張感を生んでいるのだと取ることが出来るのである。
『感謝』には明らかに先行句のパロディと思われる下記の句も含まれている。
春の雁飛べよと思ふ飛びにけり
中七が三橋鷹女の《蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫》とほぼ丸っきり一緒だが、鷹女が明らかに現実に反する意思や表現法でもって他界へ迫ったのに対し、岸本尚毅は現実の枠内でモチーフを物理学的質料に還元しさることで他界性を定着させている。
雁が飛ぶのは当たり前であって、この句自体は浅薄なパロディ句ということになるのかもしれないが、まさに当たり前な事象の中から鋭く奇異な間を生じさせるのが岸本氏の方法なのであり、そこに着目すると、この句は三橋鷹女と岸本尚毅という異質な二者同士のズレ(バカガイとアサリのそれような)を描いているのだと深読みしたい誘惑にも駆られるのだ。
先日のシンポジウムでは句の「主題」と「技巧」とが対立的に論じられていると見える局面もあったが、必ずしも写生の「技巧」に優れている句が独自の世界観を内包していないとは限らない。
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